学生運動入門

2013年6月 ブログ「我々少数派」にて公開


 

   1.学生運動とは

   2.学生運動の歴史

 さて、ここからどう話を進めていきましょうか。
 話しておきたいことは、おおまかに二つあります。
 過去の話と未来の話です。つまり、かつて存在した学生運動とはどのようなもので、それがどう展開して、最終的になぜ今から約二十年前の九〇年代初頭にほぼ壊滅してしまったのかという話と、現在の学生であるあなたが、このほぼ何もないところから、どうやって学生運動を再建すればいいのか、具体的に何をやればいいのかという話です。
 順序としては、やはり過去の話から始めるほうがいいでしょう。ただ、過去の話は知っておくべきですが、回りくどくもあるので、読者は、過去の話はいったん飛ばして、まず後ろのほうを先に読んでから、ここに戻って来てもかまいません。そこはどちらでもいいのですが、いずれにしても、学生運動を始める、あるいは参加する気があるのなら、過去の経緯については必ず知っておいてください。

 では過去の話を始めます。
 最初に断っておきますが、この本では学生運動史に関するそんなに詳しい話はしません。あくまで最低限の大雑把なものです。
 まず大枠を述べますと、第二次大戦後に限っても、学生運動史というか、それを含む社会変革運動史あるいは革命運動史には大きな節目が三つあります。五六年と六八年と八九年です。この三つの年号は必ず覚えてください。
 第二次大戦後の世界というのは、云うまでもなく「冷戦」の時代です。アメリカとソ連という二つの超大国が世界を二分し、争いながら支配している時代です。冷戦構造というのは強力な秩序で、その時代に根本的に社会を変革するというのは冷戦構造を破壊するということです。冷戦時代のあらゆる本質的な社会変革の運動は、それが本当に本質的なものであるかぎり、どうしたって最終的には冷戦構造の破壊を目指すことになります。
 冷戦構造は四五年に第二次大戦が終わってまもなく成立するわけですが、大雑把に云って、その破壊を目指す運動が本格的に始まるのが五六年、ピークに達するのが六八年、結果が出るのが八九年です。
 ではそもそも冷戦構造はなぜ成立したのか?
 それまで三つ巴で世界の覇権を争っていた三大勢力の一つが第二次大戦で敗退したからです。これまた云うまでもなく、敗退したのはドイツを中心とするファシズム勢力です。
 さらにさかのぼって、三つ巴の争いが始まったのは第一次大戦の後です。一四年に第一次大戦が始まり、一八年にそれが終わって、まもなく三鼎対立の構造がハッキリしてきます。
 もう一段階さかのぼって、その三つ巴の争いは何をめぐる争いだったのでしょうか?
 そもそもは資本主義をどうするのかという問題です。というか、すべてはそこから始まった問題です。つまり最初に、前提、所与の問題としての資本主義の拡大発展があります。
 資本主義がどのように成立し、拡大発展したかについては、フツーに世界史の勉強をしてください。とにかく資本主義という強力なシステムが世界史のある時点で(いつからなのか学者によって諸説あります)成立し、発展を始めました。このシステムに対する根本的な疑問の声が上がり、それが思想や運動として広がっていくのが十九世紀です。資本主義の弊害を除去する、あるいは資本主義というシステムそのものを廃止することを目指すそれらの思想や運動は「社会主義」と総称されます。さまざまな社会主義思想が提唱されましたが、やがてその中でもマルクスの思想が最も理論的な体系性を備えたものとして圧倒的な影響力を獲得するのが十九世紀後半から二〇世紀初頭にかけてのことです。そして一九一七年、ついにそのマルクスの理論に基づく(と称する)革命が勝利します。レーニンが指導した「ロシア革命」です。
 ロシア革命が第一次大戦中の出来事であることは重要です。この時代、いよいよ資本主義システムが行き詰まり、そもそも第一次大戦の勃発こそまさに資本主義の行き詰まりの証左であるようにさえ印象されていたのです。「戦争を内乱に転化せよ」の名台詞でも知られるとおり、レーニンはまさに資本主義の危機=戦争の混乱に乗じて革命を成功させました。
 当然、まだまだ資本主義を続けていきたい他の国々は慌てます。利潤追求にただ明け暮れて、資本主義に必然的に伴うさまざまの弊害を放置していたのでは、やがてそれらの国々でも人々の不満が爆発して社会主義革命が起きてしまうことは目に見えています。資本主義を続けたいなら、自分たちの側も何らかの「正義」を仮構する必要があります。そこで一躍、世界史のもう一方の主役として前面に登場してきたのがアメリカです。弱肉強食の資本主義を単に擁護するのではなく、「自由と民主主義」という普遍的理念のようなものを掲げてそれをいくぶん補正しつつ正当化したのです。ヨーロッパ全域が第一次大戦で疲弊していたこともあり、先進資本主義諸国の覇権は大戦前のイギリスからアメリカに移行します。
 ソ連型の「社会主義」と、アメリカ型の「(修正)資本主義」の、どちらが全人類が最終的に到達すべきユートピアのモデルなのかという競争が、第一次大戦が終わるやいなや開始されたのですが、まもなくその双方を拒絶する「第三の道」が提示されます。云うまでもなく、ファシズムです。今では(第二次大戦後の、戦勝国であるアメリカとソ連の双方による長期にわたるプロパガンダのために)誤解されていますが、ファシズムとはもともと、絶対的な正義、普遍的な理念を拒絶する思想です。ソ連の掲げる正義もアメリカの掲げる正義もマヤカシである、そもそも全人類が共有しうる普遍的な正義などというものはありえない、歴史的経緯を共有していない他民族には通用しない独自の正義や価値観を各民族は保有しており、アメリカやソ連が全人類に押しつけようとするマヤカシの「普遍的正義」を拒否して諸民族の自立を守り抜こうという思想・運動なのです(国家を持たない少数民族などへの配慮が欠けている歴史的限界はもちろんありました)。普通のナショナリズムとは違うのは、「反普遍主義」を云わば「もう一つの普遍主義」として掲げるアクロバットによって、普遍主義の登場を前提にそれに事後的に意識的に対抗して登場してくるところです。既存の素朴な伝統的保守政権では普遍主義の猛威に対抗できないので、当然まずそれを打倒する革命を志向します。
 一次大戦後に米ソ対立が始まろうとしていた矢先、早くも一九二二年にはファシズムの創始者でもあるムソリーニがイタリアで革命を勝利に導き、政権を樹立します。これに倣ってやがてドイツでもヒトラーが革命に成功、ナチス政権が誕生して(一九三三年)、ファシズム陣営ではむしろイタリアよりドイツの方が要の位置を占めることになります。もともと英米寄りだった日本も複雑な経緯の末に独伊側に転じたことはわざわざ説明するまでもありません。ただし、日本ではムソリーニやヒトラーに相当するファシズム革命家(北一輝や石原莞爾や中野正剛など)はすべて敗北し、ファシズム政権は成立しませんでした。日本に成立したのは、既存の保守政権が革命によって打倒されないまま自ら成り行きで独伊の体制を外見だけ模倣した、せいぜいのところ「疑似ファシズム政権」です。
