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青いムーブメント(9)

   9.

 八五年に本格化した青いムーブメントが、加速するのは八七年である。
 前に述べたようにこの年、まずブルーハーツがメジャーデビューしている。
 同じくらい重要な出来事が、政治運動の世界にも生じている。
 一冊の本が、ベストセラーとなった。
 広瀬隆の『危険な話』である。
 広瀬隆はチェルノブイリ原発事故以来、その被害実態や、そもそもの原発の危険性、そして原発問題をタブーとするマスコミと政財界の癒着の構造などについて、全国各地で地道な講演活動を続けてきた。その講演の内容を一冊にまとめたものが、この『危険な話』である。
 八月書館なるマイナーな出版社から刊行されたこの地味な本は、口コミでジワジワと売れ続け、ついには八七年を代表するベストセラーの一つとなった。
 本が売れるとその講演活動もますます評判となり、多くの人が広瀬隆の話を聞きに足を運んだ。彼は、印税で充分もらっているからと、講演にあたってギャラはおろか、交通費すら受けとらなかったらしい。会場を用意し、聴衆を集めてくれれば、全国どこへでもタダで話をしに行く、というのだ。そんな事情もあって、広瀬隆の講演会は、全国津々浦々で、無数に開催された。「広瀬隆の講演会、行った?」というのが、大げさでなく一種の流行語となってしまうくらいの大ブームであった。
 当然、反原発運動が盛り上がる。
 それ以前にも、原発に反対する運動がなかったわけではない。しかしそれは、現在からは信じられないほど地味なテーマだった。
 いわゆる反核運動と、反原発運動はそれほど深くつながっていなかった。反核運動は、平和運動である。しかし原子力発電は、「核の平和利用」であった。「反核」の「核」はあくまで「核兵器」のことだったのである。
 わかりやすく云えばチェルノブイリ以前の、あるいは広瀬隆ブーム以前の日本の反原発運動は、産廃処理場やゴルフ場やダムや空港の建設に反対する運動と同質の、地域開発のやり方の是非をめぐる住民運動だったのである。
 つまり極めてローカルな問題で、反対運動の主体も、風評被害や、排水などによる生態系の変化を心配する現地の農民や漁民であり、社会党・共産党も他の開発反対運動を支援するのと同じようにそれを支援していたにすぎなかった。もともと「科学の進歩」を無条件に肯定するところのあるマルクス主義をかかげる社会党・共産党は、原発そのものには反対ではなかったのである。
 しかし、チェルノブイリで明らかになったことは、いったん大事故が起これば、あらゆる場所が「現地」となり得るということであった。原発のある遠い田舎の農民・漁民だけではなく、世界中すべての人が原発問題の当事者であるということを教えたのが、チェルノブイリの事故だった。広瀬隆の地道な活動が、多くの人をこの単純な事実に気づかせたのである。
 新しい反原発運動の中心人物となったのが、大分県の主婦・小原良子であった。八七年四月に、広瀬隆の講演を聞くまでの彼女は、社会運動の類とは一切関わりのない、まったく平凡な一主婦であった。
