日本フォーク&ニューミュージック史講義の実況中継01

革命家養成塾・黒色クートベにおける講義用ノートより


   1.反戦フォークの時代

 今日は、日本のフォーク、ニューミュージックの歴史を学びます。
 しかし「フォーク」はともかく、「ニューミュージック」という言葉は、若い人たちにはあまりピンとこないのではないかと思いますので、念のためにちゃんと説明しておきましょう。
 とりあえずネットに頼ってみます。
 まず一応、「フォーク」の方から調べてみると、こういう説明がありました。

 広義には民謡のこと。狭義には、40年代のアメリカで起こったフォーク・ソング・リバイバルを起源に、世界中に流行したポピュラー・ミュージックの形態のこと。日本でも60〜70年代に大流行した。アコースティック・ギター(フォーク・ギター)にボーカルが基本スタイルで、ハーモニカも使用される。代表的なアーティストはウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ブラザーズ・フォー、PPM、ボブ・ディランなど。

 大体いいですか?
 出てきた具体的人名などは、「欧米のフォーク、ロック史」として別の回で扱いますので、まあボブ・ディランの名前ぐらいは知ってるでしょうが、「あー、そーゆー人たちがいるのか」という程度で軽く流しておいてもらって結構です。
 ここに書いてあるとおり、英語で「folk」といえば「民衆」みたいな意味ですね。ですから「フォーク・ソング」といえばそもそもは「民衆歌謡」、ひらたく云えば「民謡」のことです。もちろん日本の民謡ではなくて、欧米とくにアメリカの民謡のことです。要するに、アメリカの田舎の人たちが、ギター一本の伴奏で歌うような、はっきり云って泥くさい、ダサいものですね。
 それを、さっき名前の出てきたようなミュージシャンが、都会的に洗練させて、若者の音楽としてとくに60年代初頭ぐらいから大流行させたのが、ポピュラー・ミュージックの歴史で「フォーク」と呼ばれるジャンルなわけです。
 ではもうひとつの、「ニューミュージック」の方。これは別に“いま流行の音楽”という意味の言葉ではありませんから、そういう誤解をしていた人がいたら認識を改めてください。
 これもまず、ネットで調べてみます。

 日本のポップスのこと。70年代中盤にできた呼び名で、フォーク系のシンガー・ソングライターたちが中心になったのでこの名がついたが、サウンド的にはロック的なものも含まれる。

 ぼく的にはいまひとつ納得できない説明なので、ちょっと補足しましょう。
 フォークでデビューした一群のミュージシャンたちの作品が、70年代に入るとだんだんフォーク調から逸脱していったので、そういう人たちの音楽をひとくくりにするために生まれた言葉です。もっと簡単に云うと、70年代半ばから80年代前半くらいの日本の流行歌のうち、演歌や歌謡曲の枠には入らないものを大ざっぱに「ニューミュージック」と呼んだわけです。狭義には、さらにそこから矢沢永吉とかサザンオールスターズとかのロック系を除きます。
 では例えば槙原敬之みたいなのは「ニューミュージック」か?
 少し違います。というのも、槙原は90年代に登場するミュージシャンだからです。
 要するに「ニューミュージック」というのは、70年代半ばから80年代前半にかけての日本の流行歌のうち、今なら「Jポップ」と呼ばれるだろうジャンルのものを指す言葉です。ですから、それ以降のものは、サウンド的には近いものでも、「ニューミュージック」とはふつう呼びません。
 さらに補足すれば、現在売れているミュージシャンでも、この「ニューミュージック」の時代からの生き残りである場合には、「ニューミュージック」という言葉を使うことはあります。例えば松任谷由美とか、中島みゆき、高橋真梨子とかですね。男の例はあんまり思いつきませんが、まあ長渕剛ぐらいでしょうか。こういう人たちは、今売れていても、「ニューミュージック」と呼んで間違いではありません。
 だいたい理解できましたか?