 ともかく、一次大戦の終結後、世界は急速にソ連型社会主義、アメリカ型資本主義、そしてファシズムの、三つ巴の闘争の場として再編成されていったのです。
 これまたわざわざ云うまでもなく、やがて第二次大戦が勃発し、米ソ連合軍によって(「疑似」の日本を含めた)ファシズム陣営は完膚なきまでに叩きのめされ、世界史の表舞台から退場させられて、米ソ冷戦という戦後体制が成立したことはみなさんも(たぶん?)ご存じのとおり。本来ならまた数年なり十数年なりの準備期間を経て、米ソいずれが真に「普遍的正義」の体制なのか決着をつける「第三次世界大戦」が勃発するはずだったのでしょうが、本番が始まる前に両陣営が共に核武装を実現してしまったがゆえに、互いに手出しのできない「冷戦」が延々と続くことになりました。
 が、ここのところはとても重要なので是非みなさんにも共有してほしい歴史認識なのですが、実は「冷戦」というのはまぎれもなく「第三次大戦」そのものだったのです。派手なドンパチだけが戦争ではありません。対峙して睨み合いながら、たまに局地的に火の手を上げながらも正面衝突はせず、さまざまの工作を仕掛けて敵が疲弊し降参するのを辛抱強く待つという戦争もあります。第三次世界大戦は、「冷戦」という長期にわたる持久戦・消耗戦として現実に戦われたのだと考えるべきです。「平和な戦後世界」などというものは幻にすぎず、世界中のあらゆる国が(もちろん日本も)「冷戦」という第三次大戦に巻き込まれていた事実をよく自覚しないと、本当の歴史は見えてきません。少なくとも「冷戦」期を知っている人たちは「戦争を知らない世代」などではあり得ません。

 さて、そうすると学生運動を含む「戦後」の革命運動、社会変革の運動は、実は「戦時下の運動」だったことになります。
 世界中が米ソ二大陣営に分かれて争う「冷戦」の世界では、当然、西側の反体制運動は東側に与するものとして位置づけられます。過酷な戦時下なのですから、そうである以外にはあり得ないのです。日本の学生運動ももちろん例外たり得ません。戦後の学生運動は日本共産党の指導下に始まります。戦後の学生運動を指導したのは日本共産党の学生党員であり、学生党員は日本共産党に指導され、日本共産党はソ連に(実質的に)指導されていました。これはまぎれもない事実です。
 ところが、ここで先に「必ず覚えておくべき重要な年号三つ」の最初の一つである「一九五六年」がやってきます。
 この年に起きたのは、世界史の教科書にも太字で載っている「スターリン批判」です。ロシア革命を指導したレーニンは、政権樹立後わずか五年ほどで死去し、その後はスターリンがその後継者として革命国家ソ連を指導していました。スターリンは徹底的なプロパガンダによって、ソ連が全人類の祖国とも云うべきユートピアであり、また自身がその比類なき偉大な指導者であると、全世界の「心ある(?)」人々に信じ込ませることに成功していました。学生運動に参加していた戦後日本の学生たちもこれを心底から信じきっていたのです。その偉大な指導者スターリンが一九五三年に死去し、フルシチョフがその地位を継ぎましたが、あろうことかフルシチョフは、実際にはスターリンはとんでもない残虐非道な独裁者にすぎなかったと暴露してしまったのです(正確には、ソ連共産党の秘密大会で暴露がおこなわれたことをアメリカが察知して公開し、全世界がその内容を知ることになりました)。これが一九五六年の「スターリン批判」という歴史的大事件です。
 世界中の共産主義者が大混乱に陥ったことは云うまでもありません。日本の左翼学生も同様です。そしていわゆる「新左翼運動」が誕生することになるわけです。
 新左翼とは簡単に云えば、ソ連を否定する左翼です。ソ連と一心同体(というか、手先)である自国の共産党も否定します。日本で云えば、日本共産党を否定し、これと袂を分つ新しい左翼運動が、とくに若く血気盛んな学生たちによって急速に形成され始めるのです。具体的には、「革命的共産主義者同盟」(通称・革共同)と、(「革命的」のつかない)「共産主義者同盟」(通称・ブント)という二つの組織が、日本共産党に代わる新たな「前衛党」として五〇年代末に相次いで結成されます。いずれもメンバーのほとんどは当時の学生です。
 ここで「前衛党」という言葉を説明しておく必要があるでしょう。
 マルクス・レーニン主義では、革命にはそれを指導する「前衛党」の存在が必要不可欠とされます。先に述べたとおり、マルクス・レーニン主義は(少なくとも主観的には)「普遍的正義」つまり「真理」ですから、「前衛党」は一つしか存在しえません。正義がいくつもあるのならそれは「普遍的」とは云えませんから、「普遍的正義」に立脚する「前衛党」も、複数存在しうることは論理的にあり得ないのです。「前衛党」とはそういう存在です。
 世界的にも「一九五六年」は新左翼誕生の年ですが、ほとんどの国では文字通り単に「誕生」の年であって、それがすぐさま社会的影響力を持つわけではありません。しかし日本では、新左翼は誕生するやいきなり大きな闘争の主役として一躍注目を浴び、社会的にも重要な存在となります。大きな闘争とは「六〇年安保闘争」であり、闘争の主役として注目を浴びたのは先に挙げた二つの「新左翼」組織のうち後者の「共産主義者同盟(ブント)」です。議会政治の駆け引きの材料として安保闘争を利用することしか考えなかった日本共産党とは違って、血気盛んな若者の組織であるブントは、後先を考えてないとしか思えない過激な玉砕戦術で国会突入などのド派手なパフォーマンスを繰り返し、当然自滅したのですが、少なくともカッコ良かったので、一躍「時代のヒーロー」となったのです。
 ブントが大活躍したこの六〇年安保闘争の総括として、「前衛党神話の崩壊」ということが云われました。日本共産党が唯一無二の革命の前衛党であるという「神話」を崩壊させる出来事だったという意味です。ここで勘違いをしてはいけません。この時点で崩壊したのは「革命には前衛党が必要だ」という神話ではなく、「日本共産党こそまさにその前衛党である」という神話です。前衛党の必要そのものは、革共同に結集した人たちも、ブントに結集した人たちも、固く信じているのです。そしてもちろん、革共同に結集した人たちは革共同こそが、ブントに結集した人たちはブントこそが、日本の革命運動を指導する唯一無二の前衛党であると見なしているわけです。日本共産党を含めて三者とも、自分たち以外の二者は前衛党を僭称する「ニセの前衛党」だと見なしています。逆にそう見なさないようでは「普遍的真理」を体現するマルクス・レーニン主義の「前衛党」の名に値しないことは、先の説明からも明らかでしょう。
 そして実は、次の「重要な年号」である「一九六八年」の運動こそ、この「革命には前衛党が必要だ」という神話を破壊する運動だったのです。
