学生運動入門

2013年6月 ブログ「我々少数派」にて公開


 

   1.学生運動とは

   2.学生運動の歴史

   3.実践アイデア集

 さんざん大風呂敷を広げたとおり、今まさに現役の学生であるみなさんが取り組まなければならない課題は重厚で巨大で深刻なものなのですが、深刻な問題に深刻に取り組むのは芸がないし、深刻な雰囲気に包まれた運動は疲れるばかりで長続きさせることすら困難です。課題は深刻であっても、運動そのものは軽やかで楽しげなものでなければなりません。
 ここからは、「私がもし現在二十歳前後の現役学生であれば何をやるだろう」と妄想して、思いついたことを思いつくままに列挙してみます。

 まず前提として、大学単位の発想は最初に放棄した方がよいと思います。とりあえずテーマは措いといて抽象的に例えるとして、「○○大学の学生運動」ではなく、「○○県の学生運動」「○○市の学生運動」などと地域単位の発想をした方がいいように思うのです。
 理由はいくつかありますが、そもそも現実問題として、ほとんどすべての大学に学生運動の影も形もない現段階において、一つの大学の学内でそれなりの数の仲間をいきなり集めるのは難しいだろうというミもフタもない理由が一つ。それから思想的なマジメな問題として、究極的には「自治会」的な発想に帰結する個別大学単位の運動論は、「六八年」以前の水準への後退をしか意味しないこと。それにネットが存在する現在、他大学の学生とつながることはかつてよりずっと容易です。

 私自身の昔話をしますと、八八年、私は十七歳でした。
 「ゆとり教育」以前の「管理教育」全盛期にそれと闘う決意を固め、日々「同志」を探し求めていたのですが、八〇年代後半はすでに大学の学生運動すら急速に規模を縮小している時期です。同世代の高校生の同志など簡単には見つかりません。それでもなんとか、(私は当時も今も福岡にいるのですが)同じように同志を探し求めてやはり一人で日々活動していた広島の高校生H君とやがて偶然に知り合うことができました。
 そこからの展開は急速でした。当時は反管理教育と並んで反原発の機運も盛り上がっていたのですが、全国各地の、原発をはじめさまざまの社会問題に取り組んでいる(大人たちの)グループに、「中高生の参加者はいませんか?」と問い合わせました。一人でもいると分かれば我々のミニコミ(今で云う「フリーペーパー」ですね。H君が学校の紙と印刷機を勝手に使って作りました)を送りつけ、「結集」を呼びかけました。
 八八年の暮れ、H君と二人で全国をヒッチハイク旅行し、発掘した「同志候補」たちを訪ね歩きました。八九年春、東京に集まって「合宿」しようということになり、北海道から沖縄まで、全国各地から八十余名の中高生がこれに参加しました。実際に会って話し込むことで本格的な仲間意識が芽生え、この「合宿」参加者のネットワークが以後数年間の私たちの活動基盤となりました。
 今と同じように、パッと周囲を見回しても自分と似たような問題意識を抱えているらしき同世代の姿は影も形もなく、さらに今とは違ってネットという便利な道具もなかったので、手間ひまをかけて仲間を探し、つながっていく以外になかったのです。

 今ならこれと同じようなことはもっと簡単にできるはずです。
 「反原発」でも「愛国」でも、自分と似たような問題意識を持つ学生をネットで見つけることは簡単すぎるほど簡単でしょう。自分の住む地域にも、ことによると自分と同じ大学に通う学生すら見つけることができるかもしれません。
 そしてもちろん重要なのは、実際に会って話すことです。同じ大学に通う人や、同じ地域に住む他大生と頻繁に会うことは容易でしょうが、せっかく学生なんだから、夏休みなどを利用して遠くの人にも会いに行くことをオススメします。ヒッチハイクでも(やり方は「ヒッチハイク・マニュアル」を参照)、原付でも、安上がりに旅をする方法はいろいろあります。未知の仲間を求めて旅をすることは、私自身の経験から云っても単純にテンションが上がるものだし、先方にとっても、遠くからわざわざ自分を訪ねてきてくれる人があるというのはちょっとしたイベントです。
 とにかくまずは実際に会って話すことですが、それだけで終わっては「運動」になりません。「反原発の学生グループを立ち上げよう」、「愛国学生のグループを立ち上げよう」という方向に話を進めるべきです。このハードルはそんなに高いものではないはずです。相手にも「反原発」なり「愛国」なりの問題意識は共有されているのですから、せいぜいは提案するあなたの側のキャラクターや「コミュ力」の問題です。ただし、少なくともこの段階で大雑把に「反原発」とか「愛国」とかいう以上の細かい方向性を打ち出してはうまく行きません。ゆるやかな、「原発を止めるために何ができるか一緒にいろいろ考える」「国のために何ができるのか一緒にいろいろ考える」ぐらいの趣旨でいいのです。
 メンバーは学生に限定することは最初に決めておいた方がいいでしょう。新規メンバーの勧誘に際して、その方が「怪しげ」な感じを与えないからです。よくよく考えれば相手も「同じ学生である」ということに警戒心を解くべき何の根拠もないのですが、現実問題としてそういう効果を持ちます。運動を展開していく過程で知り合う「学生でない人」とは、付き合う意味があると思えば個人的に付き合えばいい話です。
 グループ名は、あまり奇をてらわないことです。面白くしようとして痛々しいことになってしまう例をよく見かけます。痛々しいことになるぐらいなら、「反原発学生ネット」とか「憂国学生の会」とか、無味乾燥な直球ネーミングにした方がよっぽどマシですが、それもアンマリだと思うなら、私の提案としては、「仮にバンド名だったとしても違和感がない」という基準でアイデアを出し合ってはどうかと。
 グループを立ち上げてからも、もちろんさらにメンバーを増やす努力を続けなければなりません。ネットでの発掘も続けなければいけませんが、せっかくならリアル世界で仲間を探すべきでしょう。反原発デモに行っても右翼集会に行っても、ほんの少しは学生もいるはずです。見つけるたびに誘って、じわじわ拡大していけばいいでしょう。
 週一か隔週ぐらいで定期的に集まって、具体的な活動や、さらなるメンバー拡大の方法などを謀議しつつダベり合っていれば、自動的に盛り上がります。あなた自身がそれほどのアイデアマンではなかったとしても、地道に、なんとか最初の四、五人さえ集めることができれば、いろんなことを思いつく人が必ず混じっています。弁が立つ人、文章がうまい人、デザインのセンスがある人、笑いのセンスがある人、アイデアが豊富な人、事務能力のある人、交渉ごとがうまい人、勇敢な人、ひたすら誠実でマジメな人、いろいろいるでしょうから、地道にメンバーを増やしていくうちにグループ全体の自然なノリが生まれてくるでしょう。

