「子どもの権利条約」の批准に反対する

「第4回土井たか子平和元気大賞『子供の権利条約・私の読み方』部門 落選作品
『見えない銃』に収録

 日本で「子どもの権利条約」に関する議論が登場するのは、ほぼ9割方、いわゆる「管理教育」や校則の問題を扱った文脈においてである。よってぼくもこの文章の中では、そういった問題に限定して(つまり難民の問題や戦争孤児その他の問題はとりあえずおいといて)話を進めたい。
 中学校の3年間、2度の転校を含む高校の2年間、そして高校を中退してから現在までの3年間、合計して8年間にわたって、ぼくは学校の管理、あるいは学校制度そのものを問題として個人的に活動を続けているが、その経験から率直に云わせてもらえば、こと「管理教育」および校則などの問題を解決する手段としては、「子どもの権利条約」は必要ない。必要ないどころか、日本で「子どもの権利条約」批准の運動をすること自体が、「子どもの権利条約」の精神に反するという大きな矛盾を生むことになると考える。
 理由はとりあえず単純明快である。
 現在、「生徒」と規定されている日本の大多数の「子ども」たちは、全員とは云わないまでもその大半が、学校・教師に管理されることを望んでいる。
 これに尽きる。
 納得のいかない人があれば、指定の制服があり、一定の頭髪規制がある日本のごく普通の中学か高校──そう、あなたの住む街のあの学校だ──に出向いていって、制服姿の少年少女に訊いて回るといい。
 「制服は廃止したほうがいいと思うんですが、どうでしょうか?」
 「髪形は本人の自由にさせたらいいと思うんですが、どうでしょうか?」
 大半の生徒が、否定的見解を表明するであろうと、これまで多くの中高生と接してきたぼくは予想する。
 いわく、「みんなが思い思いのカッコをしてきたら、学校はメチャメチャになる」
 いわく、「〇〇校生としての自覚をうながすためにも、制服は必要だと思う」
 いわく、「3年間くらいはガマンして、卒業してから自由にすればいいと思う」
 えぇいオメーは教師か、PTA会長か、と云いたくなるようなセリフを、耳じゅうタコだらけになるくらい聞かされることになるだろう。
 よしんばあなたが出向いた字校の生徒たちが偶然、自由派ぞろいでも、前述のような発言をする生徒の数は無視できない程度にはいるはずである。
 「子どもの権利条約」の精神に照らせば、服装も髪形も当然、子ども自身の「自己決定」に委ねるべきである。
 それなのに現在の日本のかなりの中高生は、そう考えていないという現実がある。
 一日も早く、できるなら今すぐにでも「子どもの権利条約」の批准を、と唱える人々には、彼らの姿は見えているのだろうか? 
 「(子どもの)自己決定権」という言葉は、この条約の中でもかなり重要なキーワードの一つだと思う。では、この国に無視できないくらい存在する、条約の内容に必ずしも賛成でないはずの(むしろ反対の)中高生たちの「自己決定権」はいったいどこへ行くのか?
 条約とか法律とかいうものは、全体に例外なく運用されるものであるから、結果的には、この条約を望んでいない多くの生徒たちにも、その理念を「押しつける」ことになる。
 これが「子どもの権利条約」批准運動の持つ第一の矛盾である。

 しかしそれは──という人がきっとあるだろう。そういった中高生自身の権利意識の希薄さが現実間題としてあることは認める。だがそういった中高生の意識も、じつは管理教育によって歪められたものではないのか、と。
 ──批准運動にかかわっている人に、ぼくが前述の「第―の矛盾」を指摘して、批准運動なんてやめてしまいなさい、と勧めると、決まってこのような反論が出る。
 しかしそのような人は、「子どもの権利条約」の本質であるとぼくが考えている、次のような認識について、コロリと忘れている。
 すなわち、「子どもほ大人の『保護対象』ではなく、れっきとした『権利主体』である」という認識である。まきにこのことが、「子どもの権利条約」を、これまでにない画期的なもの、と云わせている最大の理由である。
 にもかかわらず、前に挙げたような反論をする人は、やはり依然として子どもを大人の「保護対象」としてとらえているのである。
 だいたい、日本でこの条約の批准運動にかかわっている人間の大部分が大人(しんも大人の中でも市民運動家とマスコミ関係者のみ)であり、はっきり云って中高生の99%は「子どもの権利条約」の存在すら知らない、という現状のまま批准を求めようということ自体が条約の精神に反しているのである。
 これが第2の矛盾である。
 こういう人々は、「管理教育」を容認する大多数の生徒の感性を、「管理教育」によって歪められたものであるとこちらで判断して、彼らの「自己決定権」を無視し、「いい条約だから」と「与えて」しまうという二重の矛盾を抱えている。
 生徒たちが、自分たちの要求を「権利主体」として主体的に獲得していく過程なしに、結果だけを与えてしまうことは、内実のない「権利主体」を生み出すことにならないのか? 
 だいたい大人たちが「いいものだから」と子どもに与えたものが、本当に「いいもの」であったためしがあるか! ──というのはグチだけれど。

