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青いムーブメント(20)


   20.

 八九年はまだ終わらない。
 ここでこれまで何度か“「九〇年」派最大の理論家”として言及した鹿島拾市に本格的に登場してもらおう。
 鹿島は、六七年生まれ。東京都心部で生まれ育ち、小学校高学年から中学校くらいの時期を、「八〇」年の文化ムーブメントの熱心な享受者として過ごしたようだ。
 高校時代に苛酷な生徒管理をおこなう私学での生活から鬱屈したが、岩波新書から出ていた実存主義の入門書に救われ、また西ドイツの緑の党の運動を知って感銘を受け、大学へ進んだら緑の党のような運動をこの国に立ち上げるため尽力するという夢を、残りわずかとなった「暗い高校生活」を生き延びる支えにしたという。
 ところがそこへ青生舎の『元気印大作戦』が出る。鹿島は驚いた。「緑の党みたいな運動」はすでにあるではないか。前後して、ピースボートやACFのことも知った。高校を卒業したら、このうちどれかに参加しようと決めた。
 意識的にモラトリアムを作るべく、わざと一年浪人して、その間にピースボートのスタッフとなり、フィリピン・ツアーを自ら企画した。若者が、やる気さえあればどこまでも主体的に参加できるようなシステムが、当時の鹿島にとって、ピースボートの大きな魅力だったという。
 しかし実際にフィリピン・ツアーをやってみて、ピースボートの、しょせんは経済大国の国民として普段は安穏な生活を送ることのできる恵まれた立場からする物見遊山にすぎないという欺瞞性に耐えきれなくなり、ツアー終了後まもなくこれを離れる。
 この浪人時代、鹿島はピースボートの事務所を訪れた早大ピリオドの見津毅と対面している。見津は鹿島と同い年だが、すでに首都圏ノンセクト学生運動の世界で一目置かれる存在であり、軽い嫉妬を覚えたという。鹿島と見津との交友関係は、この時には始まらない。
 八六年、鹿島は法政大へ入学、環境問題のサークルへ属し、ノンセクト学生運動の活動家となる。しかし法政のノンセクトは七〇年代以来の古い体質を残しており、生真面目で、「緑の党みたいな運動」を志向する鹿島はいくぶん浮いた存在だったようだ。といって、当時の早稲田のノンセクトの、ドゥルーズ=ガタリやフーコーなど云々するインテリっぽいノリ(見津はそうではなかったが)にも鼻持ちならんと反発していたらしい。
 古くからの反原発の提唱者である高木仁三郎の『核時代を生きる』を高校時代に読み影響を受けていた鹿島は、原発問題を田舎のローカルな問題ではなく、都市生活のスタイルや管理社会の問題としてとらえる視点をすでに持っていた。入学直後にチェルノブイリの大事故が起き、これで日本の反原発運動にも(欧米では「八〇年」の段階で原発はすでに運動の焦点化していた)火がつくだろうと気負いこんだが、先にも述べたように、チェルノブイリはその直後には日本の運動にほとんど何の反応ももたらさなかった。
 肩すかしを食らったような気分で脱力し、学内の運動からも徐々に足が遠のきつつあった(高木仁三郎の影響下で原発問題を考えていた身としては、広瀬隆のいたずらにセンセーショナルな語りにはなじめなかったようだ)鹿島を覚醒させたのが、八七年十二月の、「四国電力本社前に反原発派が数千人」というニュースだった。反原発運動が、突然高揚したのだ。
 いてもたってもいられずに四国松山へ飛び、「小原ニューウェーブ」を現場で体験する。
 現地で、全国各地から集結した学生たちとのネットワークができたが、鹿島と最も意気投合したのは、札幌からかけつけていた“ほっけの会”の面々だった。以後しばらく鹿島は、東京で学生主体の反原発運動に没頭し、八八年四月に開催した東大駒場寮食堂での数泊の反原発合宿(第一回全国高校生会議のちょうど一年前だ)には、学生を中心に三百名ほどが集まった。そして同年夏、ほっけの会の泊原発試運転開始阻止の闘争に参加するため、ひと月以上を札幌で過ごす。この札幌滞在中に、やはり東京から“外人部隊”として参加していた後の社会派エロマンガ家・山本夜羽と知り合い(山本が『元気印大作戦』に寄せた熱血マンガを、鹿島はすでに高校時代に読んでいたわけだが)、以後、相棒のような関係で行動を共にすることとなる。
 ちなみにこの札幌での行動の過程で山本は最初の逮捕を経験し、留置場に数泊している。「スキあらば突入」のほっけの会スタイルを実践した結果である。

 札幌での闘争が一段落し、東京へ戻って間もない時期に、「天皇吐血」である。
 鹿島・山本は、見津毅・高橋よしあきらの「反天皇制全国個人共闘・秋の嵐」原宿ホコ天闘争に参加しはじめる。が、この前期・秋の嵐において、鹿島・山本はそれほど枢要な位置にいたわけではない。とくに鹿島は自身の中にそれほど強い「反天皇制」のモチーフがなく、むしろ秋の嵐への不当な弾圧を許さないというのが、その運動に参加・協力する主な動機だったようだ。
 八九年一月七日、昭和天皇死去当日の早稲田奉仕園での緊急集会や、翌八日の、秋の嵐が初めての逮捕者を五人(見津毅を含む)出した「一・八弾圧」の現場で、私はおそらく鹿島・山本ともはち合わせているのだろう。だが私たち全国高校生会議系の運動と、彼ら秋の嵐系の運動とが本格的に出会うのは、まだ先の話である。もっとも、この二日間に私が行動を共にしていた笘米地真理は青生舎つながりですでに山本とは面識があったし、またこれらの現場にはいなかった沢村も、全国各地の運動に出入りする過程でとうに少なくとも山本とは知り合っていたようではある。
 前に理べたように、秋の嵐はこの後さらに「一・一五弾圧」をも経験して活動を封殺され、二月二四日の「大喪の礼」(昭和天皇の葬儀)を過ぎたあたりからは完全に裁判闘争へとシフトせざるを得なくなり、その運動は停滞する。
 この停滞を打破せんと鹿島・山本が立ち上げたのが「馬の骨」である。

 きっかけは山本と、やはり前年の反原発運動の過程で仲良くなった林というパンクスの青年が、再び反原発をテーマに音楽イベントをやろうと鹿島に持ちかけたことだったらしい。この企画に、幸渕という女性活動家も合流する。