 このことは、とくに西側先進国の「六八年」の運動に関しては露骨に明らかな事実なんですが、日本のそれでは非常に見えにくいものになってしまっています。日本の「六八年の運動」というのはつまり「全共闘」のことですが、全共闘の話といえば「中核派が、赤軍派が云々」と党派(つまり前衛党)の話ばかりになりがちなことにもそれが現れています。しかし、日本においても全共闘運動の主役はあくまで「ノンセクト・ラジカル」です。ノンセクト・ラジカルとは、諸々の党派に所属していない、云わば「個人的過激派」の人々のことです。「六八年」の運動は、世界的にも日本国内でも、その中心を担ったのはこのノンセクト・ラジカルなのだということを踏み外さないようにしてください。
 それでも日本の事情はやはり特殊で、その結果として日本では「六八年」に関する認識が混乱してもいるわけなので、少し丁寧に経緯を追います。

 先に述べたとおり、六〇年安保闘争を経ても、「革命には前衛党が必要だ」という神話はまだ生き延びています。とはいえ前衛党(の候補)が共産党と革共同とブントの三つぐらいであれば、うち二つは「ニセの前衛党」なのだということで神話を守り続けることもそれほど難しくはなかったかもしれません。しかし、六〇年代前半の過程で状況が錯綜していきます。まず安保闘争敗北後すぐにブントが自壊して三分裂します。ブント残党の一部が革共同に流れ込んだことが却って革共同を混乱させたのか、まもなく革共同自身も二つに割れてしまいます(それが以後現在まで新左翼の二大党派として生き残ることになる中核派と革マル派です)。ブント本体の再統合も目指されますが、統合されては再分裂、ということを繰り返し、結果として「ブント系」諸党派が乱立します。さらに共産党からも、先の二つに遅れて党に愛想を尽かした人々が新たに分裂して新しい革命組織を立ち上げます(構改派)。共産党より穏健で中途半端な左翼政党だと見なされていた社会党からも、学生党員の一部が過激化して飛び出します(解放派)。それぞれが離合集散を繰り返し、六〇年代半ばを過ぎる頃には「自称(唯一無二の)前衛党」の数は十ではきかなくなります。これで「十以上ある自称前衛党のうちどれか一つが真に唯一無二の前衛党だ」という神話を信じろという方が無理でしょう。「革命には前衛党が必要だ」という大前提じたいが次第にウサンくさいものに思えてきます。主観的にはマルクス・レーニン主義を信奉する革命派ではあっても、とりあえずどこの党派にも属さないノンセクト・ラジカルの存在が次第に目立つようになります。
 そしてこのことが学生運動の形態にも大きく影響し始めました。というのは、この六〇年代半ばぐらいまで、学生運動の中心には各大学の「自治会」があったのです。ほとんどの大学で、学生は大学に入学すると自動的に自治会に加入させられるしくみが、戦後すぐの段階で作られました。自治会は大学機構の一部であり公的な存在です。べつに最初から学生運動のために作られた組織ではありませんが、学生の要望をとりまとめて大学当局や教授会などと交渉する役割もありますから、自然、自治会が学生運動の中心になりますし、公的な組織である自治会を通して提出された学生の要求は当局や教授会の側もムゲにはできません。形式的には、各大学の学生運動はそれぞれの自治会が指導しており、前衛党が共産党しかなかった時代には共産党の学生党員が自治会執行部を握ることで、事実上、共産党が学生運動全体を指導していたわけです。ところが、五〇年代末に共産党以外の前衛党が、しかも学生を中心に結成され始めると、共産党は学生運動を掌握するこのシステムを維持できなくなります。ブントや革共同が執行部を握る自治会があちこちの大学に誕生し、共産党はむしろ学生運動の「反主流派」に転落してしまいます(六〇年安保闘争の前後の文章で「全学連主流派」とあればブント系、「反主流派」とあれば共産党系の意味です)。
 今つい注釈なしに出してしまいましたが、「全学連」という言葉を聞いたことのある人も多いでしょう。これは「全日本学生自治会総連合」の略で、その名のとおり要するに各大学の自治会が連合した全国組織です。六六、七年頃までの学生運動の中心にはこの全学連があり、全学連の指導部を握ることは日本の学生運動全体の主導権を握ることを意味していましたから、各「(自称)前衛党」はそのことに躍起になっていました。ただし本当にそうだったのは六〇年安保闘争の頃までで、反主流派に転じてしまった日本共産党系の大学自治会はまもなく本家の全学連を脱退して、共産党系の全学連を別個に勝手に立ち上げますし、本家の全学連の側も、ブントが消滅し革共同が二つに分裂すると中核派系全学連と革マル派系全学連に分かれてしまいます。さらに解放派系全学連も誕生します。全学連そのものがいくつもあるわけですから、「全学連の指導部を掌握する」こと自体が各党派にとって(同語反復的な意味でしかない)無意味になりますが、それでも個別の大学自治会の執行部を握ることは引き続き重要です。ある大学の自治会を握れば、そこが自派系全学連を構成する個別自治会の一つになるんですから。
 したがって、自治会は各党派の熾烈な政争の場になります。一般学生の要求を議論して集約することよりも、党派利害を優先する空気が濃厚になるのです。次第に勢力を増してきた「ノンセクト・ラジカル」の学生たちにとっては、自治会の存在は極めてバカバカしいものに感じられ始めます。「学費値上げ反対」とか「サークル棟の建て替え反対」とか、各党派にとっては政争の具にすぎないが、一般の学生にとって切実なものと感じられる問題は、自治会を通して運動を進めるよりも、それ専用の組織を別に立ち上げた方がいいという話になります。そうして六〇年代半ば以降、各大学にポツポツ登場し始めるのが、具体的な個別要求のために有志だけで構成される「全学闘争委員会」とか「全学共闘会議」とか、組織の名称は大学によってマチマチなのですが、「全学共闘会議」という場合が一番多かったのでそう総称されることになった、つまり「全共闘」です。
 整理しておくと、全学連は各大学の自治会の連合体であり、個々の自治会は各大学の公的な機関、大学機構の正式な一部です。これに対して全共闘というのは何らかの具体的な問題について関心を持つ学生たちが勝手に結成し始めた、公的・制度的な裏付けのない云わば任意団体です。自治会の会員はその大学の学生全員であり、多くの大学では入学に際して自動的に大学側が自治会費を代理徴収していました(だから各党派にとってその主導権を握ることは自動的に多額の活動資金を確保できる手段でもありました)が、全共闘にそんな仕組みはありません。自治会には一応、執行部の選出や議決の方法などに関する(往々にして各党派が暴力的に死文化させるとしても)明文化された規約がありますが、全共闘にはそれもありません。要するに全共闘は「やりたいことをやりたい奴だけで勝手にやる」ための組織なのです。
