ほんとの自民党顛末記

 日本国憲法で尊重されていないが重要な権利の一つに、「カン違いの自由」がある。
 同じ「いいこと」を云う人間でも、「カン違いの自由」を謳歌したことのある人間とない人間とでは大違いである。前者は、度しがたいカン違いをくり返す中で、徐々に洗練された結果「いいこと」を云う。しかし後者は、常に「正解」を他人から教えてもらう無難な道を歩いた結果として、そこにたどり着く。
 ぼくが大学生という人種を、たとえ「いいこと」を云ったとしても嫌悪するのは、彼らが「カン違いの自由」をまったく、あるいはせいぜい高校を無事卒業できる程度にしか行使したことのない連中だからである。奴らはまったく無難でつまらない人種だ。
 高校にいられなくなるほどの「カン違い」――それがぼくの場合、55年体制の崩壊を導く90年代政界再編劇の先駆をなしたと云われていない「ほんとの自民党」結成計画だった。

 ぼくが筑紫丘高校に転入したのは、同校が「自由な校風」で知られていたからである。ぼくは、三陽高校、加治木高校で経験した「不自由」にいいかげんウンザリしていたのだ。
 しかし、結論から先に云ってしまえば、この選択は失敗だったのである。筑紫丘高校が「自由な校風」だとされていたのは、加治木高校が大多数の加治木高校生にとって「自由な校風」であったのと同じ意味において、にすぎない。つまり抑圧を抑圧と感じとれるだけの感受性を持ち合わせていない者にとっては、三陽高校であっても、加治木高校であっても、後に「校門圧死事件」を起こす神戸の高校や、95年にやはり体罰死事件を起こす福岡県飯塚市の近大附属女子高であっても「自由な校風」なのであり、現実にはそうしたマトモな感受性を持ち合わせていない者が圧倒的大多数であって、それはそれで仕方のないことでもある、ということを、この時のぼくはまだ知らなかったのである。
 先にぼくは、「この選択は失敗だった」と書いたが、これは正確な書き方ではない。実際には、筑紫丘高校ではなく別の高校を選択したとしても、結果は同じだったろう。また、転校せず、加治木高校にとどまったとしても、同じだったろう。この時点でぼくは、すでにいずれは退学を余儀なくされる感性を獲得していたように今は思う。
 筑紫丘高校の「自由でなさ」を、転校後数日にして肌で感じとったぼくは(その程度には敏感になっていたのだ)、「家でも学校でも気分が晴れることがなく、次第に卑屈になっていき」(後の著書『ぼくの高校退学宣言』より)、そのうち「何かでっかいことをやりたい」と夢想するようになる。
 そしてぼくの頭の中で次第に形を成してくるのが、今となっては外山恒一、一世一代の大恥とも云うべき「政党結成計画」であった。「家にいても学校にいても、ちーっとも面白くないのと、そのため抑圧されているぼくの旺盛な自己顕示欲と、そしていま政権を握っている自民党の代議士のオッサンたちよりもよっぽど自分の方がマシな考えを持っているという自負と、若い連中がこういうことを始めた方が話題性もあり、上手く波に乗れれば宣伝費を使わずにいくらか大きくなるだろうという打算と、そして何よりも、今の政治・社会に対する憤りと……さまざまな思いに駆られて、ぼくは、転入間もない9月12日、新政党結成計画を思い立ちました」(前掲書)とかなんとかいったことになったりなんかしちゃったりなんかしちゃったりする。
 もう忘れたいからほんとにだいぶ忘れてしまっているが、おそらくこの時のぼくには、見せかけの「自由な校風」に満足しているくだらないクラスメートたちにはもう期待しない、学校の中で、つまらない連中とつまらない反抗をやるよりも、学校という枠の外で、新しい仲間と何か新しいことを始めたい、といった気持ちがあったのだと思う。
 まず手始めに、西南中時代のクラスメートのうち、話の分かりそうな面々に電話をかけまくる。
 政党の名称は「ほんとの自民党」。
 前章で書いたように、ぼくが社会問題などに目覚めたのは加治木高校在学中である。ちょうど中曽根政権時代で、軍事費をやたらと増やしたがったり、過去の侵略戦争を美化する発言を連発したり、国家秘密法なんてヤバそうな名前の法律作りに熱心だったり、後の消費税導入の元をつくったり、とにかく怒って左翼になるにはもってこいの素晴らしい首相だった。左翼になったとはいっても、鹿児島のような田舎には、目に見える範囲に左翼は共産党ぐらいしかない。時折、共産党の町議の事務所を訪ねて、「感心な若者だ」と云われてパンフをタダでもらうぐらいの関係しか持たなかったが、ぼくの当時の「思想」の中身はまったく日本共産党的なレベル、つまり牧歌的な戦後民主主義気分だった。
