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青いムーブメント(18)

   18.

 まず大状況的なことから述べると、八九年の国内政治と云えば、なんといっても土井社会党の「マドンナ旋風」である。
 前年のリクルート事件や消費税導入(実際に導入されたのは八九年四月一日で、そういえば私は前日終了した第一回高校生会議の会場・東大駒場寮に仲間たちとまだ泊まり込んでいて、日付が変わった真夜中にコンビニに買い出しに行った時にみんなでブーブー云い合ったのをよく覚えている)などで政府・自民党への不満や嫌悪感が高まり、また数年前に新鮮なイメージで登場した土井社会党への期待感とが相乗効果をもたらして、この八九年七月におこなわれた参議院選挙で自民党惨敗・社会党大勝という結果が出た。
 土井たか子が委員長に就任した八六年当時の社会党は凋落傾向著しく、だからこそ斬新な土井路線への転換となったわけだが、就任当初の土井は悲壮感いっぱいに「やるしかない!」を連呼して、この言葉は流行語化したし、また土井たか子のモノマネをする時の定番フレーズにもなった。
 八九年の参院選では、土井は「山は動く」を連発した。この頃まで国会における自民党過半数体制は、“動かざること山のごとし”のイメージだったのだ。それがこの参院選で崩れた。参議院で与野党が逆転し、土井たか子が首相に指名された(もちろん衆議院では自民党が多数なので“土井首相”は誕生しなかったが)。「山が動いた」のである。
 世界規模の激動は、このような形で日本の国政にもいくぶん波及していたと私は思う。
 この時、社会党が各地に擁立して大量当選させたのが主として新人の女性候補で、それでこの現象は「マドンナ旋風」と云われた。
 この参院選の比例区には、「反原発」を掲げるいくつかの“ミニ政党”も候補者を擁立していたが、当選は一人もいない。
 この参院選において、反原発派の間にヘゲモニー争いが生じて足並みが乱れ、ひとつの「政党」に勢力結集を図れなかったという話も聞くが、そもそも前年夏の「札幌ほっけの会」の闘争を最後に、反原発運動は勢いを失っていた。勢いのみならずその「ニューウェーブ」的革命性も失い、ふたたび堕落腐敗の「オールドウェーブ」路線に回帰してしまったという話もすでに書いた。以後現在に至るも八八年の水準にまで反原発運動の盛り上がりが回復されたことはない(冷戦構造や五五年体制が完全に解体した九〇年代半ば以降にそんなことがあればすでに原発廃止の方向へ政策転換がおこなわれているだろう)。その失速がおそらく昭和天皇危篤の自粛騒ぎに起因しているという見解も前に述べた。べつに反原発派が律義に「自粛」につきあったというのではなく、左翼総体が原発どころではなくなったというような意味合いである。
 社会党の「マドンナ旋風」とは別だが無関係ではない出来事として、この同じ八九年七月、フェミニズムの活動家として著名な三井マリ子が東京都議会選挙でトップ当選(二期目)している。
 ここでちょっと脱線して、八〇年代のフェミニズムの動きを概観しておきたい。八〇年代のとくに後半はフェミニズムが急速に勢力を拡大した時代でもある。
 フェミニズムの前にはウーマンリブがある。フェミニスト自身の整理によれば、七〇年代がウーマンリブの時代、八〇年代以降がフェミニズムの時代、ということになっている。あるフェミニストは、ウーマンリブの時代というのは現場の活動家にシーンの主導権があった時代で、学者など言論人に主導権が移ってフェミニズムの時代となった、と解説している。
 日本にウーマンリブの運動が誕生したのは七〇年のこととされるが、私はここにも例の「華青闘告発」の濃厚な影を見る。七〇年七月七日の華青闘告発以後、日本の新左翼運動のメインは「自己否定」的な(差別を受けている当事者側からすれば非被差別者たちに脅迫的に「自己否定」を要求する)反差別の運動になった。ウーマンリブの高揚は七〇年代前半の、「七〇年」ムーブメントの後退期あるいは腐敗期を象徴する出来事のひとつである。