 それが、「原発を何としても止めなければ」の一心で暴走した。
 六〇年代以来の、ベ平連や全共闘を経験した世代を中心とする従来の無党派市民運動も、続々と反原発をテーマに掲げ始めた。が、小原良子の目から見ると、それらは全く話にならなかった。
 ちょっとした行動方針ひとつ決めるにも、延々と議論をつづけ、意見調整をくりかえして、結局、あたりさわりのない「いつもどおり」の結論におちつく。よくよく観察していると、「無党派」の「自由な個人の集まり」を自称しているくせに、事実上のボスがいる。そうしたいちいちが、小原良子のカンにさわって仕方がない。「あなたたち、本気で原発を止める気があるの?」ということだ。
 彼女は古参の、主に男性活動家たちを「オールドウェーブ」として激烈に批判し、自らを「ニューウェーブ」と称した。
 ニューウェーブの方針は明快だった。つきつめれば「やりたい者がやりたいようにやればよい」であった。それぞれがそれぞれの判断で、必要だと思うことをやる。突出したい人は突出すればよい。「ついていけない」と感じる人は別に無理についていく必要はないのだから、逆にやむにやまれぬ気持ちで突出する人を制止する権利もない。
 小原良子の云うことは、無党派市民運動なるものが、本当に「無党派」であるならごく当たり前のことばかりであった。その「当たり前」が、いつのまにか通用しなくなっていたのである。要するに無党派市民運動は、腐敗していたのだ。
 熊本の中島真一郎をはじめ、「オールドウェーブ」と罵倒された中からも、やがて小原派への「転向」を表明する者が続出する。八七年が終わる頃には、九州の無党派市民運動全体が、小原良子の「ニューウェーブ」路線に乗り換えた。
 これが、四国へ飛び火する。
 小原良子の住む大分の対岸に、愛媛県の伊方原発がある。
 そこで近く、「出力調整実験」が実施されるというのだ。
 それが、そんなに大騒ぎするほど危険なものだったのか、当時ですら一部の反原発運動家の中から疑問の声は上がっていたという。が、小原良子は危険だと「感じた」。「ニューウェーブ」の論理からすれば、それで充分なのである。「実験に反対する人は、四国電力本社前に集合!」と小原良子は呼びかけた。
 ----と、ここまでは、九州ローカルの出来事である。
 しかし八八年一月下旬、小原良子らの呼びかけに応え、大量の----数千人の人々が、香川県高松市にある四国電力本社前に出現した。それは「市民」とひとくくりにするのもはばかられるような、雑多な人々だった。目立つのは、主婦と学生、それにヒッピーであった。が、何だかよく分からない者も大勢混じっていた。仏教系の小さな宗派らしい坊主が、木魚みたいなものを鳴らしながらお経をとなえている。染めた髪を逆立てたパンクスがいる。右翼の街宣車が現れて、緊張が走るが、よく聞くと「がんばってください」と云っている。
 四電前の路上は、これら全国から集まったさまざまの「個人」たちで、収拾のつかないアナーキーと化している。そもそも「収拾しようとしない」のがニューウェーブの方針であり、これはその当然の帰結であった。
 この瞬間から、「反原発運動の高揚」は全国ニュースとなった。

