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青いムーブメント(5)

   5.

 「九〇年」のムーブメントは、八五年ごろから徐々に高揚へ向かうカーブを描き始めるが、その萌芽は八二年ごろにはすでに現れている。
 もちろん私は、それらの動きについて、自分自身の体験としては知らない。
 私はのちに高校を中退する前後に、この「九〇年」のムーブメントに参入していくことになるのだが、ここで私の自伝的な記述からいったん離れて、このムーブメントの成立について書いておく。
 「九〇年」のムーブメントの源流は、八二年の反核運動である。
 この運動は一面としては----というより主として何よりも、戦後左翼運動の断末魔の叫びであり、終焉の合図であった。この運動には、社会党・共産党のいわゆる「旧左翼」から、六〇年代以降に誕生した「新」左翼諸党派や全共闘の流れを汲む無党派の市民運動まで、日本に現存するほぼすべての左翼が大同団結し、最終的には二千万だか三千万だかの署名を集めるほどの反核世論の高揚を生み出したという。東京や大阪では、五十万だかの反核集会を実現した。量的には全共闘以来といえる左翼運動のこの突然の高揚は、実は最低の質と表裏をなしていた。
 戦後一貫して革命的左翼とともにあった思想家・吉本隆明は、このとき反核運動を徹底批判する挙に出て、以後少なくとも左翼運動の実践の場からは吉本派の姿は一掃されたと云ってよい。吉本隆明は反核運動に敵対した反動思想家であるというレッテルは、現在に至るも左翼運動の世界で一般的に流通している。
 しかし、戦後まもない時期の転向論で、日本共産党の「非転向」神話を粉砕した吉本隆明が圧倒的に正しかったように、このとき反核運動の欺瞞性を攻撃した吉本隆明の言動もやはり偉大な思想家の名に恥じなかった。
 吉本隆明が云ったのは、簡単に云えば以下のようなことだ。「反核」などという、誰も表立っては反対できないような、「わかりやすい正義」をふりかざすようになったら、もはや左翼もおしまいだ。
 共産党や新左翼諸党派はそもそも単純な正義をふりかざすのがアイデンティティのようになっているのだから仕方ないとしても、あのラジカルな全共闘直系の無党派市民運動までもが、吉本隆明によるこのそれこそあまりにも単純でわかりやすい批判を、まったく理解できないまでに頽廃を極めていたのである。もっとも、その程度の感性あるいは思想的誠実さを持ち合わせているようなまともな人間は、この十年前の連合赤軍事件に深刻な衝撃を受けてとっくに左翼の実践運動とは一線をおくようになっていたということかもしれない。
 さらに吉本隆明は、そもそもこのときの反核運動は、ポーランドの「連帯」つまり民主化運動から目をそらさせるために、ソ連が仕組んで始められたもので最初から欺瞞にみちているのだと主張している。私は、吉本隆明の云うことは基本的に真に受けることにしている。吉本先生がそう云っている以上は、本当にそうだったに違いない。
 左翼運動からは総スカンを食らったが、「八〇年」のムーブメントの一角を占めるポストモダンのいわゆる「ニューアカ」の思想家たちの多くは、このとき吉本隆明の側についた。そのためか「八〇年」の若者たちも吉本隆明に対しては親近感を持ったようで、あるていど読まれていた形跡がある。この偉大な思想家は、「六〇年」「七〇年」「八〇年」と、常に革命勢力とともにあったのだ。
 反核運動のみならず、この八二年という年は、新旧左翼の大同団結による表層的な高揚の結果と思える現象が他にも起きている。『日本国憲法』という、単にあの平和憲法をオシャレな装丁で単行本化しただけのものがベストセラーに名をつらねている。ベストセラーといえば、戦時中の日本軍の中国人捕虜に対する人体実験を告発した森村誠一の『悪魔の飽食』もこの年である。
 そんな風潮に、当然のことながら多感な若い世代は反応してしまう。
 八二年、サブカルチャーの運動はすでに下り坂である。「八〇年」を代表する文化運動の一つと云ってよいYMOもピークをとうに過ぎていて、翌八三年の暮には「散開」と称する解散をおこなっている。「八〇年」のムーブメントに間に合わなかった、最も若い層の一部は、その対極にあったとも云うべき反核運動に流入してしまう。
