外山恒一 活動年譜

1989年以前

1970年7月   鹿児島県隼人町に生まれる。
1975年 福岡県大野城市に移住、以後主に福岡で育つ。

1983年4月

福岡市の私立西南学院中学校に入学。
左翼偏向教育と云われても仕方がない同校の雰囲気に無意識のうちに影響されるが、それが顕在化するのは卒業後で、在学中はまったくのノンポリ。
「受験競争」への反発から、趣味の推理小説創作とピアノの独学に没頭。
1986年4月

受験に失敗し福岡市の私立中村学園三陽高校に入学。
第1期生だったため異様に生徒管理が厳しかった。入学後わずか1週間目にして職員室に単身抗議。闘争の日々が始まる。
1986年9月

鹿児島県立加治木高校に転入学。
「自由な校風」とされていたが、次第にその虚構性に気づき、やはり闘争の日々。社会問題に目覚めたのもこの頃で空き教室を使って自主講座など開設していた。
1987年9月

福岡県立筑紫丘高校に転入学。
「自由な校風」に惹かれての転入だったが、やっぱり闘争の日々。この時点ですでにあらゆる「学校」的な価値観と相容れない感性を身につけていたのだろう。
1987年10月   

「ほんとの自民党」結成。
学校の枠を超えた高校生の政治グループ。党員10余名。若気の至り。

1988年

1月 「政治活動」を理由に無期停学処分(結果的に50日間)。
4月  高校3年になると同時に自主退学。
5月

「反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ」を結成。
福岡市周辺の駅前や高校前などで、仲間を募るビラまき活動開始。
8月

東京で開催された高校生新聞編集者関東会議に参加。
学校当局と闘う高校新聞部員たちによって、70年代末から定期的に続けられていた自主合宿。初めて同世代の「同志」たちに出会う。
12月 仲間を求めての全国行脚で初めてヒッチハイク。

1989年

1月 『ぼくの高校退学宣言』(徳間書店)で単行本デビュー。
2月

福岡市南区にDPクラブの「事務所兼たまり場」開設。
1DKのアパート。メンバーも、出版を機に一挙に増大。この頃、入門書を1冊読んでマルクス主義者となる。
3月

 

東大駒場寮食堂で第1回全国高校生会議。
上記、高校生新聞編集者会議から最左派が分裂、社会派な高校生を全国各地から発掘して80余名を結集させた3泊4日の合宿イベント。実行委員の一人として企画段階から関わる。
8月

福岡市天神の街頭で初めてギター弾き語り。
ブルーハーツのコピー中心。この年12月頃には日常的に街頭に出没しはじめ、福岡のいわゆる「ストリート・ミュージシャン」第1号に。
10月   

   

DPクラブ分裂事件。
アパートに入りびたるだけでまったく活動を担わない大多数のメンバーと、主宰者・外山との反目が高じて。80年代の若い社会運動シーンでは、同様の現象が全国的に普遍的に繰り返し経験された。

1990年

3月  第2回全国高校生会議(参加者80余名)。
4月

久留米市立南筑高校に新1年生として入学。
分裂による活動停滞を打破するための「潜入」。校内で盛んに「活動」し、レポートをDPクラブ機関誌に偽名で寄稿、事情を知らない中高生読者を鼓舞する。当初の目的は達せられなかったが、2年間のさまざまな活動を経た視点で改めて「学校」という特殊空間を観察する機会となり、外山の学校論のレベルは飛躍的に高まった。
6月 

『ハイスクール「不良品」宣言』(駒草出版)。
89年2月〜90年3月頃のDPクラブ活動報告集。
7月 

神戸高塚高校で「校門圧死事件」。
全国高校生会議の同志2名と共に「それでも起ち上がらない生徒」を攻撃する「不謹慎」なビラを現場で配布。この行動を機に、DPクラブ残党および高校生会議の一部(以下「一派」)が急激に先鋭化し、外山はそのイデオローグとしてめざましい活躍。
8月 

