私と全共闘

『悍』第3号・特集「暴力燦々」のために執筆し、ボツとなった原稿
09年5月初旬に執筆

 私には、自分が全共闘運動の唯一の継承者であるという自負がある。
 そもそも私の世代に、全共闘運動をたえず参照しながら自らの進むべき道を探ってきたような人間は、狭い政治運動のシーンにさえ他にほとんど(せいぜい数人くらいしか)存在しないだろうし、しかも単に参照するにとどまらず、全共闘のさらに先へ進もうと志して、なおかつその具体的な方向性を提示しうるにまで至ったのはおそらく私一人だろう。
 そんな確信を深めているところだったから、『悍』創刊号に掲載された千坂恭二「一九六八年の戦争と可能性」にある、「プレ・ファシズム性こそが、この運動(全共闘運動)の最大の思想的遺産でもある。つまりファシズムの自己肯定を経過しない思想は、この運動以降には到達出来ないということでもある」との記述は、ますます私を天狗にさせている。
 全共闘を意識して以来10余年に及ぶ試行錯誤の末に、5年ほど前、私はファシズムへの「転向」を宣言していたからである。


    1.

 私が生まれた時、全共闘はすでに「終わって」いた。
 私の理解では、60年代後半の高揚期から70年代前半の停滞期へと、全共闘運動が移行するターニング・ポイントは、70年7月7日の「華青闘告発」である(念のために云っておくが、スガ秀実がこの事件について盛んに論じ始める以前から私はそう理解していた。さらに云えば、スガはそれを全共闘運動が決定的に変質するターニング・ポイントであるとは云うが、別に「停滞期への」それであると云っているわけではないのだから、ニュアンスは少し違う)。
 私が生まれたのは、その華青闘告発の3週間ほど後のことである。
 10代がちょうど80年代とぴったり重なっていることになるのだが、80年代はいわゆる「管理教育」の全盛期である。高校全共闘が鎮圧され、校内暴力さえとっくに鎮圧されていた80年代半ばの学校状況は、教師と生徒の力関係が一方的に前者に傾いた、きわめて息苦しいものだった。これに抵抗の声を上げるところから、私の活動家人生は出発した。
 当時、「反管理教育」は流行のテーマであり、運動の創始者である保坂展人のグループが発行する『がっこうかいほうしんぶん』は、ミニコミなのに1万部出ていたと聞くが、九州のしかも鹿児島のしかも郡部の高校に通っていた私は、そんなことはまったく知らなかったので、その闘いぶりは完全に自己流のものとなった。おかしな校則や理不尽な生徒指導方針について単身職員室に抗議に押しかけたり、生徒総会で当局の手先でしかなかった生徒会役員たちに議論を挑んだり、あるいは似たような不満分子たちを放課後の教室に集めて謀議したり、そんなタワイもないものだ。
 「人権」という便利な言葉があることぐらいは知っていたから、そこらへんを入り口に他のさまざまの社会問題にも興味が湧いてきたが、80年代半ばの九州のしかも鹿児島のしかも郡部のしかも世間知らずの16才が周囲をざっと見渡したところで、目に入ってくるのは共産党ぐらいしかない。町にただ一人の共産党議員の事務所を訪ね、パンフを大量にもらって「勉強」した。民青には(「民青というのは学生運動の組織で、学生運動というのはよく分からないけれども火炎瓶や爆弾をアレして暴れたりなんかするとにかく恐ろしいものである」というウワサを耳にしていたので)入らなかったが、だから思想的にもセンス的にも、共産党のハンパなシンパ程度の水準で、在学中は「闘って」いた。
 ところがそんなヘタレ活動家の存在すら許さないのが80年代の管理教育体制であり、私はやがて「自主」退学に追い込まれた。88年春のことである。
 この前後に、初めて保坂展人の運動の存在を知り、そこに参加する中高生たちの闘争レポートなどをむさぼり読んで、「なるほどこんなふうに闘えばよかったのか」と悔やんだ。あきらめの悪い性格なので、もう高校生じゃないけれども、学校の現状はやっぱり許せないし、保坂グループのようなものを自分も地元で組織して闘争を継続しようと決意した。
 またほぼ同じ頃、全国から「闘う高校生」が集まる合宿イベントが東京で開催されると聞いて、もう高校生じゃないけれども、「高校生相当年齢」であれば中退者でも参加OKとのことだったので、行ってそこで衝撃を受けた。鹿児島や福岡では(繁雑になるので説明をハショったが、私のそもそもの「地元」は福岡で、高校時代には、主に学校当局との頻繁な衝突が原因で実はたった2年間に2度の転校をし、つまり計3つの高校に通って、先述の鹿児島の高校はその2つ目の高校である。その鹿児島時代以外は今も昔もたいていの時期は福岡に住んでいる)、私より果敢に闘争している高校生は当時いなかったから、自分はものすごく意識の高い、とにかくもうなんというか一番すごいぐらいの高校生活動家だと(民青以下のくせに)うぬぼれていたのに、それが大いなるカンチガイであることを当然にも思い知らされたのである。幕末にショボい藩で息巻いていたヘッポコ志士が、初めて京や江戸に出て他藩の本格派と交わり、ヘコまされたようなものだろう。全国から結集した「闘う高校生」の中には、当然保坂グループの重要メンバーとして活動している者もいたし、新左翼党派の活動に参加している者もいたし、夏休みや冬休みのたびに全国各地の左派系の運動現場を訪ね歩いているという変わりダネもいた。私のやってきたことなんか、もうまったく子供の闘争だ(いや実際子供だったんだけど)と反省もしたが、負けず嫌いでもあるので、いよいよ地元福岡での活動に力を入れて、彼らを追い越し追い抜いて、今に見ておれ「筑前に外山恒一あり」と天下に名を轟かせるリッパな活動家になろうとも心に誓った。
 単に全国に名を轟かすことはまもなく実現した。高校在学中の「闘争の日々」を手記にまとめて東京の大手出版社に持ち込んだら、あっさり刊行されてしまったのである。それで隆盛する反管理教育運動の新しい担い手として、そのシーンでは一定認知されることになったのだが、思想的にはまだこの時点でも、共産党からマルクス主義を引き算しただけの凡庸な戦後民主主義者である。
 本を読んで連絡をとってきてくれた地元の中高生を組織していよいよ独自の反管理教育グループを立ち上げ、機関誌を発行したり、原発や天皇制や反戦などをテーマにする左派系のいわゆる無党派(真にそう呼びうるのか大いに疑問だ)市民運動シーンに出入りしたり、なんとかそんな「フツーの活動家」のスタイルに収まったのが、89年半ばあたりのことだ。
 ところがまもなく、このグループは崩壊する。積極的に活動を担うごく一握りのメンバーと、ただ私が用意した拠点アパートに毎日のように入りびたってダベリに興じるだけの大多数とに、役割(?)が固定してしまったのだ。頭に来て多数派を追い出したまではよかったが、そうすると人数も極端に減って、途端に活動停滞に陥ることになる。
 どうすれば闘う奴らだけの組織を実現できるんだろう、出て行った多数派の奴らの顔を具体的に思い浮かべていけば「みんな話せば分かってくれる」とはとうてい思えなくなってきたぞ、そもそも「反管理教育」って云うけれども「管理じゃない教育」なんてありえるのか、単に「今よりいくらかマシ」なだけの学校に改革してしまうとむしろそれで満足する奴(拠点アパートという「居心地のいい居場所」を見つけたら途端に闘う気をなくした多数派の奴らみたいな)が増えるだけなんじゃないか……「停滞の日々」の中でそんなことをウダウダ考えるようになり、つまりグループのあっというまの崩壊は私のラジカリズム志向に火をつけたのである。