 それでは具体的に日本のフォーク、ニューミュージックの歴史を勉強していきましょう。
 さっきアメリカのフォークについては別の回でやると云いましたが、そっちはほとんどロックに重点を置いてやるつもりなので、やっぱり最初に少しだけ、本家本元のフォークの中から、特に日本のフォーク・シーンに強い影響を与えた人たちの代表曲をいくつか聴いておくことにしましょう。
 まず1955年にピート・シーガーが作った「花はどこへ行った」。これはいろんな人がカバーして歌っていて、有名なバージョンもいくつかありますが、ここではPPMバージョンで聴いてもらいましょう。

  PPM「花はどこへ行った」
   

 もう1曲、ボブ・ディランの「風に吹かれて」。1962年の曲です。

  ボブ・ディラン「風に吹かれて」
   

 こういった音楽が60年代初頭のアメリカで大ヒットして、その波が日本にも入ってくるわけです。
 63年にはさっきの「花はどこへ行った」を作ったピート・シーガーが来日したりして、とくに流行に敏感な学生たちの間で、これに呼応する動きが始まります。定期的なフォーク・ソングのイベントも始まって、「カレッジ・フォーク」なんて呼ばれたりしますが、曲の構成も単純ですし、ギター一本あれば誰でも始められる気軽さが、当時の若者たちをフォークに吸い寄せるわけです。この初期のムーブメントの中に、森山良子、小室等といった人たちがいます。二人とも、実際にメジャー・デビューするのはもうちょっと後になりますが。
 日本で最初のフォークの大ヒット曲が、1966年、マイク真木の「バラが咲いた」です。

  マイク真木「バラが咲いた」
   

 全部聴く必要はありませんよ。ダサすぎて全部聴くのはつらいです。ボブ・ディランなんかとは比較にもなりません。
 同じ66年に「若者たち」というこれも同じくらい有名で、やっぱり同じくらいダサい歌がありますが、当然というかなんというか、「いくらなんでもこれじゃあんまりだろう」と当事者たちですら思うわけです。自分たちが目指すフォークは、あんなものじゃないはずだというので、「アンチ・バラ」というスローガンさえ生まれます。
 ではどうすれば「バラ」的なものから脱却できるのかということで、やっぱフォークはメッセージ性が大事だ、というふうに考えるわけです。PPMにしてもボブ・ディランにしても、政治的なメッセージ性は強いですし、なんといっても60年代後半というのは全共闘の時代でもありますから、これは当然の流れです。
 とくに関西の方で、こういう問題意識を持って和製プロテスト・ソングを自作自演する動きが大きくなって、これを「関西フォーク」と総称します。その「関西フォーク」の中心人物というか、パイオニアが高石友也です。
 この人は、初めて人前で歌ってからメジャー・デビューするまで半年足らずなんですが、それほど天才的な歌や演奏の技量があったのかというとまったく逆で、完全に素人です。もっとも、60年代後半のいわゆる「反戦フォーク」系の人たちはほとんど似たようなものです。
 高石友也は66年12月、ビクターからファースト・アルバムを出してデビューします。日本フォーク史の最重要人物の一人ですから、この人の曲を一応、1曲ぐらいは聴いておこうと思いますが、想像されるように今の感覚で聴くとやっぱりダサい、特にヒットした代表曲がことごとくダサいという難があります。初期フォークのそういうダサさも含めて、厳然たる歴史的事実なんですから、あんまり目をそむけるのもよくないですが、そういうダサいけど重要な曲はこの後イヤになるくらい聴かせますから、ここは少し妥協します。もちろん妥協して選曲したところで、それは比較の問題でやっぱりダサいんですが。
 高石友也の最大のヒット曲は「受験生ブルース」です。タイトルはブルースですが、曲調はブルースでもなんでもありません。まあこれは日本では普通のことで、歌謡曲でも「なんとかブルース」とかいって全然ブルースじゃないのが当たり前ですから、メクジラ立てるほどの問題ではありません。この「受験生ブルース」のスタジオ録音版はギャグがあまりにも寒くて今では聴けたものではありませんから、ライブ版で聴いてみます。高石友也は独特の演奏をする人で、歌いながら合間に盛んに喋ります。それでちょっと長いですが、歌い手と聞き手の距離感の近さとか、当時のフォーク・ムーブメントの雰囲気もよく伝わってくるので、ガマンして最後まで聴きましょう。スタジオ版の発表は68年ですが、このライブ版は70年です。

