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青いムーブメント(8)

   8.

 高校時代の私の活動については、これまでに刊行した他の自伝でもくりかえし詳しく書いた。したがって今回は、要点のみざっとふりかえるにとどめたい。高校時代の活動について書くことには、正直云ってもうかなり飽きているのだ。
 私は高校受験に失敗した。
 それは成績が悪かったためではなく、純粋に制度の欠陥によるものだった。
 ややこしくなるので詳しい説明は省くが、結論だけを云えば、福岡の県立高校入試のしくみは、西南学院中の出身者にとってのみ著しく不利であるようにできているためであった。
 西南中というのは不思議なところで、普通この手のエリート校の卒業生はそのままエスカレーター式に上の高校へと進学するものだが、西南は違うのだった。
 もちろん、系列の西南学院高校というのが、すぐ隣接して建っている。ところが生徒のほとんどは、そこへの進学を希望しないのである。中学はエリート校であるが、高校はそうではないからだ。
 西南中の生徒のうち一割ほどは、もっと上のランクの私立高校へ進学する。ラサールや久留米大附設、あるいは遠く開成や灘へ進む者もいる。西南中には、それらに一度、中学受験で失敗して入学しそこねて、仕方なく西南中に入ってきた生徒が大勢いる。私自身もラサール落選組であったが、そういう生徒はいわば高校受験の敗者復活戦に挑むわけだ。とくにラサールと久大附設の受験日には、三分の一くらいが欠席して教室がガランとする。もっとも私は、この三年間ですっかり受験競争脱落組に転落していたので、だからそのガランとした教室の様子を知っている側の生徒である。
 それら超優等生以外の、一般の西南中出身者は、地元のトップレベルの県立高校への進学を希望する。福岡では、久大附設を除いては、私立よりも県立の方が、偏差値が高いのである。西南中への通学圏では、それは修猷館、筑紫丘、福岡の三つの県立高校のことを指す。三校のうちどれが一番上というのはなく、単に居住地によって志望校は決まる。灘やラサールに落ちた生徒や、そもそもそこまでは狙ってない生徒は、ほぼ全員がこの三校を受験する。そして、西南中出身者に著しく不利なシステムの結果、半分以上が落選する。その、県立高校入試に失敗した生徒が進学するのが、エスカレーターの西南学院高校ということになる。私の代では、卒業生の約半数が西南高へ進んだ。システムが公平なら、おそらく二割くらいに減ると思われる。
 私は西南中というところが嫌いだった。
 同級生たちを、軽蔑していた。
 脱落組も多かったとはいえ、同じくらいに、高校受験となると目の色を変えるガリ勉組も多かった。私の目には、後者のあさましい姿ばかりが映った。もちろんそれは、思春期特有の肥大した自意識、おれは周りの人間とは違う特別な人間だ、というそれこそ一種のエリート意識のなせるところにすぎなかったのだが。
 私はムキになって受験勉強を拒否し、ピアノの練習と推理小説の創作という趣味を、受験シーズンに至っても貫徹した。そして、このガリ勉たちと訣別するために、私の住む福岡県大野城市を含む学区のトップである筑紫丘高校をわざと志望せず、一つランクの下がる別の県立高校を受験した。いくらなんでも落ちるはずはないと思っていたから、すべり止めも受けなかった。そもそも同級生の大半が通学する西南高校になど、初めから行く気はなかった。
 ところが、あろうことか私は不合格となったのである。私は、西南中出身者を排除するシステムを知らずに受験に臨んでいた。
 「中学浪人」とか、「高校へ行かない」という選択をするほど意識が進んでいたわけではない私は、当然見苦しく狼狽した。
 その結果、私立中村学園三陽高校に、二次募集を受けて入学することになった。八六年四月のことである。