 東大近くの生家の商売を手伝いながらベトナム反戦などの活動に参加していた田中美津は、六九年の安田講堂への機動隊導入などに衝撃を受け、「性の解放」を唱えて全共闘運動にも影響を与えた精神分析学者ウィルヘルム・ライヒの著作やアナキズム文献に没入、七〇年八月、「エロス解放宣言」と題したビラを配布して日本ウーマンリブの開祖となる。特にシーンに絶大な影響を与えたのは、同じくこの八月末に「侵略=差別と斗うアジア婦人会議」の集会で配布した「便所からの解放」というパンフで、この集会の名称からもウーマンリブが華青闘告発直後の特殊な雰囲気の中で登場したことが充分に想像される。
 田中らが呼びかけて、同十月二一日「国際反戦デー」のデモに「ぐるーぷ・闘うおんな」の旗を掲げる女性だけの隊列を実現したのが、日本ウーマンリブの誕生を広く印象づける出来事となり、翌十一月には最初のウーマンリブ集会「性差別への告発」が東京で開催される。
 七一年八月に長野で開かれた四日間の「リブ合宿」には全国から約三百名が参加し、以後ウーマンリブは各地に拡大する。翌七二年五月の「第一回ウーマンリブ大会」には約千九百名が参加とある。
 この高揚の渦中で書かれた田中の『いのちの女たちへ』は、日本のウーマンリブ、そしてフェミニズムの活動家にとって聖典ともいうべき最重要著作である。当時の資料をパラパラめくっていると、他に例えば現在は評論家として活躍している小沢遼子や、二〇〇三年に石原慎太郎の対立候補として都知事選に出馬して惨敗した樋口恵子などが、当時すでに名のある活動家としてちらちら登場する。
 私は、この初期のウーマンリブが、実はけっこう好きである。言動もセンスも問題ありあり(現在にまで至る無党派左翼の、団体名やスローガンにやたらと平仮名を使用する気持ちの悪い作風も、ウーマンリブが源流だ)だが、何もないところから運動を立ち上げていく時の、ああでもないこうでもないという混乱しつつもこの上もなく熱い感じとか、同じことだがろくでもない失敗や行き過ぎを含めて試行錯誤し右往左往するエネルギーが、何ともほほえましい。結果として華青闘告発以後の新左翼運動総体の倒錯と連動するから、私は全体としては否定的評価を与えるしかないが、「本当の自由とは? 本当の解放とは?」と自問自答を続けた当時の彼女たちの姿勢には激しく共感するのである。
 それに、わけのわからないエネルギーにつき動かされて暴走する田中美津が、次第に周囲を巻き込み、リブ合宿、リブ大会へと展開していく経緯は、まるで私たちの全国高校生会議のそれを見ているような親近感を覚える。実際、私たちの先導者であった森野里子は、実は田中の『いのちの女たちへ』の熱烈的愛読者であった。また、リブ合宿のことをどこかで聞きつけて参加を申し込むと、本番当日まで「リブ合宿ニュース」が送られてくるようになり、そのことがまた参加予定者の期待感・高揚感を醸成したという。これまた我が沢村の『ごった煮』そっくりである。もっとも沢村の方が二〇年近く後なのだから、もしかすると私が知らなかっただけで、森野の忠実な下僕だった沢村はリブ合宿の“故事”を意識していたのかもしれないが。さらにこのウーマンリブ草創期には、田中の自宅アパートや、七二年に開設された「リブ新宿センター」が周辺の活動家たちのたまり場となって、ほとんど合宿が常態化したような状況だったともある。これまた我が全国高校生会議周辺でも、まだ書いていないがこの八九年以降、似たような展開をするのである。
 総じて私は、初期ウーマンリブについて、善悪の評価軸では否定的だが、好悪のそれでは肯定的、といった立場である。これは実は社会主義に対しても同様で、まあマルクス主義者をやめて以降の評価だが、「科学的社会主義」を自慢げに標榜するマルクス主義よりも、「空想的社会主義」とバカにされたマルクス以前の初期社会主義者たちの方がずっと魅力に富んでいると私は思っている。私は、ウーマンリブとは「空想的フェミニズム」であり、逆に云えばフェミニズムとは「科学的ウーマンリブ」なのだと規定しているが、この規定自体には多くのフェミニストたちも同意するだろう。ただ私は、フェミニストたちと違い、「科学的」なフェミニズムよりも「空想的」なウーマンリブの方が百倍マシであったと思うのである。
 話がまた停滞している。