 「自民党政治」に大いに憤りを感じ、「反戦平和、学校変革、環境保護」というザンシンなスローガンを掲げ、「ほんとに自由と民主主義を守る政党」をつくるという崇高な理想に燃え、「ほんとの自民党」結成計画が始まった。党のシンボルマークも、本家(?)自民党のそれをパロってデザインし、県の選挙管理委員会に届け出をするために党の印鑑まで作ったのだから、カン違いぶりはすさまじい。こんな奴が無事に高校を卒業できるわけがない。
 中学時代の友人だけでは「新しい仲間」を見つけだしたことにはならないので、ぼくはさらに計画を練る。
 全国のさまざまな高校の「社会研究部」の類に手紙を出してみようとぼくは思い立つ。ぼく自身は関与していなかったが、前節で書いたとおり、西南中で原発問題や米軍基地問題に熱心に取り組んでいた「社会研究部」という部活動の存在を思い出したからである。
 さて、そうは云っても、実際にどこの高校でそんな部活動がおこなわれているのか見当もつかない。そこで、教育委員会に行って訊けば教えてくれるだろうなどと安易に考えたのが悪かった。ぼくは筑紫丘高校での最初の「問題行動」を起こす。
 ぼくは持ち前の行動力でもって、福岡県教育委員会高校教育課へ単身のりこみ、「福岡県のそれぞれの高校に、どんな部活動があるのかを知りたいのですが……」と切りだす。
 「学校帰りで学生服を着ていたので、県教委の役人さんが、
 『あんた、高校生? どこの高校?』
 などと訊いてきました。
 『えーと、筑紫丘です』
 『あ、そう。それじゃ、学校の許可をもらって、学校を通して質問してください』
 『いえ、ぼくの学校の部活の関係とか、そういうんではなくて、筑紫丘とは全く無関係な理由で、知りたいんですよ』
 『そりゃ分かるけど、あんた、筑紫丘の生徒だろう』
 『はい』
 『それだったらちゃんと、学校を通しなさい』
 『だから、学校とは関係のない用事で来たと云っているでしょうが』
 『いや、だめです。学校を通してもらわないと、教えることはできません』
 ――これが、10分もすると、
 『どうして教えてくれないんですか』
 『君は高校生だからだ』
 『高校生ではあってもまず先に県民でしょう』
 『いや、高校生は学校を通さなくちゃいかん』
 ――さらに10分もすると、
 『帰れ!』
 『あなた、何ですかその云い方は。仮にも一県民に向かって帰れとは何ですか、帰れとは!』
 ――こんなふうにだんだんお互い感情的になっていき、県教委高校教育課の室内の役人さんたちは、みな一様にこのやりとりを見つめておりました」(前掲書)
 翌日の一時間目終了後、ぼくは担任から職員室に呼び出される。県教委から怒りの通報が入ったのである。
 担任と教頭に説教をされるが、当然、このぼくがその程度で納得するはずがない。昼休み、もう一度呼び出しを受ける。今度は、校長室である。
 校長と激論を交わし、ついにはその日のうちに両親も呼び出される。
 「私が校長、そしてこちらが教頭、学年主任、生徒指導主任、担任です。この形は、校長が生徒とその両親に対して戒告をする際の、正式な形式です」
 ――10月1日、ぼくは転入ちょうど一ヶ月目にして早くも「戒告処分」を受けたのである。
 校長は、加治木高校へも問い合わせの電話を入れた。加治木高校としては、お荷物の生徒を追い出すため、転校が正式に決まるまでは、ぼくの数々の「悪行」について、筑紫丘高校側に事前に漏らすようなことはしていないはずである。しかし、すでに首尾よく追い出してしまった今となっては、もう自分たちのところに災難が降りかかってくる恐れがないから、ぼくが加治木高校在学中、どんなことをやったか、ベラベラ喋る。出てくる、出てくる……補習のこと、いじめ告発ビラまきのこと、放課後の自主ゼミのこと、「生徒総会で生徒のアルバイトを認めるべきだと発言した」なんていうどうでもいいようなことまで一々「問題行動」として報告する。
 校長は完全に怒り狂って、「退学処分」までチラつかせ始めた。