 以下、鹿島が二〇〇三年から〇四年にかけてアナキスト系のミニコミに発表した回想記「『馬の骨』の頃」からの引用である。
 ----彼女ははじめの3人(引用者註.山本・林・鹿島)よりいくつか年上だったが、姐御的なカリスマがあって、年齢以上に大人に見えた。国家によるセックス・ドラッグ・ロックンロールの管理に反対するというSDRと、母や妻として戦争に動員されることを拒否するというアンチ国防婦人会と名乗るグループの二つをやっていた。今でこそセックスワーカーの権利といったテーマはフェミニストの定番になっているが、このころに売春婦の人権を掲げて集会を開いていたのは、日本では幸渕だけだった。----
 山本によれば、幸渕という人はフェミニストというよりもやはりウーマンリブ的な問題意識、センスを持ったキャラだったという。もちろん、リブ好きでフェミ嫌いの山本の言葉だからこれは称賛して云っているのである。私は幸渕とは会ったことがなく、漠然と私たちの運動における森野里子のような人だったのだろうと想像しており、逆に森野とそれほど親しい交流のなかった山本も、私のこの想像を「たぶん当たっている」と云う。
 山本・鹿島の企画は、仲間が増えるにしたがってテーマも当初の「反原発」から拡散し、「反管理教育」や「反天皇制」なども含んだ「正体不明のものとなってしまった」。決行は四月二日、場所は代々木公園の野外音楽堂である。ほんの二、三ヶ月前まで、秋の嵐の闘争とそれに対する弾圧の攻防がくりひろげられていたホコ天のすぐ目と鼻の先を、意識して選んだのだ。
 ここでいよいよ後期・秋の嵐を見津毅と共に主導することになる、青いムーブメント・政治運動部門における最重要人物の一人、太田リョウが登場する。そのシーンを、鹿島の回想記から少し長めになるが引用する。
 ----4月2日正午、イベントは予定通り始まった。司会は幸渕だ。いつも強制排除や逮捕をくり返されてきたホコ天を見下ろしながら、“秋の嵐”系のパンクバンドが舞台を跳ね回る。様々な課題に取り組む友人たちがその合間にアピールする。もちろん山本君の同人誌も売っている。だがお楽しみはそのあとにも準備されていた。ぼくらはこの野音からホコ天を抜けて渋谷へ向かうデモを申請しておいたのだ。
 ----代々木公園の遊歩道に突如出現するデモ行進。原発反対! 管理教育反対! 天皇制を解体するぞ! ……趣旨はやや不明だが、そのインパクトは強烈だ。リヤカーに積んだ2つのスピーカーからは、ロックが大音量で流され、チラホラと頭上に浮かんでいるのは、よく見れば風船ならぬ大きな黒いゴミ袋だ。アナーキーのAマークを書き殴ってある。ゴミ袋のほかに、コンドームを浮かべているのはSDRの面々。ここまではもちろん、あらかじめ思い描いていた通りの展開だった。
 ----「ウォーッ! デモやるぞー! デモやるぞー!」。突然、どこからか赤ひげの男が現れ、ガラガラ声でわめき始めた。背中にストーンズの舌出しマークをつけたモッズコート。フードを被っているが、よく見るとロバート・デ・ニーロに似てバタ臭い顔立ちだ。私服刑事を見つけ出しては、ウイスキーびんを持った腕をくるくる回しながら罵倒する。おい見ろ、こいつポリ公だ! 人の後つけてコソコソ写真とるのがこいつらの仕事なんだ。なぁーオッサン! かなり恐ろしい感じ。
 ----これが、太田リョウがぼくらの前に初めて登場した瞬間だ。後で聞いたところでは、デモが始まるまで、茂みの中で酔っぱらって寝ていたらしい。かなりヤバそうなのが出てきたとぼくは身構えたが、彼の登場は思わぬ展開を巻き起こした。太田は、この奇妙な行進のまわりをウイスキーびん片手にひらひらと飛び回り、一瞬も止まることなくわめき続ける。腹の底からガラガラ声を響かせて公安を野次り倒し、嗤い飛ばし、行き交う人々に呼びかける。さぁー皆の衆、集まれ集まれ、デモ行くぞー! だがそのどこかリズミカルな口上に、気がつくと野次馬たちが本当に吸い寄せられ、行進に合流し始めたのだ。
 ----渋谷の街に出る頃には、見知らぬ顔の混じったこの集団は二百人に近くなっていた。ぼくが東京電力のPRセンター「電力館」の前で「5分間の座り込み」を呼びかけたときは、警官たちが大慌てで抑えにかかり、大変な騒ぎになった。一体こいつらは何者なのか、何がしたいのか、警察も対処に困ったに違いない。だが仕方のないことだ。ぼくたち自身にもサッパリわからなかったんだから。----
 太田リョウは六二年か六三年の生まれだから、当時二七歳くらいである。葛飾の貧しい家の生まれだが、私が後に本人に聞いたところによれば、父親はもともとは三里塚の農民だった。成田空港建設反対闘争からは脱落し、東京へ移り住んだのだが、TVで三里塚闘争の映像が流れるたびに涙ぐんでいたという。そんな父親への反発と、またそのあまりの極貧家庭ぶりに地域の共産党からすら相手にしてもらえなかった(太田によれば「カタギではなかったから」)恨みから、右翼になってやろうと決め、右翼ならぬヤクザの、金町一家の一員となった。金町一家は、手配師として日雇い労働者の街・山谷を仕切り、その労働運動と対立して、映画監督・佐藤満夫や山谷争議団の山岡強一を暗殺したところである。もっとも太田は、それほど深い事情を知って身を寄せたわけでもあるまいが。太田の金町一家での仕事はテキヤ、要は露天商で、御徒町の駅前で花を売った。長髪にアーミージャケットの太田は、「おかちのヒッピーさん」としてホステスたちの人気者になる。四月二日のデモで見せた太田の驚異的なアジテーションの技術も、天性のものでもあろうが、やはりこのテキヤ稼業で磨かれたものである。テキヤは天職だと感じていたが、朝鮮人や来日外国人に対する親分の差別的言動に我慢ならなくなり、腹いせに売り上げをごまかし始めた。後輩たちにもその方法を伝授し、やがて発覚して半殺しにされる寸前のところを、兄貴分の機転で逃がしてもらう。
 行き場がなく、ぶらぶらしていたある日、街で何かの署名をやっている集団の中のオバサンと目が合う。オバサンはつかつかと太田に駆け寄り、いきなり「あんた、警察キライやろ」と云った。その一言で、よく趣旨も分からないまま署名に応じた。これが、太田が新左翼の中核派に入ったきっかけである。
