« 青いムーブメント(3) | メイン | 役者緊急募集!! »

青いムーブメント(4)

   4.

 八三年、私は福岡市早良区にある、私立西南学院中学校に入学した。前述のとおり、鹿児島のラサール中学の受験には失敗した。西南中は九州で三番目のエリート校である。ラサールには全国から、久留米大学附設中学には九州全域から受験者が集まってくる。西南は、人口約二百万の福岡都市圏全域から生徒が集まってくるという程度のエリート校だとイメージしてもらってよい。
 我が子が勉強ができるからといって、この種の私学に入学させてしまうのは実は考えもので、私の入学した西南中は一学年二百人ほどであったが、その二百人が二百人とも、地元の出身小学校ではトップレベルの優等生だったような人間である。つまり、小学生時代は一番であったとしても、西南中では二百番、最下位となるかもしれないのである。勉強が一番であることがアイデンティティであった子供が、ここでは一番になれない。アイデンティティの危機というやつが訪れる。この危機を乗りこえる簡単な方法がある。勉強以外のことに自らのアイデンティティを見出すことである。かくして、それぞれが個性を競い始める。多くは、趣味に没頭し、その道に関して「一番」となることでアイデンティティを回復する。もちろん、そのぶん学校の勉強はやらなくなる。このようにして、西南中ではエリートの卵たちの半分ほどが脱落してしまう。私もこの脱落組の一人であった。
 入学時点では、私の成績は上から四分の一くらいであったと思うが、卒業する頃には下から四分の一あたりではなかったかと思う。アイデンティティ回復のために私が没頭したのはピアノの独学と推理小説の創作で、二年生に上がった頃からは、ほとんどそれだけをして過ごした。
 将来は小説家になるのだと豪語して、学内に推理小説創作のサークルまで組織したのだが、実は私が読んでいたのは当時ブームの全盛期であった赤川次郎ばかりで、江戸川乱歩はともかくとしても、横溝正史やエラリー・クイーンすらまともに読んだことはなかったのだから、思い返すたびに赤面してしまう。要するに受験競争からの逃避だったのであり、しかも全然スマートでないカッコ悪い逃避だったのである。
 そういえば、さだまさしと中島みゆきにハマってしまったのも、中学二年生の時である(註.中学三年生の間違いであることが後に判明)。
 私は、中学二年生、十四歳の時に、まったく変わってしまった。一言で云えば、観念的になったのである。頭の中で、常に言葉をグルグルとこね回している。何をしているかと云えば、理屈を組み立てているのである。世界を説明する理屈と、同じことだが自己を正当化する理屈を一所懸命組み立てているのである。
 要は思春期・反抗期の一類型なのだと思う。
 そして今回、獄中で内省の日々を送る中で、はっきりと自覚してしまったのだが、結局私がこれまでやってきた「革命運動」なるものは、この反抗期の延長でしかなかった、というか、十四歳の時に始まった反抗期が、そのまま終わらずに続いていただけなのだ。
 反抗期を終わらせることができなかったのは、どう考えても母親のせいである。一般論としても、そうだと思う。反抗期に母親が対応を誤ると、男の子供は人生をこじらせるのだ。
 十四歳の時から、母親との衝突が始まった。それまで「優等生」だったのが、まったく勉強を放棄して、何時間もピアノに向かっていたり、小説家になるのだと云いだしてすでに小説家気取りで徹夜で原稿を書いたりしているのだから、母が不安に思うのも仕方がない。しかも、現に成績はみるみる下がっていくのである。母の小言が多くなり、私は反発する。まったくありきたりな、ごく普通の反抗期である。こういう時には母親はたぶん、放っておくべきなのだ。しかし私の母は、そうしなかった。母は徹底的に私と対決しようとした。あるいはそれまでの私が、「いい子」にすぎたのかもしれない。母からすれば、私が突然「変わってしまった」のがショックであったのだろう。あるいはそれまでの私が、小児ゼンソクなど病弱なこともあって、手のかかる子供であったのも原因かもしれない。母にすれば、こんなに大事に育ててきたのに、という思いもあったろう。