 当時の(今でもそうだが)高校生としては、ぼくの反抗ぶりも度を越していたかもしれないが、実はこの校長の方の異常さも並大抵ではなかった。この校長も、やはりこの年に別のところから筑紫丘高校に赴任してきたのだが、着任するやいなやそれまで認められていたバイク通学を禁止にしたりして、鈍感な一般生徒ですら「最低の校長が来た」と云い出すほどのキャラクターだったのである。
 校長はぼくの両親に、三重県にある全寮制の「ニッセイ学園」への転校を勧めることまでした。
 後でわかったのだが、この「ニッセイ学園」とは私立日生学園高校のことで、同校は一応文部省の認可を受けたフツーの私立高校の体裁をとってはいるものの、事実上、「問題児」の徹底的矯正施設である。教師や上級生によるリンチ事件や、管理に耐えきれぬ生徒の自殺や「脱走」の事件が続発して、「陸の戸塚ヨットスクール」として一時期マスコミを騒がせたこともある、それこそ超一流の「問題校」である。そんなところへ入れられた日には、さすがのぼくでもひとたまりもなかったろう。なにせ両親までが、「それで恒一が“素直”になってくれるのなら……」などと云いだす始末で、ぼくはついに屈服して、校長に謝罪した。
 県教委事件についてはバレたけれども、肝心の「政党結成計画」の方はまだ学校側に知れてはいない。
 「さて、そんな中で、ぼくの筑紫丘での生活はどうであったかというと、そりゃあもう、暗いものでした。
 転入早々、何やら問題を起こしたらしいというので、もともと溶け込めていなかったクラスメートからは、さらに距離を置かれたようでした。
 何か妙な思想に染まっているようだというので、ぼくに対する接し方というのは、腫れ物にさわるような、あるいは事務的な、あるいはバカにしたような、そんな感じで、ますますぼくはイヤな気分でした。
 女子も敬遠しているか、くだらない噂話をしてバカにしているか、のように見えました。結局、この筑紫丘にいる間、ぼくが女子と喋った時間ってのは、そうだな、合計しても二十分にもならんでしょう。
 前に書いた今井君(筑紫丘でのクラスメートで、西南中時代の友人。仮名)や、転入早々に所属したクラシック・ギター部の友人と話す以外は、教師からも友人からも疎外された毎日でした。
 ぼくは、学校の中でますますひねくれていきました。
 校長派の学年主任が、古典の授業をしているとき、
 『どうしてオレは、こんなムチャクチャな教師どもや、面白くもねー連中の中で、これほど苦しまなくちゃいけないんだ』
 と頭の中で考えていたら、次第に凶暴な気持ちになってきて、思わず拳で机をドン、と叩きました。意外に大きな音が出て、近くの席の連中がぼくの方を見るのが分かりました。
 疎外感が、そのうち、オレはオマエラとは違うんだという優越感のようなものに変わっていき、ひとり孤高に立つ気分になっていました。
 家に帰れば、母親はさっさと学校など辞めてしまえと云うし(註.もちろん「学校に行かない権利」を主張するようなタイプの親だったからではなく、「学校に迷惑がかかるから」という実に日本的な感性からの「辞めてしまえ」である)、また、やめるなと云う父親(註.もちろん「もっと闘え」というイミではなく、「高校ぐらい出とかないと将来が」というイミでの「やめるな」である)と母親はしじゅう夫婦喧嘩をやるし、てな感じでやはりムチャクチャでした。
 ぼくは必然的に鹿児島の山村さん(註.加治木高校時代の同志的女生徒。仮名)に電話ばかりかけ、電話代はどんどん高くつきます。
 10月の電話代は2万円を越え、ついに母親が怒って電話を止めると云い出しました。
 ぼくはイヤだと云いましたが、どうしても止めると云うので、母親がそう云い出した日から毎晩、今のうちにせいぜい話しておこうよ、と山村さんに長電話しました」(前掲書)
 ――そんな生活の中で、ぼくは初めてブルーハーツの曲を聴く。ここまでハメを外しておきながら、当時、ぼくはロックという音楽ジャンルに対して、「あれは不良の音楽だ」などという今時(当時も)珍しい迷信を抱いていた。なにしろ中学・高校時代にぼくがもっとも尊敬していたミュージシャンは、かの有名な権力の手先「さだまさし」だったのだ。さだまさしを聴きながら学校当局と日々闘争するなんて、まったくどうかしていたとしか云いようがない。しかし初めて聴いたブルーハーツのメッセージに、ぼくは眠れなくなるほど興奮した。
 ――「政党結成計画」に話を戻そう。