 六月、小さな新聞広告が、話題になる。
 正確には、ある商品の発売中止を知らせる一種の謝罪広告だ。
 「このアルバムは、素晴らしすぎて発売できません」
 近く発売予定だったRCサクセションの新作『カバーズ』のことだった。
 反原発の立場を明らさまに宣言したいくつかの収録曲について、発売元の東芝EMIが、電力会社と深いつながりのある親会社・東芝に過剰に気を遣った結果のようであった。
 『カバーズ』は、一気に話題作となった。
 すでに音源はラジオ局や音楽誌編集部その他に出回っていたから、気骨のあるDJは競って「問題の曲」をオンエアした。当然、無断コピーのテープも流出した。
 結局『カバーズ』は、別のレコード会社から、約二ヶ月後の八月十五日終戦記念日に発売され、大ヒットとなった。
 対して、ブルーハーツが七月にあえてインディーズで発売したシングル「チェルノブイリ」はひどい代物だった。ただ原発について何か云ってみました、という以上の意味はない明白な駄作で、ブルーハーツ史上最大の汚点と云ってよい。「社会派ロックバンド」というレッテルに、ブルーハーツが敗北した瞬間だった。

 小原良子の反原発ニューウェーブが一世を風靡したのは、八八年前半の半年あまりのことだった。「一万人集会」のつもりが二万人も集まってしまった四月の東京集会をはじめ、この半年間の“小原派”の威力はすさまじいものであったが、次第に小原個人の独善性が目立ちはじめ、その取り巻き連中は“小原一派”などと揶揄をこめて呼ばれるようになった。地元・九州でも「オールドウェーブ」が息を吹き返し、小原本人までが自己批判してその軍門に下った。小原流ラジカリズムにはたしかに問題もあったが、しかし少なくとも彼女の「オールドウェーブ」批判は的を射ていたと私は思う。無党派市民運動は、再び腐敗した。
 が、「ニューウェーブ」の精神は遠く札幌の運動に受け継がれた。
 宮沢直人をリーダー格とする「札幌ほっけの会」は、“青年小原派”を自認する行動的な若い反原発グループだった。十代から二十代前半の中高生や大学生が主体で、リーダー格の宮沢だけが三十代であった。宮沢も、若者たちと一緒になって「ぼくたち子供は----」などと演説した。通常ならそのようなふるまいは醜悪きわまりなかろうが、宮沢の場合には本人も周囲もまったく違和感を感じていなかったという。
 「ほっけの会」の名前は魚の「ほっけ」から来たもので特に意味はないらしいが、よく日蓮の「法華」かと誤解されたようだ。
 ほっけの会の中心課題は、この年八月に予定されていた泊原発の運転開始を阻止することであった。泊原発は、北海道で最初の原発である。
 ほっけの会の活動スタイルはとにかく単純明快、集会でも、難しいことは云わず、ただ「できるだけ頑張ります」とのみ宣言し、そして本当に「できるだけ」やろうとする。スキあらば突入しようとする。ついには北海道電力本社では、ほっけの会のメンバーが附近に現れただけで営業時間中でもシャッターを下ろし、非常口からのみ客を出入りさせるようになったという。
 ほっけの会の主導でおこなわれた、当時の横路知事との会見を求めての道庁ロビー占拠は、一週間続けられた末に、機動隊が導入され排除された。道庁への機動隊導入は、ベトナム反戦以来約二十年ぶりのことだった。
 ほっけの会の奮戦にもかかわらず、泊原発は予定どおり----正確には、激しい抗議行動のため数時間遅れで----運転開始されたが、八〇年代末の一連の反原発運動の中で、最も過激で革命的であったのがこのほっけの会の運動であったことは間違いない。このほっけの会の八八年夏の一連の行動には、後の“社会派エロマンガ家”山本夜羽音も、全国から“宮沢流”に意気投合して集まってきた“外人部隊”----といっても彼はそもそも札幌出身ではあるが----の一人として積極的に参加している。