 母は、「変わってしまった」私を、絶対に認めようとしなかった。そして私は----ああ何と愚かなことに、新しい私を、母に認めさせようとしたのだ。そしてその後、二十年近くにわたって、私は母に自分を認めさせるための闘いを続けてきた。私は今やっとそれが分かった。私は獄死を恐れる。このままでは将来「知ってるつもり」のような人物バラエティの、格好の素材になってしまう。私の人生が、関口宏のような司会者によって、「彼を動かしていたのは、結局、母への思いだったんですね」と一言で片付けられてしまう。そして、まったくそのとおりだということになってしまう。三十三歳にして私はやっと、母親の呪縛から解放されようとしているというのに。

 私が西南学院中に在学していたのは、八三年四月から八六年三月にかけての三年間である。
 これはちょうど、「ニューアカ」や「ポストモダン」などの言葉がブームになった時期と重なっており、それはまたいわゆる「サブカルチャー」のムーブメントの末期にあたる。
 ここで私は、一般に流通している歴史観を、否定しておかなくてはいけない。
 それは、「八十年代」というくくり方についてである。別冊宝島が、九〇年代に入ってすぐに刊行した『八〇年代の正体』に添えられた、「それははっきりいってスカだった」というフレーズが独り歩きして、八〇年代といえば「なんだかいろいろと賑やかではあったが、結局のところ無意味な十年間」という評価が定着しつつある。小林よしのりなども多用する「八〇年代的価値相対主義」なる決まり文句も、この別冊宝島が作り上げた歴史観の現れの一つである。二〇〇〇年代に入って<八〇年代ブーム>のような現象が始まり、<再評価>の動きも出てきているようだが、いずれも「八〇年代」をひとくくりとしてその可否を論じている点は同じである。
 私自身、前に「昭和」の終わりということに関連して「七〇年代」という言葉を使ったけれども、「七〇年代」「八〇年代」という言葉は誤った歴史イメージを作り出してしまうのでよくないと考えている。
 本当の歴史は、こうである。「六〇年を中心とする前後十年間」、「七〇年を中心とする前後十年間」、「八〇年を中心とする前後十年間」、「九〇年を中心とする前後十年間」……。つまり、十年のくくりのまま、五年ずらすのである。それだけのことで、各時代の見え方、イメージがずいぶんと変わってくるだろうし、実際、その新しいイメージがより現実に近い。
 このいわば「外山史観」によれば、例えば六五年から七四年までが一時代である。七〇年を折り返し点として、前半が全共闘的なものの上昇曲線、後半はその下降曲線である。次のサイクルも同様である。七五年から八四年というひとくくりの、前半がサブカルチャー的なものの上昇曲線、後半はその下降曲線だ。八五年から九四年のサイクルについては後に詳しく述べることになる。
 私の中学生時代はつまり、八〇年を中心とするサイクルが終わり、九〇年を中心とするサイクルが始まろうとする時期にあたっている。
 では「八〇年」のムーブメントとは何であったか? それは「七〇年」つまり全共闘的なムーブメントに対する、さらにラジカルな立場からの批判、乗りこえの試みであった。
 日本ではそれは思想(学問)と文化の運動としてしか表現されなかった。それがつまり、ニューアカデミズムとか、サブカルチャーというものとして現れたのである。諸外国とくに西欧では、それは政治運動とも連動していた。西ドイツの緑の党や、イタリアの「運動」などはその典型だろう。
 日本の「八〇年」が、政治運動を欠いた歪つな形で展開したのは、ひとえに「内ゲバ」が原因である。
 「七〇年」のムーブメントの後退局面では、どこの国でも絶望的なテロリズムの試みを生み出した。その過程で、路線対立が左翼陣営内部での暴力的衝突に至る例も、皆無ではなかっただろう。しかし日本のように、「内ゲバ」が突発的なものではなく常態化してしまうほどの倒錯は、諸外国では生じなかった。
 七二年の連合赤軍事件も一種の「内ゲバ」ではあるが、普通、「内ゲバ」と云って想起されるのは中核派と革マル派の間でおこなわれた(ている)それであろう。