 当時は中核派のメンバーで、隊内で反戦運動をおこなう反戦自衛官のリーダーとして有名な小西誠の事務所に居候しながら、太田は中核派の活動に参加した。もっとも、オルグして獲得したはいいが、中核派の側も太田のハネッカエリな言動には手を焼いたらしく、太田によれば、「革命軍」(テロや内ゲバを専門にやる中核派の非合法部隊)に入れてくれと何度も志願したのだが、そのたびに断られたという。
 鹿島や山本の前に登場した時、太田はまだ中核派のメンバーであり、そのことを少しも隠していない。
 鹿島は、太田を警戒した。
 なんといっても鹿島は、法政大の学生である。法政の自治会は中核派が握っており----いや、法政こそは全国規模で見て中核派の学生運動の最大拠点校であり、その全学連本部も法政にある----学内の運動に対する党派の暴力支配の実態を、鹿島は間近で見ている。
 さらに云えば、秋の嵐の「一・八弾圧」において初めての逮捕を経験した見津毅が、獄中で「完全黙秘」を貫けなかったことを、当時オルグのために秋の嵐に接近していた中核派活動家数名が、原則論をふりかざしてやたらと糾弾したという一件があった。中核派は、これによって秋の嵐を解体に追い込み、見所のある“残党”を、自らのメンバーとして獲得しようと企図したのである。何らかのきっかけをとらえておこなわれるこうした策謀は、往々にして組織性の未確立なノンセクトの運動体に、党派が介入する時の常套手段である。この騒動も、鹿島は間近で経験している。
 だから、とくに中核派は許せないという気持ちが強い。四月二日のデモ後の飲み会で、太田の「豪快で強烈なキャラクターと、機関銃のように止まらない冗談とアジテーション」に魅力を感じはしたが、それとこれとは話が別だ。中核派の人間と親しく付き合ったり、まして仲間として遇するわけにはいかない。
 太田がいなくなってから、鹿島は他のメンバーにそう説いた。そのため、シーンへの太田の本格的な登場は、また先の話になる。

 思わぬ盛り上がりとなったイベントとデモについて、その意味をどうとらえたらよいのか、今後どんな方向へ進めばよいのかという議論に、しばらく日々が費やされた。
 また鹿島の文章から引用する。
 ----結論はこうだ。「4・2」が面白くなったのは、イベントで掲げたテーマのためじゃない。学生でもなく、労働運動でもない、どこの馬の骨か分からない連中が現れ、主役になったからだ。そもそも“秋の嵐”を始めとする若者運動や反原発運動からして、そういうものだったんだ。どこの馬の骨ともつかぬ連中の登場が、街頭の秩序、ひいては社会や「運動」の秩序に裂け目をもたらす。あらゆる機会を捉えて、こいつを拡げること。それが「4・2」にかいま見た可能性だ。と、まぁここまで明確に言語化したわけでもなかったが、そんな話をしながら、ぼくたちは新グループを「馬の骨」と命名した。----
 後期・秋の嵐の高揚の基盤をなす「九〇年」の重要グループ・馬の骨の誕生である。
 まもなく鹿島が「この命名の正しさをあらためて確認した」という奇天烈な闘争がおこなわれる。
 ----チェルノブイリから3年目の4月26日、「馬の骨」の面々5~6人はまたも渋谷「電力館」に向かったが、休館日のため肩すかしを食らってしまった。仕方なくビラを撒きながら原宿に向かう途中、渋谷公会堂前に「ラフィンノーズ」のライブを待つ行列を見つけた。当時ぼくらが、商業パンクだと言って馬鹿にしていたバンドだった。早速、試すような不遜な気持ちも込めて、行列するラフィンのファンたちにビラを撒きはじめたのだが、あっという間に、「ビラまきやめてください!」と叫ぶ公会堂の案内係の男の過剰反応に出会い、口論が始まった。さらにダフ屋までが、お前ら商売の邪魔だと言ってわらわらと集まる。----
 この日のメンバーの中に、G君がいる。前年の暮れ、初めて東京にきた私をそのまま山谷へ連行(?)し、秋の嵐「一・八弾圧」では私の目の前で逮捕されてしまった、あの佐賀出身のG君だ。どうやらこの当時、馬の骨によく出入りしていたらしい。剣道の達人で、ケンカっ早い彼が、突然ダフ屋に襲いかかったのである。
 ----もうこの後は、ダフ屋と「馬の骨」メンバーが入り乱れての大乱闘に発展。案内係は悲鳴を挙げ、ラフィンファンどもはうろたえ、遠くから立場不明の奇声を挙げる----それだけ。「何がパンクだ、笑わせんじゃねえ!」林君が赤い髪を振り乱して叫ぶ。この時だ。山本君が、彼の襟首をつかんで「お前ら何者だ!」と尋ねるダフ屋にニヤリと笑って答えて見せた。
 ----「馬の骨だよ」。
 ----「ウマノホネェー?」一瞬きょとんとしたダフ屋は、なにやら興奮して仲間たちに叫ぶ。「おい、こいつらウマノホネだってよ!」。やったやった、これがやりたかったんだよと、後で山本君ははしゃいでいた。ぼくも渋谷公会堂からの帰り、何だかうれしくて仕方がなかった。反原発のビラを撒きにいってダフ屋と乱闘する。何というアドリブ性だろう、これこそ「馬の骨」じゃないか。進むべき方向が見えてきた気がした。ぼくたちはこの日の出来事を「ラフィンノーズ粉砕闘争」と命名した。----
 本来やる予定だった「電力館見学闘争」は、日を改めて五月五日におこなわれた。
 メンバーでゾロゾロと、電力館の中にある原発PRコーナーを見学するだけの「闘争」である。ただし、反原発のゼッケンをつけた「不穏当」な姿で。
 出て行ってくれと云う職員や、迷惑だと云う子供連れの一般客と口論し、そろそろ警察が来るなという寸前のタイミングで、帰る。
 案の定、何食わぬ顔で電力館をゾロゾロと出て行く馬の骨メンバーの横を、逆方向に警官隊が駆け抜けていったという。
 ----こんなふうに思いつきで騒ぎを起こすのが馬の骨の「運動」だった。まったく無邪気な「ラディカル」ぶりだ。しかし、こんな連中のために事務所の一角をフリースペースとして使わせてくれる寛容な区議がいた。ぼくらは会議と称して週に数回はそこでおしゃべりをしていた。幸渕、幸渕の彼氏のケンちゃん、林、山本、カンコンという女の子、そしてぼくが毎回の常連で、これに“秋の嵐”のメンバーやいろんなバンドの奴、街頭で知り合った奴、不登校の少年などが茶飲み話をしにやって来ていた。用があって事務所に来た地域の労働運動のおじさんがこれに加わることもあった。ステ張りの技術などはそうした人たちから教わったのだった。楽しい時間だった。----