 受け皿も、あった。
 青生舎とピースボートである。
 青生舎の歴史は古い。
 そもそもは、東京都心の一中学生が、「麹町中学全共闘」を名乗って校内で盛んに反戦運動をし、そのため内申書を不当に(?)操作されすべての受験高校に落ちてしまったという七一年の事件に端を発している。少年の名は保坂展人。中学生で「全共闘運動」とは、早熟は早熟だが、この程度の早熟さは当時それほど珍しくなかったはずである。西南中でももっと後の八〇年代に、「レーニン」の弟子たちが「明治維新はブルジョア革命か否か」について論争するのだから、中学生のポテンシャルはなかなかあなどれないのである。
 まもなく保坂少年は、学校側を相手どり、裁判闘争を開始する。世に名高い「内申書裁判」である。青生舎の前身はこの、「内申書裁判を支える会」である。最初は純粋な裁判支援組織だったこのグループが、青生舎と改称するに至る経緯は、そのままこの保坂少年の十代後半から二十代前半にかけての熱い青春ドラマである。その詳細は彼の自伝『造反有理読本』に記録されている。
 その間の出来事として重要なのは、無名時代の喜納昌吉との出会いであろう。初対面で意気投合した二人は強力な同志関係を結ぶ。のちに保坂の生み出す流行語「元気印」にしても、あるいはあの渡辺美里の「マイ・レボリューション」を絶賛したことといい、このあたりの彼のセンスのヌルさ、はっきり云ってしまえばセンスのなさは悲しくなるほどである。だがしかしこのセンスのなさが、八〇年代の左翼シーンにあっては有利に働いたともいえる。
 保坂と喜納が出会ったのは七八年のことであるが、すでに七六年に改称していた青生舎は、この頃保坂の主導するイベント企画グループへと脱皮しつつあった。二人の出会いはこの傾向を加速させ、七九年には「まつり」と称する喜納昌吉野外コンサートを全国十ヶ所で開催、のべ二万人を動員している。喜納の現在の地位は、この時期の保坂のはたらきによると云っても過言ではない。この「まつり」路線は八二年ころまで続く。
 八二年、内申書裁判は二審東京高裁で逆転敗訴する。判決後の集会で保坂は、裁判だけで学校状況を変えることはできない、もっとダイレクトな学校変革の運動体に、青生舎を再編したいと支援者らに提起する。保坂はそのイメージを、「学校解放センター」という言葉で表現した。
 当時の学校状況は、保坂が「中学全共闘」を名乗っていた七一年とはまったく様相を異にしていた。中学生はもちろん、高校生の政治運動もほぼ壊滅状態で、中高生たちは厳しくもこっけいな「校則」で生活をがんじがらめにされていた。学校問題にかかわる人々の間で、「管理教育」という造語が広まりつつあったが、世間一般ではむしろ“荒れる子供たち”が問題になっていた。八〇年前後はヤンキーの全盛期、いわゆる「校内暴力」が全国で爆発していた。金八先生でカトウマサルが大暴れしていたのもこの頃だ。青生舎が、おかしいのは子供の側ではない、理不尽な管理を強化している学校の方だという告発を本格的に開始したのは、そんな時代だった。
 青生舎が「学校解放新聞」を創刊し、その事務所を学校変革の拠点として中高生ら若者たちに開放したのは八三年のことである。
 時期を同じくして名古屋でも、当時高校生の藤井誠二が、「共闘グループ・れじすと」を結成し、活発な行動を開始している。
 こうした運動は「学校解放新聞」が部数を拡大するにつれて全国に飛び火し、“闘う中高生”のグループを次々に誕生させている。八五年ごろの最盛期には、「学校解放新聞」は、一般書店では入手不可能なミニコミであるにもかかわらず、一万部発行されていた。

 片やピースボートは、新しいグループである。主宰の辻元清美は、当時現役の早大生であった。
 ピースボートとは要するに、国際的な社会科見学ツアーである。若者たちが、カネを出し合って豪華客船をチャーターし、アジア各地に今も残る、かつての日本の「侵略戦争」の爪跡や、あるいは今げんに進行している「経済侵略」の実状を見て回る。
 ピースボートを批判しようと思えばたやすい。飽食ニッポンの世間知らずのガキどもが、カネの力にものを云わせて、アジアの悲惨を視察してまわろうというのだから、悪趣味といえばこれほどの悪趣味もない。