 「プレ全共闘」と呼ばれる、全共闘方式が各大学に浸透し自覚的に追求される以前の萌芽的な闘争が六五年頃からいくつかの大学で始まり、六七年頃から全共闘こそが全学連=公的自治会に代わる日本の学生運動の中心的な闘争形態となります。六八、九年がそのピークで、最も熾烈な闘争となった日大全共闘の一瞬の勝利(学生側の要求をいったんは当局に丸呑みさせた)が六八年九月、若い人たちでもその映像ぐらいは何かで見たことがあるだろう東大全共闘の安田講堂での機動隊との攻防戦が六九年一月のことです。ちなみに映像が派手なので当時を回想するテレビの特集などで繰り返し使われますし、全共闘と云えば安田講堂攻防戦の東大が中心であったかに誤解している若い人が多いかもしれませんが、少なくとも当時最も英雄的に称えられていたのは日大全共闘(中でも芸術学部闘争委員会)で、さらに云えば全共闘運動には「この大学がそう」と云えるような中心はありません。各大学でそれぞれ勝手に結成されて、それぞれ勝手に闘争を展開していたのですから「中心がない」のは当然です。
 繰り返すように全共闘運動は党派に属さない個人的過激派、ノンセクト・ラジカルの学生たちが主導したものですが、それが学生運動の中心的役割を果たすような情勢になると、各党派もこれを無視できず、慌てて介入し始めます。「おれたちも是非、全共闘の一員として参加させてくれ」というわけです。もちろん全共闘の側にこれを拒む理由も(自治会の運動を形骸化させられたなどの反感はあったかもしれませんが)、そもそも規約がないのですから参加したいという者を参加させない明確な根拠もありません。新左翼運動総体に敵対心を持つ共産党以外のあらゆる党派が全共闘運動に参入します。とはいえあくまで有志の集まりである全共闘ではノンセクト・ラジカルの学生も党派の学生も個人として対等です。それまでの自治会の運動と違って議決の方法すら決まってないのですから、自治会を掌握するためには意味があった、党派には有利な多数派工作などの手法も全共闘では役に立ちません。全共闘の会議では、多数決のような議決もなく、時間無制限で丁々発止の議論が延々と続き、要はその場の勢いで何となく闘争方針が決まっていくだけです。決まっていくと云っても、個々のメンバーがその決定に従う義務もないわけですから、議論の過程で個々のメンバーが「おれ自身はこうする」という決意を固め、それぞれそれを実行に移していくだけの話です。「やってられん」と思えば勝手に抜けるのも自由です。そんな闘争で党派が主導権を握れるはずもなく、全共闘運動は、あくまでノンセクト・ラジカルの優位のもとに、形態としてはノンセクトと諸党派の共闘として推移していくわけです。
 ところが闘争が激化し、大学当局が自力で学生たちと向き合うことを諦めて機動隊を導入するようになると次第に状況が変わってきます。各大学に築かれたバリケードは機動隊によって次々と解除され、さすがの全共闘学生たちの間にも無力感や厭戦気分が蔓延し始めます。こうなってくると、組織的に武装し、またメンバーに闘争継続を命令しうる党派の存在感が大きくなるわけです。かつての自治会同様、全共闘もまた各党派の政争の場と化します。六九年夏ごろからの状況です。

 ノンセクト優位、真の意味での「前衛党神話の崩壊」を実現したかに見えた日本版「六八年」の全共闘運動も、後退ムードの中で党派政治の復活を許し、元の木阿弥となりそうな気配が濃厚でした。そこに勃発したのが「全共闘運動のターニング・ポイント」として私やスガ秀実氏が強調する「華青闘告発」事件です。七〇年七月七日の出来事で、「七・七告発」とも呼ばれます。
 「華青闘」というのは正式名称を「華僑青年闘争委員会」という在日中国人のグループです。七月七日は中国に対する「日本の侵略戦争」の発端とされる盧溝橋事件(一九三七年に起き日中戦争に発展)の記念日で、この日に合わせて「全国全共闘」や「華青闘」などいくつかの団体の共催で反戦集会が予定されていました。ちなみに「全国全共闘」とは、そもそも各大学で個別に勝手に展開されていたはずの全共闘運動を一つの統一された勢力にまとめ上げるために六九年夏に結成されたもので、要するに闘争スタイルとしての全共闘の画期性を無化し、のちに「全共闘運動の事実上の終焉」とさえ評されることになる、もちろん党派主導の組織(というか諸党派の政争の場)です。
 ところが開催当日までの議論の過程で複雑な経緯があり、結果として華青闘は共催の立場を降りてしまいます。そして開催当日、華青闘のメンバーやその支援(日本人)学生たちは開会前に壇上を占拠し、日本の新左翼運動総体、とりわけ新左翼諸党派を激烈に糾弾する演説を始めるのです。それは、日本の新左翼運動がうわべでは「侵略戦争反対」などと云いながら、実態としてはいかに在日中国人や在日朝鮮人などの反差別運動を軽視し、時には結果として敵対するような言動を繰り返してきたかを徹底批判する内容でした。諸党派による全共闘運動の引き回しに嫌悪感を募らせていたノンセクト・ラジカルの学生たちもこれに同調し、党派主導の予定調和の反戦集会になるはずだった「七・七集会」は新左翼諸党派に対する糾弾集会と化してしまったわけです。各党派の指導者たちは壇上に引き出され吊るし上げられて、最終的には「坊主懺悔」的な自己批判を余儀なくされました。
 諸外国のそれと同様、ここにようやく、「六八年」におけるノンセクト・ラジカルの優位、真の意味での「前衛党神話の崩壊」が、日本の運動の文脈でも決定的となったのです。
 分かりにくいでしょうから、もう少し突っ込んで説明します。
 華青闘告発とは要するに、「マイノリティの運動」が革命運動、反体制運動の中心に躍り出るきっかけとなった事件です。華青闘が直接に問題にしたのは在日中国人や在日朝鮮人への差別の問題ですが、日本には他にも反差別運動を展開する「マイノリティ」が多数存在します。部落、障害者、琉球・アイヌ民族、などなどです。数的にはマイノリティではありませんが、差別問題ということでは女性解放運動もこれに連なります。同性愛者の運動もそうです。
 従来の革命運動では、それらさまざまの「問題」は、マルクス・レーニン主義の「前衛党」が取り組むべき諸課題の一部を構成するものにすぎませんでした。前衛党はあらゆる社会問題の解決を一手に引き受ける万能の存在であり、マイノリティの問題を含むさまざまの「個別課題」は、前衛党の掲げる体系的な革命理論の中に有機的に統合されているはずだったのです。
 華青闘が突きつけたのは、そうした「前衛党幻想」の虚構性でした。さまざまの「個別課題」にはそれぞれ固有のベクトルがあり、単一の「革命理論」の体系に組み入れられうるようなものではない、というまさに「自称前衛党」への全否定を意味するものだったのです。
 となれば、さまざまの反差別運動のみならず、あらゆる「個別課題」の運動に同様の問題意識が拡大していきます。成田空港建設反対の三里塚の農民の運動も、公害企業を告発する水俣病患者の運動も、山谷や釜ヶ崎などの最底辺労働者の運動も、諸党派が掲げる「革命理論の体系」に一方的に包摂されてたまるか、という話になるわけです。当然、各大学で取り組まれている学生たちのさまざまな「個別要求」についても同様です。
