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その2から続く
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外山恒一 活動年譜 その3
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右欄の●は関連ページ
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2002年5月14日 死去
(私は左翼に虐殺されたのだと認識している) |
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| 5月14日 | 「名誉毀損」容疑で突然逮捕される。「民事相手方弁護士の同僚を誹謗した」として。接見禁止措置のため外部と一切連絡取れず。 | |
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19日
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ハーメルン第2回ライブ「外山恒一入獄祝賀会」。開催5日前に、名誉毀損容疑で突然逮捕される。「入獄祝賀」はむろん傷害罪の判決が最高裁の上告棄却で近く確定することを予想してのもので、こんな突然の不当逮捕を予期してのものではない。外山下獄後の方針も決まっていない段階での突発事態で、幸い(?)外山は演奏に関与しない特殊な「パート」担当だったためこのライブ自体は無事開催されたらしいが、ハーメルンはまもなく自然消滅。 | |
| 7月 | 「傷害」上告棄却。一審の「懲役10ヶ月」が確定し、「名誉毀損」公判と同時並行で「受刑者」となる。 | |
| 8月 | 接見禁止解除。しかしすでに「受刑者」となっており、親族以外との連絡は不可能。 | |
| 11月 | 「名誉毀損」一審判決。求刑どおり「懲役1年」。もちろん実刑。 | |
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2003年
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| 3月 | 「名誉毀損」二審判決。「懲役8ヶ月」に減刑。 | |
| 5月 | 「傷害罪」での服役終わる。逮捕以来1年ぶりに外部との連絡が可能に。 | |
| 獄中転向。友人が差し入れたムソリーニの伝記を読んで啓示を受け、ファシストとなる。 | ● | |
| 9月 | 「名誉毀損」上告棄却。二審の「懲役8ヶ月」が確定し、ふたたび「受刑者」となるが、判決を不服として刑務作業その他囚人に課せられた一切の義務の拒否を刑務所側に通告。8ヶ月間丸々を「取調べ」と「懲罰」で過ごす。 | |
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復活
(キリスト的に) |
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2004年
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| 5月5日 | 福岡刑務所を満期出所。丸2年ぶりに自由の身となる。今後、外山は最終学歴を「福岡刑務所卒業」と称する。満期出所だから「中退」(=仮釈放)ではないのである。 | |
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ファシスト時代
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出所直後より、獄中で構想したファシスト党「我々団」の建設にとりかかる。出所後2ヶ月ほどは、鹿児島県隼人町の実家で主に過ごす。
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7月
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熊本市内の支援者宅で居候生活開始。前後して、知人の知人がフツーの刑事犯として逮捕された事件で、経験をいかしてこの年いっぱい支援に奔走。また、ファシストたるもの弁舌を鍛えねばならぬと、獄中で転向した直後から劇団で修行することを考えており、熊本市内の、鴻上尚史フォロワーの某若者劇団に偽名で参加する。実名では万が一検索されるとアブない思想背景のみならず逮捕・服役歴まですぐバレるからだが、トロツキーの故事に倣い、獄中期の最初の担当看守の苗字を名乗った(下の名前は内心は「牢」のつもりで「朗」とした)。在籍は数ヶ月だが、その劇団の稽古は想像していたようなものとは違っていて(何らかのアリモノの戯曲を使用してのオーソドックスな役者訓練を期待していた)、当初の目的は果たせず。その期間とくに公演もなく、役者はやらずじまい。
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12月
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我々団のサイト開設(当初は「外山恒一のホームページ」の1コーナーとして)。
