1.学生運動とは
どうすれば社会を変えられるのでしょうか?
いろんなことを云う人がいるでしょうが、答えはハッキリしています。
まずは学生運動が復活しないことには何も始まらないのです。
学生運動の復活、ということを抜きに社会変革の構想を語る人がいたとすれば(実際、私とあとは文芸批評家のスガ秀実氏を除いては、そんな人たちばかりなのですが)、その人は何も分かっていないので、マジメに取り合う必要もありません。
「学生運動」という言葉は、多少は広い意味にとっていただいて結構です。
その主体は、若くて、ヒマがあって、かつ一定以上の知性を持つ人たちです。「若い知的なヒマ人たち」、こういう層が社会変革の情熱に燃えて盛んに行動した時にのみ、社会は本当に変わります。
若くてヒマで知的であれば、べつに「学生」でなくてもいいわけですが、現実問題、それは「層」としては「学生」以外に存在しにくいことは云うまでもありません。歴史的には、例えば日本で云えば「幕末の志士」たちもそういう「若くてヒマで知的」な存在でしたが、現代においてはやはり「学生」ということになるでしょう。
諸外国でも同様です。近代以前には貴族(日本の武士階級に当たります)のうちの若い不満分子たちが、近代に入ってからは学生が社会変革の主役、少なくとも先駆けになってきたことは、万国共通です。
六〇年代末(象徴的には六八年)に世界中の学生たちが反乱を起こしました。西側(先進資本主義国)でも東側(共産圏)でも南側(発展途上国)でも、それは爆発的に盛り上がりました。それらは一過性のもので結局は何も変わらなかったかのように、大多数のモノの分かってない人たちは云いますが、ダマされてはいけません。六八年の学生運動は世界を変えました。それは、いわゆる「試合に負けて勝負に勝った」ような勝ち方だったので、試合結果しか目に入らない単純な人たちが負けた負けたと云っているだけです。このことは日本でも同じです。
六〇年代末の学生運動が実は勝利していた(ちなみにこのことをはっきりと指摘しているのも私とスガ秀実氏だけです)というのはどういう意味なのか、それはどうせ後で詳しくお話しすることになるでしょうから、ここではとりあえず措いておきます。
とにかく、学生運動(若くて知的なヒマな人たちの運動)がまずは復活しないことには、社会変革はその端緒すら拓かれません。
これを抜きに夢みたいなことを云う人たちというのは、学生運動なんか復活するわけがないと思い込んでいて、であれば社会変革など不可能なのに、そこをなんとか学生運動が復活する以外の道筋で社会変革の構想を描けないものかと、そもそも無理なことを無理矢理に追求しているだけです。そうでないケースはありません。みんな、もっともらしいことを云っているでしょうが、前提が間違っているのですから、展開も結論も必ず間違いです。
学生運動の復活なしに社会変革など始まらないという単純明快な真実を堂々と主張する人が私(とスガ氏)以外にほとんどいないことには、もちろん理由があります。
第一には、学生運動がほぼ壊滅しているという日本の現状があります。こんな事態は、北朝鮮などの特殊すぎる例外を除いて諸外国では見られないものだし、近代日本においても初めてのことです(暗黒時代のように云われている昭和十年代の日本においてさえ、若い知的な軍人たちによる革命運動などがそれなりの規模で存在したのです)。そんな現状を見て、ほとんどの人が日本にはもう学生運動が復活するようなことはないと諦めきっているのです。
第二に、その極めて珍しい「学生運動のほぼ完全な消滅」という事態が日本に生じた時期に関する誤解が、社会学や現代史の研究者のような人たちまで含めて、広く共有されてしまっています。日本の学生運動がほぼ消滅したのは実は九〇年代の初頭なのですが、ほとんどの人が、それが七〇年代のうちに消滅したかに誤解しているのです(「七二年の連合赤軍事件を境に学生運動は急速に衰退し」という決まり文句を読んだり聞いたりした人も多いでしょう)。日本に学生運動がほとんど存在しないのは本当はここ二十年ほどのことにすぎないと私は知っていますが、私以外のほとんどの人は、それはもう三十年も四十年もずっとそうなのだと思い込んでいるのです。
さらに云えば、学生運動がほぼ壊滅した九〇年代以降も、必ずしも学生とは限らない「若い知的なヒマ人たち」が社会変革を目指す運動は、実はそれなりの規模で、現在に至るまで途切れることなくずっと継続されています。そのことを知らない人(要するに私以外のほとんどの人)は、例えば3・11以降、首都圏の反原発運動の中心の一つとなっている「素人の乱」を3・11以降に初めて知って、「どこからこんなスゴイ若者たちが出てきたのだ」と驚きますが、私は本当の歴史を知っているので少しも驚きません(したがって「素人の乱」に驚いて今さら飛びついているような無知蒙昧な「知識人」たちを信用しないことです)。