 「六八年の運動」を経た七〇年代以降、「あらゆる問題を統括して一手に引き受ける前衛党」を中心に持たない、さまざまの「個別課題」を独自に追求する大小無数の団体や個人が何となくグラデーションをなして連帯しているような、していないような、「曖昧な全体」がそれ自体として革命運動の現在である、というふうな認識が世界的な「常識」となります。これを理論化する試みが、文系の学生なら必ず押さえておかなければならない(はずの)、ミシェル・フーコーやらドゥルーズ&ガタリやらジャック・デリダやら何やら、最近ではネグリ&ハートの「マルチチュード」理論などのいわゆる「ポストモダン思想」なのです。また、ある程度は勉強している学生なら、ポストモダン思想に関連してよく云われる「大きな物語の終焉」というお決まりのフレーズを知っているかもしれません。これも本来の文脈に引きつけて云えば、あらゆる課題を一手に引き受ける前衛党の革命理論体系が要するに「大きな物語」です。「六八年」以後は、個別課題の解決を散文的に追求する「小さな物語」がそれぞれに紡がれ、革命はただその総体として何となくある、あるいは「総体」などという発想をすること自体がナンセンスであると見なされるのです。
 この脈絡が分かると、七〇年代以降の学生運動史は世間一般に広く流布しているそれとはまったく違った見え方をしてきます。「世間一般に流布している図式」は、赤軍派がどうの、よど号がどうの、連合赤軍がどうの、内ゲバがどうの、といった話です。それら要するに「諸党派の消息」は、遅くとも六〇年代半ばには存在意義が疑われ始め、「六八年」の過程で事実上乗り越えられ、七〇年の華青闘告発によって最終的に破産宣告を受けた「前衛党」諸派の後日譚にすぎません。七〇年代以降の(学生運動を含む)革命運動の主流はあくまでもそれぞれの個別課題に散っていったノンセクト・ラジカルたちなのです。
 それらはあちこちに分散して存在し、全体が一同に会するような機会もそもそも動機もないために、目立ちません。しかし私がいろいろ調べてみた印象では、「六八年以後」の問題意識を継承してさまざまの個別課題に取り組む学生運動への参加者は、八〇年代半ば頃まで、全国の大学に総勢二、三万人の規模で存在していたようです。彼らは具体的には、さまざまの反差別運動や、水俣病を典型とする公害問題や原発などの環境問題、山谷や釜ヶ崎などの最底辺労働者の支援、あるいは学内の、サークル棟や寮を学生運動の温床とみなす大学当局がそれらを建て替えたり廃止したりする動きへの抵抗や、例えば学園祭などの運営やサークル活動への当局の介入に対する抵抗など、多岐にわたる活動を展開していました。それぞれの運動が個別に存在し、地道に黙々と取り組まれているために、実は総勢で万単位という規模が傍目からは見えにくかっただけなのです。
 それでも多少の「盛り上がり」の時期はあります。七〇年代末から八〇年代初頭にかけてのポストモダン思想の流行やサブカルチャーの隆盛は、その地表に現れた部分ではあったのです。ポストモダン思想がそもそも「六八年」の延長で登場したものであることは先に述べたとおりですし、欧米の同時期にはそれらの新思潮と、パンク・ロックやテクノなどのサブカルチャーと、「緑の党」などに代表される「六八年以後」の社会運動の新展開とが、渾然一体となって一大ムーブメントの趣きを呈します。思想・学問の運動、芸術・文化の運動、そして政治的な運動とが相互に密接な関連を持ちながら同時に隆盛したのですが、日本においてはこれが政治的な運動の特段の盛り上がりを欠いたまま、思想・学問と芸術・文化の領域でのみ、欧米のそれと呼応するような現象が見られたわけです。
 八〇年前後に日本で政治運動の新展開が起きなかったことには明確な理由があります。もはや積極的な存在意義は何もないのにそれなりの規模で存続してしまっていた新左翼諸党派のさまざまの蛮行がこれを阻害したのです。「さまざまの蛮行」の最たるものはいわゆる「内ゲバ」です。
 七〇年に本格的に始まった内ゲバ、つまり新左翼諸党派間の武力抗争は、とくに革マル派と中核派・解放派の間で百名近くの死者と数千名の重軽傷者を出す凄惨なものとなりますが、その最盛期は七〇年代後半の五年間です。
 とくに学生運動の現場においては、これら内ゲバ党派に所属していない他党派やノンセクト・ラジカルの活動家も、内ゲバと無縁ではいられません。学生運動がそれなりに盛んな大学のほとんどは内ゲバを敢行している三党派いずれかの「拠点校」であることが多く、文字どおり命がけで「拠点」を死守している内ゲバ党派にとって、学内で自派以外の運動が一定以上に盛り上がるのは危険です。そんな兆候があれば内ゲバ諸党派は暴力に訴えてでもこれを潰します。欧米では「六八年」の問題意識の延長線上で政治運動の再編が急速に進む七〇年代後半、あるいは日本でそれを担ったかもしれない個性的で優秀な若い活動家は、少なくとも大学の中ではおおっぴらに登場することすらままならなかったのです。

 内ゲバがいくぶん沈静化した八〇年代前半、ようやく日本にも欧米で七〇年代後半に模索されたような新世代による運動再編の試みが陽の目を見ます。保坂展人(現・世田谷区長)による反管理教育運動や、当時は現役の早大生だった辻元清美(現・民主党代議士)による反戦運動「ピースボート」など、一連のポップな政治運動です。
 八五年に社会党委員長に就任し、旧態依然たる巨大労組への依存から脱皮しようと目論んだ土井たか子は、これらの運動と結びついて社会党のイメージ・チェンジを図り、その試みはいったんは成功、八九年の参院選における保革逆転を実現します。たまたま参院選だっただけで、もしこれが衆院選であればこの時点で社会党政権が誕生していました。
 八〇年代後半にフィリピンや韓国など「南」の国々で独裁政権が倒されたのに続き、中国でも天安門広場を舞台として民主化運動が激化し、東欧の社会主義政権が次々と雪崩を打ってベルリンの壁もろとも崩壊し、冷戦を終わらせ、やがて「本丸」のソビエト連邦そのものをも解体させた「八九年革命」は、日本でも実現の寸前まで行ったのです。
 社会党政権の誕生にまでは至らなかったとはいえ、この八九年の参院選敗北に危機感を募らせたことで自民党の迷走が始まり、その結果としての今に続く終わりの見えない「政界再編」の過程でまずは九三年に細川政権の誕生で冷戦の国内版たる「五五年体制」の崩壊も起きるのですから、日本の「八九年革命」も事実上勝利していたと云ってよいとさえ思います。
 話が先走りましたが、八〇年代後半の社会党の党勢一新の試みは、時期が遅すぎたのかもしれません。七〇年代後半にそれがおこなわれていれば、社会党は日本版「緑の党」として生き残りを図れた可能性がありますが、現実には、八九年の勝利をピークとして一連の「政界再編」の過程で社会党(現・社民党)は凋落の一途をたどり、今や消滅寸前の泡沫政党に転落しています。
 また、七〇年代後半から八〇年代前半にかけて欧米の新左翼のそれに類比的な新展開を図れなかった日本のノンセクト学生運動も、八五年頃を境に急速に消滅に向かい始めます。欧米の実験に学んだ保坂展人の反管理教育運動は中高生が主役の運動であって大学はその主要な舞台ではありませんでしたし、ピースボートも主催の辻元清美が現役学生だったというだけの話で運動そのものは学内に軸足があるものではありません。八〇年代前半の重要な運動展開は大学の外で起きたのです。