神戸の高校生集会を「粉砕」。
多くの参加者が暗黙の前提としているあらゆるテーゼを疑い、一参加者の立場で盛んに論争を挑むのだが、それだけで主催者側の意図する予定調和の集会は完全に破綻、野次と怒号が渦巻く大混乱に。一派の同志たちとともに同様の行動を全国各地のあらゆる「反管理教育」市民運動、とくに当時盛り上がり始めていた「子どもの権利条約」批准促進運動の集会等で展開し、その大半をやはり「粉砕」、「運動の破壊者」として憎悪され、恐れられる。
9月

 

<秋の嵐>の一部と連帯関係に。
「反天皇制全国個人共闘」を掲げ、「最後の過激派」と呼ばれた首都圏の異端的左翼青年グループ。
10月  童貞を失う。
11月       

『校門を閉めたのは教師か』(駒草出版)。
『ふざけるな! 校則』の著者・はやしたけし氏との共著の体裁だが、事実上、事件をめぐる一派の活動レポート。

1991年

1月  日本縦断ヒッチハイク敢行。
3月  第3回全国高校生会議(参加者40名前後)。
4月  久留米市立南筑高校を自主退学。校門圧死事件以降そもそもあまり通学しておらず。
5月

 

DPクラブ解散。
度重なる集会「粉砕」闘争などで孤立無援となって。この頃、橋爪大三郎や竹田青嗣の著作を読み遅まきながらいわゆる「現代思想」に目覚め、笠井潔の著作が決定的契機となりマルクス主義を放棄。
 この年半ば頃から、それまで関心はありながら活動に忙殺されて手を出せずにいた音楽や映画など文化方面の「勉強」を始める。
7月 

「自由恋愛」の実験を開始。
複数の女性と同時進行で公然と付き合うというものだが、この実験は常に悲惨な結果を招いた。
8月 

『注目すべき人物』執筆開始。
中学高校時代からDPクラブ解散までの、外山の「反管理教育」全活動史総括。翌月完成するも、出版元がなかなか見つからず。
11月  読書会開始。高校全共闘の記録をテキストにするも、数回で破綻。
12月 

「街頭ライブ」がムーブメント化。
当初の「熱い想い」を喪失し、単に生活費を得るためだけに毎週末続けていた福岡市天神・親不孝通りでのギター弾き語りに、急に取り巻きの常連が増える。これが現在に至る福岡「ストリート・ミュージシャン」文化の始まりだが、革命性はあらかじめ失われていたと言えよう。
 『週刊SPA!』誌、中森明夫監修の年末特集に<サブカルの未来の主役たち>の一人として登場。

1992年

この年、『週刊SPA!』の「中森文化新聞」に<反教育の革命児>として連続登場、一躍注目を浴びる。かに思われたが、結局たいした変化はなし。
1月  九州大学の自主ゼミに参加。テーマはフェミニズム。回を重ねるごとに嫌われる。
4月 

突然、パンク・ファッションに。
尾崎豊の死に衝撃を受けて(長続きせず)。以後秋頃までが福岡「街頭ライブ」ムーブメントの最盛期。
6月 

個人誌『カルピス』精通。
<反学校、反教育、反民主主義、反・反差別、反フェミニズム、反ヒューマニズム、反大衆……>を掲げる「思想的オナニー」の産物。
7月  初めて酒を飲む。
8月 

ブルーハーツ・コンサート粉砕闘争。
左翼市民運動グループが「ブルーハーツを福岡に呼ぶ親と子の実行委員会」と称し、「親子でROCK」と銘打って福岡サンパレスで開催した2千人規模のコンサートに3千枚の抗議ビラを手に乗り込み、2階席から散布。主催のオヤジ活動家や会場警備スタッフと格闘し、負傷。
9月

 

街頭ライブ中に襲撃される。
上記コンサートを主催した小学校教諭が泥酔状態で親不孝通りに現れ、ビール瓶で外山に殴りかかってきたため、路上で格闘。
 セックスフレンドをビラで募集。「女募集」と題したお笑いビラを福岡市中心街の電柱や女子トイレ等に貼ってまわる。最初の自覚的芸術活動。
10月  東京・三鷹に1DKのアパートを借りる。文筆業の出張拠点として。
11月  『注目すべき人物』(ジャパンマシニスト社)。
12月  革命的オレ様戦線結成。ただし有名無実。