 しかしピースボートの無邪気さは、「内ゲバ」の恐怖を身近に感じながら、女性や障害者や被差別部落民に滅私奉公する、辛く厳しいだけの世界となっていた日本の左翼シーンにあってまさに革命的であった。“帝国主義者の船”などという新左翼党派からのあまりにも直球の批判・恫喝に対し、「我々は好きでやってるんだからこれでいいんだ」と開き直ったピースボートは、偉大だと私は思う。

 反核運動で社会問題に目覚めた若者たちが、青生舎やピースボートを軸に新しい左翼運動を形成しはじめた。当時の状況に詳しい人によれば、もうひとつ、ACF(アトミック・カフェ・フェスティバル)というグループもあったという。若者たちが始めた、反核を掲げるロック・コンサートの企画集団である。詳しくは忘れてしまったが、たしか東京の二十代の区議か誰かが中心になっていたのではなかったかと思う。ACFの企画する反核コンサートは何回も開催され、出演者の中には、佐野元春や浜田省吾など、メジャーどころも多く含まれていたらしい。
 従来の日本の左翼運動のイメージから大きく逸脱した、これらポップで「軽薄」な運動は、八〇年前後に西欧に出現した「緑の党」や「アウトノミア」など一連の新しい運動の、日本版であった。日本の「八〇年」において欠落していた「政治」領域の、数年遅れでの発生であった。現にとくに青生舎は、「緑の党」や「アウトノミア」を強く意識していた。青生舎周辺で盛んに試みられた「フリースペース」(アパートの一室などを出入り自由として政治や文化の運動のサロン的な拠点にしようという運動)や「自由ラジオ」のアイデアは、西欧の「アウトノミア」からの直輸入だった。
 日本の特殊事情によって、それらの運動は、本来一体化するはずだった「八〇年」の諸運動----YMOやRCサクセション、さらに町田町蔵など第一次パンク・ムーブメント、雑誌『ビックリハウス』とくに「ヘンタイよいこ」など糸井重里の運動、大塚英志や中森明夫、夢の遊眠社や第三舞台などの小劇場運動、いわゆる「ニュー・アカデミズム」、など----とほとんど結びつかず、逆に「九〇年」のムーブメントの萌芽・源流となった。
 さらにいえば彼らは、むしろ「七〇年」のムーブメントと強く結びついていた。青生舎の保坂展人は、実年齢的には「八〇年」の世代であるのに、驚くべきことに「全共闘」の実体験者であったし、ピースボートの辻元清美も、全共闘と並び六〇年代後半から七〇年代初頭の政治運動をリードした「ベ平連」の小田実らと行動を共にすることが多かった。「八〇年」の世代の内部では、「政治」派と、「芸術・思想」派はむしろ反目しあう構図ができていた。
 この複雑な事情が、日本における「八五年の断絶」をもたらしたともいえる。
 世界中どこでも、革命的なムーブメントにおいて通常は「政治、芸術、思想」の運動は一体である。日本においても、そうであった。そしてその上で、「五〇年」、「六〇年」、「七〇年」と、戦後の運動史はつねに、新しい世代が前の世代を批判的に乗り越える、という形で展開してきた。これは、「八〇年」に関しても同じである。サブカルチャー運動は、全共闘運動を「左から」批判する運動である。しかし何度もくりかえすようにそれは「政治」の領域を欠落させた不完全な革命運動であった。その欠落していた「八〇年」的な政治運動は、数年の時差をおいて現れ、しかもそれは同世代の芸術・思想運動と反目し、むしろ「七〇年」の政治運動と結びついたばかりか、そのまま次の「九〇年」の運動の源流となった。結論から云えば、このとき歴史が混乱したのである。
 「八〇年」までは、批判という形であれ、前の世代の試みは次の世代に継承されていた。それゆえ「八〇年」のムーブメントの当事者たちは、「六〇年」や「七〇年」の運動についてよく知っているし、同時にそれらに対する批判的な視点をしっかり持っている。しかし、出遅れた「八〇年」的政治運動は、いわば孤児になってしまった。それは前世代の政治運動と、結びついてはいるが本当の意味で継承はしていない。なぜならそれは、前の世代を批判的に自身の世代に結びつける「脈絡」の自覚、要するに思想運動を欠いている(切り離されている)からである。彼らは「七〇年」を継承しているのではなく、単に引用しているのである。重要なのは、その引用は、脈絡を「無視して」おこなわれるのではなく、「理解せずに」おこなわれていることである。前者ならばそれはむしろ「八〇年」の芸術運動の典型的な手法であるが、彼らの引用は後者なのである。