 「中核vs革マル」の内ゲバで最初の死者が出たのも、例の「華青闘告発」と同じ七〇年のことである。それでも初めのうちは、死者を出すまでのテロは多分に<事故>的なものだった。しかし暴力の応酬をくりかえすうち、七二、三年ころにはもはや内ゲバで死者が出るのは当たり前、そもそも初めから殺すつもりで相手党派を襲撃する、という状態になる。とくに七五年、革マル派が中核派の最高幹部の殺害をおこなってからは、中核派が当然のごとく激しい復讐心を燃やしたこともあって、死者の数は激増する。七五年だけで、二十人近い死者が出ている。
 この「中核vs革マル」に、さらに解放派(革労協)まで加わって、八〇年に至るまで毎年十人前後が内ゲバで殺されている。もちろん死者よりも、瀕死の重傷を負った者の数の方が多い。なにしろバールで頭部を狙い打ちにするようなテロなのだから、運よく命だけはとりとめても、一生消えることのない障害を抱えることになった人は無数にいよう。
 革命をめざしているのだから、機動隊など、権力とぶつかって死ぬようなことなら、まだ覚悟もできよう。しかし、内ゲバはあまりにも不毛である。
 七〇年代から、八〇年代のはじめにかけての時期、左翼の政治運動にかかわりながら、この内ゲバと無縁でいることはまず不可能であった。内ゲバをやっている党派に属していなければ内ゲバと無縁でいられる、というわけにはいかないのである。
 内ゲバ党派の主要な拠点は、大学の自治会である。大学は、新規メンバーを勧誘する場として重要であるし、大学側が全学生から自動的に徴収してくれる「自治会費」も党派の重要な資金源になる。だから党派は、一度自らの傘下に入った自治会を死守することになる。とくに内ゲバをやっている状況下では、拠点をひとつ失うことは、対立党派との軍事力の差がそのぶん確実に開いてしまうことになるのだからなおのことである。拠点大学内で、自分たち以外の政治運動が高揚することは、絶対に許されない、ということになる。学内の政治運動は、常に内ゲバ党派の監視のもとにおかれる。ある程度以上の盛り上がりを見せそうになると、必ず潰される。もちろん、暴力で鎮圧されるのである。なにしろ内ゲバ党派の側は、文字どおり命がけなのだから。
 「八〇年」のムーブメントの一大拠点となった雑誌『ビックリハウス』は七五年に創刊されている。「八〇年」を彩ることになる無数のミニコミ誌や、<ニューウェーヴ>のロックバンドや、小劇団が、七〇年代後半、続々と登場する。これら文化運動と共振するアカデミズムの運動も、顕在化しつつある。しかし日本においてこの時期、政治運動の<ニューウェーヴ>は不可能であった。かくして日本の「八〇年」は、政治運動を欠いたまま、むしろ政治を忌避し、場合によっては軽蔑する運動として展開してゆく。
 大塚英志や中森明夫や、あるいは宮台真司などもそうであるが、「八〇年」のムーブメントの中で自己形成した批評家たちは、こうした自らの世代や運動の歪つさについて、あまりにも無自覚であると思う。「八〇年」のムーブメントにおいて、なぜ「政治」がタブーとなったのか、歴史を、起源を忘却しているのである。その自覚や検証を抜きに語られる状況論は、必ず誤っているというのが私の考えである。

 さて私自身は、この「八〇年」のムーブメントとはまったく無縁に過ごした。
 それは、先に少し触れたように、この八〇年代も半ばにさしかかろうかという時期にさだまさしと中島みゆきの熱心なファンとなった一事をもってしても明らかだろう。せいぜい赤川次郎ファンであったことが、確信犯的に「軽薄短小」を是とする「八〇年」革命の文脈で語りうるくらいである。
 しかし親しい同級生の中には、今思えばこの「八〇年」のムーブメントに乗っていた者もいた。
