私は国策逮捕された! ……?

晋遊舎『スレッド』創刊号に掲載

 6月12日以来、獄中にいる。鹿児島の警察が、逮捕状を持って熊本まで来た。容疑は2件の道交法違反である。具体的には――起訴状から引用しよう。

 被告人は[第1]法定の除外理由がないのに、平成18年1月17日午前1時41分頃、道路標識により一方通行とされた鹿児島市千日町13番1号付近道路において、同標識を確認しこれに従うべき注意義務があるのに、同標識を確認しなかった過失により、同標識の表示に気づかないで、その出口方向から入口方向に向かい、原動機付自転車を運転して通行し、[第2]同年7月10日午前11時17分ころ、同市吉野町10794番地74付近道路において、法定の最高速度(30キロメートル毎時)を20キロメートル超える50キロメートル毎時の速度で上記車両を運転したものである。

 読みかえすたびについ笑ってしまう。こんなショボい交通違反で、なんでまた捕まったりしたのか? それは当然、私が日本を代表する革命家であり、敵権力は何か口実をもうけて私を検挙する機会を虎視眈々と狙っていたからである。と思う。たぶん。
 なにしろ私は、なんにも悪いことをしていないのだから。いや、500歩くらい譲って仮に原付でのこのちょっとした交通違反を「悪いこと」だとしてもよい。しかし、わざわざ逮捕するほどのことか?
 説明するとこういうことだ。交通違反をすると「反則金」の納入を求められる。しかしこれに応じるのは義務ではない。「納得できん」と思ったら、反則金の納入を拒否し、こちらの云いぶんと警察側の云いぶんとをきちんと比較検討した上で処分を決めてもらう。つまり正式の裁判を要求することができる。私も、納得いかない点があったので反則金を納めず、正式の裁判を要求した。
 そしたら逮捕されたのである! まごうことなき不当逮捕だ。アメリカ様に押しつけられた日本国憲法で保障された「裁判を受ける権利」を不当に侵害されているわけで、憲法違反を問題にできるこのようなケースは最高裁まで堂々と争えるので、私はひそかにほくそ笑んでいる。
 警察は「任意出頭を拒むから逮捕した」などと云っている。しかしこれはメチャクチャである。たしかに私は任意出頭の要請を丁重にお断りした。
 「正式裁判を求める。云いぶんはすべて法廷で明らかにする。捜査段階では任意出頭であれ逮捕であれ一切何も喋る気はない、つまり黙秘する。わざわざ黙秘するために出頭するのは無意味なので、出頭しない」
 電話で云うだけでなく、同様の主旨をわざわざ文書にして2度も警察へ発送した。警察は、私が裁判で何を争うつもりなのかを確認しないと裁判にできないと云った。だから出頭せよと何度も云われたし、逮捕後には、だから逮捕したのだとも云われた。
 しかしこれは大ウソである。というのも、私はすでに起訴されている。つまり私の事件はすでに裁判手続に入っている。では逮捕された私が、自分が裁判で何を争うつもりなのか警察側に伝えたのか? そんなことはない。私は逮捕以来、黙秘を貫いた。調書は結局、一枚も作られなかった。つまり私を逮捕しなくても裁判はできたのだし、当然、任意出頭する必要もなかったのだ。
 今回の逮捕は、要はオカミに従順でない人間への見せしめだ。そもそも必要のない任意出頭を、さもそれが義務であるかのように1年以上にもわたって延々しつこく電話して要求してくること自体がイヤガラセなのだ。
 しかも私はこの出頭要請をブログで揶揄し、さらに一連の選挙戦を通じてヘンに有名になってしまったためにそれを読む人間の数も増え、つまり私をこのままのさばらせておくのは警察のメンツにかかわったのだ。
 参考までに逮捕以来の経過をざっと。6月12日に逮捕された私は、鹿児島中央警察署の留置場に入れられ、警察官による取調べを受けた。もちろん黙秘で応じた。6月14日、検察官による取調べがあり、これにも黙秘で応じた。
 その後、裁判所に連れていかれ、裁判官による「勾留質問」を受けた。捜査機関は最大72時間しか被疑者を拘束できない。それで充分な取調べができない場合、検察官はさらに10日間の拘束延長を、裁判官に求める。この拘束を「勾留」という。日本の裁判官は、検察官による逮捕や勾留の許可申請をまず滅多に却下しないが、一応形式的に、被疑者側の意見も聴く。それが勾留質問。
