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青いムーブメント(2)

   2.

 私には故郷が二つある。
 これは何か抽象的な意味で云うのではなく、単に事実である。
 ひとつは、生まれ故郷の鹿児島であり、もうひとつは、四歳以降、現在に至るまでそのほとんどの時期を過ごしてきた福岡である。
 私にとって鹿児島は、単に生まれただけの形式上の故郷ではない。
 私の両親はともに鹿児島の人間で、一家が福岡へ移り住んで後も、鹿児島には両方の実家があり、どちらも祖母が健在であった。鹿児島はもともと「家」意識が異様に強い土地柄で、一族の結びつきも強い上に、父が跡取りであることも重なって、私たち家族と父方実家とはきわめて頻繁な連絡があった。盆・正月は必ず一家で鹿児島に帰省したし、私は父方祖母にとって長男の長男であったことから、ことさら一族の間で大事にされ、居心地がよかったから、少しでも長く鹿児島にとどまりたがり、そのため一家の中でも特に私は、小中学生時代をとおして夏冬そして春休みのほとんど全期間を毎回鹿児島で過ごした。
 そればかりでなく、後に触れるように、私は十六歳から十七歳にかけて一年間、この父方祖母の家に住み、鹿児島の高校に通ったことがある。
 そういう事情であるから、鹿児島は私にとって単に生まれた場所という以上の、いくぶん深い縁のある土地なのである。
 おそらく九州以外の人間にとっては、鹿児島も福岡も大差ないように感じられるだろう。鹿児島だろうが福岡だろうが「要は九州」であって、福岡の方がいくぶん都会だという程度に認識しているのが普通だろう。かく云う私からして、青森も仙台も「同じ東北」のように思えるし、すぐ近くの四国四県にしたってイメージは一緒くたである。
 しかし、福岡と鹿児島は、まったく違う。
 というよりも、九州の中で鹿児島だけがズバ抜けて異質なのである。
 以前、鹿児島弁を使ったお笑いの企画を立てた時、私はそれにこんなキャッチコピーを添えたことがある。「九州は二つ。鹿児島とそれ以外」。そのくらい、まず言葉からして違うのである。九州以外の人にも、博多弁や長崎弁は聞いて意味を理解できるだろうが、鹿児島弁は絶対ムリである。ドラマなどで西郷どんが喋っているのは、視聴者のためにそれらしく創ったウソの鹿児島弁であって、実際の鹿児島弁でドラマを制作すると字幕が必要になる。もちろん、博多や長崎の人間にも鹿児島弁は聞きとれない。そして当然、言葉が違うということは、文化がそれだけ違うのである。
 もっとも、正確には九州は二つではなく三つである。「ばってん」系の方言を話す福岡・佐賀・長崎・熊本と、一県で一文化圏の鹿児島と、九州というよりむしろ瀬戸内である大分・宮崎の三つである。最後の大分・宮崎については、現在のところ私にはほとんど縁がない。
 しかし、私はこれから、沖縄を除く九州をファシズムの牙城にしようと企んでいるのである。獄中にあってはままならないが、私は今後しばらく、九州各地の風土や歴史について、もっとよく知る努力をしようと考えている。