 ウーマンリブがヘンテコなことになってくるメルクマールが、七二年の通称「中ピ連」----「妊娠中絶法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」の登場である。当初、中ピ連リーダーの榎美沙子は、運動周辺でも一種“困ったちゃん”のような扱いで異端視されていたようだが、掲げている運動目標が明確なのと、マスコミ利用に長けていた(というよりもマスコミの側が利用しやすいキャラ、運動だった)ことで急速に勢力拡大を実現した。
 ピンクのヘルメットに「中ピ連」、サングラスにマスクという過激派スタイルのパロディのような扮装が、まずマスコミの好餌となった。字面の上で掲げているテーマが、直接にセックスに関係する問題だったことも、下世話な妄想を煽っただろう。さらに何よりも、「中ピ連」は行動が派手だった。産婦人科の医師の学会に件のスタイルで押しかけたことも話題となったが、直接に中絶問題と関係ないようなテーマでも、中ピ連は盛んに行動した。七二年秋には、ミスインターナショナルのコンテスト会場に「ミスコン粉砕」のプラカードを掲げて突入したり、七四年夏、「女を泣き寝入りさせない会」を名乗って、単に不倫だの離婚だのといった男女間のモメ事に介入、男性側の職場にいつものスタイルで押しかけ抗議して、何件かでは実際に高額の慰謝料を脅し取るなど、その突飛な行動はマスコミを飽きさせなかった。もちろんマスコミは、性差別について真剣な議論を喚起せんと中ピ連を大々的に報じていたのではなく、多分に揶揄的に、面白半分に消費したのである。ちょうど、昨今の田嶋陽子のような扱いだったとイメージすれば正解だろう。ブームは数年続いたが、七〇年代半ばを過ぎる頃にはさすがに飽きられ、榎は女性だけの政党だの女性だけの教団だの、マスコミの興味を惹くためのくだらない悪あがきをしばらく続けたが、結局七七年に中ピ連を解散、以後、その名前は運動史から完全に消えてしまった。
 フェミニストが運動史を回顧した本はたくさんあるが、いずれもこの中ピ連に関しては歯切れが悪い。フェミニストの目から見てさえ、中ピ連は「ちょっといかがなものか」という存在なのだ。かといって、言及しないわけにもいかない。なにしろ七二年から七五年頃まで、ウーマンリブといえば中ピ連、中ピ連こそはウーマンリブの代名詞的存在だったという現実があるからだ。イデオロギー的に多くの部分を中ピ連と共有しているフェミニストは、その暴走を「完全な誤り」と認めることができない。「正しいんだけど、ちょっと……」とお茶を濁すしかないのだろう。
 しかし、中ピ連はウーマンリブの必然的帰結であると私は思う。最初の方で全共闘の「自己否定」というスローガンに関して述べたように、この種の運動においては、最も愚劣な形態が常に最終的には主要な形態となる。とくに華青闘告発以後の倒錯した左翼シーン(その倒錯は現在も続いている)においては、反差別運動は中ピ連のような形態へと必ず収斂していくメカニズムが完成している。
 七〇年代後半、ウーマンリブの凋落と入れ替わるように、学問の運動であるフェミニズムが勃興してくる。『フェミニズム論争』で江原由美子は、その前後に「女性学」という言葉を冠した研究団体が次々と登場した七八年頃から、エコロジカル・フェミニズム論争というものが巻き起こりフェミニストの言動が論壇一般の関心の対象となる八三年までの約五年間を、「運動体・行政団体・研究者のいずれも主導権をとれずそれらの関係も明白でないままに並び立った時代」と形容している。私は、女性解放運動が政治運動の現場から相対的に撤退ぎみとなり、学問の運動へとシフトしていったことも、「外山史観」で云う「八〇年」の同時代的な現象として解釈できると思う。「ホット」なウーマンリブは過去のものとなり、「クール」なフェミニズムの運動が登場する。もっとも、学問という枠の中で比較すれば、フェミニズムはむしろイデオロギーまみれ前提の「暑苦しい」学問ではあるから、「八〇年」の文化運動の主役とはもちろんなり得なかったが。
 八〇年代後半にフェミニズムが注目されるのは、実は一時的なウーマンリブの復興現象としてではなかったか、というのが私の見解である。八〇年代前半は、あるいは「フェミニズムの時代」であったかもしれないが、八〇年代後半は実はもう一つの「ウーマンリブの時代」ではなかったか? いろいろ思い出しながら書き進めつつ、私は「八〇年代はフェムニズムの時代」というくくりも、例の「八〇年代価値相対主義」などと同じ、既成の八〇年代論に由来する誤りではないかと疑い始めている。これは「青いムーブメント」を歴史的にきちんと位置づけようとするあまりの、私の牽強付会だろうか。