  高石友也「受験生ブルース」
   ※実際の講義ではライブ版を聴いてもらうわけだが、YouTubeになかったのでその“ギャグが寒い”スタジオ録音版を
   

 高石友也はプロテスト・フォークの歌い手としても重要なんですが、それ以上にムーブメントを盛り上げて行く一種の活動家としての役割が大きかった人で、プロ・デビュー後の67年夏に自分の事務所を設立して、ここに当時のメッセージ系のフォーク歌手の大半が所属します。それから高石事務所の主催で、定期的に「アングラ音楽会」とか「フォーク・キャンプ」と題した合同コンサートを開催したりもします。
 さらに69年にはURC、アングラ・レコード・クラブというのを作って、これは云わば日本のインディーズ・レーベルの最初ですね。URCは最初、会員制のレコード配布組織で、会費を払うと隔月で所属ミュージシャンのアルバム1枚とシングル2枚が郵送されるというしくみです。第1弾シングル2枚のうち1枚が、ミューテーション・ファクトリーというグループの「イムジン河」で、この曲は長いこと「放送禁止曲」として有名でしたね。
 この初期形態は1年足らず、結局第5回配布までしか続かなかったんですが、うまく行かなかったためではなくて、逆に成功したので現在の普通のインディーズ・レーベルみたいに「URCレコード」というのを設立しなおして、一般のレコード屋で販売するしくみに改めたんですね。
 会員組織時代に配布された中には、後で出てくる岡林信康や高田渡、五つの赤い風船の曲などが含まれています。
 それからこの時代のフォーク・ムーブメントを語る時に外せないのが、岐阜県の山奥にある中津川というところで69年夏から1年おきに71年夏まで計3回開催された野外コンサート、中津川フォーク・ジャンボリーです。「日本のウッドストック」なんて呼ばれることもある、かなり大規模なイベントですね。ウッドストックというのは、やはり同じ69年夏にアメリカでおこなわれたとてつもない規模の野外ロック・コンサートですが、ウッドストックの数年前からアメリカではこういう大規模なロックやフォークのイベントが盛んにおこなわれるようになっていて、そういうのを日本でもやろうということになったわけです。この中津川フォーク・ジャンボリーで中心的な役割を担ったのも、やはりURCレコードですから、高石友也がシーンにおいて果たした役割というのも、やはりとんでもなく巨大です。
 このイベントに出演したミュージシャンをざっと挙げてみましょう。
 高石友也本人は当然として、岡林信康、五つの赤い風船、高田渡、中川五郎、遠藤賢司、ジャックス、上條恒彦、加川良、はっぴいえんど、六文銭、ガロ、なぎらけんいち、赤い鳥、浅川マキ、友部正人、カルメン・マキ、あがた森魚、五輪真弓、かまやつひろし、三上寛、はしだのりひこ、そして吉田拓郎など、とにかく錚々たるメンバーです。ジャックスやはっぴいえんどなど、「日本ロック史」の方で紹介するグループも入っていますが、彼らもやはりURCレコードから作品を発表していたミュージシャンです。
 他にもURCレコードは広報誌という位置づけで『フォーク・リポート』という雑誌を創刊したり、とにかくこの時期のムーブメントを牽引した中心勢力と云えます。
 URCと別に当時の動きとしてもうひとつ触れておかなければいけないのが、新宿駅西口のいわゆる「フォーク・ゲリラ」です。
 べ平連の若い活動家が中心となって、新宿駅の西口広場で勝手に、つまりゲリラ的に、毎週土曜に今で云うストリート・ミュージシャンみたいなことを始めたのが、69年2月頃のことと云われています。それがあっというまに毎週何千人という群衆が広場を埋め尽くすという状況になって、とくにベトナム反戦をテーマとしたフォークソングと討論のメッカと化すわけです。関西発信のURCに対して、こちらは東京発信、と云いたいところですが、どうやらこれを始めたベ平連の活動家というのは、関西からの遠征組だったようです。
 結局半年もしないうちの7月19日、機動隊が導入されてこれは完全に弾圧され、「西口広場」は「西口通路」と改称されます。群衆を排除する時に機動隊側がマイクで繰り返し怒鳴った「ここは通路ですから立ち止まらないでください」というフレーズは有名ですから、覚えておきましょう。