 私はダメモトで、今回の拘束がいかに不当であるか、情理を尽くして裁判官に訴えてはみたが、案の定、勾留は許可された。
 そこで「勾留理由開示」というのを要求した。「なにゆえ勾留を許可したのか、きっちり説明せんかいコラ」という要求である。すると、6月21日に鹿児島地裁の法廷で説明するから出頭せよとの通知が来た。獄外のスタッフにそのことを伝え、情報を公開してもらった。この「理由開示」は通常の法廷で行われ、一般の人も自由にそれを傍聴できるからである。
 もっともこれはあくまでも勾留理由の「開示」つまり単なる一方的な説明の場で、こちらの云いぶんを改めて聞いて勾留の是非を再検討しようという場ではない。勾留を許可した裁判官が一方的に喋り、とくに参考にはしないけれどもまあ云いたいことがあるなら一応聞いてやるよ的に私にも一方的に喋らせてくれる。対話はない。
 裁判官がまず起訴状にあるような容疑事実を朗読すると傍聴席から失笑がもれ、勾留許可を正当化しようと「人命にかかわる悪質な事犯であり決して軽微とはいえない」みたいなことを云ったくだりでも失笑がもれた。私自身、笑いをかみ殺すのに必死だった。これに対し法廷で私が一方的に読み上げた抗議声明がhttp://www.warewaredan.com/ks-iken-070621.htmlに全文掲載してあるので読むように。
 さて勾留が決まった翌6月15日からも取調べは続き、私も黙秘を続けたのだが、こんなことがあと10日、あるいは20日も(「10日間の勾留」は2回まで認められる)続くのかとウンザリしていたら、意外にも6月20日、逮捕からわずか8日目にして突然起訴された。取調べのための拘束期間は逮捕から要するに最大23日間認められるわけだが、この間に検察官は本当に裁判をやるかどうかを検討する。やると決めたらつまり「起訴」となる。
 起訴後はもうほとんど自動的に拘束が続く。最大23日間と云うのは空くまで「取調べ」のための」拘束で、起訴後はもう取調べはなく、裁判に向けて単に「待機」させられているだけだから、「また別の話」になるのだ。
 この段階になると警察の留置場ではなく、裁判を抱えた被告人を待機させるための施設である拘置所に身柄を移される。私は6月26日、鹿児島拘置支所へと移送された。
 東京のスタッフが最初の面会に現れたのは6月22日だった。以来そのスタッフは鹿児島に滞在し、私が獄中にいながらにしてさまざまの手段で闘う手助けをしてくれた。獄中からの頻繁なブログ更新、なんて前代未聞のヘンテコな「闘争」も6月下旬に開始され、現在まで続いている。はずだ。というのも実はこれを書いている現在、まだ6月28日なのだ。逮捕されてから2週間あまりということになる。拘置所の独房で、裁判所からそろそろ送られてくるはずの、国選弁護人の選任通知と初公判期日の決定通知を待っている。
 さすがに今回のようなケースでは99.99%罰金刑だろうが、その判決は最短で7月末、つまり少なくともそれまでは拘束が続く見通しだ。実際には釈放は8月半ばだろう。なんにも悪いことをしていないのに、私は丸々2ヶ月間も自由を奪われるのだ。
 私にとっては2度目の獄中生活である。前回は、今回よりも些細な容疑でしかも実刑判決を受け、なんと丸々2年間もの不当な拘束を体験した。それに比べたら今回のような「短期」の拘束はもはや私にとって屁でもない。私は前回の獄中で、世界史の舞台から退場させられていたファシズム運動をこの極東において再建すると云う、まさに世界史的な使命を神(みたいなもん)に与えられ、出所以来その実現のために邁進してきた。つもりだった。ところが先日の都知事選を機に急にモテ始めたりなんかしちゃったりして、どうも最近タルんでいた感なきにしもあらず。
 私は今回の投獄を、神(みたいなもん)による「喝!」だと感じている。前回の投獄でファシズムに開眼した初心を思い出せ、国家権力に対する怒りと憎しみを思い出せ、という神(みたいなもん)からのメッセージだ。
 かくして私は、どうも増長し慢心していた己を恥じ、出所後は再びマジメに革命の道に精進しようと固く誓っている次第である。
 そういえば、私が出所する頃にはきっと参院選は終わっている。立候補する気は毛頭なかったが、当局は警戒していたかもしれない。今回の拘束が、司法システムのろくでもなさゆえではなく、私の立候補を阻止する陰謀ででもあれば、少しはこの国を見直すんだが。