 例えばS君である。当時の西南中は男子校だったのだが、S君の「趣味」は、近隣の女子校の制服の「収集」であった。といっても後の「ブルセラ」ブームのように現物を収集するのではなく、観察し、専用のノートに細かな特徴などを絵や文章で記録につけていくのである。私を含めて周囲の者はそんなS君を白い目で見つつも当然ながら興味津々であった。云うまでもなくこのS君の「趣味」は、森伸之の『東京女子高制服図鑑』だったのである。前衛芸術家・赤瀬川原平らのいわゆる「路上観察学会」周辺の実践の一つである。そういえば、S君は女子高生の制服ばかりでなく、「マンホールのふた」がどうこう云っていたような気もする。赤瀬川はむしろ「六〇年」「七〇年」の人で、「八〇年」のムーブメントにあっては傍流と云った方がよかろうが、無関係というわけでもない。私にとってS君は、当時気づかなかったが、「八〇年」のムーブメントへ向けて開かれた小さな窓のひとつだった。
 もう一つの窓はT君であった。S君もT君も共に、私が学内で組織した推理小説創作サークルのメンバーだったのだが、理屈っぽい人間ばかりが集まったそのサークルの中でも、T君はズバ抜けて理論家だった。彼について憶えているのは、筒井康隆や小松左京のSFや、サザンオールスターズや、アニメがとにかく好きであるようだったこと。私が「オタク」という言葉を初めて聞いたのもT君の口からで、それは後で知るところによれば、中森明夫がその言葉を発明してからまだ一年くらいしか経っていない時期のことであり、T君は福岡の中学生としては極めて<情報通>だったのだなと感心する。T君やS君は当然のことながら、その頃『ビックリハウス』など愛読していたのではなかろうか(註.出所後、本人に直接確かめてみたところ、少なくともT君は「読んでなかった」とのことである)。
 そういえば私は当時、鴻上尚史のオールナイト・ニッポンをよく聴いていた。午前一時からの第一部ではなく、三時からの第二部であったから、きっと彼がメジャーになり始めの頃だったのだと思う。リスナーを巻きこむ、痛快でナンセンスな企画を連発していた。思えばあの番組も、私にとって「八〇年」への数少ない窓のひとつだった。
 栗本薫の『ぼくらの時代』は、普通に推理小説として読んだ。当時のぼくのセンスでは、ちゃんと読めるはずがなかった。

 さだまさしと中島みゆきについてもう少し述べておきたい。
 どちらもまだ売れ続けていたとはいえ、私が熱心に聴き始めた八四年当時には、すでに流行遅れになっていた。ニューミュージックどころか、YMOすらすでに解散していたのだから、その流行遅れぶりは半端ではない。
 しかし私は、自分が当時この二人の<ニューミュージック>の大御所に強烈に惹かれたことに、のちに「九〇年」のムーブメントを担う人間として、歴史的な意義なり必然性が、あったように思うからである。
 「八〇年」のムーブメントは、「重厚長大」なものに確信犯的に「軽薄短小」なものを対置させる闘争であった。それは、直接的には全共闘的な運動あるいは全共闘世代のうっとうしさに対する闘いであった。もちろんそれは、全共闘的なものを体制の側から攻撃するのではなく、その逆であった。「八〇年」の若者たちからすれば、全共闘はまだ充分に革命的ではないがゆえに批判の対象となったのである。彼らはウェットな日本社会にドライな価値観を対置する一方で、ホットな既存の反体制運動に反発し、ことさらにクールにふるまった。それは極めてアクロバチックな闘争だった。彼らは単に闘わないのではなく、懸命に闘わないのであった。情熱的に、クールにドライにふるまった。それは当時の流行語を使えば、分裂病的(スキゾ)であることを偏執狂的(パラノ)に追求する闘争と云えた。
 そしておそらく、彼らは勝利してしまった。しかしその勝利は、本来彼らがめざしたものとは似て非なるものであったはずである。彼ら自身がそのことに無自覚であるとしても。
 彼らは、社会変革に夢中になることと、アイドルやマンガやファッションに夢中になることは等価だとうそぶいた。そうであるならば彼らは、アイドルやマンガやファッションに対する情熱と同じだけの情熱を社会変革へと向けてしかるべきだが、そんな者は一人もいなかった。それは彼らが元から政治に無関心であったためではないだろうと私は思う。前に述べたとおり、彼らのサブカルチャー運動が「八〇年」に向けて高揚していく七〇年代後半は、ピッタリと「内ゲバ」の最盛期であった。