 さらには八〇年代は(保坂展人の運動が隆盛したことからも想像されるように)いわゆる「管理教育」の全盛期でもあります。先輩学生の運動と問題意識を継承しつつ、ただそれをなぞるだけでなく新展開を模索・実現しうるような個性的で行動的な新入生候補は、そのほとんどが高校卒業の前に学校空間からパージされてしまいます(高校中退者が十万人を超えたのが八七年のことです)。
 八五年頃にはおそらく全国で総勢二、三万人の規模で持続していたノンセクト・ラジカルの学生運動は、九〇年の時点でおそらく総勢数百人規模にまで落ち込んでいたと思われます。現在では(繰り返しますが全国で!)数十人規模でしょう。「平時」の「フツー」の規模と思われる二、三万の学生運動を再建するのは途方もない難事業と感じられるかもしれません。
 ただし、八五年以降も「若くて知的なヒマ人たち」によるラジカルな政治運動は主に大学の外で途切れなく続き、現在までの間に幾度かの高揚を実現してさえいます。その最初の高揚が「日本の八九年革命」であり、土井社会党ブームはその氷山の一角にすぎません。
 土井社会党を支えた保坂や辻元に象徴される八〇年代の「穏健化したノンセクト・ラジカル」の運動は、過激な最左派の諸運動を伴っており、中でも有名なのは八七年の広瀬隆ブームを起点とする八八年の「反原発ニューウェーブ」です。反原発運動の高揚は今回の「3・11」をきっかけとするそれが最初ではなく、実は八八年(つまりチェルノブイリ原発事故の二年後)に一度盛り上がっており、量的にも今回のそれに匹敵し、質的には今回のそれをはるかに上回る過激でラジカルなものでした。
 文化的にも当時の若い活動家の最大公約数的な表現が「バンド・ブーム」の象徴的存在であるブルーハーツによってもたらされ、よりラジカルな表現も忌野清志郎による覆面バンド「タイマーズ」の八方破れ的な活動展開や、バンド・ブームのもう一つの頂点である「たま」の登場に担われています。
 かく云う私自身がこの時代風潮の渦中で自己形成し、保坂系反管理教育運動の最左派として活動したことが、革命家人生の出発点です。
 つづく九〇年代の諸運動は、当時の知的な若者に圧倒的な影響力を持っていた社会学者・宮台真司の造語「まったり革命」に象徴されるような雰囲気を共有しています。九〇年代末に注目を浴びた(当時の『現代用語の基礎知識』にも登場します)「だめ連」や「メンズリブ」に代表される、脱力系のライフスタイル提唱運動です。今もノンセクト学生運動がかろうじて存続している数少ない大学の一つである法政大で、やはり脱力系の秀逸な笑いのセンスを武器に、他大学に十年ほど遅れていよいよ急速な壊滅へのサイクルに突入していたかに見えた法大ノンセクト運動を強引に再び数百人規模にまで盛り返した松本哉の「法政大学の貧乏くささを守る会」も同じく九〇年代末の運動です。ただし「八九年」の諸運動とは異なり、この九〇年代末の脱力系政治運動のブームは首都圏以外にはほとんど飛び火しませんでした(「だめ連」にも「貧乏くささ…」にも各地に「支部」が誕生しましたが、オリジナルのそれが持つ独特の機微までが伝わっているとはとうてい云えないものがほとんどでした)。
 また九〇年代後半は、小林よしのりのマンガ『ゴーマニズム宣言』の右転向と爆発的ヒットによって、「若者の右傾化」が急速に進んだ時代でもあります。世の中に疑問や不満を持つ若者たちがとりあえず入門的に手にとる書物は、八〇年代いっぱいまでは朝日文庫の本多勝一シリーズだったと思われますが、九〇年代半ば以降は、小林よしのりのエッセイ・マンガに変わったのです。この嘆かわしい傾向は(八〇年代の本多勝一シリーズも今思えば相当に嘆かわしくはあったのですが)その後ますます加速し、二〇〇〇年代には小林マンガの劣化版とも云うべきマンガ『嫌韓流』が大きな影響力を獲得したりします。
 ただし九〇年代のうちはまだ「若者の右傾化」はせいぜい「ネット右翼」の段階にとどまり、リアル世界に政治運動として登場するまでには至りませんでした。例外的に、右翼パンク・バンドでの活動が注目された(左翼転向以前の)雨宮処凛の存在を挙げられるくらいでしょう。
 二〇〇〇年代の初頭に世界史的な大事件であるアメリカ同時多発テロ事件、いわゆる「9・11」が勃発します。これを機にアメリカの「対テロ戦争」が開始され、日本でもアフガン反戦、イラク反戦の運動に突如として大量の若者が参加し始めます。私はこれら一連の反戦運動の高揚を表層的でつまらないものと見なしているのですが、二〇〇〇年代後半のさまざまな運動を担う若い活動家の多くが、アフガン反戦やイラク反戦を機に運動の世界に参加し始めたらしい事実は否定できません。
 二〇〇〇年代後半の若者たちによる左翼運動は、人格的には(必ずしもすでに若者とは呼べない年齢になっていた)松本哉と雨宮処凛に象徴されます。「素人の乱」と「フリーター労働運動」です。東京・高円寺を拠点とする「素人の乱」の運動はもちろん首都圏の外には本質的な影響力を持ちませんが、フリーター労働運動は全国各地に飛び火しました。「素人の乱」の運動が松本哉の強烈な個性に依存する部分が大きい(本人に間近で頻繁に接する機会がなければその独特のノリや作風の機微を体得しえない)のに対して、フリーター労働運動が提起する若者を取り囲む過酷な労働環境の問題は全国共通の極めて「わかりやすい」ものだし、運動スタイルも要はフツーの個人加入労働組合の運動をマジメに組織することに尽きるからでしょう。
 ただしアフガン反戦やイラク反戦の過程で導入され、フリーター労働運動の展開過程で定着した、スローガンを叫ぶよりも先頭車輛から爆音で流れるテクノ系・ハウス系の音楽を前面に立てているかのような「サウンド・デモ」のスタイルは、「3・11」以降の反原発運動にも(一部)継承されていますし、「素人の乱」はその反原発運動の一方の極ともなっています。
 「右傾化した若者たち」の運動も、二〇〇〇年代後半にはついにネットの世界を飛び出し、公然と街頭に登場しました。「在日特権を許さない市民の会」(在特会)です。朝鮮人や支那人(と呼ぶこと自体は別に差別ではありません)に対する露骨に差別的な言辞を臆面もなく叫び散らすその街宣活動は、私を含め良識ある人々をいたたまれない気持ちにさせますが、聴衆を煽り立てる演説の技術や、市民感情を逆なでするような言動をあえて辞さないその開き直りぶりは見事でさえあり、今のところ在特会に正面きって太刀打ちできる左派系の運動は皆無と云ってよいくらいの状況でしょう(二〇一三年、必ずしも「左派系」とは呼べませんが、有力な対抗勢力「レイシストをしばき隊」が登場しています)。