    2.

 具体的な行動はほとんどせずに、数名の残存メンバーと意見をすり合わせているうちに、(闘争意欲旺盛なメンバーだけが残っているのだから)よりラジカルな方へと議論が整理されていく傾向が出てくる。発行だけは定期的に続けていた機関誌の内容も、もはや活動報告ではなく、そうした議論の状況報告がメインとなったが、これが前述の高校生合宿のラジカリストたちの間で評判となった。一時的に疎遠になっていた彼らとの関係がより強い形で復活して、私のグループは、全国に散らばるラジカルな高校生活動家ネットワークの福岡支部のような案配になった。
 そんな状況にいた90年の始めぐらいだったか、ネットワークの一員である広島の同志が、「すごい本を見つけた」と興奮して、みんなにもぜひ読んでほしいがなにせ絶版なのでと自分の通う高校の印刷機で勝手に数百部を「増刷」、全国の仲間に送りつけるという奇行に走った。もちろん私のところへも送られてきた。
 それが(オリジナルは)70年に三一新書から刊行された竹内静子『反戦派高校生』で、要するに高校全共闘に関する詳細なレポートである。
 他ならぬ同志のタッテの勧めだからということで読むには読んだが、たしかすぐにはピンとこなかったような気がする。民青よりダメなレベルから出発して、数年をかけてようやくラジカル道の緒についたばかりの私には、全共闘はまだ遠かった。
 自分のグループの崩壊体験に続いて、私が停まった「ラジカルすごろく」の次のマス目にあたるのは、この90年4月、なんと19歳にしてまた新しい高校に1年生として入学してみる、という奇行だった。もちろん私は、拠点を維持するために大学に何度も入り直す党派活動家のような心づもりでそれをおこなったのである。グループの崩壊で現役高校生メンバーが激減し、「現場での活動」が停滞している状況を打破したかったのだが、云うまでもなくこんなアクロバットがうまくゆくはずがない。15歳の集団の中に19歳が1人混じっているのだから、その居心地の悪さときたら大学自治会室の中年活動家の比ではなかろう。やっぱりまたすぐ中退してしまったが、一度「学校」の外に出て、2年間もブラブラしながらいろいろ考えて、その上でまた「学校」に戻ってみると、現役の時には何とも思わなかった学校空間の細部に至るまでがすべて異様なものに見えてくる。教室の教壇と椅子の配置さえ、監視と管理のプログラムに奉仕している。どの教師が日教組でどの教師が御用組合員であるかまで把握した上で、生徒の立場から学校状況を観察するという珍しい体験だったわけだが、むしろ日教組的な批判分子までをも含みこんで学校というシステムは機能しているのだというカラクリにも気づいてしまう。どうもこの「潜入体験」によって、私はようやく全共闘の問題意識を理解しはじめたらしく、当時書いた文章に『反戦派高校生』のこんな記述を引用している。