 学生運動は(中核派や革マル派など既成組織がムリヤリに形だけ持続させているようなものは除いて)九〇年代初頭以来、全国的にほぼ壊滅していますが、それでもさすがに首都圏には近年にも多少それらしきものもないではありません。法政・早稲田・慶応・明治学院大・東洋大などのそれぞれ数人(一人から三人ぐらい?)のノンセクト学生たちがネットワークを形成して、「ゆとり全共闘」と自称したり、「黒ヘル全学連」と他称されたりしていました。ここ二、三年の話です。
 彼らの主だった部分とは面識もあるのですが、ハタから見ていてキビしいと感じたのは、彼らが「学生運動をやりましょう」的な呼びかけをしてしまうところです。「学生運動のない大学なんか面白くない、とにかく学生運動を再興させよう」という彼らの気持ちは分かるし結論的には私もまったく同じですが、現実に学生運動を再建していく順序として無理があります。多くの人は、仮に学生運動に参加するとしても、「学生運動に参加したい」から参加するのではなく、もっと素朴な、具体的な何らかの社会問題なり学内問題なりの解決に取り組みたいと思って、結果として学生運動に参加するだけです。いきなり「学生運動をやりましょう」と呼びかけられて「そうだ、そうしよう」と応じてくる学生は、いたとしても一人か二人の、しかも相当にこじれた人に決まっています。学生運動をそれなりの規模にしていくためには、「とても変わった人」ばかり数名集めても仕方がないのです。本気でやるなら具体的な問題を前面に出す必要があります。
 「鍋闘争」にしても同様です。鍋闘争とは、キャンパスの適当な場所(主に屋外)で勝手に鍋を始め、宴会のノリで社会や大学への不平不満をぶちまけ合うという戦術で、やはり「ゆとり全共闘」系の諸君が追求していましたが、もともとは九〇年代後半に法政大学で、のちの「素人の乱」代表の松本哉が始めたものです。松本君の鍋闘争は大成功を収め、九〇年代半ばにはさすがに急速に規模を縮小しつつあった法政大のノンセクト学生運動を一気に盛り返しました。「ゆとり全共闘」系の諸君もその「故事」に倣ったか、あるいは直接には参照していないとしても首都圏の学生運動の細い継承の糸によって松本君のスタイルが伝わっていたのだと思います。
 が、松本君の例はかなり特殊なものです。まず何よりも松本君の特殊なキャラクターに依存するところが大きかった運動で、ミもフタもないことを云うと、松本君は十年二十年に一人ぐらいの一種の“運動の天才”です。そのスタイルは誰もが簡単にマネできるようなものではありません。そもそも松本君は鍋闘争だけをやっていたのではありません。まずは『貧乏人新聞』という学内ミニコミをかなりのペースで刊行し、しかもそのいちいちが面白いのです。そして話術が巧みです。松本君もまずは二、三人の仲間でキャンパスに勝手にコタツを出して「鍋闘争」を始めますが、松本君は付近を通りかかる学生に「一緒に飲もう」と盛んに声をかけ、話術が巧みですから、つい釣られて一緒に飲み始めてしまう学生も続出します。飲んでダベってるうちに大学の悪口で盛り上がり、(話術が巧みですから)いつのまにかその気にさせられてしまいます。たまに大学当局が見かねて中止させに来るとむしろシメたもので、職員と松本君のやりとりがそのまま爆笑を誘う見世物になってしまいます。企画力も並外れています。当局をコケにするための無数の珍作戦を次々と案出し、しかもそれらはごくフツーの学生が悪ふざけでちょっとハメを外す感覚で参入できる水準のものがほとんどです。とにかく松本君は特殊な人で、その成功した数々の闘争も松本君ならではのもので、安易に外形だけマネると却って痛々しいことになります。
 その上、松本君の時代の法政大学の状況も特殊です。法政大学はもともと中核派の最大の拠点校であり、かつ中核派は自派に属さない(他党派に属していれば話は別ですが)ノンセクトの学生運動に比較的(あくまで「比較的」です)寛容な党派で、したがってノンセクト学生運動のメッカでもありました。当局が学生の諸々の活動に簡単に手を出せない状況を、中核派とノンセクトとが九〇年代後半にはまだギリギリ守り抜いており、今とは違うのです。
 先に述べたとおり、松本君が九〇年代後半に展開した「法政大学の貧乏くささを守る会」のさまざまの闘争の中で、鍋闘争は決してメインではなく、せいぜい云って「いくつかの主な活動のうちの一つ」でしかありません。もっと大きな枠組みの中の「部分」を構成するものにすぎないのです。「ゆとり全共闘」の諸君のように、鍋闘争をメインに置き、しかも松本君のような天才的な話術もなしにそれで仲間を集めようとしても無理です。実際、「ゆとり全共闘」の鍋闘争は、数人で始めるやいなやすぐに当局の職員に取り囲まれ一般学生と分断されて、淡々と中止させられてばかりです。
 しかしもちろん、学生運動は松本君のような天才タイプでなければ担えない、ということではありません。ただし天才でない多くの学生は、松本君のようなド派手な闘争スタイルをいきなり追求するのではなく、マジメに地道な活動を展開するべきなのです。