 三陽高校は、私たちが第一期生ということになる、新設校だった。
 中村学園は、女子大や女子中・高校などを経営する福岡では大きな学校法人で、三陽高校はその中村学園が初めて開設した男子校だった。
 中村学園はそもそも右よりの教育方針を掲げている上に、新設第一期生ということもあって、私たちに対する学校側の管理体制は熾烈を極めた。
 入学直後から、軍隊式の行進訓練などがくり返しおこなわれた。西南中ではまったく無縁でいられた「日の丸・君が代」も常に身近にあった。私は「日の丸・君が代」を、日本の象徴としてよりもまず、この三陽高校の象徴として憎むようになった。
 三陽高校でおこなわれていたのは、まさに「管理教育」だった。
 あれほど嫌いだった西南中の日々が、まるで天国であったように思えてきた。
 私は単身決起して、職員室に抗議に行くようになった。私は三陽高校においては優等生であり、三年後の大学受験で第一期生の「結果」を世間に知らしめなければならぬ学校側にとっては貴重な財産であったから、弾圧はされなかったが、かといってもちろん、学校側の基本的な教育方針が変更されることはなかった。
 私はすぐに心を決めた。
 もともとこんなところへ入学するつもりはなかったのだ。転校しよう、と。

 「青いムーブメント」との重なりは、この最初の高校時代にはほとんどない。
 入学してまもなくチェルノブイリ原発事故があり、少し不安を感じたことをよく覚えている。
 なぜか司書の女性がリベラルで、自分の好みで蔵書を揃えていた。例の「フォー・ビギナーズ」シリーズが全巻あったことが妙に記憶に残っている。
 しいて挙げれば、そのくらいであろう。
 もっとも、三陽高校の方針自体が、八〇年代の「管理教育」の典型だったとは云える。これに抵抗することが、要するにイコール「青いムーブメント」への参入を意味していた。

 私が転入した先は、鹿児島の県立加治木高校である。八六年九月のことで、つまり三陽高校にはわずか一学期間しか在籍しなかったことになる。
 福岡の家族と別れ、一人で父方の祖母の家から通った。
 小学校卒業以来の久々の共学ということもあって、転入当初こそはしゃいでいたが、一ヶ月ほどで再び闘争の日々が始まった。三陽高校で、闘争が癖になってしまっていた面もある。
 きっかけは、「補習」という、九州の普通科高校に独特のおかしなシステムであった。
 私立であれ県立であれ、九州のほぼ九割方の普通科高校では、「補習」とか「ゼロ時限目」とか呼ばれる全員強制参加の「課外」授業がおこなわれている。内容は、ごく普通の正課の授業と同じである。
 たいていは正規の始業時刻の前に、一時限ぶんの枠が設けられる形をとるから、九州の高校生の多くは朝七時半ごろ登校することになる。これはほぼ一年中、おこなわれる。
 それだけではない。九州の普通科の高校生には、夏休みや冬休みがない。盆・正月の前後数日を除いて、夏休みと冬休みの期間も毎日、午前中にこの「補習」がおこなわれるからである。もちろん、全員強制参加である。
 九州以外の人にこのことを話すと、まず信用してもらえない。が、九州の人間はこの制度を、ごく当たり前のものとして受け入れている。
 福岡でも当然おこなわれているのだが、私は単に無知で知らなかった。三陽高校では、私がもはや通わなかった一年生の夏休みから導入されたらしい。私はだから、このバカバカしい制度は、加治木高校に特有のものと思い込んでいた。
 いや、最初からバカバカしいと思ったわけではない。
 ある日、一枚のプリントが配られた。近く始まる「補習」への参加意思の有無を問うものだった。強制参加なのに、なぜわざわざ加治木高校側がこのような「手続き」を律義に踏んだのかは、よく分からない。たいていの高校では、有無を云わせずただ実施される。
 私は、全員強制参加なのだという事情をよく知らなかったので----当たり前である。出欠の意思の有無を確認するプリントを見せられて、一体なぜそれが本当は強制参加なのだと思うだろう----、単に早起きがイヤだったので、「参加しない」にマルをつけて提出した。
 すると、職員室に呼出しを食らったのである。担任が、参加しろという。
 全員参加だということはみんな知っていたようで、「参加しない」としたのは、学年で私一人だけだったのである。
 私は、態度を硬化させた。
 もともと、それほど深い理由があって「補習」参加を拒否したのではない。しかし、参加するかしないかを問うておいて、「しません」と答えたら怒られるというのはどう考えても納得がいかない。
 以来、加治木高校でも毎日が闘争となった。
 ことあるごとに、学校側と衝突した。