 それではこれら一連のムーブメントの中で活躍した代表的なフォーク・シンガーの作品を聴いていきましょう。
 早い時期から活動している人をまず聴いてみます。
 最初の方でチラッと名前を挙げた、60年代前半の「カレッジ・フォーク」時代から活動している小室等という人がいます。この人が68年に結成したのが、六文銭というグループです。70年代に入ってから、上條恒彦をボーカルにして大ヒットさせた「出発の歌」というのもありますが、ここでは60年代の代表曲のひとつ、「面影橋から」をこれもライブ・バージョンで聴いてみましょう。

  六文銭「面影橋から」
   
※ボーカルの及川恒平による、たぶんその当時に近い時期の弾き語りバージョン
   

 それから、これはURCなどとはあまり関係なくほとんど突然変異的な動きとして、京都で65年8月に結成されたフォーク・クルセダーズというグループがあります。加藤和彦、北山修、後に端田宣彦も加わりますが、3人とも単にこの当時のフォークに限らず、日本のポピュラー・ミュージック史の中で長期にわたって活躍する人です。
 67年に、自主製作で『ハレンチ』というアルバムを出してすぐ解散するんですが、その中にあった「帰ってきたヨッパライ」というコミック・ソングがラジオで話題になって、結局、大ヒット曲になってしまうんですね。それでレコード会社から声がかかって、でも解散したんだからと本人たちが云うので、じゃあ1年間だけという約束で再結成するわけです。そしてスタジオ録音のアルバム1枚とライブ・アルバム2枚だけ出して、やっぱり大ヒットしたのに、本当に1年で解散してしまったので日本フォーク史の伝説的な存在になったのが、このフォーク・クルセダーズです。
 実際、この後に聴いてもらう同時代のフォーク・シンガーたちの作品と比べれば、その音楽的な完成度は圧倒的に高い。もちろん現在の耳で聴くとやっぱり古いなという感じはしますが、テープの早回しとか逆回しとか、面白半分にいろんな実験をやってます。
 聴いてもらうのは、まあ代表的なヒット曲からということで、比較的オーソドックスなものですが、「青年は荒野をめざす」という曲です。

  フォーク・クルセダーズ「青年は荒野をめざす」
   

 フォーク・クルセダーズは他に「悲しくてやりきれない」というヒット曲があります。70年代に入ってから加藤和彦のソロで「あの素晴らしい愛をもう一度」という曲もあります。
 次に67年結成の五つの赤い風船というグループ。誰でも聴いたことがあるはずの代表曲「遠い世界」を。

  五つの赤い風船「遠い世界に」
   

 聴いててかなりつらかろうと思います。
 この五つの赤い風船は、実はさっき話した初期URCの会員配布アルバムの第1弾です。69年2月でしたね。
 正確にはそのアルバムは、『高田渡/五つの赤い風船』と題されて、A面が高田渡、B面が五つの赤い風船、というものでした。
 ではその高田渡の方も聴いてみましょう。このアルバムにも入っている、高田渡の代表曲「自衛隊に入ろう」です。



  高田渡「自衛隊に入ろう」
   

 ほんとにつまらない曲ですね。ぼくは彼の曲を他にも何曲か聴いてみましたが、どれもおそろしくつまらない。ところが現在ではこの高田渡が60年代の「反戦フォーク」の代表格のような扱いになっているんです。まあ実際、神格化されている60年代「反戦フォーク」なんてのはおしなべてこのレベルであることは事実だから仕方ないんですが。
 高田渡よりだいぶマシですが、やはりヒネリの足りない「反戦フォーク」の実例をもう1曲。これもかなり有名な曲です。

  加川良「教訓I」
   

 加川良という人の「教訓I」という曲でした。

 ところで高田渡と五つの赤い風船がURC配布アルバムの第1弾であるという話をしましたが、69年4月の第2弾はさっき「面影橋から」という曲をかけた小室等の六文銭と、中川五郎という人とのカップリングです。そして69年6月の第3弾。これはA面が「休みの国」というヘンな名前のグループですが、B面が「岡林信康リサイタル」です。ちなみに会員制でなくURCレコードとして最初に出すことになるのも、69年8月、この岡林信康の『私を断罪せよ』というアルバムです。