 現在の大学には、本当にまったく自由がありません。
 ビラまきやタテカン設置やアジ演説も、許可なしには不可能な大学がほとんどでしょうし、仮に許可を求めても許可されない大学がほとんどでさえあるかもしれません。これは本当は異常なことで、後進国に後進国呼ばわりされても仕方ないくらいのレベルです。
 しかしそれが現実なんで、ここから出発するしかありません。
 まずは公認サークルを立ち上げることをお薦めします。
 いくらなんでもサークル活動が認められていない大学はないでしょう、たぶん。公認サークルであれば、新歓期の活動や学園祭がらみの活動はかなり自由になりますし、とくにそういう時期でなくとも、例えば何かの企画に空き教室などを使わせてくれという要求も通りやすいはずです。活動費を支給されたり、部室も確保できるかもしれません。
 もちろん当局が、サークルを公認してくれという学生の要求を無条件に自動的に受け付けてくれるはずもありません。政治的思想的ニオイのするサークルならばなおさらです。
 が、学生運動をやるんなら当局に何らかの要求をする場面はいずれそのうち必ず、しかもちょくちょく出てくるでしょう。こちら側が提起したナンラカを当局に認めさせる、あるいは少なくとも交渉それ自体は成立させる、その練習台だと思えばいいんじゃないでしょうか。サークルを一つ公認させるというのは、交渉ごとの練習としてはかなり適切なハードル設定のような気がします
 というのも、現実に公認サークルはたくさん存在しているわけです。その存在は、必ず何らかの学則等によって規定されています。サークルを運営する上での権利や義務とか、新設や廃止の手続きなどについても必ず明文化されているはずです(もしあなたがその学則を知らないのであれば、まずその詳細を把握するところから始まることになります)。つまり一般論としてサークルを新設すること自体は原理的に不可能であるはずがありません。交渉の腕次第なのです。学則などの明文法を根拠としての交渉なのですから、法曹志望の学生なら(むろんそうでなくとも)将来の役にさえ立つかもしれません。
 順法闘争は闘争の基本です。学生運動に限らず反体制的な運動では、時にあえて違法な戦術にうって出る覚悟が必要な時もありますが、そういうのは「ここぞ」という時だけで充分です。普段から違法な、あるいはギリギリな、あるいはゲリラ的な戦術ばかり用いていては身が持ちませんし、簡単に弾圧されてもしまいます。まずは徹底的な順法闘争を心がけましょう。
 (順法闘争をナメてはいけません。その枠内でもアイデア次第でいろんなことができます。例えば私の東京都知事選だって完全な順法闘争です。そもそも適法でなければ立候補も認められないし、例の政見放送だって放映されないんですから。あまり知られていないだろうエピソードを紹介しておくと、選管が公費で大量配布する「選挙公報」に掲載された私の顔写真は、満面の笑みというか、ニッカーッと気持ちの悪い明らかにフザケた写真なのですが、当初この受理を選管は渋りました。が、私が「公職選挙法には服装等についての規定はありますが『表情』についてはとくに定められてませんよね」と確認を求めると、担当者はしばらく条文とニラメッコして、「確かに何もありませんねえ」と溜め息と共に受理しました。“有段者”の順法闘争とはこういうものです。とにかくまずは順法闘争を極めましょう)
 公認サークルを新規に立ち上げるにあたっては、たいていの(すべての?)大学では、おそらく顧問の存在が必要なはずです。それが教授や准教授に限るのか、非常勤講師とかでもいいのかは私は知りませんが、何か規則にあるでしょう。まずは訊いてみることです。ただしここでいきなり当局に訊きにいくのは危険です。初っ端から要らぬ警戒をされてしまうかもしれません。どうせ顧問は必要なんでしょうから、それを引き受けてくれそうな教官に訊きにいくべきです。
 大学の教員にはいろんな人がいます。思想的にも極右から極左まで何でもいます(極左の方が多いですが)。学生運動の経験者(しかもそのココロザシを持続させてるタイプ)だってちっとも珍しくはありません。あなたの立ち上げようとしているサークルが右翼的なものであれ左翼的なものであれ、それに理解を示してくれる大学教員は(あんまり規模の小さいところは難しいかもしれませんが)必ずいます。もしかしたらすでに頭の中に「あの先生なら」と具体的な顔が浮かんでいるかもしれません。もしアテがなければ、調べましょう。思想傾向が分かりやすいのは文系の教官ですから、その著作や論文に目を通してみましょう。
 「先公なんかみんな敵だ」「大人は分かってくれない」というのは中学生レベルの思考です。いや、ラジカル道を極めればそれもまたアリで、「六八年」の学生運動はむしろ「理解ある先生」をこそあえて徹底攻撃するという非常に画期的なものでもあったのですが、その水準の回復までにはまだまだ遠い現在です。今のあなたが仮に自称「極右」であれ「極左」であれ、客観的にあなた以上にどちらにも偏った大学教員はいくらでもいます(それが現在、学生運動を真に困難にしている高度な原因の一つでもあるのですが)。もし見つからないのであれば、探し方が足りないのだと思った方がたぶん正解です。見つかるまで探すのも修行のうちだと心得ましょう。
 基本的なことを確認しておくと、大学の「当局」と教員集団とは一体ではありません。当局と教授会が対立しているようなケースだってあるのです。単純な例で云えば、教員が労働組合に組織されていて、経営者的な立場である当局と紛争を抱えていることもフツーです。そして新規サークルの許認可権を持っているのは「当局」であり、あなたの交渉相手も「当局」であって、教授会等ではありません。さらにはそもそも教員集団も絶対に一枚岩ではありません。思想的な対立や学問的な対立は(もっとショボい人間関係的な対立も)あって当たり前です。いろんな人がいる中で、あなたの活動に協力してくれそうな人を探すのです。
 で、相談に乗ってくれたり、協力してくれたり、顧問を引き受けてくれたりする教官に行き当たったとしましょう。
 あとはまあ、その先生と一緒に作戦を練って話を進めていけばいいだけなんですが……。
 サークルの名称については、できるだけカマした方がいいと思います。つまり何かホンワカした癒し系な名称ではなく、直球で硬派で大仰な名称にした方がいいということです。「何々問題研究会」的な。
 アタリサワリのないサークルを装って公認を勝ちとったところで、いずれそのうちアタリサワリのある正体が露見すればその段階でモメるに決まっています。「設立趣旨について虚偽の説明があった」とか云われて、せっかく勝ちとった公認を取り消されるかもしれません。どうせモメるんなら、後でややこしいことになるより最初からアタリサワリの匂いをプンプンさせて、当局側もこれを公認するからには「覚悟」を決める、という流れにする方が結局アタリサワリがありません。
 「社会問題研究会」「原発問題研究会」「環境問題研究会」「格差社会研究会」「管理社会研究会」「ナショナリズム研究会」「アナキズム研究会」……。何でもいいですが、重要なのはあくまで客観性を装うことです。「ナショナリズム研究会」だからといってナショナリストの集まりだというわけではなく、「アナキズム研究会」だからといってアナキストの集まりだというわけではなく、「原発問題研究会」だからといって反原発派の集まりだというわけではない「かのように」、少なくとも公認を獲得する交渉の過程では、振る舞わなくてはいけません。
 公認サークルの地位を獲得できれば、学内での活動の自由の幅が断然広がります。部員勧誘も公然とできますし、学内で何かイベント的なことを企画するのもやりやすくなります。
 例えば新歓期でも学園祭でもない時期に何か企画したっていいわけです。空き教室を借りて、学外から誰か、事前に大々的に宣伝さえすれば多少はサークル外の学生たちも興味を持って当日ある程度は集まってくれそうな活動家を、私でも松本哉でも雨宮処凛でも坂口恭平でもチンポムでも山本太郎でも藤波心チャンでも首都圏反原発連合や「レイシストをしばき隊」の人でも「右からの脱原発」の人でも在特会の桜井誠会長でも誰でもいいですが、呼んで話を聞いたり質問攻めにしたりするイベントを企画し、それ自体は人寄せと割り切って、実際に寄ってきた新顔の学生を新しい仲間にする機会として利用すればいいのです。
 が、そういう企画をやるにしても、公認サークルでなければ、空き教室の使用も大々的な事前情宣活動もなかなか許可されないというのが後進国日本の、現在の嘆かわしい大学状況でしょう。
 先述のとおり、いくぶん政治的思想的ニオイのする何らかのサークルを当局に新規に公認させる交渉それ自体が、“学生運動の練習”として丁度よい難易度の例題的水準のように思うので、是非とも知恵を絞っての健闘を祈ります。