          ※          ※          ※

 というのが、6月28日に獄中から本誌(『スレッド』)編集部へと書き送った「手記」の概要だ。この時点で私はまだ、今回の逮捕劇に隠された巨大な陰謀の存在には半信半疑で、むしろ手記末尾でその「陰謀の不在」を嘆くほどの浅い認識にとどまっていたことが分かる。が、その後の状況の推移はこれを改めさせずにはおかなかった。
 そもそも私が逮捕されたのは、参院選に向けた動きがいよいよ加速していた時期だ。私は不出馬を公言していたし、実際そのつもりだったのだが、敵権力がこれを額面どおり信用したかどうか。
 現に私の出馬を期待する声はあちこちから上がっていたし、私があくまで固辞すると、では私の意に沿う候補を擁立するからそれを支援する形ではどうかとの誘いもあった。
 私の一連の選挙戦は、たしかに敵権力を震撼させていたし(もちろん当選を危惧してではない。あんな破天荒な選挙スタイルの存在そのものが、奴らには脅威なのだ)、私の政見放送がネット上で広まっていくのを、東京都選管がやっきになって阻止しようとしたことを、諸君もよく覚えているはずだ。しかしいくら注目度が高いといえども都知事選はしょょせん地方選挙である。実際、首都圏以外での私の知名度は依然として低い。
 だが国政選挙、しかも一種の全国区である比例代表区でアレをやられたんじゃ、奴らはたまらないであろう。奴らが手段を選ばず私の参院選出馬(その「可能性」も含めて)を阻止し、のみならず自らの立候補という形でなくとも、とにかく参院選には一切関与させまいとする動機は存在するのだ。
 そのことに私が初めて思い至ったのは、初公判期日の決定を知らせる通知を、鹿児島拘置所で受け取った6月30日のことだ。その時の私の衝撃を理解してもらうには、もう少し前提の説明が必要だろう。
 保釈という制度がある。拘束されている被告人が「公判には必ず出廷します」つまり「逃げません」の意味で裁判所に「保釈金」を払い、釈放してもらう制度である。約束どおり逃げずに毎回出廷すれば、判決後に全額返してもらえるが、逆に逃げたら没収され、もちろん改めて逮捕され、裁判官の心証を害し、判決も当然重くなる。
 犯罪者やその被疑者の人権がまったく尊重されていないこの国では、保釈はあまり認められない。国会議員(例:宗男ちゃん)とか大企業の偉いさん(例:ホリエモン)とか、つまり社会的地位が相当に高くて、「まあ逃げないだろう」と見なされるか、容疑の内容が軽微で、罰金刑か執行猶予付の判決になる可能性が高い場合に、たまに認められる。
 私の場合も、今回はこれが認められる可能性があった。もちろん著名な活動家であるからではなくて、容疑があまりにもショボいからである。どう云いつくろおうと、保釈申請の却下にまでは奴らも説得力を持たせられまい。
 ただしほとんどの場合、保釈は初公判の後だ。つまり初公判が終われば、私はいつでも自由の身になろうと思えばなれるということである(カネさえ用意できればだが)。
 ――前提の説明は以上だ。
 ではその初公判の期日はいつであると私は知らされたのか。7月30日なのである! 諸君、お分かりだろうか? 初公判が7月30日におこなわれるということは、私はその気になればこの日に自分を釈放させることができるということだ。そしてその前日、7月29日が参院選の開票日なのである!
 近年ここまであからさまな陰謀が(ロシア以外で)あっただろうか。奴らは今回、それほどまでに私を恐れていたのだ。何がどうあっても私には今回の参院選に指一本触れさせないぞという奴らの固い決意が、この初公判期日の日付に明瞭に現れているではないか。
 私が逮捕された時点では、今回の投票日が7月22日ではなく29日となることはまだ正式決定していなかった。それが決定するや、起訴、拘置所移管、初公判期日通知……と事態は急スピードで展開した(通常はこの過程はもっとだらだら進行するから、私自身、どうも不審な印象を受けてはいた)。
 今回の逮捕・勾留が、単にオカミにタテつく不届き者から警察のメンツを守るためのものではなく、もっと巨大な、国家規模での政治的陰謀を背景に行われたものであることは、もはや疑う余地がない。

 ――という妄想いや革命的想像力による陰謀のストーリーを獄中で完成させ、これを詳細に暴露した一文を獄外のスタッフに書き送ったのが7月7日のことだ。
 しかし7月11日、私は突然釈放された。保釈金も何もない、無条件での釈放である(もちろん7月30日からの公判には出廷しなければならない)。せっかくすんごい苦労をして組み立てた陰謀論が、もろくも破綻してしまった。すべては私の思い過ごしだった。
 と、一瞬思わせることこそが奴らの狙いだと、またすんごい苦労をして私は気づいた。獄内外でやりとりする手紙はすべて、その内容を看守によってチェックされている。
 陰謀を看破したあの手紙の内容は、即座に上層部へ伝えられたに違いない。奴らが大慌てで、その対応策を協議せざるを得なかっただろうことも想像に難くない。奴らは、そんな陰謀など存在しないのだと急いで釈明する必要に駆られたのだ。しかし7月29日まで拘束しておくわけにはいかなくなったとはいえ、せめてぎりぎりまで私の身柄を押さえておこうという、奴らのいじましい努力といったらどうだろう。
 都知事選終了後、実質3日で熊本市議選への立候補準備をしてしまった私だが、仮にその意志があったとしても、さすがに釈放された翌日である7月12日に、参院選への立候補を届け出ることはできなかっただろう。
 そうかそういうことだったのか。私としたことが、もうちょっとで「陰謀など存在しない」と説得されてしまうところだった。やばいやばい。
 奴らもなかなかやってくれる。