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青いムーブメント(7)

   7.

 八六年二月に、フィリピン革命が起きている。
 盤石に見えた極悪非道の独裁政権が、突如盛り上がった「ピープルズ・パワー」によってあっという間に崩壊していくさまは、まるでよくできたハリウッド製のポリティカル・アクションを見ているようだった。「ニュース・ステーション」の視聴率が突然上がり、テレビ朝日の看板番組へと成長するきっかけとなったのも、このフィリピン革命の報道だったという。
 アメリカがこの種の独裁政権を見放し、むしろ民主化勢力を支持するようになったのも、フィリピン革命からではなかったか? 冷戦時代、民主化運動はたいてい左翼と結んでいたから、アメリカは一貫して、それを弾圧する独裁政権の側に支援を与えてきた。それが却ってますます、民主化勢力を左翼へと走らせた。キューバなどはその最たるもので、カストロもゲバラも、革命政権を樹立した時点においてすら、まだ共産主義者ではなかった。ベトナムもイランもニカラグアも、みなアメリカと結んだ独裁者が打倒されたという点で共通している。それがこのフィリピンでは、アメリカは掌を返したようにそれまで支援してきた独裁者・マルコスを切り捨てた。
 冷戦が終わろうとしていた。
 この年の秋には、レイキャビクでレーガンとゴルバチョフの、米ソ首脳会談がおこなわれ、軍縮について話し合っている。
 平和ムードを主導しているのは、明らかにタカ派のレーガンではなく、改革派のゴルバチョフの方であった。冷戦は終結に向かいつつも、レーガン=悪、ゴルバチョフ=善、といったイメージは強化されていった。
 もっとも、ソ連のグラズノスチ、情報公開政策がまだまだ本物ではないことを露呈させる大事件が、この八六年四月に発生している。
 チェルノブイリ原発事故である。
 ゴルバチョフ政権も、徹底して事故の実状を隠そうとした。そしてアメリカも、深く追及しなかった。アメリカだってこれより十年ほど前のスリーマイル原発の事故について、触れられたくないのは同じだった。
 だからチェルノブイリの直後は、異常なほど静かだった。報道も、淡々としていた。マスコミも、電力会社と深く結びついていたのである。

 ところで日本にも、ゴルバチョフ的な「善玉」が、八六年に華々しく登場する。
 土井たか子である。
 土井たか子の委員長就任に先立って、社会党はマルクス主義から社会民主主義への政策転換を打ち出している。さらに土井社会党は、従来の労働組合政党から、都市型の新しい市民運動を基盤とする、新しい左翼政党への脱皮を図った。
 青生舎の保坂展人とピースボートの辻元清美が、「土井たか子を支える会」の中心で、いわばこの二人は土井たか子のブレーンであった。二人に比べると地味ではあったが、フェミニズムの弁護士として名を馳せていた福島瑞穂などもすでにこの輪の中にいた。
 社会党は新しくなり、活性化したが、逆にこの頃から青生舎やピースボートは新しさを失い、停滞しはじめたと云っていい。保坂も辻元も次第に、議会政治関係者となってゆく。

 若い世代の・革命的・なムーブメントの担い手は、世代交代しつつあった。
 早大ピリオドの見津毅はこの年、早大近くのアパートに「フリースペースVISION」を開設する。「九〇年」の若い政治運動は、大学を拠点としないという著しい特徴があったが、見津が学内のサークルボックスの類ではなく、学外に新しい活動拠点を設けたことは、その先駆的な例と云える。
 見津の新しい拠点には、中高生など、早大生以外の若者も多く出入りする賑やかな場所になった。この頃の新しもの好きの若い活動家たちの例にもれず、見津もここで自由ラジオなどを試みた。
 特筆しておくべきは、「勇気のない子供たちのクーデタ宣言」と題したライブ企画だろう。出演の目玉は、デビュー間もない辻仁成のエコーズだった。
 エコーズは、「八〇年」的な洗練とは対極にあるぎこちない言葉づかいで愛と自由を声高に叫ぶ、現在からすればまさに「若気の至り」と呼ぶにふさわしい恥ずかしいロックバンドだった。しかしその歌の主人公は、それ以前の“反抗のロック”のセオリーと違って、盗んだバイクで走り出したり、夜中に校舎の窓ガラスを割ってまわったり、ヤンキーみたいな“反抗”をする勇気のない、おとなしいごくフツーの、弱々しい少年だった。その意味でエコーズは、尾崎豊とブルーハーツの中間形態ともいえた。要するにエコーズは、優等生の尾崎豊、カッコ悪いブルーハーツであった。とはいってもエコーズは、かなり中高生に人気のあるバンドだった。しかし本格的なブレイクを迎える前に、ブルーハーツが登場してしまった。
 そのブルーハーツも、見津が手がけたこの「勇気のない子供たちのクーデタ宣言」に出演している。まだデビュー前で、見津によればエコーズのギャラが三十万円、ブルーハーツのギャラが五万円であった。
 素人企画にありがちなミスで、見津が用意した電源は、ロックバンドの大音量を支えるに充分ではなかった。開演直前に、ミスに気づいた。すでにプロデビューしているエコーズのスタッフはカンカンだった。見津たちは平謝りした。しかしそのままでは開演できない。一時間以上待たされて、集まってきた客の中高生たちは暴動寸前だ。
 ブルーハーツのヒロトの提案で、急きょ、アコースティック・ライブということになった。もちろん、エコーズもだ。ブルーハーツとエコーズの、完全なアコースティック・ライブなど、後にも先にもこれ一度であろう。