 かくして「政治」はタブーとなった。闘わないことがイコール闘いであるという奇妙でアクロバチックな「八〇年」のムーブメントは、全共闘的な反体制運動という一方の敵を失って失速してしまう。ホットなもののアンチテーゼとしての限りで意味を持ちえた「クール」は、単なるニヒリズムへと変質する。もう一方の敵であったウェットな日本社会も消えてしまいつつある。「重厚長大」な工業社会は、「軽薄短小」なポスト工業社会へと移行しつつあり、もともと革命的であったはずの「八〇年」の思想は、新たに出現した体制を補完するイデオロギーとして回収されてしまう。八〇年代前半とは、こうした意味で「八〇年」のムーブメントの後退期であり、私の中学生時代にあたる八四、五年はその末期といえた。
 そこで、さだまさしである。
 当時のことを調べていくと、「八〇年」のムーブメントが仮想敵の一つとしていたものにこの「さだまさし」がある。フェミニストや反戦派などの凡庸な左翼がおこなった「関白宣言」や「防人の詩」に対する「批判」は、あえて論じる必要のないほど無意味な単なる云いがかりである。「八〇年」派の批判はそれとは違ったはずである。彼らはウェットな日本社会を支える価値観・感性の象徴としてさだまさしを攻撃したのだと思う。「八〇年」のムーブメントの指導者の一人と云ってよかろう坂本龍一は、さだまさしと名指しはしていないが当時の<ニューミュージック>について、「我々は自意識過剰だが、彼らは無意識過剰だ」という云い方をしている。<ニューミュージック>の担い手たちが無意識のうちに日本社会の価値観・感性に呪縛されて垂れ流すウェットな作品世界が不快だということであろう。
 もちろん当時の私はそんなことは知らない。
 私の目の前にはただ、ドライでクールで「軽薄短小」なもので溢れる世界が広がっており、私はそれに反発を感じた。
 これには私のそもそもの資質などは関係がないと思う。思春期の少年が、自分をとりまく世界に否定的な気分を抱くのは、まっとうすぎるほどまっとうなことで、私が「軽薄短小」なものに反発したのは、単にそういうものが(自分にとっての)全世界を覆ってしまった八〇年代半ばにちょうど思春期を迎えたからにすぎない。十年早く生まれれば、私は今頃、宮台真司や大塚英志のような位置に身を置いていた可能性がかなり高い。
 「軽薄短小」な世界への反発を代弁してくれるものとして、私がさだまさしに強く惹かれたのは、時代とズレているどころか、むしろまったくの正解なのである。なにしろ「八〇年」派自身がまさしくさだまさしを主要な敵の一つとして攻撃していたくらいなのだから。
 「八〇年」派が中島みゆきを攻撃しているところはあまり見たことはないが、それが「クール」や「ドライ」とはまったく相容れない世界を歌っていることは云うまでもないだろう。
 もちろん私は、自分自身が主体的に担っていくことになる「九〇年」のムーブメントの過程で、さだまさしと中島みゆきを「何かの間違い」として捨てることになる(中島みゆきについては再び帰依するが)。
 八〇年代半ばに私がさだまさしと中島みゆきに熱狂していたことそれ自体に、ポジティブな意味はない。重要なのは、私が「八〇年」のムーブメントと切れたところから思春期の模索を開始したという事実である。これは、単に私にとって個人的な意味があるというのではない。わかりやすく私が「八五年の断絶」と名づけている、思春期をそれ以前に迎えたものと以後に迎えたものとを決定的に隔てているこの八〇年代半ばの断層の存在に気がついているか否かが、現代の諸問題を考えるに際して決定的であるからだ。八〇年代半ば以降の、とくに若い世代に関するさまざまの現象は、実はこの断層の存在を抜きには本来説明不可能なのである。それを無理に整合性を保持しつつ説明しようとすると、当然、誤る。いくらそれらしく現実を説明できているように見えても、それは必ず誤りなのである。活躍している批評家の中で、この「八五年の断絶」に気がついているのは、私の見るところわずかに福田和也ただ一人である。