 また在特会の周辺に誕生し(二〇一二年解散)、在特会が素朴な差別感情で云わば「天然」でやっている悪質な街頭示威運動を、確信犯的にさらに過激に露悪的に追求する「排害社」の存在も最大級に重要です。その絶妙な笑い(ブラック・ジョーク、あるいは時に差別ギャグですが)のセンスや戦術アイデアの豊富さにおいて、「排害社」主宰の金友隆幸は左派シーンにおける松本哉に匹敵するキャラクターです。
 在特会や排害社は(主には左翼が「原発反対」を云うことへの対抗意識から)「原発推進」を掲げていますが、「3・11」以降、「右傾化した若者たち」の一部にも反原発の機運が生じ、八〇年代に反米・反体制の右翼団体として注目を浴びた「一水会」の関連組織である「統一戦線義勇軍」議長・針谷大輔が主催する「右からの脱原発デモ」に彼らは結集しつつあります。
 以上ざっと概観してきたとおり、八〇年代半ば以降、「学生運動」はほぼ壊滅状態ですが、大学の外では、学生も含む「若くて知的なヒマ人たち」によるさまざまの運動は途切れることなく持続しており、時に相当の高揚をしてさえいます。しかし学生でもないのに「知的でヒマな」若者の数はそう多いはずもなく、一部の学生が参入したとしても量的な拡大には自ずと限界があります。いかに困難に思えようとも、「学生の百人に一人ぐらいは政治的・社会的な反体制の運動に参加して熱くなっている」実はごく当たり前の状況を何とか再建しなければなりません。

 学生運動史に関して書き残していたことがいくつかあります。
 まず、五六年に誕生し六八年にピークを迎える新左翼運動は、冷戦構造の中でソ連側に奉仕する陣営の中から誕生しつつも、次第に「反米反ソ」の立場を鮮明にしていったわけですが、これはつまるところ何を意味するのでしょうか。
 二〇世紀の歴史は、その初期の「一次大戦後」の段階で、いったんは資本主義陣営と社会主義陣営とファシズム陣営による三鼎対立の様相を呈しました。それは「普遍的正義」の実現をめぐる三つ巴の闘争であり、「反普遍主義というもう一つの普遍主義」というアクロバットを掲げるファシズムを含め、普遍的正義の候補はこの三つ以外に存在しないはずでした。
 ということは、「反米反ソ」という立場は、その当事者たちが自覚しているか否かに関わらず、やがてはファシズムに収斂していくはずのものではなかったでしょうか。
 一般的には、新左翼運動は、スターリン流に硬直したマルクス・レーニン主義を脱却しアナキズムへと転身してゆく運動であったかに総括されています。一連のポストモダン思想も実質的には現代ふうに再構築されたアナキズム理論であり、その最新版であるネグリ&ハートの「帝国とマルチチュード」三部作も要はアナキズム理論書です。ネグリ&ハート以外にも、近年のポストモダン系アカデミズムの界隈では、海外の最新アナキズム理論の翻訳が盛んです。
 しかし偏見を捨てて歴史を調べれば容易に見てとれることなのですが、ファシズムの創始者ムソリーニはもともと限りなくアナキズムに近いマルクス主義者であり、「戦争を内乱に転化せよ」というレーニンの立場とほとんど同じ観点から一次大戦への参戦を提唱して(そもそも参戦しなければ「戦争を内乱に転化」できませんから!)、反戦派が主流だったイタリア社会党を除名されたムソリーニのもとに結集し、初期ファシスト党を構成したのはモノホンのアナキストと前衛芸術家たちだったのです。
 通説にはなっていませんが、全共闘運動が「プレ・ファシズム運動」であったことを当時最年少にして最左派のアナキズム理論家として活躍した千坂恭二氏が指摘していますし、スガ秀実氏も一連の「六八年」論の中で全共闘運動が少なくともファシズムに親和的であり事実いくぶんファシズム運動への傾きを有していたことを認めています。
 しかし全共闘運動がついに最終的にはファシズム運動へと転化しなかったのは、やはり「華青闘告発」事件に負うところが大きいのだと思います。華青闘告発によって、ノンセクト・ラジカルの革命運動は革命の「総体」を志向しない、さまざまの個別課題に散る「マルチチュード路線」への展開を決定的にしました。マルクス・レーニン主義からアナキズムに転じ、さらにはファシズムへと転じたかもしれない「ポスト全共闘」の運動は、その中途でアナキズムにとどまることを選択したとも云えます。しかし、その選択は果たして正しかったのでしょうか。
 今日では、「PC(ポリティカル・コレクトネス)の脅威」が、抑圧的な社会制度の形成に敏感な人たちにとって最重要の課題の一つとなりつつあります。差別的な語彙を公的な場から追放し、「政治的に正しい」云い回しに置き換えてゆくPCとは、要するに耳になじんだ日本語で云うところの「言葉狩り」です。差別的ではあるかもしれないがさまざまのニュアンスに富んだ旧来の云い回しが、誰も傷つけないかもしれないが無味乾燥でフラットなPC用語に置き換えられていくことを、どうにも居心地の悪い、表立って異論を唱えにくいが何か納得できない気分でただ指をくわえて座視しているという人は多いでしょう。しかしこのPCこそはまさに「六八年」を機に世界的に主流化したマイノリティ諸運動の現代的な帰結なのです。
 新左翼運動が展開する過程で、マルクス・レーニン主義のスターリン的解釈がまず疑われ、スターリンによって歪曲される前の「本来のマルクス・レーニン主義」が希求されました。やがてそもそもマルクス主義のレーニン的解釈がスターリン主義を必然化するのではないかとの問題意識が広まり、レーニンによって歪曲される前の「本来のマルクス主義」が求められました。さらに進んでマルクスの思想が盟友エンゲルスによって「マルクス主義」として体系化される過程にスターリン主義を必然化する萌芽があると云われ、いやそもそもマルクス自身の思想の内にすでに「唯一の真理の体系」への志向があり、国家主義や産業主義が内包されていると指摘されて、マルクスの生きた時代にマルクスに対立したバクーニンらアナキストたちの思想の復権が目論まれたのでした。とても「わかりやすい」理路ではあるのですが、アナキズムではなくファシズムに到達する別の理路もよく考えたら実はありうるのです。
 一口に「マルクス・レーニン主義」と云っても、「真理の体系」を体現しているのはマルクス主義であり、レーニン主義はそれを実現するための「唯一の前衛党」の必要を云う運動論にすぎません。であれば、レーニンではなくマルクスを捨てて、べつに「真理の体系」を保持しているわけではない「唯一の前衛党」によるアクロバチックな革命運動の理論が構想しうるのではないでしょうか。前衛党は唯一無二ではあるが、「普遍的真理」とは無縁の党であるから、党を割ることだけは許さない代わりに内部の議論は何でもアリ、革命運動に身を捧げようという決意さえホンモノであれば誰でも「同志」として遇するという、傍目にはおそらく意味不明なハチャメチャな「革命党」のイメージ。しかしこれまた実際のムソリーニのファシスト党は、そういう党だったのです。
 話を戻すと、さまざまの反差別運動を中心とする「六八年」の「マルチチュード」的展開(説明が遅れましたが「マルチチュード」とは日本語で云えば「有象無象」のニュアンスで、簡単にひとくくりにできない多種多様な諸個人・諸団体の諸運動ということです)は「PCの猛威」を結果しただけではありません。