まとめると、私は、狭義の「学生運動」が九〇年代に入るあたりまでずっと続いていたことを知っているし、「広義の学生運動」つまり必ずしも学生ではないが「知的でヒマな若者たち」による社会変革の運動がその後もずっと続いていることを知っているので、学生運動が本格的に復活することを当然ありうることとして自然に想定できますが、私以外のほとんどの人たちは、学生運動はもうここ三、四十年ナカッタと思い込んでいるので、ナイことを前提にものを考える癖がついてしまっており、結果として歴史認識も現状分析も将来の見通しもすべて誤るのです。
私以外に正しいことを云う人がほとんどいないというのは、考えようによっては、みなさんは私の云うことだけをとりあえず聞いていればいいのでラクです(何度も云うようにスガ秀実氏も正しいことを云っていますが、スガ氏の文章はほとんどの人にとっておそらく難解すぎます)。
さて、学生運動と云ってもピンとこない、という人がおそらく学生を含む若い世代の大多数を占めていることと思います。狭義の学生運動は存在せず、広義の学生運動は「学生運動」とは認識されない形で存在してきたこの二十年ほどの間に、自己形成したどころか生まれてきたぐらいの世代なのですから仕方がありません。
しかしそんなに難しく考える必要はないのです。学生運動とは、同語反復のようになりますが、「学生がやる運動」という意味でしかありません。
もちろん身の回りの状況に対する不平不満が前提になります。その不平不満は、いわゆる「天下国家」的な、原発がどうの戦争がどうのTPPがどうの支那朝鮮の脅威がどうのグローバル資本主義がどうの、ということでもいいし、逆に「半径数メートル」的な、就職不安だとかモテないとか大学生活が面白くないとか、あるいは抽象的で実存的な悩みとかでもいいのです。とにかく自分を取り囲む状況に不平不満や焦りや苛立ちや不安があることが前提ですが、大事なのはその先で、それら諸々に「運動」的に取り組むのが要するに学生運動です。運動的に、というのは、自分一人の個人的な問題意識として抱えるのではなくて、その問題意識を他人と共有して、協力して解決していく、少なくともそうすることを目指すということです。
他人と問題意識を共有するためには、当初は誰でも漠然としたものとして抱えているはずの不平不満や焦りや苛立ちや不安を、言葉にしなくてはなりません。それも感情的・感覚的な言葉ではなく、要するに「理屈」として提示しなくてはなりません。感情的・感覚的な言葉はセンスの合う人としか共有できませんが、理論的な言葉はセンスの違いを超えて流通しうるからです。運動というのは、できるかぎり大勢の人間(大多数あるいは過半数という意味ではありません)を巻き込んでいかなくては盛り上がらないのだから、問題意識を理論化することは絶対に必要なのです。
運動の担い手が、単に若くてヒマなだけではなく、プラス知的でなければならないのも、運動には理屈が必要だからです。
といっても、これまたそう難しいことではありません。とくに学生にとっては。
というのも、小中高の「勉強」の延長で、何ら自発的な必要性も持ち合わせずに、大学で教えられることをただ漫然と丸暗記的に「勉強」しているだけでは気づかないことですが、とくに人文系の諸学問は、実はかなりの部分が社会変革のための理論、時には革命理論でさえあります。学生は、大学に通ってたまに授業に出るだけで、自動的にそれら社会変革の理論、革命理論の少なくとも片鱗に触れることができるのですから、それらを流用すれば、普通の学生が思い抱く程度のありふれた問題意識は(もちろん世界中の優秀な頭脳の持ち主たちが競っていろんな学問をやっているのですから、かなり特殊な問題意識であってさえ)簡単に「革命理論」化することが可能です。
実は、九〇年代以降の「学生ではない若者たち」による社会変革運動の不断の歴史を熟知している私が、しかしやはり「学生運動」が必要だと考える理由もこのあたりにあります。学問に身近に接していない若者たちの運動には知的な側面で限界があって、数としては時に盛り上がっても、質的にどうしようもないのです。
やはり運動は、学生が中心的に担わなくてはなりません。
学生運動が存在しない現在でも、社会的な問題意識を持っている学生は個別には存在しますし、私自身、そういう学生にたびたび出会います。こんなものを読んでいるあなたがもしも学生なら、あなたもきっとそういう学生でしょう。
が、彼らが共通して口にするセリフがあります。「自分はいろいろ問題意識を持っているつもりだけど、今の学生の大半はそんなことに興味がありません。みんな、遊ぶことや、あるいは就職のことしか考えていません。何か呼びかけたって反応しませんよ」といった内容です。
思い上がってはいけません。あなたはそんなに特別な、優秀な、非凡な学生なんですか。たまに私のように本当にスペシャルな人もいるかもしれませんが、みなさんのうち九九・九パーセントは違います。あなた程度の不平不満を世の中に抱いている学生は、少なくともあなたと同じ大学に通っている、したがってあなたと同じぐらいの学力水準の学生たちの中にはいくらでもいます。