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8冊目の著作『最低ですかーっ!』刊行
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2005年
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| 5月 | 出所以来初めて上京し、東京滞在中に、入獄直前にメールでのやりとりが始まってはいたスガ秀実氏と初めて会う。結成直後の「素人の乱」にも顔を出す。 | |
| 6月 | 埼玉のテント劇団「どくんご」の九州公演(4ヶ所)に随行。 | |
| 8月 | 鹿児島県姶良郡隼人町の実家に移住。 | |
| 9月 | 鹿児島市内のテント芝居関係者と意気投合し、「劇団あたまごなし」結成。 | ● |
| 10月 | 獄中で詠んだ連作短歌「百回休み」が、角川短歌賞で予選通過(応募作624篇中33篇)するも受賞には至らず。 | ● |
| 11月 | 霧島市議会議員選挙(隼人選挙区)に出馬。「政府転覆の是非」を争点に投票者中150人に1人の支持を得るも、供託金30万円を没収される(返還ラインは120人に1人相当の得票)。 | ● |
| 12月 | 劇団活動やストリート・ミュージシャン活動における利便性確保のため鹿児島市内に風呂なしアパートを借りる。 | |
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2006年
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| 4月 | 劇団あたまごなし旗揚げ公演『アリババが四十人の盗賊』。桜島・有村崎特設テントにて。もともと脚本のみでの参加予定だったが、劇団員の交通事故などアクシデント相次ぎ、チョイ役で役者デビューも(このとき自分なりに役作りを試行錯誤した経験は、のちの政見放送に大いに役立つ)。公演終了後まもなく、演出家と決裂して退団。 | ● |
| 夏ごろ | 九州ファシスト党の建設が思うように進まない状況を打破するため、翌年の熊本市議選に出馬することを考える。が、どうせなら東京都知事選にでも出た方が注目は集まるかもと思い始める。 | |
| 9月 | 上京し、高円寺の「素人の乱」の諸君と交流しつつ、都知事選出馬が現実的に可能かを1ヶ月ほどかけてリサーチ。思うように支持は集まらなかったものの、ますます都知事選に賭けてみたい気持ちに駆られる。 | |
| 11月 | 熊本市議選と東京都知事選の両方に出馬することを決意し、とにかく本当に出られるかどうかも分からない都知事選の準備に力を入れるために再上京。まずは都内にアパートを借りるため、ネットカフェ難民生活をしながらストリート・ミュージシャン活動でひたすら稼ぐ。 | |
| 「雨宮処凛のオールニートニッポン」に、急遽出演キャンセルした松本哉の代役として出演し、赤軍派議長・塩見孝也氏と対決。 | ||
| 12月 | 高円寺に3万2千円のアパートを借りる。また、熊本市内にも2万9千円のアパートを借りる。 | |
| 誰に誘われたんだったか塩見孝也氏の忘年会に顔を出し、塩見氏に「ファシストは帰れ」と排除されかけたところに、「ファシストで何が悪いんや」と介入してきた全共闘世代のファシスト・川嶋康裕氏と意気投合、(実際にはファシストではなくネオコンである佐藤悟志氏は除いて)自分以外のファシストに初めて出会う。たしか忘年会の後そのまま川嶋氏の自宅に誘われ、スカイプとやらで、川嶋氏の長年の盟友であるらしい千坂恭二氏と初めて話す(千坂氏という往年の異端的アナキストの名前は知っていたが、まさか完全に賛同しうるファシズム論の提唱者となっていたことは知らなかった)。 | ||
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2007年
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| 1月 | 鹿児島市内のアパートを引き払う。 | |
| 3月 | ネイキッドロフトで「第一回 政府転覆共同謀議」。ゲストに文芸批評家のスガ秀実氏と一水会の鈴木邦男氏、元「秋の嵐」でマンガ家の山本夜羽音。事実上の都知事選出馬表明イベント。イベント前半、ほぼ手持ち資金ゼロであるにも関わらず「とにかく出馬したい」を連発する外山に来場者は完全に呆れていたが、中盤で、「例えばこういうこともやってみたいんですが…」と用意してきていた自撮りの「政見放送」を上映した途端、「ぜひ出るべきだ!」と雰囲気が一変する。終演後に、来場していた旧い友人から「100万なら貸してもいい」と耳打ちされ、出所後しばらく居候させてもらっていた熊本の支援者にそのことを連絡すると、「では(供託金300万の)残り200万は私が貸しましょう」と返事が来て、告示まで3週間と迫っていたところでようやく都知事選出馬が現実味を帯びる。 | |
| ほんとに都知事選に出馬し、限りなく反則技の政見放送でガゼン注目を集める。1万5千票を獲得し、全14候補中8位。供託金300万円は没収される。 | ● | |
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その4へ続く
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