 政治的に目覚めたのも、この頃からだ。
 ひとつには、どうやら社会のことをよく知っておかないと、小説家になるのは難しいようだということに気づいたからでもある。
 そこで、毎日「ニュース・ステーション」を欠かさず見るようになった。新聞も、よく読むようになった。
 世の中とんでもないことになりつつあるのだと、「わかった」。
 なにしろ当時まだ中曽根政権が続いている。その最後の頃である。
 新聞紙面を賑わせていたのは、消費税の前身である「売上税」問題と、防衛費の対GNP比一%枠突破つまり軍拡、そして国家秘密法なるヤバそうな法案などだった。
 このタカ派政権に、土井社会党が対決姿勢を強めていた。
 私は西南中時代のノートを引っぱり出して、「レーニン」の授業の復習を三年おくれで開始した。
 私は、これは私自身が動き出さなければ、と感じたのは、同級生たちが皆、こうした問題に無関心らしいと気づいたからだった。西南中時代には、私がやらなくても、「レーニン」の弟子たちが、「社会研究部」などで頑張っていた。しかし、あんなことは西南中に特殊な現象だったのだと思い知って、俄然、自分がやらねばと思い始めたのである。
 私は、ことあるごとに同級生たちに、社会の不正について説き始めた。
 同級生たちも、乗ってきた。彼らも、興味がないわけではないのだ。
 結局、何かやるわけではなかったが、私の周囲に、社会問題について熱く語る十人くらいの輪のようなものが形成された。
 その中の一人がある日、「売上税反対」の共産党のビラを持ってきた。
 私は激しく共感し、町で唯一の共産党議員の事務所を訪ねたりした。鹿児島の、しかも郡部で左翼といえば共産党くらいしかない。この頃東京の見津毅はブルーハーツのライブを主催したりしているが、鹿児島で目覚めたばかりの私は共産党のシンパとなることからその政治的履歴を開始したのだった。とはいえ私は二、三度その町議に会って大量のパンフをもらったくらいで共産党からは足が遠のき、あとはそのパンフを熟読し、自己流に理解したつもりになって、軍拡派の同級生との・論争・に役立てていただけだ。もっとも私は以来かなり後の時期まで、思想的には日本共産党的な、しょーもない戦後民主主義者であった。「レーニン」は当然、新左翼だったはずだが、当時の私にはその違いなど分かるはずもなかった。
 全共闘や学生運動について、興味はあったが、どうすれば詳しいことが分かるのか、思いつかなかった。だから、自分が生まれた頃に、なんか熱かったらしい、という以上のことはイメージできなかった。要するに、何も知らなかったのだ。
 ただこの時期、フィリピンに続いて、韓国が熱くなり始めていた。韓国の若者たちが機動隊と激突している映像を見て、うらやましいな、日本も昔はこうだったのかな、などと思ったりしていた。もちろん共産党センスだったから、暴力はいけないと思っていた。ただ、若者が社会や政治のことで熱くなっている様子がうらやましかったのだ。

