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青いムーブメント(3)

   3.

 こうして改めて考えはじめてみると、私は自分の家族のことについてすらよく知らなかったのだと気づき愕然とするが、私が生まれた当時、父・久恒は自衛官だったようである。私が物心ついた頃には彼はすでに民間の空輸会社のヘリコプターの整備士で、その免許は自衛隊で取得したというから、父に自衛官時代があったことは知っていたのだが、父が元自衛官であるということをそれほど強く意識したことはないし、今でもあまりピンとこない。
 住民票を見ると、私が生まれた時こそ鹿児島の隼人町に住民登録されているが、その後二、三年の間に、滋賀県だの福島県だの、めまぐるしく全国数ヶ所を移動している。この時期までがおそらく父の自衛官時代なのだろう。もちろんその頃の記憶はない。
 いったん元の鹿児島県隼人町を経て、七四年に福岡県筑紫郡大野町(のちまもなく大野城市)へ移る。
 この間、七二年に二つ違いの妹が誕生しており、さらにこの後、七五年に五つ違いの弟が誕生している。

 大野城市は、福岡市のすぐ南に位置する、そのベッドタウンの一つである。太宰府市とも隣接している。
 その名のとおり「大野城」という城跡がある。といっても中世・近世ではなく古代の山城なので、跡といっても土塁だけである。私は本当にものを知らなくて、大野城という古い城跡があるから大野城市なのだということは知っていたが、具体的にいつ頃何のために作られた城なのかについてはほとんど知らなかった。今回、獄中で日本史・世界史をざっと勉強して、初めてそれが、六七二年の白村江の敗戦に関連していることを知ったような次第である。
 私たちの家族が移り住んだのは、まさにその大野城が築かれた山のふもと・・というより中腹であった。大野城市の北東端の地区で、すぐ隣りは太宰府市水城地区でもある。要するに古代史の主要舞台のようなところに住んでいたのである。

 私は大いに甘やかされて育ったと思う。
 理由はいくつかある。
 まず、やはり私が長男であったことが大きいだろう。一般的に最初の子は大事にされるものだろうし、その上に両親が二人とも鹿児島人である。前述のとおり、私は外山家にとって長男の長男の長男である。鹿児島的価値観では、私はまぎれもなく将来の外山一族の代表者なのである。もちろん、客観的にはどうということもない中流階層にすぎないのだが。
 福岡に移り住んですぐ、私がゼンソクを発病したことも、両親が私を甘やかした大きな理由の一つだろう。要するに病弱で、体力がなく、何かの間違いで同級生とケンカになれば常に一方的に負けて泣いて帰ってくるような子供だったのである。
 そのかわり、私は勉強ができた。といっても後述するように、今になって冷静にふり返ると、全然大したことはないのだが、周囲の大人たちも同級生も私自身も、私はとても頭の良い子だと錯覚した。将来が楽しみだということで、ますます大事にされたのである。
 甘やかされて育ったことと、後に革命を志すようになったこととの間に、直接の関係はないと思う。むしろ甘やかされ、ケンカひとつできない性格を形成してしまったことは、革命家として計り知れないほどのマイナスとなっている。
 そういえば私は、リンゴの皮むきすらできない。甘やかされて育ったというのは、やはり客観的事実のようである。

 私は「昭和」を知っている。
 昭和天皇が亡くなったのは八九年のことだが、昭和らしい昭和の時代は、七〇年代いっぱいで終わってしまったように思う。
 昭和の時代、まだ「国民」というものがあった。
 「国民」という感覚は、私より下の世代になると、あまりピンとこないのではないかと思う。二つ下の妹の世代でギリギリ、五つ年下の弟の世代になるともう分からないだろう。一九八〇年、弟はまだ五歳であった。
 わかりやすい例を挙げると、私より少し下の世代になると、「歌謡曲」というものがよく分からないはずである。
 あの時代、まだ子供たちには個室が与えられていなかった。
 テレビはまだ、一家に一台であるのが普通だった。
 ビデオデッキなど当然まだ普及していなかった。
 私の父は新しいもの好きで、ビデオを購入したのも比較的早かったが、それは一九八〇年、私が小学校四年生か五年生の時であったように思う。同級生四、五十名の中で、家にビデオがあるのは私を含めて二、三人だった。そのため同級生たちがしょっちゅう、珍しがって放課後遊びに来ては、土曜ワイド劇場などの「エロい」シーンを何度も再生してサルみたいに興奮していたのをよく覚えている。彼ら同級生の多くの家にビデオが入ったのは、中学生になってから、つまり八三年以降であったように思う。当時、福岡市近郊の大野城市と、東京とのこの種の時差はせいぜい一、二年であろうと思う。
 「歌謡曲」というのは、テレビがまだ一家に一台しかなかった時代のものである。あの時代、「ザ・ベストテン」などの歌番組は、家族全員で見るものだった。だから子供たちもみんな、五木ひろしや石川さゆりの歌を知っていたし、大人たちも若者や子供たちの好きな音楽を知っていた。逆に云えば「歌謡曲」は、あらゆる世代が見る「ザ・ベストテン」に登場するような音楽のことであり、多くの「国民的大ヒット」もそういう状況で生まれた。
 もちろん、テレビ登場以前には家族の団らんというものがあり、テレビはそれを破壊したのだろう。しかしまだその時点では、家族が互いに向き合う形は壊れつつあったとはいえ、家族はテレビの前に集まっていた。大人たちが知っている世界と、子供たちが知っている世界とは、だいたい同じであった。
 一家に複数のテレビが入りこみ、さらに子供たちにそれぞれ個室が与えられるようになって、「歌謡曲」は消滅した。ベストテン番組は成立しなくなった。それはもちろん、「国民」が成立しなくなったということであり、「国民」的一体感と共にあった昭和という時代の終わりということだった。
 蛇足ながら、私はもっと古い昭和も少しだけ知っている。
 母方の祖母の家は、古い見すぼらしい日本家屋であった。「戦死」した祖父と、皇室の写真が飾ってあった。夏には蚊帳を吊っていたし、九〇年代に入ってもしばらくは、焚き木を拾い集めて五右衛門風呂を使っていた。