 さあ、いよいよ岡林です。
 60年代「反戦フォーク」の最大のカリスマです。
 この人は有名な曲がいっぱいありますが、続けて何曲か聴いてもらいましょう。最初に高石友也と一緒に歌っている「友よ」。そして「山谷ブルース」、「チューリップのアップリケ」、「手紙」。4曲一気に行きます。

  岡林信康「友よ」
   

      「山谷ブルース」
   

      「チューリップのアップリケ」
   

      「手紙」
   

 どうですか。がっかりするでしょう。
 ではさらに、比較的マシな曲をということで、やはり代表作のひとつである「私たちの望むものは」を聴いてもらいましょう。

  岡林信康「私たちの望むものは」
   

 実はぼくは、岡林の実際の曲があまりにもショボいので、ずっと嫌いだったんですが、つい最近、71年に出たライブ・アルバムを聴いてちょっと好きになってきました。
 というのも、これは69年のデビューからわずか2年後のライブなんですが、それまでに発表した30曲あまりを、作った順に全部歌ってみるというものなんですね。最初が「くそくらえ節」という、ものすごく恥ずかしい直球ストレートの頭の悪いプロテスト・ソングなんですが、これをいきなり苦笑しながら歌いだします。これはやっぱり説明するより聴いてもらった方が早い。

  岡林信康「くそくらえ節」(ライブ・バージョン)
   
※さすがにネット上にはありませんでした。よって省略。

 分かりますね。自分の曲がいかにつまらないかということを、2年間のうちに思い知っているわけです。
 3曲目には、「では、問題の歌を」と云って、「友よ」を歌い始めます。しかし「友よー♪」と歌い出すなり自分で客に向かって、「ここで誰か『ナンセンス!』と云わなアカン」。それで客が「ナンセンス!」と云うと、即座に岡林が「異議なし!」と返す。さっきの「くそくらえ節」の中のファシズム云々の話(サビの部分で会場が大合唱にならない様子に「ファシズムへの免疫がついてきたんですね」などとMC)にしても、岡林という人はカリスマとして祭り上げられる2年間の過程で、非常に原則的なことを一所懸命、律義に悩んだんだなあということが分かって、微笑ましい気持ちになります。
 岡林は元々、同志社大学の神学部の学生でした。しかし思うところあって中退、東京・山谷で活動する牧師の影響を受けて、自らも寄せ場に入り、肉体労働に従事します。
 68年2月に、大阪のフォーク・イベントで、工事現場で働く一青年として飛び入り出演、さっきの「くそくらえ節」などをもちろんこの時点ではマジで披露したのが人前で歌った最初です。このあたり高石友也の登場と似ていますが、翌3月には今度はその高石事務所主催の「アングラ音楽会」に飛び入り出演、ここで一気に注目を浴びるわけです。
 そして69年、URCから『岡林信康リサイタル』と『私を断罪せよ』が出て、いよいよ本格的にカリスマ化していきます。急激な変化にとまどったんでしょう、この年9月にはコンサートをすっぽかして失踪するという事件も起こします。
 70年のセカンド・アルバム『見る前に跳べ』では、はっぴいえんどをバックに歌ってロックへの転換を図り、前後して起きた「日本語ロック論争」とも関連して大きな話題になります。
 そして71年、岡林の人気絶頂期ですが、『俺らいちぬけた』というサード・アルバムを発表してまもなく引退するんです。さっきのライブ・アルバムはちょうどこの時期のものです。タイトル曲の「俺らいちぬけた」は、田舎のしがらみがイヤで「いちぬけた」と都会に出てきたが、都会は都会でまたイヤなことが多くてやっぱり「いちぬけた」というような内容です。
 引退した岡林は、以後5年ほど京都や岐阜の山村で隠遁生活をします。
 その後また歌い始めますが、フォークからはすっかり足を洗って、演歌や民謡にチャレンジしたりと、かなり痛々しい試行錯誤を続けています。
 とにかく、好感のもてる人だなあという気がします。
 本当に大ざっぱですが、日本フォーク、ニューミュージック史の「第1部・反戦フォーク」の学習をこれで終わりにして、ちょっと休憩します。