 無邪気で楽しいながらも、それ以上ではないと云えばそれ以上ではない馬の骨の活動に、その質的飛躍をもたらすインパクトを与えたのが、中国の天安門事件である。

 馬の骨は、五月五日の「電力館見学闘争」をさらに大規模に反復する計画を立てる。翌日に決行を控え、鹿島も所属する「反原発学生連絡会」からの応援メンバーらも交えて、横断幕など小道具を製作しながら、いつものように雑談に興じたのが六月三日の夜のことである。
 ----作業のあと、酒を飲みながらみんなが興奮して語り合ったのはしかし、原発のことではなく、北京で続いていた天安門広場の占拠の方だった。4月末以降の北京の学生運動が、天安門広場での座り込みに昇りつめていくのを、ぼくたちは固唾を呑んで見守っていた。テレビに映る、広場を埋め尽くす人の渦。色とりどりにはためく旗や横断幕は自由な連帯そのもののように活き活きと眩しかった。それはまさに、ぼくらが憧れてきたイメージそのものだった。その広場に軍隊が迫っている。「オレはあの広場のためだったら死んでもいいよ」と興奮した山本君が叫んでたのを覚えている。
 ----夜中、何となく眼が覚めて雑魚寝の中から起き上がったぼくは、テレビをつけてみた。赤い街灯に照らされた長安街を戦車が走っていた。人々に向けて放たれる乾いた銃声が、ひっきりなしに続いていた。----
 その日、鹿島らが電力館見学闘争のための事前合流場所としていた渋谷・宮下公園に行ってみると、偶然にもそこでは中国人留学生による抗議集会がおこなわれていた。
 ----あんな異様な迫力のある集会をぼくはその後も見たことがない。段取りが悪いのか、主催者のアピールといったものがなかなか始まらない中、群衆はうなりをあげ続けていた。誰かが「打倒リーパン!」「打倒トンシャオピン!」(引用者註.当時の中国共産党指導者、李鵬と トウ小平)と怒りに満ちた叫びを上げると、これを復唱する輪があっという間に広がる。集まった意味を互いに確認するかのように絶えず押し合いへし合いうごめき、ときに声をそろえて叫ぶ。うねりというしかない群集の固まりだった。あとで知ったところでは3千人はいたらしい。----
 そんな異様なムードの中、馬の骨のメンバーが次第に待ち合わせに到着する。たまたまこの日が最初のお披露目であった馬の骨の旗----山本製作の「馬骨旗」、鹿島によれば「水滸伝に出てくるような、端がギザギザになった中国式の軍旗で、黄巾賊の乱をイメージした黄色い旗」----が集合の目印だった。
 集まった馬の骨メンバーは、「全員一致」で電力館見学闘争を延期、この天安門虐殺抗議の留学生のデモについて行くことにする。
 鹿島の回想の引用を続けよう。
 ----こんな日に能天気な旗が恥ずかしくなったぼくらは、デモの最後尾を待ち、中国語のコールに唱和していた。と、『報道』の腕章をつけたおじさんが、飛んできた。
 ----「ちょっと待て。君たちは今日のデモで唯一の日本人グループなんだ。日本人を代表してここにいるんだ。中国語じゃなくて、日本語でコールをやらなきゃ!」
 ----気がつけば、確かに日本人はぼくたちだけだった。「そうだ! そうだ!」まわりの中国人からも声が飛ぶ。「分かりました」みんながうなづく。何だか大きな使命を負ったみたいな気がした。
 ----おじさんは腕章を指差して「オレは今日、これだからさ、後はしっかり頼むぜ」と映画のようなせりふを残すとどこかへまた飛んでいった。
 ----主催者の車から聞こえてくる中国語のコールを日本語に直して叫びながら、どこかの公園までデモした。すでに中国人たちでいっぱいとなったその公園で、馬の骨の旗は拍手で迎えられた。「馬の骨さん、がんばって!」と方々から声が飛ぶ。何もがんばってないのに。そもそも俺たち何て間抜けなんだろう。「馬の骨さん」だって。恥ずかしくなって横を見ると、早大原発研の舟橋君が涙を浮かべていた。----
 この日の体験が、鹿島らの「ぼくらも何かしなくては」という気持ちに火をつける。もちろん、それまでの馬の骨の、秋の嵐の実質的壊滅を補完するという消極的な動機と表裏一体であった、無邪気なお祭り路線から脱却しようという決意である。ちょうど、やはり初期の馬の骨のような作風だった早大ピリオド・見津毅が、知花昌一の決起に触れて、それを脱却する秋の嵐の活動へとシフトしたことに似ているかもしれない。
 ところで鹿島はこの回想記の中に、こんなことも書いている。
 ----天安門事件が当時の日本でどう受け止められたかを思い出すと、人質事件の被害者が糾弾される今の日本と、あれが同じ国だったのだろうかと不思議な気持ちになる。日本政府の排外主義と冷たさは当時も変わりなかったが、人々のなかには素朴な国際連帯の感情があった。
 ----中国共産党が学生運動を弾圧した事件であったが、「だから共産主義は怖い、日本も共産主義に気をつけろ」「だから中国人は怖い、日本も中国人に気をつけろ」「やっぱり遅れた国だ、日本に生まれてよかったなあ」といった類の声を聞くことはほとんどなかった。自由を求めて闘った学生たちにまっすぐに敬意をあらわし、彼らを助けようという声のほうが圧倒的に大きかったように思う。
 ----今で言う「サブカルチャー」系の書き手たちは、雑誌『宝島』などを舞台にいっせいに北京の学生運動を評価する文章を書いていた。えのきどいちろうなどは集会で発言までしていたのを憶えている。天安門事件に抗議し、民主化運動に関わった中国人留学生を守ろうという動きの中心は左翼やリベラルな知識人たちであって、文春などに集う保守派ではなかった。(略)
 ----天安門事件は、アジア各国で民主化運動が連鎖していた当時の情勢につながっていた。北京の学生たちは、運動スタイルにおいて韓国の運動の影響を受けている気配があった。韓国風のシュプレヒコールをしている学生の映像を見たこともある。各国の運動に鼓舞された北京の学生たちの動きは、再び各国に影響を与える。台湾では学生たちが台湾の民主化を求めて広場に座り込みを始め、ベルリンの壁は崩壊する。日本では翌年の釜が崎暴動で、おじさんが「お前ら、天安門と同じことやっとるやないか!」と機動隊に向かって叫んでいた。----