 そういえば私は、「九〇年」のムーブメントの過程で、時々、元さだまさしファン、中島みゆきファンの同世代に出会っている。世代を考えると不可解なほど高い比率で出会うのであるが、中島みゆきに関してはまちまちながら、さだまさしに関しては必ず「元」であるのが面白いと思う。このことも、「九〇年」のムーブメントが、「八〇年」のそれと断絶、そしてそれとは知らぬままの反発からスタートしていたことの証左であろう。
 蛇足ながら私にとってさだまさしと中島みゆきは唯一の「文学体験」でもあった。大量に本を読んでいながら実はその九割が赤川次郎という、自称「本の虫」にすぎなかった中学・高校時代の私は、当然のことながら、「文学」を知らなかった。とくにいわゆる「純文学」に対しては、「教科書に載っている面白くない小説」として見当違いな反発心さえ抱いていた。だからもう、まったくと云っていいほど私は若い頃何も読んでいない。
 しかしでは私には「文学体験」がないかというと、そうでもないのである。周囲の文学青年・文学少女の類を見ていて思うに、私はまったく、彼らがいわゆる文学に対するのと同じ姿勢で、さだまさしと中島みゆきの世界に対していたのである。
 さだまさし自身が、いわゆるニューミュージック系のミュージシャンの中ではズバ抜けて例外的な教養人であり、その詞世界はきわめて純文学的である。そのことはますます、「反文学」を掲げる「八〇年」派の反発をかきたてるものであったに違いない。もちろんそれは、自分の人生をドラマティックに物語化して肯定する、ウェットでナルシスティックな、要するに「私小説」的な文学である。良し悪しはともかく、さだまさしの詞世界が極めて文学的であることは確かである。中島みゆきの世界が文学的----こちらはもはや良し悪しを超越して文学的であることは云うまでもない。

 中学時代について、もう一つ書いておきたい。
 それは、西南中という私学の特殊な教育に関してである。
 結論から云えばそれは、まったく「左翼偏向教育」以外の何物でもなかった。
 とくに社会科の授業はものすごいもので、「レーニン」というあだ名の(教師にそんなあだ名をつける中学生もどうかと思うが)教師が、日本全国・世界各地の社会問題について詳細に解説するというのが例えば「地理」の授業内容だった。もちろん、教科書など使ったこともない。三里塚闘争もアイヌの歴史も、私はすべてこの「レーニン」に教わった。アメリカ社会がいかに腐敗していて、対してソ連や中国や北朝鮮の人民が、すばらしい指導者のもといかに理想社会建設のために燃えているか、という話を一年を通して徹底的に教え込まれるのである。北朝鮮どころか、中米ニカラグアのサンディニスタについてさえ詳細に教えられたのだから、保守派が一般に想定している日教組の「偏向教育」のレベルをはるかに凌駕している。ちなみにこの「地理」の授業がおこなわれたのは中学一年、十三歳の時である。
 他の科目でも、例えば数学では「カントールの無限集合論」とやらについて手ほどきを受けたし、国語の時間に何回にもわたって教師が熱く語っていたのは今思えばあれはソシュール言語学であった。
 要するに少なくとも当時の西南学院中というところは、地元市民が同校に対して抱いているような「エリート進学校」のイメージとはまったくかけはなれた教育がおこなわれていたのである。もちろん親も生徒自身も、ごく普通の「エリート養成校」だと思って西南中に集まってくるのである。しかし、肝心の学校側が、エリートを養成する気がまったくない。むしろまったく正反対の価値観で生徒に相対する。西南中は、そんなヘンな学校だったのである。
 もともと毎朝礼拝をおこなうほどの、熱心なキリスト教プロテスタントの私学である。戦前の弾圧も経験しているから、そもそも学校全体の風土としてリベラルなのだと思う。後の昭和天皇の大喪の礼の日には、やむなく休日としながらも学校側が生徒に「自主登校」を呼びかけたほどである。もともとそういう校風であったところに、私が在学していた当時はさらにその上、今思えば全共闘世代の、志を持続しているタイプの教師が燃えていたのである。
 先に「八〇年」のムーブメントを担った世代に焦点を当てて、この八〇年代前半という時代について書いた。では「七〇年」をピークあるいは折り返し地点とする全共闘運動を担った世代にとって、それはどのような時代だったのだろうか?