 もう少し見ていこう。
 八三年に青木やよひがエコロジカル・フェミニズムを提唱するのは、私にはやはり同時期の反核運動との関連が明白であるように思える。軍拡と密接に結びついたテクノロジーの支配の背景には、理性的、能動的、競争的な「男性原理」があり、それに対抗する感性的、受動的、平和的な「女性原理」を称揚するのがエコフェミである。こうした観点は、平和運動にはもちろんのこと、環境保護運動や、あるいは管理社会批判の運動の現場でしばしば援用された。何度も云うように「青いムーブメント」においては思想・学問の運動が欠落しており、つまり私たちは総じて不勉強であったから、それがエコフェミであるという自覚は多くの場合なかったと思うが、事実上のエコフェミ的な言説は、八〇年代末の反原発や反管理教育運動の周辺でも普通に流通していた。いや、はっきり云おう。エコフェミこそは、私たち「九〇年」の活動家の多くがなんとなく共有していた唯一の“思想らしきもの”であった。恥ずかしい話、私自身が、当時はエコフェミ的な言説には素直に共感していたような気がする。エコフェミには、はっきり云って学問的な裏付けが乏しく、そもそも理性より感性を重んじているところからしてその反学問的なありようは明らかで、要するに「気分」のような非思想である。だからこそ思想運動を欠いた「九〇年」のムーブメントにフィットしたのだ。
 エコフェミは、学問としてのフェミニズムにおいては異端的少数派である。八五年に、「マルクス主義フェミニズム」という、現在は反共主義者であり反フェミニズム論者でもある私からすれば二重に不吉な名前の思想を掲げる上野千鶴子が、青木のエコフェミを学問的に批判し、論争となったが、思想である上に「科学的」な(しかも二重に)上野の議論に、しょせんは非思想であるエコフェミの青木が太刀打ちできるはずがない。だが現実には「九〇年」のムーブメントの現場で、(青木が人気があったというわけでもないが)上野的な言説に人気があったわけではない。
 ちなみにこんなことは本来書くまでもないことなのだが、「教養の崩壊」著しい同世代以下の読者を意識せざるを得ないので一応書いておくが、我が国でフェミニストと云えばまず上野千鶴子を思い浮かべるのが教養ある人の“常識”である。他には、小倉千加子とか江原由美子とか。つまりフェミニストと云われて田嶋陽子を反射的に思い浮かべてしまう人は、要するに「教養がない」のだから、とりあえず恥じて、まあだからといって今さら勉強に打ち込む無駄な時間を教養はともかく志のある若者が持ち合わせているとも思えないから、せめてやはり恥じるべきだろう。ただし諸君に教養がないのは、それを身につける環境が奪われているからで、そういうことも全部ひっくるめて社会のせいにしといてよいと思う。もっとも、「フェミニスト? うーん……田嶋陽子みたいな奴?」という認識は、三六〇度ヒネった上でのことならまったく正しい。最も愚劣なものが最も普遍化するのだから、上野千鶴子だろうが福島瑞穂だろうが、フェミニストなんてのは全員、田嶋陽子という本質にちょっと装飾をほどこしたものにすぎない。
 どうもフェミニズムの話題になるといろいろムカついてきて話がそれがちだ。また戻す。
 「九〇年」のムーブメントにはエコフェミ的な「気分」がなんとなく浸透していたが、実際の運動現場でも、フェミニストたちの姿は多く見られた。しかし先述したように私見によればそれはフェミニズムというよりウーマンリブがフェミニズムを仮装したものであり、しかも私が思想的には同意できないまでも人情としては大いに認めたい田中美津のような初期ウーマンリブの復活ではなく、中ピ連的な倒錯したウーマンリブの再現であった。だからこれは、「青いムーブメント」の裏面、暗黒面ということになる。
 PCという言葉がある。
 これも、今後社会派チックに盛り上がりたい有為の若者には必ず覚えておいてほしい言葉である。現在の情勢を語る上で、その中心に置かれるべきキーワードの一つなのである(が、もはや左翼は全員バカだから、知らない奴の方が圧倒的に多くて呆れるが)。