 公認サークルとしての活動であれ、非公認サークルのそれであれ、あるいは最初に提起したような学外のインカレ的なそれであれ、私が今現在の時点で学生ならば、そこに集う面々が左右混淆の状態になることを意識的に追求するだろうと思います。「左右対立なんてもう古くさい」というのは単に不勉強な人の決まり文句ですから、私はそういう意味で云っているのではありません。むしろ昨今、ちょっとしたきっかけである日突然左右どちらかの立場を選択し(当人がそのことに自覚的であるかどうかは別問題)、いったん選択してしまうと自分と同じ立場を選択した者たちだけで交友関係を形成し、逆の選択をした者たちとは、たまに単に罵倒し合う以外には一切の関係を持たないケースの方が多すぎるように感じているからです。
 右翼思想も左翼思想も、それなりのものにはそれなりの水準があります。どうも昨今、右派の立場を選んだ者は低水準の左派の言動のみを挙げつらってバカにして、まるで左派全体がその水準であるかに錯覚し、左派の立場を選んだ者も右派に対して同様で、真剣なやりとりがないものだから、結果として左右いずれの側も多くはくだらない水準に堕しています。最終的には左右いずれかの立場を選ぶとしても(そうでない立場が「現状肯定」以外にありうると思っている人はたぶん単に勉強が足りません)、あるいはすでにどちらかを選んでいたとしても、もっと議論の坩堝のような場に身を置いて、悩まなければいけません。もしあなたがすでに右翼なら、魅力的な左翼を探してください。もしあなたがすでに左翼なら、魅力的な右翼を探してください。まだどちらでもないなら、どちらにもアンテナを張ってください。
 私自身、最近もよくやってることですが、左右から一人ずつ(あるいはせいぜい二、三人ずつ同人数)コミュ力のある論客を招いて議論してもらうのは、それ自体がハタで聞いてるだけでも非常に刺激的な体験になります。学内でそういうイベントを企画して、観客として学生を集めてもいいかもしれません。

 左右混淆と云えば、これは「公認サークル」化させるのは難しいでしょうが、我ながら気に入っている学内活動のアイデアとして、「反米同好会」というのがあります。「国際交流サークル」です。とくに留学生の多い大学でオススメです。
 活動内容は単純明快、ちょくちょく集まってはアメリカの悪口で盛り上がるという、ただそれだけでいいのです。もちろん国籍不問で、現在のアメリカのありように批判的ならアメリカ人でも歓迎します。海外に、とくにヨーロッパ以外の国々に留学するようなアメリカ人の中には、アメリカが嫌いなアメリカ人や、嫌いとは云わないまでもどうもアメリカ的なノリが肌に合わないアメリカ人が一定(かなり)含まれているはずです。ましてアメリカ人以外の留学生の中の反米派の率はもっと高いでしょう。
 集まってダベって交流を深めるだけですから、大学当局にとっても(公認するわけにはいかないでしょうが)とくに実害はありません。
 サークル内の“公用語”は英語でも日本語でもかまいません。使用言語ではなく話す内容が重要なんですから。むしろさまざまの言語で部員募集のビラを学内に浸透させましょう。「オルタナティブ国際交流サークル反米同好会・部員募集・毎週何曜何時どこどこに集まってアメリカの悪口を云い合っています」ぐらいのフレーズを二十ヶ国語ぐらいで書き並べたようなビラでいいんじゃないでしょうか。
 すでに半ば示唆しているとおり、「反米」がテーマであれば自動的に左右混淆になります。国粋主義の右翼なら当然断固反米のはずだし、しょせんアメリカニズムにすぎない昨今のハンパなグローバリズムを、真にグローバリズムの名に値するグローバリズムの実現を目指す立場から批判する(左翼的インターナショナリズムとはそういうものであるはずです)マルチチュード派左翼もまあ反米的です。「反米」をシングル・イシュー(?)として、その根拠が国粋主義だろうがマルチチュード派グローバリズムだろうが古色蒼然たる国際共産主義だろうがイスラム原理主義だろうが中華思想だろうが、問わない。集まってダベるだけですから、思想信条がそれぞれ違っても何の問題もありません。
 とっても楽しい国際交流サークルになると思います。むやみに「国際交流」をしたがる学生は時々見かけますが、自動的に盛り上がるには適切なテーマが必要です。

