外山恒一 活動年譜 その1
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少年時代
1970年7月 鹿児島県隼人町に生まれる。
1975年
福岡県大野城市に移住、以後主に福岡で育つ。
1983年4月 福岡市の私立西南学院中学校に入学。左翼偏向教育と云われても仕方がない同校の雰囲気に無意識のうちに影響されるが、それが顕在化するのは卒業後で、在学中はまったくのノンポリ。「受験競争」への反発から、趣味の推理小説創作とピアノの独学に没頭。
高校時代
1986年4月 受験に失敗し福岡市の私立中村学園三陽高校に入学。第1期生だったため異様に生徒管理が厳しかった。入学後わずか1週間目にして職員室に単身抗議。闘争の日々が始まる。
9月 鹿児島県立加治木高校に転入学。「自由な校風」とされていたが、次第にその虚構性に気づき、やはり闘争の日々。社会問題に目覚めたのもこの頃で空き教室を使って自主講座など開設していた。
1987年9月 福岡県立筑紫丘高校に転入学。「自由な校風」に惹かれての転入だったが、やっぱり闘争の日々。この時点ですでにあらゆる「学校」的な価値観と相容れない感性を身につけていたのだろう。
10月 「ほんとの自民党」結成。学校の枠を超えた高校生の政治グループ。党員10余名。若気の至り。
1988年1月 「政治活動」を理由に無期停学処分(結果的に50日間)。
4月 高校3年の始業式の日に退学届を提出
反管理教育運動時代
1988年
5月 「反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ」を結成。福岡市周辺の駅前や高校前などで、仲間を募るビラまき活動開始。
8月 東京で開催された高校生新聞編集者関東会議に参加。学校当局と闘う高校新聞部員たちによって、70年代末から定期的に続けられていた自主合宿。初めて同世代の「同志」たちに出会う。
12月 仲間を求めての全国行脚で初めてヒッチハイク。
1989年
1月 『ぼくの高校退学宣言』で単行本デビュー。
2月 福岡市南区にDPクラブの「事務所兼たまり場」開設。1DKのアパート。メンバーも、出版を機に一挙に増大。
この頃、入門書を1冊読んでマルクス主義者となる
3月 東大駒場寮食堂で第1回全国高校生会議。上記、高校生新聞編集者会議から最左派が分裂、社会派な高校生を全国各地から発掘して80余名を結集させた3泊4日の合宿イベント。実行委員の一人として企画段階から関わる。
8月 福岡市天神の街頭で初めてギター弾き語り。ブルーハーツのコピー中心。この年12月頃には日常的に街頭に出没しはじめ、福岡のいわゆる「ストリート・ミュージシャン」第1号に。
10月 DPクラブ分裂事件。アパートに入りびたるだけでまったく活動を担わない大多数のメンバーと、主宰者・外山との反目が高じて。80年代の若い社会運動シーンでは、同様の現象が全国的に普遍的に繰り返し経験された。
1990年
3月 第2回全国高校生会議(参加者80余名)。
4月 久留米市立南筑高校に新1年生として入学。分裂による活動停滞を打破するための「潜入」。校内で盛んに「活動」し、レポートをDPクラブ機関誌に偽名で寄稿、事情を知らない中高生読者を鼓舞する。当初の目的は達せられなかったが、2年間のさまざまな活動を経た視点で改めて「学校」という特殊空間を観察する機会となり、外山の学校論のレベルは飛躍的に高まった。
6月 2冊目の著作『ハイスクール「不良品」宣言』刊行。89年2月〜90年3月頃のDPクラブ活動報告集。
7月 神戸高塚高校で「校門圧死事件」。全国高校生会議の同志2名と共に「それでも起ち上がらない生徒」を攻撃する「不謹慎」なビラを現場で配布。この行動を機に、DPクラブ残党および高校生会議の一部(以下「一派」)が急激に先鋭化し、そのイデオローグ的キャラクターとしてめざましい活躍。
8月 神戸の高校生集会を「粉砕」。多くの参加者が暗黙の前提としているあらゆるテーゼを疑い、一参加者の立場で盛んに論争を挑むのだが、それだけで主催者側の意図する予定調和の集会は完全に破綻、野次と怒号が渦巻く大混乱に。一派の同志たちとともに同様の行動を全国各地のあらゆる「反管理教育」市民運動、とくに当時盛り上がり始めていた「子どもの権利条約」批准促進運動の集会等で展開し、その大半をやはり「粉砕」、「運動の破壊者」として憎悪され、恐れられる。

9月 <秋の嵐>の一部と連帯関係に。「反天皇制全国個人共闘」を掲げ、「最後の過激派」と呼ばれた首都圏の異端的左翼青年グループ。
10月 童貞を失う。
3冊目の著作『校門を閉めたのは教師か』刊行。『ふざけるな! 校則』の著者・はやしたけし氏との共著の体裁だが、事実上、事件をめぐる一派の活動レポート。
1991年
1月 日本縦断ヒッチハイク敢行。
3月 第3回全国高校生会議(参加者40名前後)。
別冊宝島〈プロ教師の会〉シリーズの『子どもが変だ!』に寄稿。この文章がコラムニスト・中森明夫の目にとまり、後に強力にプッシュされることになる。
4月 久留米市立南筑高校を自主退学。校門圧死事件以降そもそもあまり通学しておらず。
5月 DPクラブ解散。度重なる集会「粉砕」闘争などで孤立無援となって。
その2へ続く