 八〇年代いっぱいはまだ存在感のあった、左翼やリベラル勢力によるさまざまな抗議運動や学生支援運動が展開される中、馬の骨では馬の骨ならではの視点でこれに取り組みたいと考え、議論が続けられた。鹿島によれば、「虐殺に抗議し、中国人留学生に連帯を表明するのは当然だが、ぼくたちはあそこに自由な広場があったことをこそ思い起こそう。そこにあった自由への思いをこそ追悼しよう。そんな結論になった」。
 馬の骨は、原宿ホコ天で「路上ギグ」をおこない、同時にそこで留学生保護(あんな「祖国」には帰れない、帰りたくない留学生は多かった)の署名を集めることにした。
 イベントは、「天安門広場での虐殺抗議・追悼ギグ 五月のある日」と題された。「五月のある日」とは、「弾圧の1週間前、天安門広場でギグをおこなった学生バンドの名前」だが、もっともこれはそれを報じた新聞の誤訳で、今思えば本当は「五月の空」というバンド名だったかもしれないとのことである。ともあれ、「五月のある夜、戒厳令下の天安門広場でライブを楽しんだ同世代の若者たちの思いを、ぼくらは共有したいと思った」と鹿島は書く。
 イベントでの演奏の合間に、短いスピーチをやってもらうゲストとして誰を呼ぶかで、馬の骨の会議は紛糾した。幸渕が、反戦自衛官を呼ぼうと云い出したからである。「天安門では、人民を守るはずの軍隊が人民に銃を向けた」、外国からの自国防衛とともに国内での「治安出動」をも任務とする自衛隊の中で、二〇年前から「国民に銃を向けるな」と呼びかけ続け、また天安門の中国人民解放軍のそれと「同じ兵士」でもあるはずの反戦自衛官の話を聞くことには意味があるというのである。だが先述のとおり、反戦自衛官の運動は、当時は中核派の傘下にある。鹿島は幸渕の提案を、そう簡単に承服できない。「反戦自衛官という運動の重要さは認めるし、閉鎖的な兵営のなかでそうした運動を行う人々の勇気は敬服する。だけど中核派と関わるのはごめんだ。こっちからわざわざ呼んでしつこいオルグを受けるのはいやだ」と抵抗した。が結局、長い議論の末に、鹿島が折れた。
 七月某日、イベント決行。まさに「五月の空」のような快晴の下、秋の嵐系のパンクバンドなどが“ギグ”をおこなう。
 ----数十人くらいが来ただろうか。『黒』編集委員の中島君も姿を見せた。ブラックジーンズに黒いTシャツ、黒いサングラスと黒づくめ。なんか怖そうなヤツだと思った。参加者は大きな赤旗に寄せ書きをした。「虐殺糾弾! じじいども皆殺しだ!」と書いたのは、後にロフトプラスワンで戦旗派に襲撃されたことで有名になる佐藤悟志君だ。----
 『黒』とは鹿島がこの回想記を掲載したアナキスト系のミニコミである。前に触れた、昭和天皇死去前後の「号外新聞」を作った老アナキスト・向井孝と、その(PC的に「連れ合い」とでも云うのがいいのか、まあ)長年の伴侶である水田ふう、そして中島雅一を同人として、二〇〇〇年から、向井の〇三年の死去を受けての〇四年の追悼特集号まで、不定期に刊行された。中島はたしか鹿島や山本とほぼ同世代で、八〇年代末から九〇年代にかけての、首都圏の若いアナキズム運動の主要活動家の一人であった。その後、末期の『思想の科学』編集部にも在籍し、私も秋の嵐との本格的な出会い以降、何度か親しく話す機会を持った。
 佐藤悟志は六五年生まれで、八二年、高校在学時に新左翼党派のまあ「大手」(中核派、革マル派、解放派の次くらい)である戦旗・共産主義者同盟に加入(戦旗派には荒派と西田派があって対立しているが、荒派のほうである。どうでもいいけど)。八六年に戦旗派を抜けてノンセクトの活動家となり、八八年、“自粛”状況下の秋の嵐の闘争に参加した。そのため八九年の馬の骨とも近い位置におり、佐藤も鹿島や山本とともに後期・秋の嵐の活動をその中心で担う、青いムーブメントにおける主要人物の一人となる。
 ちなみに佐藤は現在「青狼会総統」を名乗り、我が国において他称ではなく自称として「ファシスト」を標榜する、私の知るかぎり私以外に唯一の人間である。私は佐藤の掲げる「ファシズム」を真にファシズムであるとは認めない立場だが、そのことについてはまた後述する。鹿島が言及している九七年のロフトプラスワン事件についても(この調子で変遷を追っていくとずいぶん先のことになりそうだと気が遠くなるが)改めて書く。
 馬の骨の天安門事件抗議イベントの話である。
 あれほど反戦自衛官を警戒していた鹿島だが、いざそのスピーチに接するや、たちまち「心服」してしまう。スピーチした二人のうちの一人、片岡顕二は都市と広場について語った。世界の主な都市の中心にはたいてい広場があり、民衆は何かあればそこに集い、権力への異議申し立てをおこなうのだが、日本の都市にはそんな本来の意味や機能を持った「広場」がないと云うのだ。
 ----そうか! 原宿ホコ天で「天皇制反対」を叫んで無届けデモをしたり、電力館で騒ぎを起こしたりしているぼくらと天安門の学生たちとが、「広場」で結びつくんだ!----
 本筋からまたそれてしまうが、この日のイベントに関して、鹿島は回想記の中でこんな「後日談」にも触れている。
 ----ギグの最中、香港のTV局が撮影に現れた。原宿ホコ天を取材に来て、偶然このギグにでくわしたのである。大晦日に『アジアの若者たち』という番組を放映するのだという。数日後、幸渕、山本、林君の三人は「日本の若者代表」として長いインタビューを受けた。ギグの様子とあわせて大晦日の香港で放送されたらしい。それから一年後、ぼくらは突如、謎の香港人の訪問を受けることになる。アナキスト劇団のモックさん一行だ。モックさんの手には、ぼくらが作った中国語版のビラが握られていた。TV局に「あの日本の若者と連絡をとりたい」と言ったところ、ビラをもらったらしい。----
 八九年、いくばくかの「国際連帯」が確かに存在していたことを象徴的に示すエピソードである。「西」は、「東」や「南」の激動とは無縁だったという認識は、間違っている。

 元に戻す。
 反戦自衛官の口から出た「広場」という言葉に、鹿島と山本が敏感に反応する。議論の中で、「広場主義」なる新たな革命理論(?)が構築される。それは……?