 先述の「ゆとり全共闘」の界隈で、当人は面白くしようと良かれと思って奇をてらってるんでしょうがハタ目には痛々しいことになっている場面をよく見かけ、逆に「フツーの学生運動」というのも思いつきました。
 「フツーが一番。奇をてらうの一切禁止」を自分たちの作風にするのです。なんかコイツあえて面白くしようとしているな、とおぼしき振る舞いは厳しい批判の対象になる。身内だけの場であればともかく、とくに対外的な場でウケを狙うような言動は一切禁止される。
 そんなの面白いのか? と思われそうですが、これは高度に面白いはずです。要するに「フツー」を過剰に追求するのです。
 まず常にリクルート・スーツを着用。仲間内で互いに訓練してでも、相手の目を見てハキハキ喋るようにする。ちょっとした集まりでも、それが公的な場であれば、まず司会者の時候の挨拶から入る(退屈で無内容でアリガチなフレーズ満載の、型にハマったものであればあるほどよい)。二次会の酒の席などで「あれは堂々たるフツーっぷりで素晴らしかった」と笑い合うのはいいですが(無礼講ですから!)、その場ではたとえ吹き出しそうになっても頑張って堪える。
 基本、いわゆる「意識の高い(問題意識はない)学生」の振る舞いをパロディ的に追求するわけです。そのテの振る舞いをマジでやるのはバカバカしくてやってられないでしょうが、ギャグとしてわざとやることは、そういう振る舞いに反感を持っている健全な学生諸君にはむしろたやすいはずです。「(マジで)意識の高い学生」以上に「意識の高い学生」っぽいことを過剰にやる。
 新歓期のサークル説明会的な場であれ、当局との何らかの交渉の場であれ、パワー・ポイントを駆使してプレゼンテーション。当局との交渉がどんなに難航していようとも、時に対決状況にある場合にも、盆暮れには学長や学生課職員へのお歳暮を欠かしてはいけません。むろん接待も可です。
 学習会では、『想像の共同体』だの『帝国とマルチチュード』だの、何の役にも立たない本を読むべきではありません。そんな趣味本は読みたい人がヒマな時に個人的に読めばいい。「フツーの学生運動」サークルが組織的に取り組むべき読書会のテキストは、断固としてビジネス書です。交渉術などを説いた良質のビジネス書が(よく知りませんがたぶんきっと)いくらでもあるはずです。実践に直結する学習会でなければなりません。
 そしてあわよくば、ミイラ取りがミイラになって、「大学当局に数々の無理難題を呑ませてきた私の経験は、同業他社との熾烈な競争や、不当きわまる行政指導の圧力に日々さらされている御社のために、必ずや役立てることができると確信しており」云々と、面接官の目を見てハキハキとアピールしてしまうことにもなりかねません。そうなれば新歓でも「ウチのサークルは就職に有利で……」とますますフツーっぽい勧誘が可能になります。
 とまあ、私は大学生をやったことも就職したこともないフリーマンなのでよく知りませんが、いわゆる「意識の高い学生」にアリガチな振る舞いとか言葉遣いとかはきっといろいろあって、そういうことにはむしろ私より皆さんの方がずっと詳しいはずです。ちゃんと奇をてらうには相当のセンスが要求されますが、「意識の高い学生」の過剰なモノマネをすることは、彼らへの悪意さえあれば、無理して奇をてらうよりずっと簡単なのではないでしょうか。フツーに振る舞えば振る舞うほど笑いがとれる(ただし公の場では仲間たちはうつむいて顔を真っ赤にして笑いを堪えている)という、画期的なアイデアだと思うのですが。

 「フツー」と云えば、「消費者運動としての学生運動」というのも思いつきました。
 詳しくはスガ秀実氏のムズカシイ本(『小ブル急進主義批評宣言』、『JUNKの逆襲』など)を読めれば的確に分析されていますが、昨今の多くの大学は「学生消費者主義」に陥っています。要するに学生を「お客様」として扱っているのです。「共に真理を追究する学問の若い仲間(あるいはその候補者)」としてではなく。
 とくに人文系の学問を単に机上のそれとして済ますのではなく、その成果を現実に反映させようとすればさまざまの波風を立てることになり、当然学生運動も盛り上がったりしてキャンパスはカオスと化しますが、それは学生が単に「教育サービスを一方的に受動的にのみ享受するお客様」なのであれば学生にとっても迷惑な話であるはずで、清潔で居心地の良い学習環境を保障することも教育サービス業者としての大学の責務の一つですから、「学生消費者主義」に陥った昨今の多くの大学にとって、学生運動などあってはならないものなのです。
 この云わば“業界の趨勢”を覆すのは大変なことですが、考えようによってはこれを逆手にとることも可能です。
 入学案内パンフには、もはや単なる教育サービス産業にすぎないくせして、さまざまの美辞麗句が並んでいるはずです。あるいはどこの大学にも「建学の精神」的な、国で云えば憲法にあたるような、明文化された公式アピールがあるはずですが、それらも歯の浮くような美辞麗句で彩られているはずです。
 それらはつまり大学の「広告」ですが、賢い消費者は「誇大広告」の類を野放しにさせておいてはなりません。
 これは要するに何かやって当局に弾圧された場合の、「処分撤回闘争」的な局面での闘い方のアイデアなんですが、とくに「建学の精神」的な文章では昨今の「学生消費者主義」の風潮が堂々と正当化されているはずもなく、「大学は真理探究の場」的な当局自身が信じてもいないような絵空事が書き並べてあるはずで、学生運動の存在を正当化しうるような(「自主性」だの「創造性」だのといった)フレーズもいくらでも揚げ足とり的に引っぱり放題でしょう。
 学生運動的なことを理由に当局の弾圧を受けた場合に、ヒネリのないところでまず云えば「JAROに訴える」みたいなことですが、もちろんそんなことが処分等を撤回させるに際して有効であるわけがないにしろ、当局側が陥っている消費者主義を逆用して消費者運動としての学生運動の可能性を追求するというのは、掘り続ければ何か出てくる鉱脈のような気がするのです。
 まあこれは、本当に取っかかり部分だけのアイデアです。