1993年

2月

 

宝島社の雑誌『バンドやろうぜ』に連載開始。
「つれづれパンク日記」「がんばれROCK革命左派」「パンク強要講座」とタイトルを変えスペースを縮小されながら95年夏まで継続。
4月  『さよなら、ブルーハーツ』(宝島社)刊行。「街頭ライブ」ムーブメント最盛期の日記。
5月  初めてタバコを吸う。
8月

 

東大一高同窓会館で「退屈お手上げ会議」。
91年以来の停滞を打破するため旧高校生会議系の同志たちと企画した3泊4日の合宿イベント。全国から100余名の若者が集まる。
10月 

「反共左翼革命結社・日本破壊党」結成。
退屈お手上げ会議への福岡からの参加者ら3名と。名称は当時ご存命だった「日本社会党」のパロディで、結局出なかったが機関紙タイトルも『破壊新報』の予定だった。わざとショボいビラを作って、福岡市周辺の高校前などで時折配布。
11月

 

寺山修司展粉砕闘争。
福岡イムズビル内の会場で単に破壊党の仲間募集のビラを勝手に配布していただけなのだが、主催者に警察を呼ばれ、新聞報道までされる。

1994年

2月  ソウルフラワー・ユニオンと論争。
『バンドやろうぜ』誌上に外山が書いた批判的なインタビュー記事がきっかけ。
7月 

福岡の左翼市民運動とまた激突。
たまたま通りかかった街頭演説に飛び入りし、「女性サベツ」発言と北朝鮮批判が活動家たちに問題視され強制排除されたことがきっかけ。
 公安調査局事件。
公安調査庁の九州支局が、日本破壊党の活動を内密に調査していたことが、マヌケな職員が外山のアパート前に機密文書をうっかり落っことしたため発覚し、大げさに新聞報道される。ド派手な扮装で九州公安調査局に押しかけ抗議行動。
8月 

日本破壊党、事実上崩壊。
外山の失恋というショボい事情で。3ヶ月ほど立ち直れず、活動がままならなくなるが、その間にまた『SPA!』誌上でのセックスフレンド募集など数々の奇行愚行。
12月

 狂ったように執筆。「街頭ライブ」運動の5年間を総括した単行本用原稿『アスファルトばかりじゃない』(450枚)、恋愛自伝『恋と革命に生きるのさ・第1部』(300枚)、アジ文『いじめられたらチャンス』(100枚)を次々と一気に完成させる。結局いずれも単行本化されずじまいだが、これらの執筆作業が失恋の痛手からの一応の回復をもたらした。

1995年

 95年から96年にかけては、なりふりかまわぬオウム弾圧を契機とする警察国家化の動きにどう対抗していいのか途方に暮れてほとんど失語症のような状態に。
1月 

阪神大震災・物見遊山ツアー。ヒッチハイクで「廃墟の街」を見物に行く。ヒューマニズムへの反感が行き過ぎてすっかりグレてしまっていたのだと現在では半ば反省。後にオウムも遊びメインの廃墟見物をしていたことを知り、複雑な心境に。
2月

 

東京で「だめ連」と出会う。
90年代後半の若い運動シーンを席巻した文化左翼ムーブメント。恥ずかしい直球スローガンを確信犯的に連発するダサカッコいいノリに強い影響を受け、新しい展望を得た気がしてこの運動を福岡へ「輸入」することを決意。
3月 

破壊党を「革命結社・ユルサン」に改称。
オウム弾圧への抵抗のモチーフを秘めての、「だめ連」福岡輸入の最初の試みだったが、うまくいかず、機関誌『ミトメン』を1号出しただけで自然消滅。
7月 

鹿児島市にアパートを借りる。街頭ライブの出稼ぎ拠点として風呂なしワンルームを。
この瞬間、全国にアパート3部屋。
8月  東京・三鷹のアパートを引き払う。
10月  鹿児島のアパートを引き払う。
12月 

『見えない銃』(出版研)。
まだDPクラブを主宰していた90年頃から、街頭ライブ・ムーブメント最盛期にあたる92年頃までの雑多な文章を収録。『最低ですかーっ!』以前では最後の純粋な著作。