 メンドくさいので『現代用語の基礎知識』から引用する。
 ----と思ったら手持ちの二〇〇〇年版には載っていない。じゃあ『イミダス』の九九年版。……載ってない。『知恵蔵』の九三年版。……載ってない。本当にムカつく。これではまるで私が非常にマイナーでローカルな問題を、ことさらに現代の中心課題であると強弁して読者に押しつけようとしてるみたいじゃないか。「青いムーブメント」を歴史的事実として認めさせようという本稿の大目的にしてもそうだが、これでは不当な“電波系”扱いもやむを得ないのかと心細くなる。しかし、間違っているのは私ではなく『現代用語の基礎知識』や『イミダス』や『知恵蔵』の編集部の方である。もはやマスコミは現実を何ら反映していない。正しいのは私である。
 まあいい。ネットで検索する。「読売年鑑2001」というページに載っていた。さすが読売? 長いが重要なので全文引用する。
 ----ポリティカル・コレクトネス(political correctness)の略。「ピー・シー」と呼ばれることが多い。直訳すれば、「政治的公正さ」。さまざまな民族、宗教、文化を背景にした人々が隣人として生きる現代社会において、出自の違いなどから生じる差別をなくすべきだ、との考え方を指す。1990年代の米国で盛んに用いられるようになった。
 ----根本にあるのは、従来の伝統的価値観や思考が、欧米優位・白人優位・男性優位の理念に基づいていたとの反省であり、あらゆるマイノリティー(少数派)の立場を擁護しようとの姿勢を表してもいる。例えば、コロンブスのアメリカ大陸「発見」は、先住民の視点に立てば、アメリカ大陸「到達」となる。chairman(議長)はchairpersonと表現すべきだし、結婚はしないが、同棲のカップルが増えている現代社会では、伴侶は男であれ女であれ、partnerと呼んだほうが無難、といった具合だ。
 ----PCは人種差別、性差別だけでなく、障害の有無、肉体的特性に根差した個人的差異もターゲットにする。「ヒー・イズ・ファット」(彼は太っている)と言うのはPCに反する表現であり、「ヒー・イズ・ホリゾンタリー・チャレンジド」(彼は水平線的に挑戦を受けている)と遠回しに言うのが、PCにかなった表現となる。
 ----英米の新聞では連日のように、記事の中で、PCに言及した個所が出てくる。米大リーグのナンバーワンを決めるシリーズは、ワールドシリーズと呼ばれる。「他国」の目を意識してか、ワシントン・ポスト紙は2000年秋、「PCを無視して言えば、さあワールドシリーズの到来だ」と報じた。
 ----だが、PCに対する冷ややかな視線も強まっている。PCはつまるところ「言葉狩り」であり、言論・表現の自由を奪っているとの指摘だ。2000年の米大統領選でのブッシュ、ゴア両候補のテレビ討論は、両者がPCを意識する余り、とても退屈な討論に終始したとの意見も聞かれた。
 ----マイノリティーの権利を擁護する一部のグループがPCを「錦の御旗」に過激な行動に出る恐れも懸念されている。旧植民地の国々からの移民の台頭で、米国同様に人種的葛藤・対立が社会問題となる英国でも、保守層からは「政治・社会的に細やかな気配りをするのと、ポリティカル・コネクトネスは別物だ」などと、PCの乱用に対する不満が噴出している。----
 実際にはアメリカのPCは、たしかに目に見えて盛んになったのは九〇年代に入ってからだろうが、登場したのはやはり八〇年代後半で、まず大学を中心に、「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」と云い換えるような運動として始まった。さらにやはり、その背景には、六〇年代の公民権運動や学生運動、反戦運動がアメリカでも七〇年代に入って反差別運動へと特化し、じわじわと左翼やリベラル層の言動を変質させていったという、日本で起きたのと同じような事情がある。もっとも、PCなんて横文字のしかも略語をそのまま輸入するから他人事のような印象を与えてしまうのである。『現代用語の基礎知識』や『イミダス』の別の年度版には「PC」の項目があるのを見たことがあるが、そこでもやはり「政治的正しさ」とか「政治的公正さ」などと訳していた。そんな座りの悪い日本語ではニュアンスはまったく伝わらない。「読売年鑑」ではほのめかされているが、私はまだ、私以外の人間が、PCの訳語として「言葉狩り」という由緒正しい日本語を使っているのを見たことがない。つまり、英米だけでなく「PC」は我が国でもずっと以前から拡大していた。