 「真理の体系を教授する場」としての大学の権威も崩壊させられ、重々しい「学問」を提供するのではなくフラットな「知的サービス」を提供する、何ら権威のない単なる「教育産業」としての大学も、「六八年」が意図せず生み出してしまったものです。
 自治会や労働組合のような形で公的に組織された学生や労働者であることを拒否し、何らかの「大きな物語=理念」を共有することで成り立っていたには違いないそれらの組織に従属しない「自立した個」であることを希求した「六八年」の運動ですが、「非正規雇用」が常態化し、「自己責任」で「スキルアップ」の絶え間ない努力が求められる現在の労働のありようは、「手にしたものをよく見てみれば望んだものと全然違う」(ブルーハーツ)ではあるかもしれませんが、そもそもは「六八年」の担い手たちが自ら「望んだ」結果でもあるのです。
 その他にも、「エコ」も「嫌煙権」も「男女共同参画社会」も「ロハス」も「心のケア」も「ナンバーワンではなくオンリーワン」も「みんな違ってみんないい」も、すべて「六八年」に淵源するものです。国家権力と正面衝突して完膚なきまでに粉砕されたかに思われた「六八年」の運動が求めたものが、気がついてみると現代社会の支配的な風潮として「こんなはずじゃなかった」感じで完全に定着している。このことを捉えて私やスガ秀実氏は、「全共闘(六八年の運動)は実は勝利している」と云っているのです。
 「反米反ソ」の新左翼運動は、冷戦構造の破壊を目指しました。それは八九年に実現し、新左翼運動はその目的を果たして役割を終えました。冷戦の終焉は、単に社会主義陣営が崩壊したということにとどまらず、資本主義陣営の決定的変質をも伴う形で到来します。ライバル・ソ連の消滅で全世界の覇権を握ることとなったアメリカは、しかしすでに自身がPCに代表される「六八年的な正義」を掲げる国家へと変質させられていたのです。

 二〇〇一年の「アメリカ同時多発テロ」は、「対テロ戦争」という「まったく新しい戦争」を誘発しました。
 この「戦争」は今も続いています。タリバン政権を崩壊させても、フセインを処刑しても、ビンラディンを暗殺しても、「テロ」が根絶されたわけではないので「対テロ戦争」も終わりません。そもそもアメリカは「対テロ戦争」を開始するにあたって、それが永久に終わることのない性質を原理的に有していると明確に宣言していました。
 アメリカが攻撃している「イスラム過激派」勢力は、女性に伝統衣装を強要し、その社会進出を妨げる「差別的」な連中です。「六八年」の問題提起を受け入れてPC的な正義の国家に生まれ変わったアメリカは、力づくでもそれを世界中に押しつけようとしていますが、PC的な正義をアメリカ政府と共有している「マルチチュード」の反戦運動が本当にそれに対抗しうるのでしょうか。私が「日本版マルチチュード」による二〇〇〇年代初頭のアフガン反戦やイラク反戦の運動に懐疑的な理由もこのあたりにあります。
 一部の知識人は、「9・11」に始まるアメリカ主導の「対テロ戦争」を、新たな世界大戦、正確には二〇世紀的な「世界大戦」に代わる二一世紀的な「世界内戦」と呼び始めています。一つの主権国家の内部での武力抗争を「内戦」と呼びますが、「9・11」に端を発した「対テロ戦争」は、「世界規模に拡大した内戦」ではないかと云うのです。
 そもそも対戦の相手が主権国家ではなく国際的な「テロリスト」のネットワークなのです。その構成員は世界中どこにでもいるし、アメリカの国内にさえ潜んでいます。「戦場」も、「9・11」ですでに明らかなように、アメリカ国内であることも常にありうるし、「サイバー攻撃」などの現代的戦術を考慮に入れればネット上でさえ「戦場」です。
 また「内戦」で前面に出るのは軍隊であるよりも普通はまず警察ですが、アメリカの感覚では米軍は「テロリスト」という「犯罪者」を検挙する「国際警察」として世界中に派遣されているのです。逆にアメリカ国内の「テロリストかもしれない」不審者を摘発する通常の警察活動も「対テロ戦争」の一環としての軍事活動の性格を帯びます。このように、警察活動と軍事活動の境界が曖昧な「まったく新しい戦争」がアメリカの内外を問わず展開されているのが現在の世界状況なのです。
 ひるがえって日本国内のことを考えれば、実は日本版の「対テロ戦争」は世界が(アメリカが)それに突入する二〇〇一年にはるか先駆けて、すでに九五年にとっくに開始されていたことに思い当たります。オウム真理教が引き起こした「地下鉄サリン事件」です。
 オウム事件に端を発する「不審者狩り」は、その対象を当初のオウム信者に限定することなく、急速に拡大していきました。もともと同調圧力の強い日本ですから、「世間」と軋轢を起こす「変わり者」はすべて要警戒の犯罪者予備軍のように見なされます。ストーカー規制法も、喫煙者迫害も、飲酒運転の厳罰化も、少年法の改「正」も、犯罪全体の厳罰化や時効の撤廃も、刑事裁判過程の迅速化(お手軽化)も、ヤクザへの締め付けも、ゴミ出しのルールの瑣末化も、個人情報保護云々も、コンプライアンス云々も、「感動をありがとう」の大合唱も、「がんばろう東日本」の大合唱も、すべてが「オウム以後」の不審者狩りと同調圧力強化の連鎖反応現象です。
 九五年以前の日本と九五年以後の日本とでは、まったく違う国であるかにはっきりと一変していることを、もはや「戦前」の日本を知らないだろう今の学生が実感的に把握しうるのか、私は懸念しています。オウム事件を境に日本はいち早く「対テロ戦争」を開始しており、九五年以後は文字どおり「戦時下」なのです。不審者狩りと同調圧力強化のための一連の施策総体それ自体が「戦争行為」としておこなわれており、第二次大戦の戦争イメージにとらわれている限りは、冷戦を「第三次大戦」そのものであると認識できなかったように、今回の「対テロ戦争=第四次大戦」も戦争と認識できないのです。したがって、冷戦終結後の九〇年代に生まれただろう現在の学生諸君も、決して「戦争を知らない世代」ではありえません。九五年以来、現在も戦争はまさにおこなわれている真っ最中であり、現在の学生諸君はむしろ「戦争しか知らない世代」なのです。
 「対テロ戦争」は、アメリカが主導する世界大のそれにおいても日本国内のそれにおいても、「六八年」に由来するPC的な正義に抵触しないばかりか、むしろそれを自らの戦争行為を正当化する根拠として展開されます。冷戦期の真にラジカルな革命運動が冷戦構造という第三次大戦の戦時体制の破壊を目指したように、少なくとも「対テロ戦争」という第四次大戦が継続する限りは、真にラジカルな現代の革命運動はその戦時体制の破壊を目指さなくてはなりません。「六八年」の正義を体制側と共有する「マルチチュード」的な左派の運動に、それを担いうるとは私には到底思えません。それを担いうるのは、「六八年」の延長線上にもう一つあり得たファシズム革命運動か、私には提示できませんが「マルチチュード」的なそれではない何らかのまったく異質な左翼運動の、いずれかのみでしょう。

   3.実践アイデア集