 さて本題に入る。
 私が生まれたのは一九七〇年七月二六日である。どうでもいいが、獅子座のB型である。
 命名の由来は単純明快で、父・久恒と祖父・一男から一字ずつ拾ってくっつけたものである。
 名前からして祖父もおそらく長男であろうから、少なくとも曾祖父の代を起点とすれば外山の本家ということになる。私の本籍地は、鹿児島県姶良郡隼人町「住吉」となっているが、私の生まれた時点では外山家はそこから数百メートル離れた、同じ隼人町内の、見次とか川尻とか呼ばれる地区に住んでいた。
 隼人町は、鹿児島の南半分を西の薩摩半島、東の大隅半島に割る錦江湾のちょうどつけ根の部分に位置する、そこそこ開けた町である。すぐ東隣が国分市、錦江湾に沿って薩摩半島側へ三、四十キロ南下したところに鹿児島市がある。錦江湾を挟んで真南に桜島がデンとそびえている。桜島を「鹿児島の過剰な中心」と呼んだのはロラン・バルトではないが、この暑苦しい活火山と西郷どんとが、鹿児島人の二大アイデンティティであることは間違いない。隼人町の東北の方角には、霧島連峰がある。鹿児島はほぼどこでもそうだが、隼人町も、温泉地である。
 外山家がもともとどういう家柄なのか、明治以前に武士だったのか農民だったのか、私はよく知らない。いずれにせよ、それほど大層な名家ではない。母方の祖母は、「外山の家はブケンシャ(金持ち)だから」と事あるごとに口にしたが、それはあくまで比較の問題である。母方は、まぎれもない貧農階級だったのである。外山家はおそらく、武士としても下級武士、農家としても富農といえるほどではなくせいぜい中農といったところだろうと思われる。母方よりマシとはいえ、父方もべつだん大きな邸をかまえていたわけではないからである。
 私が生まれた時点では、祖母だけでなく祖父も健在であった。父は七人きょうだいの五番目だったが、上も下も父以外は全員女であったから、父が外山家の跡取りという立場にあった。先述のとおり、私はその父の長男として生まれたため、祖父母にやたらと大事にされた。
 私にとって不運だったのは、この祖父があまりにも早く死去したことである。
 曾祖父以前の外山家については先述のとおり私は知らないのだが、明治半ばに生まれた祖父が武士であったわけがないのは当然だが、かといって農民でもなかった。彼は、美術教師だったのである。
 必要に応じて「芸術家」を自称することもある私だが、これまで祖父が美術教師であったことを意識したことはなかった。今回これを書くにあたって、改めて、そういえば、と思い出したのである。
 祖父の享年は七十二歳であったから、「あまりにも早く死去」というのはその年齢のことではない。その時まだ私が四歳にすぎなかったことである。というのも、もう何年か、祖父が長生きしてくれれば、絵の手ほどきをしてもらえたのではないかと思うからである。
 私には、絵心がない。絵心というか、とにかくビジュアル的なセンスというものが完全に欠落している。この点で私はかなり損をしている気がしており、例えばビラやミニコミといったものは、デザインが悪いと内容まで見劣りしてしまうことがある。そもそも、いくらその内容が立派でも、デザインが悪いと、手にとってもらうことすらできなかったりもする。あるいは当然、ファッションについてもまるでわからないから、やはり同じように、ダサい格好をしていると、語っている思想までダサいものと感じさせてしまう。私のファッション・センスのなさは、私のこれまでの不運のかなり大きな一因であるとまで、私は考えている。
 もっともその点を今後どうするかについては、獄中であれこれ考えた結果、なんとか結論を得た。私はもはやファシストになったのである。とりあえず髪型はスキンヘッドにすればよい。服は、やはりミリタリー系がよいだろうかとも考えたが、それはそれでやはりそれなりのセンスを要するであろう。そこで、今後「とにかく黒いもんを着ておく」ことに決めた。ファシズムといえば黒である。ムソリーニのファシスト党の私兵も通称「黒シャツ隊」である。スキンヘッドで、とにかく全身を黒いもので覆っておけば、少なくともビジュアル的にダサくはならないだろう。これについては、私のみでなく、我がファシズムの旗のもとに結集する同志諸君にも呼びかける。ファシストは、ダサい格好をしてはならない。センスに自信のない者は、とりあえず頭を剃り、黒いものを着ておけ。
 話が大いに脇へそれたが今回の自伝は万事この調子でいく。なにしろ獄中にはワープロがないのだ。ワープロなしでは、きちんとした構成の文章は書けないアタマになってしまっていることを、今回獄中で思い知った次第だ。
 祖父は美術教師であったが、私に絵の手ほどきをする前に死んでしまったという話であった。後に詳述するように、私は「芸術家」としての活動歴もある。そういえばヒトラーもファシストになる以前は売れない画家だった。しかし私の「芸術」は絵画や映像など視覚芸術ではない。私の「芸術」は、ビジュアル・センスを必ずしも必要としない、つまり前衛的な、コンセプチュアル・アートのようなものである。

 さて一方、母方の実家である。
 先に述べたとおり、こちらは貧農である。
 正確には、少し違う。
 私の母は恵子で、旧姓は坪屋。母方の祖父は初、祖母は静江である。
 この、母方の実家の歴史については、私は父方についてより多くを知っている。私が中心となって作った雑誌のようなホームページの中の企画として、「偉大な革命家を生んだ女を生んだ女」と題して、私が祖母に直接、その人生についてインタビューしてみたことがあるからである。
 それによれば祖母・静江の旧姓は日高で、私が貧農だと述べたのは、正確には母方の坪屋家ではなくそのさらに母方の日高家のことである。坪屋家の方は、もともとどういう家柄であったかは知らないが、祖父・初の父・金次郎は、いくらか高い地位にある軍人だったそうである(註.のち間違いと判明。それは金次郎の兄弟の誰かのことであるらしい)。であるから祖母は、若いうちこそ貧しい農家の娘として苦労をしたらしいが、祖父と結婚してしばらくはあるていど楽な暮らしをしたようだ。しかし、曾祖父・金次郎が商売に手を出して大失敗をし、さらに祖父・初が第二次大戦で兵隊にとられ帰らぬ人となってから、再び祖母の極貧生活が始まる。ちなみに祖父は戦死ではなく、出征前に台湾の兵舎で風土病にかかって死んだ。祖母や母らの一家も、当時は台湾に移住していたようだ。
 戦争が終わり、台湾が日本ではなくなったため、祖母ら一家は、坪屋家・日高家の本来の地である鹿児島県姶良郡加治木町へ引き揚げてきた。加治木町は、父方の隼人町の、西隣りの町である。
 母には兄が二人いる。だからこの引き揚げの際の一家は、祖母とその三人の子供、ということになるはずだが、これに加えて、行き場のなくなってしまった金次郎氏まで、一緒に暮らすことになったのだという。金次郎氏はすでに老齢で働けず、そのため祖母一人が、三人の幼い子供と、亡夫の父までも支えていかねばならなかった。軍人恩給や戦没者遺族への手当などもあるにはあったが、それだけでは足りず、祖母は、血を吐きながら日雇いの土方仕事に出かけていったという。
 それでも母の二番目の兄は大学まで出してもらったというし、母も高校を出ている。一番上の兄はもともと変わり者で、中学を出るとすぐ、船乗りになるといって家を出ていった。事実、船乗りをしていた時期もあるというが、そのうち音信が途絶えはじめ、ついには消息不明になってしまった。祖母も母らも、とうに死んだものと考えていたが、二十年以上たって、神戸の路上で行き倒れ、病院にかつぎこまれた浮浪者として消息が知れた。祖母が駆けつけた時にはすでに息を引きとっていた。
 父と母とは見合い結婚である。父方の祖母・カノと、母とが同じ職場に務めていた縁らしい。