 例えば保坂展人と喜納昌吉の結びつきを想起してほしい。「七〇年」的なヒッピー文化へのアンチ・テーゼとして、パンクやテクノの運動があった。この脈絡を踏まえずして青生舎が喜納昌吉と結ぶのは、ヒッピー文化の継承ではなく、単なる引用なのである。
 こうした現象は、「九〇年」のムーブメント全体を特徴づけている。八〇年代半ばには、大きな断絶がある。

 「九〇年」のムーブメントの萌芽を、もうひとつ挙げておかなくてはならない。
 尾崎豊である。
 尾崎は八三年、アルバム『十七歳の地図』でデビューする。当時彼はまだ高校在学中であった。ただし、無期停学中であった。結局そのまま、卒業せずに中退となる。
 規則でがんじがらめにされた学校生活からドロップアウトし、愛と自由を叫ぶ熱いロッカー、なんてものは「八〇年」の感性からすれば反革命の極みである。「八〇年」のムーブメントは、そういうものを典型的な敵としていた。「熱く語」ったり、「主張」したりすることを、「八〇年」の文化活動家たちは厳しく自らに禁じていた。
 尾崎豊は、「八〇年」の「軽薄短小」文化のユートピアに、突如出現した異物だった。
 ここにも、「八〇年」と「九〇年」との断絶がある。
 私は今回獄中で、逮捕の時に持ち込んだ自作の現代史雑記帳をパラパラと読み返していて、尾崎豊のデビューが八三年十一月、YMOの“散開”が同十二月であることに気づいて、たいへん驚いた。尾崎豊がデビューしたとき、YMOはまだ「いた」のである。私は、断絶の深さを改めて思った。
 尾崎豊も先述の反核ロック・コンサート、ACFに出演している。
 彼が本格的にブレイクするきっかけとなったのは、八四年八月、ステージから転落して足を骨折したが、それでも歌い続けた、という「いかにも」なエピソードを作ってからである。翌八五年春のセカンドアルバム『回帰線』はチャート一位となっている。同年暮にはサード『壊れた扉から』をリリース、このあたりが尾崎豊のピークである。
 尾崎豊は、間違いなくダサかった。しかしそのダサさゆえに、尾崎豊の登場は革命的であった。意味や本質といった「暑苦しいもの」をひたすら拒否して、洗練の極致に辿りついた「八〇年」のムーブメントの袋小路を突破するのは、尾崎のように限りなく時代とズレた野暮の極みのような存在でしかありえなかったということだろう。
 尾崎豊は、「主張する」「暑苦しい」ロックを復活させた。その間には質的に大きな開きがあるとはいえ、尾崎がいなければ、「九〇年」の文化運動を代表するブルーハーツの登場もなかっただろう。

 ここまで、「八〇年」のムーブメントの後退期、末期にそれと入れ替わるように登場した「九〇年」のムーブメントの萌芽・源流についてざっと概観してきた。八二、三年に現れたこれらの現象はもちろん、「九〇年」のムーブメントのいわば前史である。それが本格的に開始されるのは、八五年のことである。
 いよいよそれについて語る前に、もうひとつ触れておかなければならないことがある。
 冷戦についてである。
 冷戦がどういうものであったか、それを知らない世代に説明するのは極めて難しい。
 「九〇年」のムーブメントを担ったのは、この冷戦を知っている最後の世代である。
 冷戦時代とはどのような時代であるか、一言で云うならばそれは、敵と味方がはっきりと分かれていた時代ということになる。
 国際的にはそれは米ソをそれぞれの盟主とする西側と東側の対立であり、それは国内ではそのまま右と左の対立として現れた。私たち西側世界の反体制派にとっては、政府は右であり、私たちは左であった。