 県教委ルートで「社会研究部」を探すことに失敗したぼくは、ゲリラ的な作戦に出る。全国の高校を適当にリストアップして、手当たり次第に電話をかけ、「おたくに社会研究部はありますか?」と訊くのだ。
 この方法で、約30の「社会研究部」を探し出し、「連絡を取り合いたい」旨の手紙を送る。
 同時に、冬休みを使って、九州一周自転車旅行の計画に着手する。「高校生による政党結成」を知らせるビラを持って、宣伝を兼ねて九州各地を自転車で回るのだ。
 冬休みが近づく。
 全国の「社会研究部」に出した手紙のうち、2校から返事が帰ってきた。そのうちの1件、広島県の私立修道高校に通う沢村真司からのコンタクトは、高校退学後のぼくの運命を左右することになる重要なものである。
 沢村は、87年12月9日、いきなり電話で連絡をよこしてきた。
 突然のことで、思わずぼくはしどろもどろになって、それでも何とか、自分の計画についてのアウトラインを話した。政党をつくる、と云っても、こちらが予想したほどの驚きは示さなかった。彼は当時高一で、ぼくより一つ年下なのだが、かなり前から、さまざまの市民運動などに関わっているようだった。
 九州だけではなく、広島にも寄らないか、との誘いに、ぼくは二つ返事でOKする。とにかく新しい仲間が見つかったことが嬉しかったのだ。
 沢村は、九州各地の市民運動家の名前を次々と挙げ、宿泊などはそこに問い合わせてはどうか、と提案する。あまりの情報量に圧倒されて、ぼくはメモをとるのがやっとだった。
 ぼくは沢村に、いつごろからそういう運動に関わっているのかと訊いた。
 「昔から、この社会はおかしい、みたいなことを漠然と考えてはいたんだけど、それが、はっきりしだしたのは中2の頃、小田実の『何でも見てやろう』を読んでからだな。で、その頃『サンデー毎日』に連載されてた小田実の『人間みなちょぼちょぼや』というのを読んだり、一年間に二百冊ぐらいの本を読んだ。小田実のが多かったけど、中にはエコロジーの本とか混じってた。で、中2の冬には、“日本はもう、革命しかない”って考えるようになって……。『ベ平連とは』って本とかで70年闘争のこととか調べて、自分が生まれた頃、こんなことがあったんだ、って感動して、オレもやりたいって思ったんです。で、こっちの『中国新聞』のネットワーク欄に、いろんな市民運動の情報が載ってるので、集会なんかにしょっちゅう顔を出すようになったりして、で、爆発したのが『元気印大作戦』って本を読んでからかな。――東京の青生舎ってとこが作った本で、学校と闘うための方法が、たくさん載ってるんですよ。それで、そういう反管理教育運動とかにも関わるようになって……」
 そしてついに、自転車旅行の出発の日。
 結局、なんのかのと云いながら、10数名の「ほんとの自民党」党員(大部分が中学時代の友人)の中で、ほんとにクソマジメにやっていたのは、当然のことながらぼくだけだったようで、当初は3人で計画していた自転車旅行も当日になってみると結局ぼくだけ、残りは見送りだった。
 出発前に、地方紙『西日本新聞』の取材を受ける。九州・山口・広島を2週間かけて一周し、その後、県選挙管理委員会に「政治団体」として届け出る予定だった。
 この日、12月24日はクリスマス・イヴだったこともあって、ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス――戦争は終わった」を自転車にくくりつけたラジカセで、大音量で流しながらペダルを踏み始める。実はぼくがジョン・レノンを知ったのはこの直前のことで、当初の計画ではなんとさだまさしの反戦歌を流しながら走る予定だったのである。結局、自転車旅行は後述するように途中で学校当局に中止させられ、さだまさしを流す機会は奪われたのだが、この点だけは校長に感謝しなければなるまい。
 ――2日後、鹿児島の祖母宅へたどりついたばかりのぼくに、福岡の両親から連絡が入った。
 「筑紫丘の校長が政党結成計画を知って、カンカンに怒っている。至急戻ってこい。戻ってこなければ、退学届に両親の責任でハンを押す」
 と脅しをかけられ、ぼくはしぶしぶ翌日、鹿児島の知人の車で福岡へ戻った。
 何のことはない。校長が計画を知ったのは、『西日本新聞』に記事が出たからだ。
 両親とともに、12月28日、ぼくは学校へ呼び出された。しかし、