 ところで私の生まれた一九七〇年という時代について少し触れておきたい。
 一九七〇年は、多少の波はあったとはいえ、六〇年代をつうじて盛り上がりっぱなしだった新左翼学生運動が、後退期に入った年である。
 一般には、新左翼運動の決定的なターニング・ポイントは、七二年の連合赤軍事件だと考えられている。しかし、私は違うと思う。連赤は確かに重要だ。全共闘世代の良質な部分の多くが、連合赤軍の同志に対するリンチ殺人を、我がこととして深刻に受けとめ、運動の現場を離れた事実からもそのことは明らかだ。しかしその連赤よりも決定的な出来事が、七〇年七月七日に起きている。
 その出来事はふつう「華青闘告発」と呼ばれている。
 その日、東京で全国全共闘の野外集会がおこなわれることになっていた。ところが開会直前だか直後だか、華僑青年同盟だか共闘だかいう名称の、要は在日中国人の一派が、従来の日本の新左翼運動を徹底批判する声明を発表したのである。その内容はつまるところ、かつてアジアの国々を侵略した日本人なんかとは共闘できない、という宣言であった。この声明をめぐって会場は大混乱、もともとの議題などすべて吹き飛んでしまった。
 「全国全共闘」は事実上、当時の主要な新左翼党派の寄り合い所帯だったのだが、各派はこの日を境に数ヶ月間、この「華青闘告発」への対応に忙殺されることになった。そしてその結果、批判を全面的に受け入れ方針転換をした党派だけが生き残り、派内の議論がまとまらずそれができなかった党派は崩壊してしまった。信じられないかもしれないが、事実である。嘘だと思うなら、当時の状況に詳しい人に確かめてみるといい。
 「華青闘告発」以降、新左翼運動の世界では、「日本人であるということは、それだけで罪である」という、正気とは思えないテーゼが絶対的なものとなった。このテーゼは、他の課題にとりくむ運動にもすぐに拡大され、要するに「男であるということは、それだけで罪である」、「健常者であるということは、それだけで罪である」、「被差別部落に生まれなかったことは、それだけで罪である」……ということになった。原罪意識が強い者ほどラジカルだということになり、そうでない者は糾弾され、排除された。ラジカルな運動とは、第三世界の人民様、女性様、障害者様、被差別部落民様……への全面的服従、献身・奉仕と同義となり、この構図に疑問を呈する者は最も悪質な差別主義者であるとされた。
 私は本当のことを云っている。
 かくも愚劣な事態を引き起こした主要な要因として、当時新左翼一般に広く共有されていた、「自己否定」という全共闘運動のスローガンがあると私は思う。エリートとして、競争社会の中で他人を踏みつけにして生きてきた結果としてある現在の自分を否定するという意味で、どうせ東大全共闘あたりが云いだしたんだろう、まったく愚劣なスローガンである。こんなスローガンが流布してしまうこと自体が、醜悪なエリート意識の存在を証明しているといえる。もちろん言葉は一人歩きするから、この流行のスローガンにも、人によってさまざまの意味が込められただろうし、その中には必ずしも愚劣とはいえないものも含まれたろうが、現実には最も愚劣な解釈が、常に最も一般化する。つまり、「自己否定=滅私奉公」ということであり、左翼の世界で「公」とは「虐げられた人々」のことである。
 こうしてラジカルに自由と解放を追求する運動であった六〇年代までの新左翼運動が、その正反対のものへと変質した。回復不能な新左翼運動の倒錯の出発点となった「華青闘告発」事件のわずか二十日ほど後に、遠く辺境の地・鹿児島で私は生まれたことになる。

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2006年03月18日 20:54に投稿されたエントリーのページです。

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