1996年

1月  『読売新聞』九州版にコラム連載開始。月イチで1年間続くがよいものは書けず。
2月 

福岡県大野城市の実家で静養。オウム事件以来のスランプが頂点に達し、文筆活動も革命運動もいったん放棄、丸7年間活動拠点としていた福岡市内のアパートを引き払う。
5月  原付免許取得。機動力を飛躍的に高めたものの、有効な使い道ナシ。
8月 

心機一転を図り、上京。杉並区阿佐ヶ谷にワンルームの風呂なしアパートを借りて、荷物は宅配便で送り、カラダは免許を取得したばかりの原チャリで運ぶ。東京では「だめ連」のピークが終わりつつあり、それを乗り越えんとする矢部史郎(高校生会議以来の同志)・山の手緑(退屈お手上げ会議以来の友人)の運動に接近。
10月 

「ヒット曲研究会」スタート。「ヒットチャートから社会情勢を分析する」連続座談会企画。参加者には矢部史郎、山の手緑の他、まだブレイク前の酒井隆史、丸川哲史らも。

1997年

2月 

わずか半年にして東京撤退。高い家賃負担に狭い部屋という東京の住宅事情と、さまざまの運動が乱立する中で独自の路線を打ち出せない状況に精神的に耐えきれず。福岡市内に6畳2間の風呂なしアパートを借りる。
5月 

福岡で活動再開。ムリに独自路線を打ち出すことは断念し、首都圏ではすでに過去のものとなっていた「だめ連」ムーブメントを、まだ「だめ連」以前の状況にある福岡の政治・文化運動シーンに本格的に輸入することに。主に『じゃまーる』を利用した仲間集め(「交流圏」の確立)を開始。交流誌『ザ・コーネ』(「ざこ寝」の意)発行、地獄の10時間カラオケ、5本連続耐久映画上映会、県外ゲスト歓迎会などを口実に、大小無数の交流会を開催、わずか3ヶ月ほどで常時10名以上の交流会動員力を実現する(「福岡版だめ連」第一の波)。
6月  『ぺりかんだもの』発表。「相田みつを」をコケにしたパロディ作品。後に何度かミニコミ化。
8月  ホームページ開設。
10月  商業タウン誌『ムーブメント』創刊計画。外山を編集長として計画始動するも、のちポシャる。

1998年

2月 

前年以来の福岡のネットワーク分裂。外山のアパートをたまり場とする総勢30名ほどの「福岡版だめ連」が形成されていたが、オシャレでマニアックなアート趣味の一派が外山を見限って去り、「交流圏」の規模は一気に縮小、方針の再検討をせまられる。もともとその連中には内心イラついていたため、分裂自体は「歴史的必然」と総括するも、自分で作ったネットワークで孤立してしまうパターンからなかなか抜け出せず。
4月 

『ヒット曲を聴いてみた』(駒草出版)。
東京でのヒット曲研究会を、バカバカしい脱線まで忠実にテープ起こしした「外山恒一編」の単行本。
 「自由民権運動・ラジカル九州」結成。「福岡版だめ連」再始動の試み。先の失敗を総括し、最初から政治色を強く打ち出す。
 「オフィスVAD」のビラを発見。深夜のビラ貼り途中、「万国の労働者&ダメ人間、団結せよ」と大書した怪しいビラが福岡大学周辺に先に貼ってあった。これまでいつもビラをまいて連絡を乞う側、たまには他人のビラを読んで連絡する側に回りたいという悲願が、福岡で運動を始めて苦節10年、初めてかなえられた記念すべき大事件。しかも文面から外山と同じく東京の「だめ連」に影響された連中であることは明らかだった。しかし、その正体はその後数ヶ月不明のまま。
 鹿児島の「社会問題研究会」に参加。96年の鹿児島進出以来の友人・野口英一郎が主宰。これら一連の動きに、「すわ、ついに九州にも<政治の季節>到来か」と勢い込む。
8月 