私は最近、一年間ほどバーテンというか、いわゆる「雇われ店長」的にバーに常駐して接客をしていました。私が常駐していることを積極的にアピールし、政治的な背景をプンプン匂わせているバーだったので、そういうことに興味のある人たちがよく飲みに来ていました。もちろん学生も珍しくはありませんでした。
そこで何度も体験したのですが、ある大学の学生がやって来て、前記のような思い上がったことを云います。「そんなことはないはずだよ」と私は諭します。しばらくして同じ大学に通う別の学生がやって来て、まったく同じような思い上がったことを云います。つまり私に云わせれば「おまえら知り合ってないだけだ」という話なのです。そういうことが本当に何度も、つまり複数の大学に関してありました。
どうしてそんなことになってしまうかと云えば、まさに学生運動が存在しないためなのです。運動が存在しなければ、かなり似通った問題意識を抱えている学生同士が、日々同じ大学に通っていながら、出会うキッカケがないのです。
これはつまり、問題意識を持っている学生はかなり存在するけれども、それを周囲にアピールして仲間を集めようとする学生がほとんど皆無であるということです。「この指とまれ」と云い出す「一人目の学生」が存在しないために、誰か別の学生が云い出してくれるのならそこに参集する気ぐらいはないでもないらしい、多くの今ひとつフンギリがつかずにクスブった学生たちが、永遠に孤独の淵に追いやられるままになっているのです。
私の感触としては、大学生活になじめず、「毎日どうも面白くない。いっそ学生運動でもあれば参加するのに。ああ、おれも六〇年代に学生やりたかったなあ」などと考えている(じゃあ率先してやりゃいいのに)情けない学生は、どこの大学にも少なくとも百人に一人はいます。どこの大学にもというのは、東大にも、「国際環境こども福祉ナントカ大学」みたいな大学にも、ということです。たぶん八〇年代末あたりから、小中高の教育システムが崩壊しているために、優秀な若者が必ずしもいわゆる一流大学に自動的に集まってくるようなことになっておらず、それでも東大生や京大生が比較的優秀であるのは当然としても、いわゆるFラン大学の学生だからといって必ずしも平均的な東大生や京大生より優秀でないとも云えない状況になっている感触もあります。つまりどこのどんな大学にも、それなりの問題意識を持っている学生が、大差ない割合で一定います。
一定というのは、繰り返しますが百人に一人とか、です。
少ないと思いますか? 百人に一人じゃ、仮にその全部が立ち上がったとしても、たいした勢力にはならない?
もちろんそんなことはありません。六〇年代末に学生運動がとんでもなく盛り上がったという話はイマドキの若者でも小耳に挟んだことぐらいはあるはずですが、では当時どれくらいの学生がそれに参加していたかといえば、十人に一人ぐらいです。「全共闘」を中心とする過激な運動ではなく、共産党などの穏健なヘナチョコ学生運動に参加していた学生まで含めれば五人に一人ぐらいになるかもしれませんが、それでも当時は大学進学率そのものが今よりずっと低いので、今の感覚で云えばやはり学生の十人に一人ぐらいが何らかの学生運動に参加しているような感じでしょう。十人に一人と百人に一人とではだいぶ違う気もするかもしれませんが、六〇年代末というのはあくまでも特別な高揚期、一部の学者が「世界革命」と呼ぶぐらいの史上稀な高揚期なのです。学生の十人に一人が立ち上がれば「世界革命」なんですから、「平時」には百人に一人ぐらいで上出来です。
逆に、百人に一人なんてありえない、多すぎる、私の希望的観測、妄想だと感じる人もいるんじゃないですか? しかしそんなこともないはずです。百人に一人というのは、平均的な中学・高校で考えれば、二、三クラスに一人ということですよ。大学進学率を考慮に入れれば、五、六クラスに一人かもしれません。いくらなんでもそれぐらいは、マジメに社会や人生の問題を考えている人はいるでしょう。妄想どころか、私はむしろ低く見積もっているつもりです。
学生の百人に一人が学生運動に参加しているという状況は、まったく考えられないものではありません。それは、とくに盛り上がっているわけでも、とくに盛り下がっているわけでもないぐらいの、本来ありうべき、フツーの状態です。
ところで、あなたの通う大学では、どれぐらいの学生が学生運動に参加していますか? 何千人か学生のいる大学なら、何十人かは、ナニガシカ社会的政治的思想的哲学的形而上学的の話でアツくなって、「運動」的に日々あれこれやっているのが当たり前だと分かったはずです。そんな学生は一人もいない? だとしたらそれはものすごく異常なことなのです。
異常すぎる現状を鑑みれば、今日明日にも百人に一人の学生が学生運動に参加するということは考えられないとしても、一年後も、まして五年後もそうなっていないとは絶対に云えないのです。だってそうなるのが本来フツーなのですから。