 DIY的な消費者運動としての学生運動のアイデアなら、美大限定ですが、一つあります。
 例えば使い勝手のいい自主管理の学生会館やサークル棟を、自分たちの手で勝手に建設するのです。「作品」として。
 最近は都心回帰の傾向もあるとか聞きますが、一時期、もとは都心にあった大学が次々と郊外、というよりド田舎に移転してゆく現象がありました。あれも知ってる人は知ってるとおり学生運動弾圧がそもそもの目的で、学生をさまざまの社会運動を含む外部環境から隔離し、かつ移転に際して一から建設する大学施設をあらかじめ学生運動に不向きな設計にしておくなどの狙いがあります。陰謀がまんまと成功して学生運動を一掃できたので、そろそろ都心に戻ってもいいという声も上がり始めたのかもしれません。
 ド田舎に建設された“学園都市”には大学以外に何もないのが普通です。「学生街」のようなものもあるわけがない。それは寂しいし「大学らしくない」ので、いっそ「学生街」そのものを学内に学生たちが勝手に建設して、飲み屋や雀荘を開業してしまえばいい。そういうことを全部、「作品制作」と強弁して進めていく。
 もともとサークル棟や学館がどうのこうのと、「本分は勉強」であるはずの学生の、余暇を充実させるためのワガママな要求にすぎません。そんなことで当局の手をわずらわすのは申し訳ない。予算も出してもらわなくていい。自分たちで勝手に作りますから……と、まずは建築科の仲間に素晴らしい新サークル棟や「学生街」を設計してもらいましょう。
 もちろん当局がそんなことを許すはずがないです。
 が、そういうことを正当化する芸術理論はいくらでもヒネリ出せるし、べつにわざわざオリジナルに創出せずとも、既成の芸術理論のツギハギでどうにでもなります。学生側がそういうふうに自らの行為を正当化した時、学問的には学生側を擁護せざるをえなくなる教授もいるはずだし、もし本来は擁護すべき芸術流派(ある種の現代美術)に与しているはずの教授がそうしなかったら、その言動不一致を徹底追及すべきです。
 最終的にそんなもん建設できなくてもいいし、(少なくとも現在の力関係では)そもそも建設できるはずもなない。とりあえず建設しようという姿勢を見せて、ポーズ程度に緒についてみせればいいだけです。それで大学全体を巻き込んだ芸術論争を巻き起こせる。多少なりとも“実体”が欲しければ、本格的な建築物ではなく、プレハブや、ちょっと大きめの犬小屋みたいなものでもいいから、既存のサークル棟の脇にでも瞬時に組み立てて、完成するなりもう使い始めてしまえばいい。それを撤去すべきか、「作品」として認めるべきか、もっともらしい議論のタネを、こちら側主導で次々と提供していけばいい。
 さらに云えば芸大では同様の手法であらゆることが可能です。ビラまきも演説も「パフォーマンス・アート」だと強弁して展開できます。キャンパスじゅうを落書きだらけにしたって、いわゆるグラフィティ・アートの有名な例はいくらでもあるのだから、どうにでも正当化できます。「ゆとり全共闘」ではなかなかうまくいかなかった“鍋闘争”も、キャンパスに勝手にコタツを出して鍋をやってる脇に「鍋を囲む人々 何某・作」とでもテキトーに一枚プレートを出しておけば、もう立派に「作品」です。
 学生がそういうことをやったとして、これをアタマから否定する現代美術系の教授がいたとすれば、それはもう大学で教える資格のないアホ教授ですよ。解雇を要求してもいいレベルです。

 これを応用すれば、まあモノホンの芸大よりは難しい闘争になりますが、既成の美術部とは別個に「現代美術部」とか「前衛美術部」とかを立ち上げてそういうことをやる手もあります。それを否定してはならないはずの学問的立場の人文系教授はたいていの大学にいるはずです。

 アホ教授の解雇要求で思い出しましたが、右翼学生運動路線を追求してみたい学生に提案したいのが「レッドパージ闘争」。
 そもそも第二次大戦後すぐに取り組まれた、冷戦期の左翼学生運動草創期の運動テーマに「学園民主化・戦犯教授追放」というのがあります。云うまでもなく、積極的に戦時協力して「教え子を戦場に送る」役割を嬉々として担っていた軍国教授どもを大学から追放せよという運動です。個々にはいろいろあったでしょうが、現に百パー負け戦の戦場へと送られたり送られそうになったりを実体験した当時の学生たちの気持ちはよく分かります。
 「冷戦という第三次大戦」の戦犯教授たちにもそれと同じ目に遭ってもらわなければならないのではないでしょうか? 「スターリニズム加担責任」の追及です。特に、一番見えやすいところで、金正日がついに“自白”するまで「北朝鮮が日本人拉致などやっているはずがない」と公言していた大学教授はいくらでもいます。中には政治学の教授すらいるはずです。そういう連中には大学から出て行ってもらうべきではないでしょうか?
 これはもう、百パー正義の闘争です。アカ教授どもの過去の言動を徹底的に調べ上げて、少なくとも特に悪質と思われるケースでは、「学園追放」を要求すべきです。左翼学生も昔やったことですから、左翼に文句を云われる筋合いもありません。
 これは多少やり過ぎたとしても、そもそも正義は百パーこちら側にありますし、日本政府の立場を考えてもなかなか弾圧しにくいと思いますよ。