 私の形成した輪の中にいた一人、女生徒であったが、彼女が日々闘争している私に、吉本隆明を読ませようとしたことがあった。角川文庫の『共同幻想論』だったと思うが、はっきり云って、難しくて一行も読めなかった。当時の私に吉本隆明はいくらなんでもあんまりだ。とくに『共同幻想論』を含む例の三部作は、今の私にとってもチンプンカンプンなんだからなおさらだ。
 彼女は他にも、坂本龍一と誰かの対談本や、糸井重里の本なども貸してくれた。どちらも当時の私にはピンとこなかったのだが、今思えばあれが、かの有名な「ニューアカ少女」だったのだ!
 また、私に尾崎豊を勧めた別の女生徒もいた。結局、勧められただけで聴かなかったのだが、たとえ聴いても当時の私にはやはりピンと来なかっただろう。尾崎の歌う反抗はあまりにもヤンキー的にすぎる。私は、実際にはすでにどうだか怪しいものだったが、ずっと優等生のつもりでいたし、今でも尾崎よりはさだまさしの方が作品として優れているだろうと思うくらいだからだ。
 そう、これほど学校当局と衝突しながら、なお私を支え励ましているのはさだまさしと中島みゆきだったのだから、自分でもおかしいと思う。
 いくら鹿児島のしかも郡部とはいえ、自分のごく身近に、一方にニューアカ少女がおり、一方に尾崎ファンがいたのだから、私のセンスの悪さ、時代とのズレ方の激しさははなはだしいものだった。もちろん、時代とズレたまま暴走するキャラクターこそ、「青いムーブメント」の主要な担い手となり得るという逆説はあったのだが……。
 しかし実は身近になんと青生舎の影響を受けた者までいたのだから、私の井の中の蛙ぶりも堂に入っている。
 彼----M君は生徒会役員だった。
 私の闘争は常に、生徒会などの通常の手続きをスッ飛ばした、八方破れなものだったから、生徒会活動をつうじて着実にしかしゆっくりと改革していこうとするM君のやり方はどうにも生ぬるくて、私たちは事あるごとに敵対していた。そもそもM君が、学校をどう変えたいのかも、私にはよく分からなかった。私には、M君は体制側に見えた。
 ところが、私がこの加治木高校を去ってまもなく、M君も登校拒否になってしまい、結局、中退してしまう。私はそのことを後で知る。そして、私が最初の本を出し、「反管理教育」の活動家として名が知れるようになった時期、大検経由で東北大に入学し、ノンセクトの学生運動家となっていたM君から突然連絡が来て、会った。その時に彼が話してくれたのだが、M君はなんと、青生舎の学校変革マニュアル本、あの『元気印大作戦』を読んで興奮して、生徒会役員に立候補したのだというのだ。当時の、真面目そのものといったM君の印象からは、まったく想像もできないことで、私はものすごくビックリした。
 加治木高校時代、もしM君が私に『元気印大作戦』を読ませていたら、私のその後の高校生活は、まるで違った展開をしたに違いない。
 だが、私は何も知らなかった。
 何も知らないまま私は学校当局との闘争の日々に疲れ果て、半ば逃げるように再び転校に踏みきったのである。

 八七年九月、私は福岡県立筑紫丘高校に転入した。
 加治木高校には、だから丸一年、いたことになる。
 再転入先に、もともと高校受験の時に西南中の同級生たちと訣別するために敬遠した筑紫丘を選んだのは、エリート校なら校風は自由だろうという判断からである。
 二つの高校で展望のない闘争に疲れた私は、ただひたすら「自由」の二文字にあこがれていた。
 実際に、事前に筑紫丘高に入学した西南中の同級生に連絡して問い合わせてみても、「自由な校風だ」ということだった。
 しかし私の期待は、すぐに裏切られた。
 元同級生が嘘を教えたわけではない。彼は単に鈍感だったのだ。抑圧を抑圧と感じるだけのセンスのない人間には、戸塚ヨットスクールだって「自由」だろう。そもそも加治木高校にしたところで、地元では「自由な校風」で知られていたのだし、生徒の多くもそう感じていたはずだ。
 エリート校では、基本的に放任していても、生徒は「問題」を起こさない。だから放っておかれる。
 筑紫丘も加治木高校----地元では一番の進学校だ----も、そのかぎりで「自由な校風」であるにすぎない。「問題」を起こせば容赦なく弾圧されるのは、まったく同じだ。「問題」とは例えば、「補習」を拒否するなどである。
 長い闘争の日々の過程で、私は「自由」ということについて敏感になっていたから、筑紫丘の「自由」が偽りのものであることは、ほとんど即日、分かったと云ってよい。理屈ではなく感覚として、「あ、ここも加治木高校と同じなのだ」と反射的に理解したのである。
 私は絶望した。
 さすがにもう転校して----逃げてゆく先はない。
 「自由な高校生活」はもう永久に体験不可能となったことを私は知った。
 私は自暴自棄になった----と云ってよいだろう。「高校生による政党結成計画」など、単に思春期の妄想の域を超えて、もはやヤケクソである。だが結果としてこのヤケクソが、私を「青いムーブメント」に本格的に参入させることになったのである。
 その政党、名を「ほんとの自民党」という。政策は、ほとんど日本共産党のパンフに書いてあることそのまんまで、党名は「ほんとに自由と民主主義を実現する政党」という意味である。選挙管理委員会に届け出るつもりで、近所の文房具屋に注文して党の印鑑まで作っていたのだから、若気の至りというのは恐ろしい。そもそも、選管に届け出るということが、どういう意味を持っているかさえ、まったく分かっていなかったのだ。
 私がこのような計画を妄想したのは、学内で何かやろうとするとすぐに潰されるから、学外で好きなことをやろうと考えたためだ。好きなことというのはもちろん、社会問題について熱く語り合い、行動する同世代の組織化である。
 私はさまざまな方法を使って、「社会研究部」的な部活の存在する高校を探した。社会問題に興味のある高校生はどこを探せば見つかるだろうかと考えた時、当時の私にイメージできるのは、結局、西南中の「レーニン」の弟子たちのような中高生たちの姿くらいだったのだ。私は、全国規模で調べまくり、発見した数十校の「社会研究部」の部員宛に手紙を出した。
 返事が戻ってきたのは二校だけで、うち一つが、その後の私の人生を変えた。
 それは、広島修道高校の沢村(註.仮名)からの返信であった。

