日本フォーク&ニューミュージック史講義の実況中継02

革命家養成塾・黒色クートベにおける講義用ノートより


   2.吉田拓郎

 さて71年の第3回全日本フォーク・ジャンボリーですが、ここでちょっとした事件が起きています。
 というのも、このコンサートが年々商業化、イベント化していくことに不満を持っていた聴衆の一部が、コンサートの終盤、ステージを占拠してしまうんですね。討論集会の様相を帯びてきて、結局その後のコンサート続行は不可能になり、トリの岡林信康も出演できないいまま、中止になってしまいます。
 この71年という年は、岡林の人気がピークであった年でもありますが、同時に岡林が例の『俺らいちぬけた』を発表し、5年間の隠遁生活に入って、公の舞台から姿を消してしまう年でもあります。
 代わって一気に注目を集めるのが、吉田拓郎です。
 拓郎は案外古くから活動していて、66年にコロムビア・フォーク・コンテストというのに出場して、雑誌『平凡パンチ』に“和製ボブ・ディラン”として取り上げられたりしています。当時20歳です。
 シーンへの本格的な登場は70年、前年に設立されたエレック・レコードという小さなレコード会社と、上智大学全共闘とが協力して、『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう/広島フォーク村』という、オムニバス的な一種の企画アルバムを自主製作します。このタイトルは、拓郎の「イメージの詩」の歌詞からとられています。
 広島フォーク村というのは、68年に広島で結成された、フォーク系アマチュア・ミュージシャンのサークルというか、コミュニティです。吉田拓郎は、その中心人物でした。浜田省吾もこのコミュニティ出身のようです。
 で、この企画アルバムから2ケ月後の70年6月、アルバムにも収録されている「イメージの詩」をシングルとしてリリース、正式にデビューすることになります。11月にはアルバム『青春の詩』も出ます。
 ではまず、この「イメージの詩」を聴いてみましょう。

  「イメージの詩」
   

 次にファースト・アルバムからタイトル曲「青春の詩」と、シングル・カットもされた「今日までそして明日から」を聴いてみます。

  「青春の詩」
   

  「今日までそして明日から」
   

 ここまで聴いてきた曲で分かるように、単純なフレーズを延々と繰り返しながら、メッセージ色が強く、かつ内省的な歌詞を展開していくのが拓郎の一つのパターンです。
 あるいはあまりポップ、キャッチーとはいえない断片的なメロディにをつなぎ合わせたような曲もあります。デビュー曲「イメージの詩」のカップリング、当時はCDではなくレコード盤ですからB面と云いますが、「マークII」なんかもまたもう一つの拓郎節です。詞の内容も何が「マークII」なのかよく分からないんですけど、聴いてみましょう。

  「マークII」
   
※たぶん当時に近い時期のライブ映像で、後半は別の曲につながっています。
   
         

 すでにある程度は話題になっていたんですが、この吉田拓郎の人気が一気に爆発するのが、71年の全日本フォーク・ジャンボリーのステージによってです。
 まずその問題の曲を、スタジオ録音版で聴いてみます。

  「人間なんて」
   

 みなさんも一度くらいは聴いたことのある曲だと思います。タイトルはそのまんま、「人間なんて」です。
 この単純きわまりない曲を、71年のフォーク・ジャンボリーで、拓郎はなんと2時間にわたって熱唱します。
 その時のものかどうかは、ちょっとよく調べてなくて分からないんですが、当時のフォークのオムニバス・アルバムによく収録されている8分ほどのライブ・バージョンがありますので、それを聴いてみます。

  「人間なんて」(ライブ・バージョン)
   ※実際の講義で聴いてもらったものとは違うバージョンですが、これも「その時のもの」ではないでしょう。
   

 とにかくその、71年フォーク・ジャンボリーでの「人間なんて」2時間熱唱によって、拓郎人気が一気に爆発します。71年11月のアルバム『人間なんて』も10万枚を売り上げて、これは当時のアルバムとしては大ヒットです。
 岡林信康が何度も云うようにこの年から隠遁生活に入りますから、この71年は岡林時代から拓郎時代への転換期ということになります。
 翌72年に入ると、拓郎人気はさらに決定的になり、2つの大ヒット・シングルが出ます。発売元もインディーズに近いフォーク系のエレックから、メジャーのCBSソニーに変わって、まず72年1月のシングル「結婚しようよ」が50万枚のヒットです。続く「旅の宿」も売れに売れて、このあたりからフォークが狭いシーンを飛び出して、国民的な流行歌へと拡大していきます。
 ではその2曲を続けて聴いてみましょう。

  「結婚しようよ」
   

  「旅の宿」
   

 また、拓郎には自分で歌ったものだけではなく、別の人に提供して大ヒットになった曲もいくつかありますね。例えばモップスの「たどりついたらいつも雨ふり」、かまやつひろしの「我が良き友よ」です。
 この2曲も聴いておきましょう。

  モップス「たどりついたらいつも雨ふり」
   

  かまやつひろし「我が良き友よ」
   

 これらは同じフォーク系、あるいはGSというやはり若者文化系のミュージシャンに提供したものですが、演歌歌手に提供して大ヒットした曲もありますね。森進一の「襟裳岬」です。

  森進一「襟裳岬」
   

 こうした拓郎の活躍によって、それまではあくまでも若者文化の枠内で盛り上がっていたフォークが国民的規模で認知されていくことになったわけです。
 吉田拓郎に続いて、井上陽水や南こうせつのかぐや姫などが登場するわけですが、先へ行く前に、70年代前半の拓郎の、その他の重要曲をまとめて聴いておきます。
 まず「夏休み」という曲ですが、こういう牧歌的でノスタルジックな曲も拓郎には数多くあります。「となりの町のお嬢さん」なんて曲もこの系統かもしれませんが、ここでは「夏休み」を代表的な例として聴いておきましょう。
 それから、最初に聴いた「イメージの詩」に近い路線で、「ペニーレインでバーボン」という曲を聴きます。他にこの系統では「人生を語らず」などがあります。
 拓郎の曲には、バンカラというか、非常に男くさい感じがあります。かまやつひろしに提供したさっきの「我が良き友よ」なんかが典型的でしょうが、拓郎自身が歌ってヒットした曲として、これは80年代に入ってからの作品ですが、「唇をかみしめて」というのを聴いてみましょう。出身地の広島弁の歌詞も話題になりました。
 最後に、ファンの間ではたぶん一番人気の「落陽」を聴いて、ですから計4曲を続けて聴くことになります。

  「夏休み」
   

  「ペニーレインでバーボン」
   

  「唇をかみしめて」
   ※つい魔が差してこの映像を。曲は1:50あたりからです。
   

  「落陽」
   

 最後にひとつ重要な情報を話し忘れていましたので、つけ加えます。
 75年6月に、拓郎、陽水、小室等、そして泉谷しげるの4人で、フォーライフ・レコードというのが設立されます。
 URCレコードが、日本で最初のインディーズ・レーベルだという話はすでにしましたが、このフォーライフ・レコードも、メジャーで活躍していたミュージシャンが独立して自分たちのレーベルを立ち上げるという試みの最初として重要です。
 ではここでまたちょっと休憩を。