 そのブルーハーツの人気も急上昇していた。
 前年四月に結成されたブルーハーツは、この八六年のうちには、一度に千人を動員する人気バンドに成長していた。

 マンガ『ボーダー』の連載が始まったのも八六年である。
 八〇年代後半がどのような時代だったのか、このマンガを読めばわかる。そこに描かれているこの時代は、宮台真司や大澤真幸や、あるいは私と生物学的には同世代であるはずの東浩紀が語る「八〇年代」を事実だと思い込んでいる人にはとまどいを覚えさせずにはおかない。しかし、「ボーダー」に描かれているのが本当の「八〇年代後半」なのである。

 「九〇年」のムーブメントをその中心で担った一人である宮沢直人は、のちに八〇年代末の新しい若者たちの運動とは何かを説明するのに、分かりやすい例として、ブルーハーツとともに「たけし軍団」を挙げている。
 たけし軍団の若者たちによるフライデー襲撃事件も、この年八六年の暮のことであった。

 八六年、オウム真理教はいよいよ本格的なスタートをする。
 この年のはじめ、麻原彰晃はインドへ修行の旅に出ている。
 二月、初期の主著の一つである『超能力・秘密の開発法』を出版、四月にはオウム真理教の前身、「オウム神仙の会」を結成している。
 麻原が再びインドへ行き、“最終解脱”をしたというのも、この年七月のことである。そしてこの年の暮れ、初期麻原のもうひとつの主著である『生死を超える』が出版される。
 オウムに結集したのもやはり、八〇年代半ばの、“軽薄短小”な社会に強い違和感を持ち、同時にその頃から徐々にかもし出されてきた、世の中が良い方向へ変わろうとしているという、漠然とした楽観的なムードに多かれ少なかれ反応した若い層だった。

 翌八七年には、「朝まで生テレビ」が放送開始となる。
 現在からは想像もつかないが、初期の「朝ナマ」の議論は、とにかく白熱していた。終わりつつあるとはいえ、まだ冷戦時代であったから、たいていのテーマで出演者たちはきれいに右と左に分かれていた。要するに対立軸がはっきりしていて、そのバトルはショーとして充分に面白かったのだ。
 八五年「ニュース・ステーション」、八七年「朝ナマ」と、「社会派であること」はいよいよ恥ずかしいことではなくなってきた。むしろ、それは今やファッションになりつつあった。政治がタブーであった「八〇年」はもはや遠い過去だった。
 「広島平和コンサート」が始まったのも八七年だ。かつてのACFが、若者の間で政治がタブーであった時代状況に挑戦するものであったとすれば、山本コータローと南こうせつという、ロックとはおよそ無縁のフォークのミュージシャンの呼びかけで始まったこの「平和」のロック・コンサートは、社会派であることが若者のファッションになりつつあった時代状況に便乗するものだった。「平和がいいに決まっている」という思考停止したスローガンが、このコンサートでの合言葉になっていた。
 このコンサートは、八七年から十年間、おこなわれることになっていた。九〇年ごろまでは確かに毎年おこなわれていたが、その後も予定どおり続けられたのかどうか、私は確認していない。
 第一回のこの八七年には、当時のメジャーどころのロック系ミュージシャンは、ほとんど出演していたと云っていい。
 尾崎豊、渡辺美里、バービーボーイズ、佐野元春など。もちろんエコーズやブルーハーツも出ていた。八〇年代後半、ある意味ではブルーハーツと人気を二分していたといっていいストリート・スライダーズも。変わったところではSIONの名もあった。