 沢村は当時高校一年生で、私の一つ年下であった。
 広島修道高校は中国地方一の名門で、また私服通学が認められているなどリベラルな校風であった。「七〇年」には小規模ながら学園紛争も経験したらしい。
 沢村が社会問題に目覚めたのは、中学二年生の頃だというから、八五年ころということになる。きっかけは、たまたま読んだ小田実の文章らしい。
 この最初のきっかけの違いが、そのまま私と沢村の差となる。私は日本共産党のパンフをベースにしていた。そこから出発すると、結局、共産党の活動に参加するという形でしか社会問題にコミットできないし、私のようにそれを避けようとすると、とたんに八方ふさがりになってしまう。対して沢村は、小田実である。「七〇年」のベ平連のリーダーであり、その後も一貫して無党派市民運動のボスである。現在の私の目から見ればともかく、十代のガキの目からは、バラエティに富んだ選択肢が広がっている。「七〇年」前後のことにも明るくなる。辻元清美とつながっているから、当時の最新モードの運動の情報も入ってくる。
 沢村の方が年下ながら、情報量も経験も、私をはるかに凌駕していた。
 広島大ノンセクトの活動をはじめ、地元の新左翼系市民運動にも出入りし、可愛がられていた。広島市内には例の「フリースペース」の実践が二ヶ所でおこなわれていて、両方の常連であった。そればかりか、キセルその他「貧乏人サバイバル生活術」の達人で、中二の冬休み以来、長期休みのたびに全国を無銭旅行し、各地の市民運動の現場に知り合いの活動家をもっていた。とくに青生舎の『元気印大作戦』を読んでからは、ヤル気が激増したようだ。
 とにかく、当時の私から見れば、沢村は信じられないくらいのスーパーマンだった。いや、現在からふり返っても、充分に変である。
 もっとも、実際には当時の沢村の活動の実態は、ほとんど無に等しかった。単にあちこちに出入りしているというだけで、実際に何らかの活動を担っているわけではなかった。要は単なる耳年増の類にすぎなかったのである。
 それでも私は、もちろん充分に圧倒された。
 八八年の一月、私は広島を訪れ、沢村に会った。実際に会って話してますますその知識量に驚嘆し、また広島の「フリースペース」の一つで大勢の----といっても十数名だが----老若男女の市民運動家を集めて歓迎会のようなものを開いてもらい、とにかくこの広島訪問はわずか二、三日ながら見るもの聞くものすべてが新鮮でもの珍しく、ただただ沢村への尊敬の念を深くした。
 私は、自分が井の中の蛙であったことを思い知った。「政党結成計画」などバカバカしくなってきた。
 時期を同じくしてこの「政党結成計画」は筑紫丘高校当局に露見し、大問題となった。学内の活動は潰されるから学外で好きにやろうと考えての計画だったのだが、当然のことながら日本のとくに八〇年代の高校に、学内も学外もない。生徒である以上、全生活について学校側の指導のもとにおかれる。高校生の政治活動などもってのほか、というのが筑紫丘高校の立場であった。憲法など、関係ない。
 私は、無期停学処分を受けた。
 処分は、私が偽装転向の「誓約書」や「反省文」を提出するまで、五十日間も続けられた。
 筑紫丘高校の「自由な校風」とは、この程度のものなのであった。