オフィスVADと接触。4月にビラを偶然発見して以来、謎のままだった組織の正体がついに判明。東京だめ連のペペ長谷川の、だめ連結成以前の仲間の一人が、転勤で福岡へ来て始めたもので、今後の熱い連帯を相互に誓い合う。
 熊本県水俣市で交流キャンプ。福岡の「ラジカル九州」、鹿児島の「社会問題研究会」、東京の矢部・山の手グループ、総勢10名で。
9月 

ミニコミ『自由民権』発行。「自由民権運動・ラジカル九州」機関誌として。
 替え歌メドレー『青年は仕事をやめる』発表。「無職青年社・社長」を名乗り、社歌として。
 読書会「柄谷行人研究会」スタート。知的な若者に人気のある思想家・柄谷行人の名前で参加者を募り、実は吉本隆明の思想を注入するという陰謀企画。
11月 

「メンズリブ福岡」結成に参加。その他さまざまの大小のグループが次々に登場し、自身の「自由民権運動・ラジカル九州」を含め、これらの運動体をヨコにつないだのが、「福岡版だめ連」第二の波で、99年3月ごろには総勢100名ほどの巨大な交流圏が形成されていた。

1999年

2月  「だめ連・福岡」正式結成。
3月 

ミニコミ『自慰MEN'99』刊行。参加者が自身のオナニー体験について赤裸々に語る座談会の記録。メンズリブ運動の外山流の実践。
4月  「投票率ダウン・キャンペーン」。
5月 

「ストーカー」闘争。交流圏のフェミニストたちが外山の私的な恋愛問題に政治的に介入したことへのやむを得ざる反撃戦。人間関係がズタズタとなり、「ラジカル九州」崩壊。
7月

 精神病院に通いはじめる。
 福岡のアングラ・アーティストのネットワーク「大耳レーベル」、故・土方巽の流れを汲む正統派の「舞踏青龍會」、あるいは元DPクラブ・メンバーで“腐れ縁”的友人のバンド「らくだ」…といったグループや人々の周辺で企画されるさまざまの音楽や演劇その他のイベントに頻繁に通い、時にはスタッフも務めるという交流三昧の日々を満喫、年頭以来の苦境から徐々に脱却を図る。
8月 

初のライブハウス単独ライブ。「ストリート・ミュージシャン」生活10年目にして。オリジナル、替え歌、モノマネと多彩な芸を披露。
9月 

テント芝居の制作。広島の「風狂フーガ」、京都の「魚人帝国」の福岡公演に現地スタッフとして関わるが、外山執筆の宣伝ビラが劇団員たちの激怒と絶賛の対象に。
10月 

「九州電力を叱り励ます会」結成。東海村の臨界事故を契機に反原発運動を開始。するつもりで作ったビラはウケたが実質活動せず。

2000年

2月 

ミニコミ『ネオダダ短歌』発表。五七五七七をそれぞれ別の人間がランダムに作り、偶然出来上がった意味ナシ「短歌」を強引に解釈して批評するという文章芸。
3月 

山の手緑へのテロ敢行。前年来の恋愛問題への政治的介入に対する報復。杉並区高円寺の矢部・山の手グループ事務所に宅配便業者を装って侵入し、一方的に殴る蹴るなどして撤収。経緯を手記にまとめパンフにして配布。
4月 

鹿児島市議選に友人・野口英一郎が立候補したため、スタッフとして選挙カーから大音量でピストルズを流すなど「節度あるやりたい放題」のサブカル選挙運動を牽引。
野口は50人中49位で当選。
10月 

マルコム・マクラレン計画に着手。それまで何度もバンド結成計画を立てては挫折してきた経緯を総括し、自分でボーカルやギターを担当するのではなく、コンセプトを設計して、それに合う人材を発掘してバンドとして組織し、方針を押しつけるという策謀。ちなみにマルコム・マクラレンはセックス・ピストルズのマネージャー。
11月 

街頭ライブにアンプ導入。かつて投げ銭で食っていく方法を伝授した大阪の「弟子」が、マイクとエレアコ・ギターをアンプにつなぐ大がかりなやり方を開発していたので今度は逆に伝授してもらい、食うためにイヤイヤ続けていた街頭ライブがちょっと楽しくなる。
12月  「傷害罪」で起訴される。詳細は『最低ですかーっ!』収録の「獄中手記」参照。