 ブルーハーツはこの年五月、シングル「リンダリンダ」でメジャーデビューを果たした。ファースト・アルバムもほぼ同時に発売されている。
 十一月には早くもセカンド・アルバム『ヤング・アンド・プリティ』発売。
 ブルーハーツの登場は、日本のロックの革命であった。
 その前と後では、日本のロックはまったく変わってしまった。
 ブルーハーツの登場によって、日本のロックは初めて本当に日本の若者のものになったと云ってもよい。
 それまでの日本のロックは、背のびしたい一部の若者が特権的に享受する輸入文化であるか、さもなければロックふうの歌謡曲でしかなかった。
 ブルーハーツはまぎれもなくロックであり、しかもそれまでの売れているロック----例えば佐野元春や浜田省吾らと違い、その言葉にはロック的な「なまり」がなかった。この時代の、「ごくフツーの少数派」の若者たちが抱える苛立ちや青臭い正義感を、直球で表現していた。

 八〇年代後半の若者たちの運動には、名前がない。
 「六〇年」には六〇年安保、「七〇年」には全共闘運動やヒッピー・ムーブメント、「八〇年」にはサブカルチャー、といった具合に、その時代の若者たちの運動を一言で総称する名前がついているが、「九〇年」の運動にはそれがない。
 そもそも、そのような運動が存在したこと自体が、一般に認められていない。存在しなかったのではなく、単に認められていないのである。その存在を執拗に指摘すればするほど、私などは単なる誇大妄想狂の類に扱われてきた。
 かつて「失われた世代」なる言葉もあったが、私たちはさしずめ「抹消された世代」とでも呼ぶべきかもしれない。あったのに、なかったことにされている世代。
 このムーブメントの存在について、名の知れた批評家の中では唯一、浅羽通明のみが言及している。ただし、否定的に。八〇年代後半に、若い奴らは突然、うすっぺらな社会派になってしまい、まったくろくでもなかった、という文脈で、しかし浅羽はこのムーブメントの存在を認めている。
 浅羽通明はそれを「ネオ社会派」と呼んだ。
 そういう浅羽自身は、「八〇年」の世代に属しているが、では「九〇年」に属する私たち当事者は、それをこれまで何と呼んできたか?
 一時期、私は「九〇年安保」という言葉を使っていた。全共闘運動に「七〇年安保」の別名があるのにならい、中森明夫や橋本治や浅羽通明がサブカルチャー運動を「八〇年安保」と称したことに、さらにならったものだった。しかしこの言葉を使っていると、私が中森明夫につまらない知恵をつけられたかに思われてしまうことが多くて閉口した。私はむしろ浅羽の文章にヒントを得て「九〇年安保」を云い出したのだが、私と中森の後に述べるような関係を考えると、そのような不愉快な誤解もやむを得ないと云えた。しかし私たちの世代の一連の運動を、「六〇年」「七〇年」「八〇年」のムーブメントと並立させうるものとしてとらえるその狙いは間違っていなかった。が、「七〇年安保」も「八〇年安保」も、「全共闘」や「サブカルチャー」という「本名」があってのいわば別称である。本名なしにいきなり「九〇年安保」ではたしかに具合が悪い。
 「九〇年」派最大の理論家である鹿島拾市も、私の「九〇年安保」という命名には賛成していなかった。彼は単に、「八〇年代末反乱」と云っている。
 宮沢直人もやはり、「八〇年代後半の若者たちの新しい運動」と云い、前述のとおり、説明を求められると「ブルーハーツやたけし軍団みたいな……」ということになった。
 私自身も、この運動そのものの名前ではなく、それを担った私たちの世代という意味ではよく「ブルーハーツ世代」という言葉を使ってきた。それは全共闘世代が同時に「ビートルズ世代」であるのと似たようなニュアンスを持っている。
 私は今度こそ、この「九〇年」のムーブメントに名前をつけようと思う。
 私はそれを、「青いムーブメント」と命名する。
 この「青」は青生舎とブルーハーツをかけている。もちろん、私たちの世代の運動全体に漂っていた「青臭さ」を何よりも表現している。「青いムーブメント」なるネーミングのそこはかとない気恥ずかしさも、あの運動にふさわしいものだ。
 その青臭さは何よりも、前の世代の運動と断絶しているところから生じたものだ。私たちの運動は、前の世代のそれを継承しなかった。故意に継承しなかったのではなく、「八五年の断絶」のために継承できなかったのだ。私たちは、すぐ上の世代が、何を試みたのか、まったく知らずに自らの試みを開始した。私たちの運動の青臭さは、だから単に若さゆえではない。「八〇年」の末っ子であるケラや大槻ケンヂが語る「八〇年代の青臭さ」と、私たちの運動の青臭さも、当然別のものということになる。

 私はまだ、青いムーブメントの全貌を明らかにしていない。
 その前に、私自身の歴史の記述にいったん戻ろう。

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2006年05月01日 04:19に投稿されたエントリーのページです。

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