 ----ぼくらが街頭でなにか表現しようとすると必ず警察が現れ「ここは道路だ。立ち止まるな。通行のじゃまだ」という。ぼくたちは労働者として、あるいは消費者として決められた道路を歩かされる。用意された選択肢を選ぶだけの「自由」。そこには可能性と呼べるようなものはない。人は他人の背中を見るか、すれ違うかだけであって、出会うことはない。思えばぼくらの人生そのものが「ここは道路だ。立ち止まるな。通行のじゃまだ」と言われながら歩かされているようなものになり果てている。
 ----こうした道路的秩序をぶちこわし、「広場」を現出させること。そこではじめてぼくらは誰かと出会い、生の可能性と出会う。街頭に「広場」的空間を現出させる運動は、街頭秩序の切断を超えて「生の広場」を現出させることを目指すのだ。そうした「生の広場」経験を通じて生の可能性を実感できなければ、政治的な変革なんて想像もできないことに止まるだろう。なるべく深く広く「広場」を現出させること。そのためには「出来事」の爆弾を「道路」に投げ込まなくてはならない。----
 後に私たち全国高校生会議の一派と出会った時も、鹿島はこの文脈で私たちの運動の意味をとらえたようとした。その学校の生徒でもない、それこそ「どこの馬の骨とも知れぬ連中」が、突如校門前に現れて盛んにビラまきをやる。しかも、場合によってはわざわざヒッチハイクで他県(しかもしかもそれはバラバラなあちこちの)からやってきてまでそんなことをする。この時、ビラまきはもはや「出来事」であり、何の変哲もない校門前は「広場」となる。まあ、そんな「理解」をしたようだ。実際そうだったのかもしれないが、私たちのスタイルはさほど意識的に選択されたものではなかったので、そこまで云われるとちょっと気恥ずかしくもある。
 私が「街頭ライブ」でメシを食っていることも、鹿島らに過大な幻想(?)を抱かせる原因の一つとなったかもしれない。たしかに私の初発の動機には、鹿島が云うような、ただの街角に「出来事」を現出させ(ストリート・ミュージシャンがまだ他に一人もいなかった九〇年前後の福岡では、それはまさしく「出来事」たり得たのだ)、既成の共同性から切れた何らかの「出会い」を求める志向があった。私が自らの活動を「街頭ライブ」と呼んだ(つまりしょせんは輸入文化へのフェティッシュな憧憬の吐露や、エキゾティシズムの表現にすぎない「ストリート」や「路上」という云い方を、別に何らかの思想的確信があったわけではなく、どうも気恥ずかしくてというのが正直なところだが、意識的に避けた)ことにも、馬の骨のそれとの同時発生性が、うすく現れているとは思う。

 それはともかく、ここで馬の骨の運動への、太田リョウの再登場となる。
 ----こうした論議を、ぼくらは「道路主義」「広場主義」「革命的出来事闘争」などといった造語で語った。革命的、というのは、まぁど根性の「ど」くらいの意味である。こうした空論的なおしゃべりの中心はたいてい、ぼくと山本で、幸渕はこうしたやりとりをニヤニヤとやり過ごしていたし、林君はそんな屁理屈にはなんの興味もないという顔をしていた。「で、次は何やるんだよ。早く決めようぜ」というのが彼のスタンスだった。だが、こうしたやりとりを面白がってくれる人物が突然、現れたのだ。太田リョウである。----
 私も太田本人から後に聞いたが、太田が馬の骨に再び出入りするようになったのは、やはり馬の骨が中核派系の反戦自衛官と接触してしまったためである。鹿島が危惧したとおり、中核派は馬の骨をなかなかイキのいい見所のあるグループだと判断し、太田に「頃合いを見てかき回し、残った目ぼしい奴を連れてこい」と“指令”したのである。
 が、太田はまさに「ミイラとりがミイラになる」形で、やがて中核派を離脱し、すっかり「馬の骨の人」となる。
 太田と共に、「クリト君」なるパンクスの青年が中核派から派遣されてきたという。当時すでに党派の運動がそれほど盛んではなかった九州を主に活動の舞台としていた私にはこのへんピンとこないのだが、鹿島によれば、「当時、戦闘的なイメージに惹かれて中核派に行くパンク青年は少なくなかった」とのことである。
 もっとも私のDPクラブの“フリースペース”にも、ちょうど分裂事件の前後の時期だったか、「九大生」を名乗る中核派の活動家が何度かオルグに来たし(それほど重要なオルグ対象とみなされなかったのか、それとも人材が涸渇していたのか、まったく魅力のない人だったので誰も相手にしなかったが)、DPクラブをとうに解散してから知り合った、北九州大学の戦旗・西田派の活動家も、実はDPクラブへオルグを派遣するかどうかが当時内部で議論になったと教えてくれた(この人はなかなか魅力的な人なので、もしほんとに派遣されていたら、ちょっとどうなったか分からない)。いつだったか第四インターというまあ新左翼のギリギリ「大手」ぐらいの党派系列の機関誌で、DPクラブの活動に妙に肯定的に言及されたこともある。このへんの事情は、現在のイラク反戦などの若者の運動においても変わらないのだろうか? よく分からないので、些細なことながら若い世代への参考までにと思い、触れた。
 ああ、ますます話が脱線するが、また思い出した。
 前に高校生会議のヒッチハイク情宣旅行のくだりで触れた、山口の怪しげな毛沢東主義の党派だが、ちゃんと書くとあれは日本共産党の六〇年代の内紛から分裂した「日本共産党(左派)」というところで、地元ではそれなりに活発な運動を展開している。福岡にもここのメンバーはそこそこいた(いる?)らしいが、DPクラブが福岡の左翼市民運動と友好的な関係を保っていた時期に、その中で知り合ったのは、この「日本共産党(左派)」から当時さらに分派したばかりだという「社会主義研究会」なるわずか数名の泡沫グループである。うち一人は私の数歳上で、たしか当時、北九州大学の学生だった。
 彼らは私に、DPクラブのメンバーを対象とした「『共産党宣言』の学習会」を提起し、当時はマルクス主義者であり、またちょうど分裂前後で、ふがいないメンバーを一人前の活動家に改造するにはそんな方法も有効かとも考えた私は、これに乗ったが、実際やってみるとあまりにもつまらなくて(『共産党宣言』が、ではなく“講師”役の彼らの話が)数回で「もういいです」と断ってしまった。
 まもなくその泡沫党派からもどういう事情でか離党もしくは除名処分となったKさんとは、現在でも薄く交流がないではない。Kさんは年齢的にはモロに全共闘世代なのだが、その時期はちょうどモスクワへ留学(立花隆の『日本共産党の研究』に出てくる、かの“クートベ”みたいなもんか!? と私はその話を聞いてドキドキした)しており、「だから全共闘のことは……よく知らない」という笑える人だ。一人ぼっちになったKさんは、今度は私に「福岡でもし武装蜂起をするとしたら、どのように部隊を配置すべきかといったことを、具体的にシミュレーションする勉強会をやらないか」などとトンデモ提案を持ちかけてきたが、笑ってごまかした。そういうトンデモなところや、個人的な話などは面白いのだが、どうも思想や実際の運動の話になると凡庸でつまらないのが惜しい人だ。