 私はこれまで、自分はドロップアウトしたエリートだと思ってきたし、自伝などにもそう書いてきた。
 しかし今回、獄中で自分の人生を冷静にふり返ってみると、それはとんでもない錯覚だということに気がついてしまった。
 たしかに私が卒業した私立西南学院中学校は、福岡市では一番のエリート校である。最終的に中退することになる福岡県立筑紫丘高校も、地元では有数のエリート校である。しかし……。
 私が通っていたのは、大野城市立大城小学校である。七八年、私が小学校二年生の時に新設された小学校で、一年生として入学したのは大野東小学校である。私は団塊ジュニアより少し上の世代であるから、世代人口増を見越しての新設であろう。大野東小学校は各学年十クラス前後あったが、そのうち二クラス分が、大城小学校の校区となった。
 一クラスは四十数名であったから、つまり大城小学校は一学年八、九十人規模の、小さな小学校であった。
 仮にもエリートを自称するからには、少なくともそのたった百名足らずの中では常にトップであったのだろうと誰もが考えるはずである。が、そんなことはないのである。私の記憶では、私の学年の中に、飛び抜けて成績のいい生徒が三人いて、私はその中の一人にすぎなかった。テストをすれば、その三人が必ず上位三位に並ぶのだが、三人の順序は毎回入れ替わった。その当時の私が優等生であったことは間違いないが、内実はその程度である。
 小学校時代の私の偏差値は、六十七、八であった。偏差値五十が平均なのであるから、それからすれば夢のような数字ではあろうが、偏差値というのはだいたい七十五くらいまであるのだ。私は、まったく勉強しなくても六十七、八ではあったが、いくら勉強しても七十に届いたことはなかった。これは要するに、素質はあるのだが、勉強のやり方が分かっていないということであり、勉強のやり方がわからないというのは、結局頭が悪いのである。
 ちなみに偏差値六十八というのは、だいたい一万人中四百位くらいと考えてよい。百人中四位だから、大城小学校時代を思いおこすと、だいたい計算は合っている。一億人いれば四百万人もいるようなレベルの者を、やはりエリートとは呼べないだろうと思う。
 現に私は、鹿児島のラサール中学校を受験して落ちている。ラサールの偏差値は当時七十二くらいだったと記憶している。これは一万人中七十位くらいということで、私なんかが受かるわけがないのであるが、それだって一億人の中に七十万人もいるわけで、まだエリートとして充分ではない。漠然としたイメージでしかないのだが、エリートというのは日本全国に一万人くらいしかいない、というレベルでないと、そう呼ばれるにふさわしくないのではないか。
 しかも私の成績というのはその小学生時代がピークで、その後は下がり続けているのである。高校を中退する時点では、私の成績はほぼ学年最下位といってよかったろう。それでもエリート校での最下位だから、偏差値は六十三、四はあったとは思うが、そこまで行けばもはや凡人である。
 さらに小学生時代に話を戻すと、私の他に成績のいい他の二人は、スポーツも抜群にできて、つまり文武両道だった。それに対して私は、主要四科目と、あとはせいぜい音楽の成績がいいくらいであった。私は他の二人に対し、常にコンプレックスを抱えていた。
 もっとも私は、そう極端に内向的な子供だったわけでもない。コンプレックスを多く抱え、鬱屈してはいたが、外で遊ぶのは大好きだった。筋力がなく、また失敗を恐れるあまり野球やサッカーなどのスポーツはまったくダメだったが、スタミナはあって、例の城跡のある標高四百メートルの四王寺山には毎日のように登った。アウトドア派の同級生が何人かいて、小学生の基本である「秘密基地」の類も、四王寺山のあちこちに築いた。
 私が住む大野城市から見て四王寺山の裏側は、糟屋郡宇美町である。福岡刑務所は、もちろん当時も宇美町にあり、私は子供心に漠然と、悪いことをするとこの山の裏側に連れていかれるのだと考えていた。エリートは勘違いであったとはいえ、少なくとも将来自分がまさにそこへ放り込まれるようなことになるとは、万に一つもありえないことに思われた。

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コメント (1)

阿山:

ストリートライブを度々拝見しております。
いやぁ~外山さんの生き方まさしくパンクスですね。
選挙の時には工業で時のお人でしたよ。

話は変わりますがストリートライブ再開しないんでしょうか?

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2006年03月25日 18:01に投稿されたエントリーのページです。

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