 反体制派の内部でも、社会党・共産党などの旧左翼と六〇年代以降の新左翼とは対立していたし、さらにまた新左翼も四分五裂していたが、例えばそれらの間で起きる暴力的衝突は、例え死者を出すほどのレベルに至っても「内ゲバ」と呼ばれていた。そしてそれら「内ゲバ」は、「本当の敵」を利するものとして批判されるのが常だった。新左翼ともなると、さすがにソ連や中国や北朝鮮が「労働者の祖国」などとは思っていなかったし、東側の反体制運動にもシンパシーを表明することもあったが、しかし結局のところ私たち西側の左翼は、東側の民主化運動が弾圧されるのを、後ろめたい気持ちは抱えながらも見て見ぬふりをしてきたと云わざるを得ない。
 細かいことを云い出せばキリがないが、基本的には、冷戦下において敵・味方ははっきりと色分けされていたと云える。当然のことである。冷戦も一種の戦争だったのだから。
 八〇年代のとくに前半は、冷戦の最後のピークである。というのも西側の主だった国で、東側に対して強硬策を唱えるタカ派の指導者が、相次いで登場したからである。七九年にイギリスのサッチャー、八一年にアメリカのレーガン、八三年に日本の中曽根政権が誕生している。これら西側のタカ派リーダーは緊密に連携し、東側を力でねじふせるための軍備拡大に邁進した。とくにレーガンのいわゆる“スター・ウォーズ計画”などは、第三次世界大戦、核攻撃の応酬、人類滅亡、のようなSF的妄想を喚起するに充分で、八〇年代前半の世界的な反核運動の拡がりは、吉本隆明の云うようにソ連の陰謀の側面も大きかったろうが、やはり人々が本気でそのようなショッキングな想像を禁じえない状況の中で生まれたのである。
 逆に云うならば、サッチャー、レーガン、中曽根の三人組は、西側の反体制運動にとってこれ以上ないというほどの完璧な悪役であったということになる。日本では、青生舎、ピースボートの全盛期はちょうど中曽根時代と重なっている。
 さらに日本には、昭和天皇がいた。昭和天皇はもちろん、かつての「侵略戦争」の総責任者であり、ムソリーニやヒトラーと並ぶ最悪の「戦争犯罪人」であった。八〇年代にはまだ、そんな究極の悪役が、日本の体制の中心に、でんと坐っていたのである。
 現在の私は、そのような考えをすでに持っていない。天皇制に対して私は現在、とくに賛成でも反対でもないというか、はっきりとした答えを持てずにいる。しかし、少なくとも昭和天皇個人については、ほとんど神と云っていいほど偉大な人物であったと思っている。私はあくまでもファシストであって右翼ではないのだが、天皇制批判はともかく、天皇陛下個人を悪く云う者はたしかに国賊なので少しくらい懲らしめてもいいかもしれないと思う。そもそも日本の左翼が天皇制を主要な敵と考えるようになったのは、戦前はともかくとしても、戦後は七〇年代に入ってから、はっきり云えば要するに例の「華青闘告発」以後のことではなかったかと私は疑っている。
 しかしともかく、八〇年代の無知な私は、昭和天皇はとんでもない極悪人なのだと思っていたし、左翼は当時も今もそう考えている。それは誤りなのだが、誤りであれ何であれ、昭和天皇は八〇年代の左翼にとって中曽根と並ぶ、あるいはそれ以上の理想的な悪役として、運動の盛り上がりに貢献していた。
 八〇年代いっぱいまでは、若者が社会問題に目覚めるとはイコール左翼になることであったが、多くの場合、その時に入門書の役割を果たすのが、おそらく七〇年代から続いていたことだろうが、本多勝一の著作であった。社会派の中高生は、当時必ずといっていいほど本多勝一を愛読した。地方の小さな書店でも、本多勝一ならたいてい文庫で主なものは入手できた。
 さらに進むと、現代書館の「フォー・ビギナーズ」シリーズに手を出した。シリーズ第一作の『マルクス』が刊行されたのは八〇年のことである。「レーニン」「トロツキー」「毛沢東」などの人物ものから、「アナキズム」「エコロジー」「非暴力」とか、「反原発」「天皇制」「日本の警察」など、私たち八〇年代の若い左翼活動家は、このシリーズを次々と読破することで左翼の基本教養のようなものを身につけていった。当時、同世代の活動家の部屋を訪ねると、たいてい本棚にあのカラフルな背表紙がいくつか並んでいたものだ。

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2006年04月07日 14:26に投稿されたエントリーのページです。

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