 さて第―の矛盾への反論に答えて、第二の矛盾を指摘すると、懲りない面々は、ハンで押したように次のような最後の反論をする。
 いわく、「この条約は、武器になる」。
 ──呆れてモノも云えない、とはこのことだが、あえてモノを云う。
 いったい常日頃から、言葉で生徒を説得し納得させられないからと、すぐに「校則」という根拠(=武器)を持ち出して云うことをきかせようとする管理派教師のやり方を非難してきたのは誰だったか? 管理派教師は校則に頼っちゃいけなくて、批准推進派は「子どもの権利条約」に頼っていいのか?
 第三の矛盾である。
 仮にこの「第三の矛盾」に目をつむるとしても、わざわざ「子どもの権利条約」なんて持ち出さなくても、今日、学校で子どもが置かれている状況は既存の法──すなわち日本国憲法、教育基本法、学校教育法などで充分にその違法性を指摘できるのだ。現にここ1、2年で「子どもの権利条約」の話題が急浮上するまでは、現在批准推進運動をしている人のほとんどはそうしていたではないか。それなのに、日本の学校状況は決して変革されたとは云い難い。この上、新しく「子どもの権利条約」を付け加えたところで、何か重大な進歩が急に訪れるとでも考えているのだろうか。
 ──と、ここまでぼくが論を展開して、さらに反論があったためしは皆無に等しい。なのに此准の運動はいっこうに収まらない。論駁されてもまだこれまでの自分の頼りない立場にしがみついて離れようとせず、数の力で押しきろうとする姿勢は、ぼくが在学中たたかった某福岡県立高校の生徒指導主任そっくりである。

 ダメ押しで付け加えておく。
 仮に「子どもの権利条約」が批准され、今日から発効するとする。
 昨日までの管理派教師氏はどうするか? 心を入れかえてミンシュテキ教育を始めるだろうか?
 そんなことはありえない。彼はやはり今日も管理派教師である。昨日までと同様、彼は竹刀を片手に服装違反の生徒を追いまわすであろう。
 ここに権利意識に燃える一人の女生徒が、勇敢にも起ちあがり、「子どもの権利条約」を武器に、この管埋派教師に抗議した。管理派教師は、「子どもの権利条約」の背後にチラつく国際連合の威光にひれ伏し、この女生徒の声を聞き入れるかというと、そうではない。
 彼女は以来、教師に目をつけられ、友人からも浮き上がり、悪くすれば「いじめ」にも遭い、さらには「人権意識の低い」両親からの圧迫を受けながらも学校と戦わなければならないし、その努力は必ずしも報われるとは限らない。
 ──ぼくも、中学・高校在学中、そのようにして過ごした。今、そのようにして過ごしている中高生も何人か知っている。
 「子どもの権利条約」があろうがなかろうが同じことだ。まず誰か最初の一人が、教師からの圧力や友人間での孤立を覚悟して教室で起ちあがらなければ、変革は始まりもしない。
 こんなことは、現場で本当に戦っている人間にとっては当たり前のことだ。それが分からないのは、本当に戦っていない証拠だ。実際、「子どもの権利条約」の批准を進めようとガンバっている中高生は、せいぜい条約批准要求(誰に?)の署名と、学校の外での申しわけ程度の「集会」をしているにすぎない。そんな「運動」は、いつか誰かがやらなければならないことを先送りしている以上の意味はない。
 条約を武器にする、などという逆の意味で管理的な発想ではなく、自らの要求を、直接、行動で示すことそれ自体を根拠(=武器)にして、これまで以上に地道に、かつ戦闘的にやっていくしかないのではなかろうか。

   97年時点での付記

 この文章を書いた2、3年後に、日本政府は「子どもの権利条約」を批准しました。
 何か変わったことが起きたでしょうか?
 起きました。
 80年代には、細々とはいえ学校現場の中で、生徒管理と戦う中高生の運動が展開され、彼ら同士のネットワーク化も進んでいました。ところが90年代に入ると同時に、反管理教育運動の世界はこの条約批准運動一色となり、戦う意思のある中高生もそこに徴用されていきました。その結果、学校現場最前線での中高生運動は壊滅し、その継承の糸は断ち切られたのです。
 正直なところ、条約批准運動に反対していた当時のぼくは、そこまでの結果を予想してはいませんでした。つまり「批准運動は毒にも薬にもならない」と考えていたのです。しかし実際には毒も毒、プルトニウムやサリンなみの猛毒だったのです。
 「子どもの権利条約」批准運動こそが、中高生による反管理教育運動を壊滅させた。このことは何度強調しても足りないということはないでしよう。もし今後、管理教育と戦おうという中高生がいましたら、どうかこの歴史の教訓を胆に銘じておいてください。