第一回全国高校生会議

 なんだかヘンな文章だが、これは『恋と革命に生きるのさ』という未完未発表の大作、主に自分の恋愛経験を軸とした自伝の一部を引用加筆した文章だからである。
 高校生会議は基本的にはマジメな集会だが、思春期の男女が80人も集まって3泊もするのだから、いろんな恋愛事件も続発するのは当たり前と云える。しかしこれだけではなんだか盛りのついた少年少女たちのエロエロ集会のように思われてしまいかねないので、右の文章に比べると少々味気無いかもしれないが、やはりこの「第一回全国高校生会議」について青生舎の発行する『KIDS』というミニコミ用に書いたレポートも合わせて読んでほしい。
(「第一回全国高校生会議の報告」)

 3月26日、全国高校生会議の本番前日。
 この時ももちろんヒッチハイクで、ぼくを含めて福岡から4人、2組に分かれて上京した。他の3人のうち2人、WとMは鹿児島の高校時代の友人で、1月末にDPクラブの「事務所兼たまり場」として福岡市内に1DKのアパートを借りて以来、よく福岡に遊びに来るようになっていた。2人とも同い年だったから、この時点で高校を卒業したばかりだ。Wは大学受験に失敗して、4月から福岡の予備校の寮に入ることになっていた。Mの方もやはり鹿児島の実家で自宅浪人生活が始まる予定だったが、ヒッチハイクを覚えたために、これ以後、ほとんど毎週のように福岡のDPクラブのアパートへ来るようになった。
 一緒にヒッチハイクで上京した3人のうち残る一人は、会議本番約2ケ月前に出版された『ぼくの高校退学宣言』を読んでぼくに連絡を取ってきた、やはり同い年の福岡の少年で、彼も3月に市内の男子校を卒業したばかりだった。
 高校生会議の会場は、東京大学の駒場寮だった。春休みで、寮食堂が休業していたので、そこを会議4日間とその前後計6日間借りきって、タタミや布団を持ち込んだのだ。
 昼間のさまざまな形での討論会も、広い食堂の片側半分に残したテーブルを使うことにしたので、文字通りここで4日間を過ごすことになった。
 北海道から沖縄まで、本当に全国各地から、80数名が集まった。東京のモリノ、笘米地、H君、広島の沢村、そして福岡のぼくという、わずか5人で始めて、たったの3カ月あまりでこれだけ集めたのだから、実際ぼくたちはよく動いたというべきだろう。大半が高校生だったが、高校中退者や中学生もかなり混じっていた。小中高の3人姉妹で参加した人があったので、小学生も一人いるという状態になった。沢村の市民運動コネクション利用の結果、参加した人が全体の約半数だった。中でもこの当時は、広瀬隆の『危険な話』がベストセラーになって反原発運動がやたらと盛り上がっていたので、原発問題に取り組んでいる高校生というのが多かった。参加者の残り半分は、新聞編集者会議時代からの常連、全国の高校の生徒会へランダムに数千通送った勧誘状を見て来た者、『ぼくの高校退学宣言』の読者といった具合だった。
 昼間の討論の形式は、新聞編集者会議の時のそれとほぼ同じで、それぞれの高校新聞を持ちよっての少人数での「分散会」の代わりに、やはり少人数での自己紹介を兼ねた自由討論を入れていた。ここで単なるダベりに終始するグループも、いきなり革命の話になってしまうグループもあった。話の内容はどうあれ、楽しく刺激的であることに違いはなかった。何といっても全国から同世代が結集しているのだし、どのグループにも尋常でない変わり種の高校生が一人二人かならずいた。笘米地やモリノや沢村に匹敵するような行動的な高校生が、他にもたくさん集まっていたのだ。
 新聞編集者会議との最大の違いは、まったく何のルールも存在していないことだった。酒やタバコの類も、どんどん勝手に持ち込まれていた。テーブルに置いてある誰かの飲みかけのジュースなんかを、勝手に飲んでも飲まれても、お互い気にならないような、一種共産主義的なユートピアがそこにできていた。