 「ぼくは呼び出しを受けた趣旨を理解できません。“事情聴取”も、される理由がありません。もしそれでもぼくから何か聞き出したいという場合には、テープレコーダーにやりとりを録音することを許可してください。そうでない場合には、ぼくは一切黙秘します」
 とぼくは応じた。両親はしきりに恐縮したが、ぼくはこの要求をあくまで押し通し、教師らはしぶしぶOKする。
 4時間に及んだ「事情聴取」のハイライトシーンは、そのまま後のデビュー作『ぼくの高校退学宣言』のハイライトシーンになるのだが、長くなるのでここでは省く。むろん、折り合いがつくはずもなく、翌1月に入ってすぐ、ぼくは再び、今度は広島に向けて自転車をこぐ。
 沢村と会って話をするところまではやるが、そこでとうとうぼくは精神的・肉体的限界に達し、両親の説得に応じて福岡へ帰る。
 三学期始業式直前に、ふたたび学校からの呼び出し。ついに「無期停学処分」が出る。『西日本新聞』が取材に入ったために、慌てて「退学処分」の決定を職員会議で変更した結果らしい。
 三学期始業式から、実に50日の長きにわたって処分は解かれず、ぼくは停学中に「ほんとの自民党」を解散、心中ひそかに自主退学を決意するが、とりあえず単位を取得して大検受検に有利にするため、2学年修了まで通学することに決めた。そのため、
 ・政治活動一切禁止。外部団体(共産党系の民主青年同盟などのこと。あんまり親しくはしてなかったが、交流会的な場には何度か顔を出してた記憶がある)との連絡もいちいち学校の許可を得ること。
 ・反省文、誓約書とともに「日付なしの退学届」を提出すること。
 ・「君が代」斉唱時に着席せず、ちゃんと歌うこと(筑紫丘在学中、1度だけ座ってみたことがった)。
 ・マスコミと連絡をとらないこと。
 などいくつかの停学処分解除の条件を受け入れる。
 「ぼくはさまざまなことを考えました。ぼくが、運動家としてあまりに未熟だったこと。学校にいる限り、ぼくはカセを取りつけられたまま何もできないということ。そして、これからぼくは何をすべきかということ。
 一つだけわかっていることは、もう“学校”にはいられないということ。“学校”にいる限り、何もできないということ」(前掲書)
 ――3年に進級した日、ぼくは新しい担任に自主退学を申し出た。退学理由は、「この学校で学ぶべきことはもう何もない」だとした。
 新しい担任が退学をとどまるよう何度か自宅まで説得に来たが、ぼくは以後、登校せず、退学届は88年4月22日、正式に受理された。
 その年の8月、ぼくは大検を受検し、合格したが、現在のところぼくは大学受験をしていないし、おそらくこれからもすることはない。大学に出入りしたことは何度もあるが、大学生と会話するたびにムカつくからである。
 三陽高校、加治木高校、そして筑紫丘高校での体験をまとめた手記『ぼくの高校退学宣言』は、退学を決意した例の停学期間中に執筆をはじめ、退学から10ケ月を経た89年1月、3つの高校の元クラスメートたちがちょうど大学受験や就職を目前に控えた緊張の季節に東京の徳間書店から刊行されて、福岡と鹿児島だけで局地的なベストセラーになった。
 現在この本は品切れ中で、増刷の予定もない。読みたい人は、古本屋か図書館で探すしかない。前述のような売れ方のため、鹿児島と福岡の古本屋では比較的容易に入手することができる。

 さてつい最近、福岡県立春日高校の校門前で、登校する生徒たちにアジビラをまいた時のこと。
 例によって数人の教師たちが、ビラまきをやめさせようと出てきたのだが、その中に、見知った顔があった。「ほんとの自民党」の時、ぼくを“事情聴取”した生徒指導主任だ。退学以来じつに10年ぶりの再会である。
 もちろん、ぼくは当時のことを「いい思い出」になどしていない。根性なしのヤンキーどもにありがちな、「昔はよくセンセーに殴られたもんっスねえ、ははは」的な感性とは、ぼくは無縁である。
 しかし感動したのは、実は向こうもぼくと同じだった点だ。ぼくのことを「出来は悪いが可愛い教え子」みたいに思ってるような様子はみじんもなく、後で警察に提出するためだろう、写真まで撮ってくれた。
 ぼくが筑紫丘高校でやった反抗は、今も当時の生徒指導s主任の胸に、回収されないまま突き刺さっている。思い返せば恥ずかしい、「カン違い」の見本のような反抗ではあったが、それは決して間違ってはいなかったと誇りに思えた一幕だった。