 私は最近になってようやく、全共闘世代というものを深く理解できるようになったと思う。
 全共闘運動それ自体については、とっくの昔に完全に理解しているつもりである。私が最近ようやく分かってきたというのは、全共闘運動を体験した当事者たちにとっての、七〇年代や八〇年代、つまり「全共闘以後」の時代とはいかなるものであったか、ということである。
 要するに私も年をとったということである。彼らにとっての七〇年代を、「九〇年」のムーブメントの当事者である私は、自身にとっての九〇年代と重ねることによって、より深く理解しうるようになったと思う。彼らにとっての「八〇年」は、私にとっての「二〇〇〇年」にあたる。それは、自身にとって特権的な時間であった「あの時代」から、まだたったの十年しか経過していないのである。ムーブメントは収束し、時代の様相は非情なまでに跡形もなく変わってしまう。しかしムーブメントの渦中にいた生身の人間たちは、わずか十年ていどの時間では、「帰ってくる」ことはできないのである。
 七〇年に鹿児島のしかも郡部で「高校全共闘」をやっていた人にインタビューしたことがある。彼は基本的には個人として活動を続けながら、八二、三年頃までは「地下に潜る」つまりゲリラ兵士になるか否かで真剣に悩んでいたという。それを聞いて私は、そのあまりの時代に取り残されてる感がおかしくて、本人も自嘲気味なところがあるのも手伝って、大いに笑ったのだが、後になって考えると、それほど珍妙な話でもなかろうと思うのである。現在二〇〇四年、私は彼らにとっての「八四年」に生きているが、私は今も「九〇年」の経験に執拗にこだわり続けているし、当時の仲間の中にも、まだこだわっている者は大勢いる。
 もちろん「八〇年」の世代についても考えてみる。彼らは、私たち世代が自身のムーブメントの渦中にいた九〇年に、全共闘世代が「八〇年」に、私たちが「二〇〇〇年」に味わったような気分を抱えていたのだなと考えてみる。例えば中森明夫が私に大いなる期待を抱いたその九二年の気持ちを、私にとっての「二〇〇二年」に置きかえて考えてみる。最近の私は、そんなふうに時代状況を考えてみることが多くなっているのである。
 社会の矛盾や不正について、熱を込めて私たちに語っていたあの西南中の教師たちを、現在つまり二〇〇〇年代半ばの私と「同世代」のように考えてみる。その上で、私には彼らを全面否定する資格があると思う。彼らを私の世代に置きかえれば、その「非転向」ぶりはソウルフラワーユニオンの中川敬のように醜悪である。私は彼らとは断固として違う。
 私は当時、「レーニン」にそれほど影響を受けなかった。彼の周囲には、その影響をモロに受けた生徒たちが集まって、社会研究部というサークルを形成し、熱心に社会問題にとりくんでいた。私は彼らの活動に、ほとんど興味を抱かず、ピアノの独学と推理小説の創作という自分の趣味の世界に没頭していた。しかしやはり私は「レーニン」に感染していた。単に潜伏期間が長かっただけで、西南中を卒業し、西南学院とはまったく関係のない高校へ進学して、「レーニン」たちと縁遠くなってから突然発病した。
 八〇年代いっぱいはまだ、若者が社会問題に目覚めることはイコール左翼になることであったから、「レーニン」がいなくても私はどうせ一度は左翼になっていたはずである。しかし、中学時代に「レーニン」たちの話を聞いていた蓄積は、私の左傾化のスピードをいくぶん早めるくらいの役には立ったと思う。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.warewaredan.com/mt/mt-tb.cgi/71

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2006年04月01日 17:23に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「青いムーブメント(3)」です。

次の投稿は「役者緊急募集!!」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。