 Kさん以外のメンバーは、分裂後の停滞の中にあった時期のDPクラブのビラまき活動を一、二回、手伝ってくれたような記憶もあるが、その後、私が福岡の左翼市民運動総体との対立を深める過程で、やはり私のことを猛烈に毛嫌いするようになった。
 まあ、以上、情報としてどれほどの意味があるのか微妙な、たぶんどうでもいい脱線である。先の中核派や戦旗派の話も含め、若いノンセクトの、しかも非学生の運動と、党派との関係というか距離というか、九〇年前後の地方におけるそれの一例として。

 太田と「クリト君」は、中核派系の集会参加を勧誘する口実で馬の骨の会議に現れたが、「これにははじめからまったく誰も聞く耳を持たなかったから」、「クリト君」の方は一度きりで姿を見せなくなった。しかし、太田は頻繁にやってくるようになった。「と言ってもとくにオルグめいた話をするでもない。みんなのとりとめのないおしゃべりに面白がって聞き入り、爆笑を引き起こす独特のコメントをはさんでくるだけだ」。
 太田本人の弁によれば、鹿島や山本の話に、宮武外骨や赤瀬川原平の名前が頻繁に登場するのが新鮮だったのだ。太田自身、昔からその二人が大好きだったのだが、中核派では誰ともそんな話題を共有できず、フラストレーションがたまってもいたのである。鹿島によれば、馬の骨の「『出来事闘争論』には赤瀬川原平の『超芸術トマソン』の影響があった。街路や建築物の外観に意味のほころびを発見するトマソンを、ぼくらは道路的秩序に亀裂をつくる『出来事』として読み替えていた」。太田が「ミイラ」になってしまうのは、必然だったのである。
 馬の骨メンバーの側も、それでもかなり長く警戒を解かなかった鹿島も含めて、結局は太田を「昔からの仲間のように歓迎」するようになった。「中核派のオルグに来たのだということは本人も含めてすっかり忘れられていた」。

 鹿島の回想記からの引用が長くなっている。というより、ほとんど丸ごと引用しているに近い状態である。
 しかし、これは鹿島が悪い。
 本来、八〇年代後半の運動を、その背景となった国内や世界の情勢と総合する形で詳述する、などという並外れた能力を必要とする仕事は、鹿島がとっくにやっておくべきことなのである。鹿島がもたもたしてるから、しびれを切らして私のように本来不向きな者が、完成度を度外視してまで手をつけなければならなくなるのである。
 そもそも私は、青いムーブメントにおいて、私自身が主宰していた福岡のDPクラブと、全国高校生会議にしか主体的には関わっていない。あとはブルーハーツの(おそらく全国随一の)熱烈な支持者であったくらいである。鹿島よりも私の方が多くを語れるのは、ほとんどその三点についてだけなのである。
 鹿島拾市は、山本夜羽と並び、青いムーブメントのまさに生き証人である。ピースボートを経験し、反原発の小原ニューウェーブを経験し、札幌ほっけの会を経験し、前期・秋の嵐を経験し、馬の骨を経験し、この後さらに釜ヶ崎暴動を現場で経験し、後期・秋の嵐を経験する。私たち全国高校生会議系の運動とも、後期・秋の嵐の過程で親しく交流している。山本は、鹿島におけるピースボート、反原発の小原ニューウェーブ、釜ヶ崎暴動の代わりに、最盛期の高校生新聞編集者会議と青生舎を経験している。要するにこの二人は、青いムーブメント・政治運動部門のほぼすべてを実体験した、まったく稀有な存在なのである。
 しかし山本は、文章で理屈をこねるという能力に関しては私以下である(いや、山本もどうも私に対して同じように思っているフシがあるから、要はどっこいどっこいである)。やはり本来このような文章は、鹿島が書くべきなのである。だいたいそういう能力がある鹿島がさっさと「八〇年代後半論」を世に問うて、世間の歴史認識を修正してやらないから、なんだか私のそれへの執拗なこだわりが“電波系”の“妄想”のように扱われるのである。
 なんで私がやらなきゃいけないのだ!
 頭にくるから、ますますもって長々と引用してやる。著作権使用料は、貸し(?)にしておく。
 ----さて、その後の「馬の骨」の運動には、4月2日のイベントから引き継いだふたつの要素が並立していた。ひとつは「出来事闘争」。もうひとつは運動に新しいやり方や彩りを提供する「イベント路線」。どちらも実際には幼稚なレベルの話ではある。
 ----「出来事闘争」のほうは、動物愛護グループと共闘して、象を目玉にした24時間テレビのパレードに抗議、パレードに執拗に乱入して中継をほとんど不可能にした「24時間テレビ粉砕闘争」、泊原発の営業運転開始に抗議して乱入した「北海道電力東京本社『社内集会』実力開催闘争」など、今思えばよく逮捕者が出なかったものだという無謀なことをくり返した。「国労がんばれ」というシールを作って山手線の全駅構内に貼ってまわったこともある。
 ----「イベント路線」の方は、たとえば新しいシュプレヒコールの発明。「核燃粉砕!」とトラメガが叫ぶと『やっちゃえ! やっちゃえ!』とこれに唱和する「やっちゃえコール」や、「天皇!」『バツバツ!』「皇族!」『バツバツ!』「みーんなまとめてやっつけろ!」『オウ!』という「バツバツコール」などが作られた(正確に言えば「バツバツ……」の起源は“秋の嵐”の渋谷君による「ばきばきコール」)。他のグループや市民団体にもぜひ使って欲しかったのだが、残念ながらほとんど広まらなかった。
 ----また当時ロック関係の若者のあいだでバッジが流行っていたのだが、これに乗ってメッセージ性の強いバッジを制作した。山本君は漫画家志望だったが、ポップなデザインセンスにも恵まれていた。彼のデザインによるこれらのバッジは集会やコミックマーケットなどで大いに売れた。シンプルな反戦マーク、黒旗、反核もの、ゲイ差別に抗議するもの……20種類近くは作ったのではないか。デザインとして最も秀逸だったのは重信房子の指名手配写真をコラージュした「Fusako coming back soon!」と題したもの。べつに赤軍の思想に共鳴していたわけではないが、権力が嫌がるようなバッジを作りたかったのだ。これも売れに売れた。
 ----みんなで幾晩か泊まり込んでバッジをひとつひとつ組み立てた。馬鹿話をしたり、持ち寄ったマイナーなバンドのテープを聴いたり、山本が幸渕にからかわれて怒ったりしているうちに、朝になる。そんな日々であった。