 私は、この五十日の停学期間中に、自主退学を決意した。
 屈辱的な偽装転向までおこなっていったん復学したのは、これが八八年二月のことで、あとわずかで二学年を修了し、取得単位が増えて大検受験がラクになるからで、つまりこの期に及んで私はまだ、本当にはドロップアウトの覚悟ができずにいたのだった。
 しかも私は、もう一つ、とっておきの逃げ道を確保していた。
 自主退学する、という決意そのものは本心からのものだったのだが、しかし「タダで退学する」のはどうにもシャクにさわった。これではただの負け犬ではないか。もちろんこの上さらに何をやっても負け犬の遠吠えにしかならないのだが、どうせ負け犬になるのならせめて遠吠えくらいはしておきたい。
 私は、中学生時代----つまり「反抗期」が始まった十四才からの、闘争の数々を箇条書きにしたものを、東京の大手出版社数社に送ってみた。
 そのうちの一社、徳間書店から出版を引き受ける旨の返信があったのは、まだ退学届を出す前だった。
 私は文字通り、小躍りして喜んだ。
 こうして私は、もともと望んでいた推理作家としてではなく、「管理教育」と闘う若き活動家として、単行本デビューすることになった。が、それはこれよりさらに一年近く後のことである。

 この筑紫丘高校時代のことで、書き落としたことをいくつか。
 何よりも、私はこの時期にブルーハーツと出会っている。
 八七年秋だから、たぶんセカンドアルバムが出る前後である。
 「政党結成計画」の仲間で、別の高校に通う西南中時代の同級生が、「だまされたと思って聴いてみろ」と一本のテープを貸してくれた。彼は、ロック少年だった。私は模範的なさだまさし少年だったので、この八十年代も後半という時局においてなお、「ロックは不良の音楽」という輝かしい神話を信じていた。私は断じて不良ではなかったから、ロックは私には無縁、むしろ軽蔑すべき頭の悪い人たちの聴くものと考えていた。が、仲間のたっての勧めなので、家に持って帰り、ガマンして聴いてやることにした。
 そして、世界が一変したのである。
 それが、ブルーハーツのファーストアルバムだった。
 以来、私は偏見を改め----と云いたいところだが、あるいは別種の偏見に取りつかれてしまったのかもしれない。「ロックは反体制の音楽」というもう一つの迷信に。
 ともかく私はそれ以来、ロックに俄然興味を抱いた。
 NHKで、第一回の「広島平和コンサート」の様子が放送されたのはこの直後くらいの時期だったと思う。動くブルーハーツを見たのはそれが最初である。
 さらに、このコンサートには、他にもたくさんのロック系のミュージシャンが出演していた。尾崎豊も出ていたが、私が特に気に入ったのは、やはり辻仁成のエコーズだった。当時の、地獄のようにダサい私の目から見ても、エコーズは「これはきっとかなり恥ずかしい」と分かるくらい青臭くて熱いメッセージをシャウトしていたが、恥ずかしさもエコーズくらい度がすぎるとむしろすがすがしい。エコーズは今の私にとって、フツーの意味で、「恥ずかしい青春」の象徴のようなバンドである。たぶん当時のエコーズが好きだった多くの同世代にとってもそうだろうと思う。
 「恥ずかしい青春」といえば当時、片桐麻美というミュージシャンがいて、時々テレビで見かけた覚えがある。広島平和コンサートにも、八八年か八九年あたりに出演していた。彼女の、「わたしのうた」という曲は、当時ひんぱんに耳にしたように思うから、たぶんそこそこヒットしたはずだ。が、どうも「忘れられた名曲」と化してしまっている感がある。
 八〇年代後半とはどのような時代だったか----青いムーブメントとは、どんな「感じ」であったかをつかむには、前に挙げたマンガ『ボーダー』とともに、この片桐麻美の「わたしのうた」もよい材料になると思う。あの頃の若者たちの、「フツーの少数派」は、こんな感じだった、と。
 そんなわけで、遅ればせながらロックに目覚めた私は、徐々にさだまさしや中島みゆきを聴かなくなった。
 私はようやく、身も心も、青いムーブメントに参入したのである。

 八八年四月、高校三年の始業式に、私は退学届を出すために一日だけ登校した。最終的に、それが受理されたのは五月下旬だったが、とにかくこれをもって、私の高校時代は終わった。

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2006年05月09日 03:48に投稿されたエントリーのページです。

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