 単に私が現在ファシズムの立場に身を置いているからというだけではなしに、もちろんあくまで左翼路線を追求したいという人はそうすればいいとは思いますが、現状では右翼学生運動の方により大きな可能性があると私は考えています。
 まず左翼的な学生運動の可能性については、すでに「六八年」の一連の過程でその限界まで追求されてしまっています。仮にその「先」があるとしても、それを射程に入れるためにまずは「六八年」の水準にまで運動規模やせめて質を回復しなければなりません。
 これに対して、右翼的な学生運動の可能性はまだほとんど追求されていません。ほぼ未知の領域です。これまで右翼の学生運動が存在しなかったわけではありませんが、六〇年代においてさえ、そのほとんどは単に左翼学生運動の猛威に対抗するという受け身的なものでしかありませんでした。右翼学生が、右翼思想をバックボーンに、自ら主体的に、大学当局にさまざまの要求を突きつけるという運動はこれまで聞いたことがありません(あるいは皆無なのかもしれません)。しかし、とくにいわゆる「新自由主義」的な理念を背景に推進されている昨今の大学システム改変の試みやその成果としての大学の現状に否を突きつけるのは、右翼的な立場からでも可能だし、むしろ容易でさえあるのではないでしょうか。
 また、せっかく学問の現場に身を置く学生が主体となる運動なのですから、既成のアカデミズムに対して異を唱えているような側面も“ないものねだり”したいのですが、左翼学生運動の頂点である「六八年」に淵源するポストモダン論やポスト・コロニアリズム、多文化主義などが猖獗をきわめる現在のアカデミズム状況で、さらに「左」の立場からそれに異を唱えることはまず不可能で(それより「左」はたぶんありませんし)、本当に“ないものねだり”になってしまいます。
 しかし右翼学生運動にならその可能性もあるのです。まず何よりアカデミズムの世界では今も昔も左派が主流派です。層も厚く、穏健左派からそこらへんのカゲキハよりずっと過激な極左教授まで、アカデミズムという囲いの中ではそこらじゅうにいます。これに対して右派のアカデミシャンというのは、単なる保守派ならやはり掃いて捨てるほどいるとしても、極右となると、もちろんいないわけではありませんが極左に比べてぐっと数は減り、どこの大学にも必ずいるというほどではありません。つまり左翼的にちょっと過激派ぶってみたところで、たいていの大学にはもっと過激な極左のセンセイが必ずいて、万が一本気で彼らに論争を吹っかけてしまったら逆にグウの音も出ないぐらいにやり込められてしまいますが、右翼の立場に身をおけばそういう事態は相対的には避けられます。さまざまのポストモダン左翼言説が猖獗をきわめるアカデミズムの現状に対して、比較的簡単に否定的なポジションを獲得することができます。
 論理などいかようにも捏造できますから、あなたが大学の現状に関して抱いている不平不満を右翼的に(“憂国”っぽく)正当化することはさほど難しくないはずですし、その立場から大学当局者や現在の大学システム擁護者を「売国奴」「非国民」と罵倒することも容易でしょう。長い歴史の中で、左翼的な学生運動に対しては説得の論理も弾圧の手法ももはや体得しつくしているはずの大学当局の、虚を突くような右翼学生運動、オススメです。

