« 福田和也・柄谷行人 対談 | メイン | スガ秀実『1968年』(ちくま新書)より »

魚住昭『特捜検察の闇』(文春文庫)より

 当事者主義という言葉をご存じだろうか。民主主義国家における裁判制度の基本構造を表した言葉である。法廷で原告と被告の両当事者が対等に弁論を闘わせ、裁判官は公平な立場から審判を下す役割に徹することを意味している。
 この当事者主義は、民事であれ刑事であれ、基本的には変わらない。刑事裁判では検事が国家の利益を代表して被告を訴追し、被告側には弁護士がつく。民事と違って一方の当事者である検事側が強制捜査権という武器を持っているため圧倒的に有利な立場にあるが、その当事者間の格差を是正するため「疑わしきは被告人の利益に」という大原則がある。
 こうした当事者主義の精神に貫かれた憲法や刑事訴訟法が裁判官に期待するのはどちらにも偏らない中立公平な判断であり、検事に期待するのは徹底した真実追究の精神である。そして法曹三者のうち唯一国家組織に属さない弁護士に期待するのは、どこまでも被告人の利益を擁護し、不当な国家権力の行使に異議を唱える在野精神と言っていいだろう。この法曹三者がそれぞれの役割を十分に果たして初めて民主主義の法システムはバランスよく機能する。
 司法の理念とされる「公正と透明」は、中坊の言うように弁護士が「公益的な職務」を義務的に行うことで実現されるわけではない。むしろ弁護士に求められるものは、たとえ「公益」に反したとしても、そして被告が血も涙もない極悪人であったとしても、どこまでも被告の権利を擁護する徹底した姿勢である。
 いま法曹界で進行しているのは、この当事者主義の精神の空洞化だ。弁護士たちが自らの在野性をかなぐり捨て、不良債権回収の「国策」に吸い寄せられたり、捜査当局を利する「刑事弁護ガイドライン」の創設を言い出したりするように、検事たちもまた真実の追究という自らの職務を忘れて単なる国策の遂行者に成り果てようとしている。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.warewaredan.com/mt/mt-tb.cgi/114

About

2006年08月19日 11:19に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「福田和也・柄谷行人 対談」です。

次の投稿は「スガ秀実『1968年』(ちくま新書)より」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。