 しかし部落差別用語や、あるいは「おし」「めくら」の類を忌避する(させる)運動はかなり以前から存在したが(私は、これらについても否定的である)、引用したアメリカの例のような、「七〇年」の運動の倒錯に起因する差別表現規制が顕在化してきたのは日本でもやはり八〇年代後半だと思う。
 先駆的には、ウーマンリブの暴走で、前にも触れた中ピ連のミスコン批判や、あるいは七五年に結成された、こちらは中ピ連と違ってウーマンリブ主流の「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(八五年に「行動する女たちの会」に改称)が同年、ハウス食品のCMコピー「ワタシ作る人、ボク食べる人」が性役割分担固定の差別表現だと抗議して放映中止させた例などがある。しかし中ピ連の行動は揶揄的に報じられただけで、実際はそれ以降も各地でミスコンはおこなわれていたし、ハウス食品の場合もまあ反論しようのない正論(実は眉唾ではあるが)で抗議された以上、営利企業としてモメゴトを回避したまでのことである。
 しかし、街頭のヌード彫刻が女性差別であるとか、ポスターの女性の衣服の乱れがレイプを「連想させる」などといったメチャクチャな論法で、さまざまの表現に抗議する運動は、八〇年代後半に至るまでは少なくとも顕在化しなかったし、あったとしても今でいうそれこそ“電波系”扱いだったろう(このテの“電波”な一種“陰謀”論的広告表現批判隆盛の追い風の一つに、八九年に翻訳刊行された『メディア・セックス』----いわゆるサブリミナル広告の実態を告発した本が話題となったことがあるだろう)。
 ミスコン批判が再燃したのも八〇年代末、正確には八九年のことである。大阪府堺市の、「堺市女性団体連絡協議会(堺女性協)」という団体が、「花と緑の博覧会」でのミスコン開催に反対して猛烈な抗議行動を繰り広げ、全国的に報道されたのである。これ以降、大小のミスコンが、フェミニストの抗議により次々と中止に追い込まれるようになった。先述のフェミニスト都議・三井マリ子もミスコン批判の急先鋒として当時よく名前が出ていたはずである。
 フェミニズムとは別だが、堺市にはもう一つ、「黒人差別をなくす会」という有名な団体がある。部落差別問題に主に取り組んでいた堺市の教育委員会の職員が、妻を「会長」、当時小学四年生の息子を「書記長」として、八八年に旗揚げした、もうまったく“電波系”の団体である。ここが、八九年に童話「ちびくろサンボ」を黒人差別として告発するや、すべての出版社が一斉にこれを絶版とした。また、黒人をあしらったカルピスのシンボルマークも、この「黒人差別をなくす会」の抗議によって、あっというまに使用中止となった。
 堺女性協も、この“電波系”団体と連動して、八九年に「絵本・童話研究会」をつくり、「問題」のある図書をリストアップする云わば“検閲”運動を展開する。
 狂信的なPC運動が、日本でも顕在化したのである。先に述べたような、さまざまの芸術作品や企業広告を検閲し封殺するフェミニズム(というより没理論のウーマンリブ)の猛威は、多くは「行動する女たちの会」の名前とセットで印象づけられたように記憶しているが、私の現在の乏しい情報収集能力では具体的実例が挙げられない。もっとも曖昧な記憶に基づく決めつけであっても、この場合は当の「行動する女たちの会」にとって不名誉ではなかろうから、かまうまい。
 あるいは「セクハラ」という言葉が流行語となるほど一般化したのも八九年である。
 福岡の女性協同法律事務所という、まさにこの年に設立されたフェミニスト弁護士グループが、日本で初めてのセクハラ裁判を開始したためである。三年後に勝訴して、女性協同法律事務所は、フェミニズム運動シーンにおいては全国的に有名な存在となるが、この裁判の内実がいかにヒドい代物であったかは、当の原告女性によって後年、告発されることになる。関心のある方はぜひ、晴野まゆみ『さらば原告A子』(海鳥社)を読んでいただきたい。フェミニストどもはこの裁判を画期的なものとして当時も今も称賛するが、連中は晴野のこの重要著作を読む気もないし、読んでも無視するのだろう。