 最後に、直接に私自身の利益(?)にも結びつくようなアイデアを提示しましょう。
 それは、私を大学に呼べというものです。
 「外山恒一」の知名度は、むろん〇七年の都知事選直後に比べればかなり落ちてはいるでしょうが、現在でもそこそこ維持されています。今の学生でも、十人か二十人に一人は私のことを知っていると思われます。もしかしたら、私と違ってここ数年さまざまのメディアに露出するようになった雨宮処凛や松本哉よりも、単に認知度だけで云えば今だに私の方がまさっているかもしれません。もちろんそれは私の思想や行動へのマジメな興味を伴うものではなく、「ニコ動とかでよくネタにされてる変なオッサン」ぐらいのものであるとしてもです。
 学外から誰かを呼んでイベントをやる際に、まずこの「知名度」の問題はかなり重要でしょうが、私の場合はさらに、また引き合いに出しますが雨宮処凛や松本哉とは違って、認知度が特定の層に偏っていない強みがあります。松本哉や雨宮処凛を知っている学生は、もともといくらか政治的・思想的・運動的な方面に興味関心を抱いている学生だと思われますが、私の場合はそうではなく、むしろ非政治的なミーハー層が多い。にもかかわらず、さらに云えば私は松本哉や雨宮処凛と違って、実はかなり正統派の人文系インテリですから、大学という場にふさわしい、多少は学問的の匂いのする議論にも対応できます。これはもう、呼ぶしかありません。
 私を大学に呼んだとして、とりあえず興味本位・物見遊山で話を聞きに集まってくるのは、政治的・思想的な問題意識の有無はさておき、少なくともヘンなもの、危なっかしいものに興味をそそられるアンテナは持ち合わせている学生たちでしょう。要するにみなさんは、そういう学生たちをおびき寄せるエサとして私を利用してくれればいいのです。私は学内に一時的に数時間だけ闖入するにすぎませんが、その場はとりあえず面白おかしく“運動”バナシをやって盛り上げます。そこで生じた熱を維持し、つまり集まった学生たちを学内の何らかの“運動”の仲間としてイベント後もつなぎ止めていくのは、ひとえにみなさんの側の努力にかかっていますが、私がそのきっかけとして寄与することはできると思います。
 ちなみに以下の条件で、私を大学に呼ぶのにとくに謝礼等は要りません。
 私の“講演”は、冒頭に一、二本(例の「政見放送」と他に何か一つ)動画の上映をした後は、最初から最後まで来場者からの質問に答えるという“質疑応答”スタイルです(「京大熊野寮講演会」動画参照。「外山恒一、熊野寮」で検索すると出てきます)。司会役の学生を置いてもらってもかまいませんが、他にゲストは不要です(他にゲストを呼んで対談やシンポジウムのような形態としたい場合は、その人選に私が関与しないかぎり交通費と謝礼をお願いします)。
 私は毎年、何ヶ月か全国各地を放浪しています。その期間に合わせて呼ぶのであれば、交通費も不要です。私が放浪するのはだいたい六月から七月にかけての時期ですが、春休みぐらいの時点で日程を決めて予約(?)してもらえれば、逆に私の側がそれに合わせて全国放浪の日程を組むこともできます。ただ、呼ぶからには少なくとも一ヶ月前ぐらいの時点から、学内できちんと告知活動をしてもらわなければいけません。事前情宣をきっちりやってくれることを前提に、無料で全国各地の大学に出張します。
 全国放浪をしている以外の時期に呼んでくれてもかまいませんが、その場合は交通費のみ出してください。飛行機は怖いんで、新幹線でお願いします。私は福岡市在住なので、博多駅からの往復交通費となります。
 またこれらは九州以外の大学についてのお話です。九州内の大学に私を呼ぶ場合には、逆にこの全国放浪以外の時期にしてください。沖縄を除き、九州内の大学になら(むろん事前情宣をちゃんとやってもらう前提で)常に交通費ナシで出張します。
 また私が無料で(全国放浪期以外は交通費のみで)行くのは、学生が学内でやるイベントに呼ばれた場合だけです。最初に述べたように、学生運動の再建こそ現在の最も枢要な課題だと私が考えており、それに寄与できるのであればそれ自体が私の利益であるからです。九州外では、学生以外の主催によるイベントや、学生が主催するとしても学外でやるイベントには、無料では行きません。
 もちろん、私を大学に呼ぶことにはそれなりのハードルがあるでしょう。事前情宣をちゃんとやってもらうのが条件、ということは、それが公然イベントでなければならないということです。つまり、私を呼んで学内でイベントをやることを当局に容認させなければなりません。
 学生が勝手に使用できるスペースがあり、かつそこでやるイベントの告知(ビラの掲示やタテ看の設置など)まで自由にやれる大学など、現在ほとんどないはずです。したがってまず会場を確保するために当局と交渉する必要があるでしょう。しかも私は、大手メディアにもたびたび登場する雨宮処凛や松本哉と違って、あらゆる見地から見てひたすら怪しい人間ですから、そんなのを学外から呼んでイベントをやることに当局が難色を示すことは大いに予測できます。活動家としてのあなたの手腕が問われるところです。会場を確保できれば、多くの場合はその時点で当局に容認されたことになるでしょうから、当局が許容する範囲で、学内の掲示板などへのビラの掲示などは可能になると思いますが。
 正攻法で難しい場合には、前にも書いたように誰か教授を味方につけることでしょう。教授に会場を確保してもらい、その教授の講義で受講者にビラを配布させてもらうことぐらいはできるかもしれません。また会場確保に動いてくれた教授以外にも、少なくとも理解を示してくれる教授を他に幾人か見つけて、その人たちの講義でもビラを配布させてもらいます。
 あるいは、通常のサークル活動には多少の自由が認められている大学であれば、自分や友人が所属するサークルの名義でイベントを主催し、会場を確保することも可能かもしれません。サークル棟の中に会議室や練習室などの大部屋があり、そこを使用するぶんには必ずしも当局の公認を必要としない場合もあるでしょう。事前情宣は、上記の例と同じように、幾人かの教授を味方につけてのゲリラ的なビラ配布などになるでしょうが。
 ともかく、本来は学生が学外から誰かを呼んでイベントを開催するという程度のことが自由にやれない現在の大学状況そのものがメチャクチャなのです。六〇年代どころか、八〇年代でさえそんな大学はありませんでした。……と嘆いてるだけでは始まらないので、この異常な大学状況を前提として、地道に突破口を開いていくしかありません。実現できるかどうかはともかく、「外山恒一を大学に呼ぶ」つもりでいろいろと試行錯誤すること自体が活動家としての経験値を上げていくことになるでしょう。これまでのところ、学園祭関連企画として以外でこれに成功したのは京都大学と法政大学だけで、いずれもかなり特殊なケースです(いずれも全共闘以来の学生運動がまだ存在しているか、最近まで存在していた大学で、学生自治がおこなわれている京大熊野寮での「外山恒一講演会」の場合には当局との交渉など経てさえいないでしょう)。例えば新潟大学や北海道大学では当局の承認を得られず、学内での開催は実現しませんでした。当局公認ではないゲリラ的な手法であったとしても、もし(事前情宣つきで)呼ぶことができれば、それだけであなたはかなり優秀な活動家だという証明になりそうなくらいです。
 (後註.その後、2014年の同志社大で170名以上、2018年の北大で130名以上、同年の早大で270名以上を結集して「外山恒一トークライブ」的な学内イベントが開催されている。イベントを当局にとにかく公認させ、学内で1ヶ月、徹底的に“外山恒一が来る!”と宣伝して回れば、あの都知事選から10年ほど経とうがそれぐらいは集まるのだ)

 私はまあ、自分でわざわざ云うまでもなく、それなりに豊かな発想を持つ活動家ではあるだろうことは、これを読んでいるみなさんも認めるにヤブサカではないでしょうが、ひとたび“運動”の世界に足を踏み入れれば私と同等かそれ以上にその種の才能を発揮し始める人も潜在的にはけっこう存在しているに違いないと私は思っています。私や松本哉は、活動家になる人間がそもそも少ない世代の中で突出しているにすぎず(もちろんそれはそれで我ながら偉大なことです)、分母が大きければ我々程度の“アイデアマン”はもっとたくさん出てくるでしょう。
 したがって今回私が提示したようないくつかのアイデアは、本当にそれなりの規模で学生運動が復活した時には「たいしたことねーな」と一笑に付されるかもしれない恐怖におびえながら期待しつつ、この「学生運動入門」を終わります。