 ----反原発を掲げた「原発いらないブクロ祭」という野外ライブを始め、反原発の集会も何回か開いた。毎回遊びを込めたビラを作っては、予備校や高校の門前でまいた。教師がいちゃもんをつけてくるのが常であったが、生徒たちの面前で激しい議論をふっかけて彼らを立ち往生させることも「出来事闘争」の一環だった。----
 もっと引用したる。
 ----年も暮れるころには、ぼくらも次第に知恵づいてきて、ようやく自分たちのセンスを保証してくれそうな本を探すようになった。当時人気があったコラムニスト山崎浩一の『退屈なパラダイス』、かなり溯って渋澤龍彦『神聖受胎』、ライヒ『階級意識とは何か』(これは隠れた名作!)、竹内芳郎『文化と革命』などなど。この頃はドゥルーズ・ガタリの『分子革命』(引用者註.『分子革命』でのガタリの共著者はドゥルーズじゃなくてネグリ)が大流行していたが、ぼくらには難しすぎた。
 ----そうして知恵の身をかじったせいだろうか、「馬の骨」の作風は微妙に変わってきた。この年の末、世論を震撼させた幼女連続殺人事件をテーマに討論会を開催。そこでは、事件を機に噴出したおたくバッシングに対して、おたくを自認する山本が、その背後にある「男らしさ」志向を指摘、男らしさからの解放=「メンズリブ」を提起した(数年後には、おたく男を中心にした「メンズリブ東京」が山本も参加して結成される)。----
 鹿島の回想記の中に、馬の骨が参照した諸文献の筆頭として、山崎浩一の『退屈なパラダイス』(ちくま文庫)が挙げられている。
 その中に、「9の字事件」に関する論考が収録されている。
 八八年二月のある夜、東京都世田谷区の中学校に数人組の男が侵入、警備員を縛り上げ、その間に、数百個の机や椅子を使って校庭に巨大な「9」の字を作って逃走したという事件である。しばらくして「犯人」たちは捕まったが、鹿島はこの事件も「九〇年」の----つまり青いムーブメントの、ということになるが----高揚を象徴する重要なひとつであると何度も私に語っている。私には今ひとつピンと来ないのだが(事件当時、私は例の無期停学期間中で、要するにセンスのまるでない戦後民主主義者時代である)、おそらく『退屈なパラタイス』所収の山崎の分析とそう変わらない評価であろう。この本は、現在でも入手可能と思うので、関心のある人は読んでみてほしい。
 ピンと来ないと云えば、宮崎事件も私にとっては同様である。もちろん山本の、オタク・バッシングに対する憤りは理解できるし、またそれは数年後のオウム事件で全開するマス・ヒステリー(とそれを煽る報道の“ワイドショー化”)の先駆的事例でもあろう。
 宮崎事件については、むしろ「八〇年」のサブカル文化人たちが敏感に反応した。中森明夫と大塚英志の長時間対談をメインに構成された『Mの世代』(太田出版)の刊行がその典型である。それまで社会的事件に、シニカルにではなく当事者意識を強くもって言及することの少なかったサブカル系文化人たちが、急に「社会派」じみてきたのもこの頃からである。広瀬隆ブームを契機に「社会派」発言が多くなったいとうせいこうもそうだが、知的な若者にそこそこ影響力のある範囲では現在まさに左翼系論客の代表のようになってしまった大塚英志の「社会派」化は、この宮崎事件からだと思う。
 「八〇年」型サブカル文化人の多くは、宮崎事件を彼らの世代における“連合赤軍”ととらえたようで、連合赤軍事件が全共闘世代の多くに立場の変更を促したように、宮崎事件もサブカル文化人に内省と立場変更を迫る思想的重大事件だったのだろう。世代の違う私にはピンとこないまでも、そういうものなのかもしれないな、というぐらいの認識はしている。しかし、であれば私たちの世代の“連赤”であるオウム事件を、まるで彼らの世代のそれであるかに“我田引水”するのはやめてほしい。それとも自分たちの世代は二度“連赤”をやらかすほど愚劣だったとでも云いたいのか。彼らは間違っている。オウムは、「八〇年」世代の運動ではなく、私たち「九〇年」世代の運動である。これについては、また改めて述べる。
 メンズリブについても、後述する。
 鹿島の引用を続ける。
 ----89年の12月末、馬の骨は『宝馬』と題した同人誌を発行する。表紙は白ヘルをかぶった太田リョウの顔のアップ。白ヘルには「過激派」と書いてある。前歯の抜けた口をニッカと開いた笑顔が迫力満点だった。公園やスーパーで「過激派」ヘルメットをかぶった「馬の骨」各メンバーのグラビアページ(もちろん白黒)を入れるなど、ふざけた内容が中心だったが、幸渕が書いた漫画「性のショウヒンカ」は各方面で評判になった。売春をしながらセクトの活動をしている女性を主人公にしたストーリーで、初めて書いた漫画だったらしいが、絵もセリフもあとに残る味わいがあった。(略)
 ----『宝馬』は300部があっという間に完売した。勢いがあったのだろう。
 ----だが、そこまでだった。年が明けると、「馬の骨」の定例会議は停滞したムードを見せていた。
 ----4月2日からの8ヶ月、よくもこれほどというほど、いろんな行動やイベントを打って来た。それもこれも、「出来事」や方法の提起によって運動を活性化させ、「広場」の創出に近づきたいという思いからだった。
 ----確かに、なにか新しいことをやるたびに新しい仲間が増え、定例会議はにぎやかになっていった。会議に突然現れ、右翼少年ではないかとぼくらをびびらせたスキンヘッドの佐々木君、いつも静かに議論に耳を傾けていた民青同盟員の「民青君」、南野陽子と親鸞にしか興味のない宇田川君、カンコンとともに「幸渕の娘たち」と言われたミカちゃん、元戦旗で洋楽マニアの小園君…。だが、気がつけば、行動計画を一緒に考える面子と、すべてが決まるまで離れたところで待っている面子とに、定例会議の「場」は二分してしまっていた。そこには「広場」がなかった。なにかを提起しても空回りになる予感が先立った。年が明けて何ヶ月かが、そんな調子で過ぎていった。----
 要するに、初期DPクラブのように分裂・崩壊にまでは至らなかったが、馬の骨の“フリースペース”にも“例によって例の問題”に逢着し、停滞したのである。
 九〇年四月一日、界隈で「エイプリル・フール事件」と称された決起によって、この停滞を突如として打ち破ってみせたのが、太田リョウである。以後、馬の骨の再高揚は、そのまま後期・秋の嵐の伝説的な「スピーカーズ・コーナー」の闘争へと順接的につながってゆく。
 九〇年の諸闘争についての記述に進む前に、私たち高校生会議周辺の出来事を中心に、八九年についての書き落としを、ここですべて片づけてしまおう。

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2006年10月25日 04:16に投稿されたエントリーのページです。

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