2001年

1月  内省と傷心の旅。すでに2年前の話になろうかという過去の恋愛事件にいつまでも束縛されることに疲れ果て、一人になって静かに考えようと丸1ヶ月の鹿児島滞在。
2月  刑事裁判が始まる。民事裁判の訴状が届く。
3月 

「マイ・マジェスティ」闘争開始。ムリヤリ日本語に訳せば「神聖にして不可侵なオレ様」の意。裁判闘争を徹底的にエンタテインメント化する決意を固め、精神的にも完全復活。「フェミニストをやっつけろ!」と題した裁判レポートのサイトを開設、まるで演劇公演の告知のような傍聴勧誘ビラを大量配布するなどして傍聴席をたびたび満員にし、裁判をネタにした宴会を自宅アパート等で頻繁に開催、「福岡版だめ連」第三の波を創出する。
8月  刑事裁判一審「懲役10ヶ月」の判決。執行猶予ナシの実刑。「法廷侮辱」への報復判決である。
9月 

民事裁判一審「100万円の賠償を命じる」判決。この頃には思いつくことはすべてやり尽くして、裁判に飽き始めていた。数ヶ月後に刑務所に入ることを前提に最高裁まで形だけ争い、それまでのモラトリアムを、前年着想した「マルコム・マクラレン計画」実現に費やすことにして、バンドメンバー募集に本腰を入れる。

2002年

 九州大学構内に貼ったビラを見て連絡を取ってきた哲学専攻の女子学生をボーカルに採用、街頭の仲間等でバックを固めた社会派ビートパンクバンド「ハーメルン」をまたたく間に結成。外山は「黒幕」という謎のパートを担当し、他にDPクラブ以来の相棒が「相談役」というこれまた謎のパートで加入。
4月 

ハーメルン第1回ライブ「ハーメルンの笛」。ハーメルンの主催で、友人知人のバンド数組も出演。予想外に充分な観客動員があって大成功。外山はライブ本番中、舞台には上がるものの演奏を尻目に難しげな本をひたすら黙って読んでいるだけ。
5月 

ハーメルン第2回ライブ「外山恒一入獄祝賀会」。開催5日前に、名誉毀損容疑で突然逮捕される。「入獄祝賀」はむろん傷害罪の判決が最高裁の上告棄却で近く確定することを予想してのもので、こんな不当逮捕を予期してのものではない。外山下獄後の方針も決まっていない段階での突発事態で、幸い(?)外山は演奏に関与しない特殊な「パート」担当だったためこのライブ自体は無事開催されたが、ハーメルンはまもなく自然消滅。

「名誉毀損」容疑で突然逮捕される。「民事相手方弁護士の同僚を誹謗した」として。接見禁止措置のため外部と一切連絡取れず。

7月

 

「傷害」上告棄却。一審の「懲役10ヶ月」が確定し、「名誉毀損」公判と同時並行で「受刑者」となる。
8月  接見禁止解除。しかしすでに「受刑者」となっており、親族以外との連絡は不可能。
11月  「名誉毀損」一審判決。求刑どおり「懲役1年」。もちろん実刑。

2003年

3月  「名誉毀損」二審判決。「懲役8ヶ月」に減刑。
5月 

「傷害罪」での服役終わる。逮捕以来1年ぶりに外部との連絡が可能に。
 獄中転向。差し入れられた某書を読んで啓示を受け、「○○○○○」となる。「ファシスト」であることは内緒。
9月

 「名誉毀損」上告棄却。二審の「懲役8ヶ月」が確定し、ふたたび「受刑者」となるが、判決を不服として刑務作業その他囚人に課せられた一切の義務の拒否を刑務所側に通告。8ヶ月間丸々を「取調べ」と「懲罰」で過ごす。

2004年

5月

 福岡刑務所を満期出所。
丸2年ぶりに自由の身となる。今後、外山は最終学歴を「福岡刑務所卒業」と称する。満期出所だから「中退」(=仮釈放)ではないのである。
 出所直後より、獄中で構想したファシスト党「我々団」の建設にとりかかる。
7月 