 まあ晴野の本は弁護士がいかに当事者である原告をフェミニズム運動のコマとして(もちろん本人の意向を踏みにじって)利用したかという告発であって、自分が受けたセクハラについてはやはりヒドいものとして回想しているので、ここでの私の議論とは直接には関係がない。これまた、フェミニズムに関してはつい頭に血がのぼっての脱線である。
 とにかく八九年はセクハラ問題が顕在化した年でもあり、セクハラ告発をはじめとするフェミニストたちの各種糾弾が日本のPC的運動の代表格であることは今さら私が指摘するまでもないだろう。基準のあいまいな----というよりそもそも基準は告発する側のアタマの中に、しかも場当たり的にいつでも変動するものとしてしか存在しない----他者の言動への“検閲”運動が、青いムーブメントと併走する形で成長する。
 付け加えておくと、男女雇用機会均等法が、八五年の成立である。
 もうひとつ忘れていた。
 「アグネス論争」である。
 八七年、TV局や講演会場に「子連れ出勤」し、働く女性の育児問題に関する発言で半ば文化人扱いされ始めていたタレントのアグネス・チャンに、エッセイストの林真理子と中野翠がそれぞれの週刊誌連載で嫌悪感を表明したのが「論争」の発端である。アグネスvs林・中野(呉智英は、一連の過程で両陣営いずれも「チャン」ではなく「アグネス」と表記するところにもアグネス論争の本質が現れている、ともっともなことを述べていたが)のバトルがしばらく続くが、翌八八年五月、日本フェミニズム界のドンともいうべき上野千鶴子が、林・中野のアグネス批判を、女性の社会進出を阻む「男社会」を利するものだと朝日新聞紙上で書いたあたりから、多数のフェミニストがこの論争に参戦、フェミニスト以外の論客も巻き込んで、この八八年から翌八九年にかけて、ほとんど社会風俗的な現象ともいえる(「アグネス論争」は八八年・流行語大賞の「大衆賞」にも)大論争に発展した。
 その内容にふみこむとまた長くなるから省略する。関心のある人は、この問題についての関連書籍は現在でも容易に入手できる形で多数存在するから、それらを読んでほしい。
 この論争では、ほぼすべての著名フェミニストがアグネス擁護派として林・中野を批判する側に回り、林・中野側についた著名フェミニストは小倉千加子ただ一人であったが、そのことを荷宮和子は「学者フェミニストが林真理子をバッシングしていなければ、今頃林真理子は、日本の社会で最も影響力のあるフェミニストになっていたかもしれない」のにと悔しがっている。
 そういえば荷宮和子は、浅羽通明以外で唯一、八〇年代後半の社会派ムードの存在に不十分ながら言及している論者である。「女子供文化評論家」を名乗る荷宮は六三年生まれ、自らを団塊世代と団塊ジュニア世代に挟まれた少人口の「くびれ世代」に属すると表現する。八〇年代の「フェミニズム的な空気」の中で自己形成し、現実のフェミニズム運動の野暮ったさには違和感や苛立ちを表明しつつも、九〇年代以降の世論のいわゆる右傾化に抵抗を挑む発言を続ける荷宮は、まあ要するに私などから見れば醜悪な「非転向分子」ではある。もっとも一連の青いムーブメントの経験者でも、八〇年代半ばにはとうに成人していた年長世代は、保坂展人や辻元清美など(あるいはどうやらACFのスタッフだかなんだか、とにかく関係者だったらしい六二年生まれの左翼系社会学者・小熊英二とか)を見れば分かるように「非転向」であるのが普通だが。
 とにかく八九年は、セクハラ問題と前年からのアグネス論争とで、「フェミニスト」という存在が、政治運動や学問の世界を飛び越えて、一般に広く認知された年であった。
 蛇足ながら田嶋陽子がフェミニストの代表格のようにイメージされるきっかけとなる『たけしのTVタックル』出演は、翌九〇年からである。

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2006年08月21日 14:40に投稿されたエントリーのページです。

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