 この後、ぼくらの活動ネットワークの中心になっていく人たちのほとんどは、ここで知り合ったのだった。もともとそれぞれの地域で突出した若者だったぼくたちは、高校生会議でお互いに感化し合い、さらなる突出の方向へ向かうことになった。もちろん、参加者のすべてがそういう高校生だったわけではない。約1割、そういう参加者がいて、彼らが高校生会議のアナーキーな雰囲気をリードし、他の大半のフツーの高校生たちも、その雰囲気に感化されてしまったのだ。
 新聞編集者会議でも、さまざまな恋愛事件が水面下で起きていたのだろうが、わけの分からない高揚感が全体を包んでいた高校生会議では、それらは次々と顕在化した。特に夜中はあちこちで告白合戦が起きていた。目当ての異性を宿舎の外に連れ出して、東大のキャンパス内を散歩しながら想いを打ち明けるのだった。そのテのツーショットの現場を、ぼくも何度も目撃した。中にはそんな七面倒くさい手続きを踏まず、宿舎で話が盛り上がった勢いで、そのまま一緒に布団にくるまってしまう男女もいた。新聞編集者会議では考えられない事態だった。さすがにセックスには至らなかったものの、その男は翌年の会議ではついに別室で本番に及んで、十数年の新聞会議を含めた「会議史上初のセックス」と話題を集めた。
 ぼくも高揚した勢いで、ついに会議の準備段階から思いを寄せていた、新聞会議時代からのある参加者とツーショットに成功した。東大構内をぐるぐるぐるぐる二人で歩き回りながら、最初はうじうじと遠回しに、最後は勇気を出してはっきりと君が好きになったと告白した。
 面と向かって「告白」なんぞというものをやったのはそれが初めてだった。
 結局、彼女には他に片思いの相手がいることが分かっただけだった。ずっと、新聞会議のOBに片思いしているらしかった。
 構内をぐるっと一回りして宿舎である駒場寮の入り口までくると、笘米地がニヤニヤしながら近づいてきた。ヤバい奴に見つかったなあ、と思った。最初はマジメな活動家少年だという印象を彼に持ったが、知り合って半年を経たこの頃には、彼がワイ談の帝王であることは周囲の全員が知るところとなっていた。笘米地はことあるごとに、「ところで最近あっちの方はどうなの?」なんてことを男女の別なく訊ねてまわった。「あっちの方」とはもちろん、「異性関係の方」の意である。彼もまだ童貞で、他人の「あっちの方」について興味津々で、その興味を一切隠さないのだった。
 結局、彼女と宿舎の前で別れて、今度はそのまま笘米地とツーショットで構内をうろつきまわるハメになった。今回の高校生会議は、モリノではなく笘米地が実行委員長を務めていたが、その実行委員長・笘米地も、また別の参加者への恋に落ちていたのだった。笘米地の方も、見込み薄らしい。
 なぐさめあいながら構内を一周して宿舎の前に戻ってくると、もう一人、失恋男がいた。
 2年後に、高校生会議の最後の実行委員長を務めることになる中村だった。この時、まだ千葉の中学3年生だったが、地元の反管理教育運動グループに出入りし、また成田空港問題にも興味を抱いていた。カメラ少年で、今回の会議でも、あちこちでフラッシュをたいていた。
 中村の恋の相手は、やはり今回の会議参加者である、彼より2,3歳年上の女性だった。中村もぼくらと同じくむろん童貞だったが、相手が実は処女ではなかったことを知り、「何かキレイなものがガラガラと崩れていったような気分だ」と落ち込んでいた。中村のこの発言は、女が自由にセックスすることを悪であるとする風潮に無批判に順応した差別発言であるとして、後で多くの女性参加者たちの攻撃の的になった。妥当な攻撃であると思う。
 笘米地はすぐ宿舎に入っていったので、ぼくはそのまま宿舎の外で、中村と二人でブルーハーツを絶叫した。ぼくは酒を飲めなかったが、中村はすっかり酔っ払っていた。

 4日間の日程が終わり、翌日の打ち上げと片付けも終えて、みんなそれぞれ自分の住む地方へ帰ることになった。