熊本市内の支援者宅で居候生活開始。
 前後して、知人の知人がフツーの刑事犯として逮捕された事件で、経験をいかしてこの年いっぱい支援に奔走。
12月  『最低ですかーっ! 外山恒一語録』(不知火書房)。

2005年

1月 我々団のサイト開設(当初は「外山恒一のホームページ」)。
6月  埼玉のテント劇団「どくんご」の九州公演(4ヶ所)に随行。
8月  鹿児島県姶良郡隼人町の実家に移住。
9月 鹿児島市内のテント芝居関係者と意気投合し、「劇団あたまごなし」結成。
10月  獄中で詠んだ連作短歌「百回休み」が、角川短歌賞で予選通過(応募作624篇中33篇)するも受賞には至らず。
11月 

霧島市議会議員選挙(隼人選挙区)に出馬。
「政府転覆の是非」を争点に投票者中150人に1人の支持を得るも、供託金30万円を没収される(返還ラインは120人に1人相当の得票)。
12月 劇団活動やストリート・ミュージシャン活動における利便性確保のため鹿児島市内に風呂なしアパートを借りる。

2006年

4月 

劇団あたまごなし旗揚げ公演『アリババが四十人の盗賊』。
桜島・有村崎特設テントにて。もともと脚本のみの参加である予定だったが、劇団員の交通事故などアクシデント相次ぎ、チョイ役で役者デビュー。
夏 

 九州ファシスト党の建設が思うように進まない状況を打破するため、翌年の熊本市議選に出馬することを考える。が、どうせなら東京都知事選にでも出た方が注目は集まるかもと思う。
9月  上京し、高円寺の「素人の乱」の諸君と交流しつつ、都知事選出馬が現実的に可能かを1ヶ月ほどかけてリサーチ。
11月 

再上京。都内にアパートを借りるため、ネットカフェ難民生活をしながらストリート・ミュージシャン活動でひたすら稼ぐ。
12月  高円寺に3万2千円のアパートを借りる。また、熊本市内にも2万9千円のアパートを借りる。

2007年

3月

ほんとに都知事選に出馬し、練りに練った政見放送で俄然注目を集める。
1万5千票を獲得し、全14候補中8位。供託金300万円は没収される。
4月

熊本市議選に出馬。
統一地方選の前半も後半も戦う候補は他にいないだろう。当然落選するも3回目の選挙にして初めて供託金30万円を取り戻す。
6月

素人の乱・松本哉氏とともにTBSラジオの深夜番組「Life」に出演(この放送回が後にギャラクシー賞・ラジオ部門の大賞を受賞)。
1年以上前の原付でのショボい交通違反事件でいきなり逮捕される。7月半ばまで丸々1ヶ月の獄中生活。獄中からブログを更新しつづける。
7月

交通違反事件の裁判が始まる。
晋遊舎が創刊した月刊誌『スレッド』に「ネット右翼矯正収容所」連載開始(ただし同誌は3ヶ月で休刊)。
9月 交通違反裁判の合間を縫って自動車運転免許を取得。
10月

交通違反裁判の一審判決。
検察官の求刑「罰金1万5千円」に対し、判決はなんとその8倍の「罰金12万円」。
以前の「マイ・マジェスティ闘争」同様、裁判官を徹底的にオチョクって激怒させた結果である。当然控訴。
11月 雑誌『スタジオボイス』に「革命のエチュード」連載開始。
12月 雑誌『ズバ王』に「自慰MEN'08」連載開始。

2008年

2月 福岡市に新拠点として一軒家を借りる。
3月

交通違反裁判の控訴審判決。
「原判決を取り消し、罰金3万円とし、この事件で1ヶ月も拘束されてたんだからその罰金もすでに全額支払って余りあるとみなし事実上おとがめなし」という実質勝利だが、それでも形式上はそもそもの求刑の「2倍」となっているわけで、そんなムチャクチャな判決は許してはおけないということで上告。
4月

鹿児島市議選に立候補。
540票を獲得し、熊本市議選に引き続いて供託金を取り戻して「安定した泡沫候補」と称される。
6月  『青いムーブメント〜まったく新しい80年代史』(彩流社)刊行。
9月 革命家養成塾・黒色クートベ、第一期スタート。


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