 時計の針を一年近く戻す。
 八七年九月の東京である。
 昭和天皇の、初めての沖縄訪問を間近に控えて、「反天皇制全国個人共闘・秋の嵐」が結成された。
 秋の嵐は一部に“最後の過激派”とも呼ばれる「九〇年」の最重要グループであるが、そもそもは東京のノンセクト学生運動の異端的少数派と、“反帝パンク戦線”などと称して極左的な内容を歌っていたインディーズ系のいくつかのパンク・ロック・バンドのネットワークとの連合体として出発した。前者のリーダー格が早大ピリオドの見津毅、後者の中心には、パンクバンド「テーゼ」の高橋よしあきがいた。
 名称にも反映されているとおり、当初は天皇訪沖に反対するための、短期的な臨時組織のつもりだったらしい。それがそうならなかったのには大きく二つの理由がある。
 一つは、沖縄現地で起きた知花昌一による日の丸焼き捨て事件である。この事件は全国的に大きくくり返し報じられたので、覚えている人も多いと思う。この“壮挙”に、見津が感動してしまったのである。
 それまでの見津の運動は、よくも悪くも、単なる目立ちたがりのお祭り主義だった。もちろんマジメな気持ちもある----というより九割方マジメなつもりなのだが、どこか子供の遊びめいたところが抜けきれない。
 知花昌一の果敢な行動は、見津に、「自分もこのままではいけない。もっと腰をすえて、真剣に運動に取り組まなければ」と自省を促したのであった。
 もう一つは、実際にはこの時、昭和天皇は沖縄を訪問しなかったことである。もちろん反対運動の成果ではない。予定の直前に、倒れてしまったのだ。急遽、代理で現在の天皇、当時の皇太子が沖縄へ行った。
 この時、昭和天皇は病状を回復したが、この一件は否応なく「Xデー」、つまり「天皇死去」の日が近づいていることを強く実感させた。
 当時、左翼の間では、どう云えばいいのか「Xデー・ハルマゲドン」的な、破局の到来が広く本気で信じられていた。天皇が死んだら、大変なことになる。白色テロ(右翼テロ)の嵐が吹き荒れて、我々左翼は皆殺しにされる。危機に乗じてクーデタが起き、ファシストの独裁政権がうちたてられる。今思えば、天皇が死んでなんで右翼が暴れなきゃならないのか、一から十まで脈絡が意味不明だが、とにかく理屈じゃないのだ。天皇が死んだら日本は終わりだという、よく考えると左翼にあるまじき天皇崇拝のような気もしてくるのだが、かくいう私自身が、この“神話”を信じていた。「終末の日、悪魔の軍勢が解き放されて……」じゃあるまいし、まるでオカルトだが、嘘だと思うなら古本屋を回って当時の“Xデー関連本”を探してみるといい。
 こういう「経験」が語り伝えられずに片っ端から忘れ去られていくのは、実に嘆かわしいことだと思っている。私は今回、こういうことをできるだけ書き残しておこうと思う。
 とにかく、それは一種の終末論だった。「Xデーは近い」ということは、「終末が近づいている」ということだった。それに備えるための組織・運動が必要だ、という意識も、もともと臨時組織だったはずの「秋の嵐」をそのまま解散せず持続することにした背景にはある。

 もっとも、初期の秋の嵐の主要な活動は、「テーゼ」などのグループを構成しているパンク・バンドのライブ----“ギグ”だった。原宿ホコ天を中心に、頻繁にギグをおこない、反体制パンクバンド「テーゼ」の名前は、コアなパンクロック・ファンの間では全国的に有名だった。ちなみにこの頃、秋の嵐は、十年ほど後に世界的大ヒットを飛ばすイギリスのアナキスト系バンド「チャンバワンバ」と交流があったようである。
 「天皇吐血・下血」のニュースが流れたのは、翌八八年の九月十八日である。
 ついに来た、と全左翼が緊張した。
 あの異様な“自粛ムード”が始まり、世の中全体がピリピリした。「天皇が死んだら大変なことが……」という確信が、ますます強まった。
 各地の祭りやイベントが、大も小も次々と中止された。車窓から井上陽水が「お元気ですか?」と呼びかける車のCMが、不謹慎だということで、セリフが消され、ただ陽水がパクパク口を動かす奇妙な映像になって引き続き放映された。
 私は今回、これを書いていて初めて気がついた。あれほど高揚していた反原発運動が、八八年八月の札幌ほっけの会の行動を最後に、急速に尻すぼみになってしまった理由も、間違いなくこの“自粛ムード”である。こんなふうに、歴史は封印されているのだ。私は今、またひとつそれを掘り当てたような気がする。
 もちろん、原宿ホコ天も中止である。
 それでも、骨のある主にパンク系のいくつかのバンドは毎週、ホコ天に出続けた。当然、「テーゼ」をはじめ、秋の嵐を構成するいくつかのバンドも。
 ここから本格的に、秋の嵐の闘争が始まる。
 警察は徹底的に秋の嵐を弾圧した。主な手口は、メンバーのバイト先など職場を訪れ、雇い主に逐一、“休日の活動”について告げ口することだ。こうしたイヤガラセに屈せず、秋の嵐は毎週ホコ天に出続け、また機関誌を発行する。
 この時期、秋の嵐の闘争を伝えたのは、『宝島』などごくごく限られたメディアのみで、一般のマスコミは、秋の嵐を完全に黙殺した。

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2006年05月16日 03:56に投稿されたエントリーのページです。

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