 企業には、ある程度ズケズケものを言い、ムホンを起こす青年社員の存在が必要であり、官僚機構には、局長や大臣にタテつくような革新官僚の存在が必要である。高校では、人生に対する疑問を提出し、こんなことでいいのか、もっと話し合って生きていかなければならない、という生徒や、ベトナム戦争に無関心であってはならない、という発言が必要である。多数のもの言わぬ羊と、よい草を食べさせてもらいたいという少数の羊の存在、それが均衡して調和を保つところに、管理社会は最も有効に機能することができる。

 管理的な学校状況を改良しようという運動こそが、管理的な学校状況をむしろ強化してしまう。じゃあどうすればいいんだよ、ということになるのだが、簡単である。「学校改良」ではなく「学校解体」を主張しなければならないのだ。
 自伝じゃないので停まったマスをいくつか飛ばすが、次は同じく90年の8月、神戸で開催された高校生の討論会である。直前に神戸で起きた「管理教育」に起因するある大きな事件を受けて開催されたもので、地元の高校生たちが大勢つめかけていた。例のネットワークの中核的なメンバー数名と共に私も参加したのだが、それは圧倒的多数の地元高校生たちと私たち数名とが互いに非難しあう、大混乱の場になってしまったのである。
 結局、互いの「ふるまい」が気にいらないのである。司会の高校生が議論の流れを(予定調和な結論に向かって)コントロールしようとし、私たち以外の高校生たちはそれにおとなしく従う。私たちは、くだらない発言があれば挙手もせずしたがって司会に指名されるのも待たずに、勝手に割り込んで議論をふっかけ、それに司会が怒り出すと今度はその司会と私たちとの議論に持ち込もうとする。最終的には、私たちvs他全員、という構図での罵り合いである。
 私たちのそれは、実はそもそも私たち同士が初めて出会ったあの合宿での討論スタイルなのであった。せいぜい数十人や百人程度の場であれば、司会進行なんか置かなくても成り行き任せで議論は成立する。野次も自由だ。「さっきから何も発言していない人がいるので、その人の意見も聞いてみましょう」なんて提案は即座に却下される。自分から喋り出すパワーなり情熱なりがないのなら、黙って聞いていればよいのだ。だいたいその程度の主体性もない奴が、学校と闘えるか。
 こんな私たちの「作法」は、その後どこの集会に行っても同じように嫌われた。「帰れコール」を浴びるのも日常茶飯事で、そんな時は私たちも「また始まったよ」と苦笑しながら居座った。自覚はなかったが、私たちの流儀が極めて全共闘的であったことは云うまでもない。
 また何マスか進めよう。
 同じく90年秋。当時の反管理教育運動シーンには、「子どもの権利条約」待望論が蔓延しており、どいつもこいつも同条約の批准を政府に要求する活動に精を出していた。私たちはこれに牙を剥いた。前記高校生集会と同じように、全国各地で開催される関連集会に、数名でヒッチハイクで押しかけては会場からの「不規則発言」で壇上のパネリストたちに盛んに議論をふっかけるのである。私たちの主張はこうだ。重要なのは生徒自らが学校現場で闘争を展開することであり、国会議員や弁護士を先頭に立てる形にしかなりようのないテーマに多くのエネルギーを費やすのはそもそも単純にもったいないし、ましてせっかく権利意識に目覚めた生徒たちをも次々とこの運動に動員して巻き込んでいこうとするのは、現場での闘争勃発をむしろ予防さえしてしまう最悪の方針である。
 一連の「子どもの権利条約」批准要求運動粉砕闘争は、運動内部で総スカンを食らい、私たちのグループは決定的に孤立した。
 この闘争の過程で、私たちは「子どもの権利条約を新たな闘いの武器にする」という発想だけでなく、「憲法で保障されたナントカの自由を侵害するなー」式の学校批判にも強烈な違和感、やがて反感を抱き始め、ますます主流派との間の溝が広がった。
 当然、全共闘に対するシンパシーはいっそう強まった。私たちは結局、全共闘派が民青を批判したように、運動の主流派を批判していたのだ。こっちは数人しかいなかったからゲバルトは行使しなかったが、いればやっただろうし、できればやりたいと思うぐらいには主流派を憎むようにもなっていた。
 そもそも反管理教育運動は、保坂展人の麹町中学全共闘とその裁判支援闘争から発展してきたものだ。それが当時すでに、その保坂グループまでをも含めて、私たち以外のシーン全体が「子どもの権利条約」に夢中だったのだ。全共闘(やベ平連)的なものの「その後」が、今やかつての民青のようなものに先祖返りしてしまっていることに、私たちは気づき始めていた。
 「どいつもこいつもくだらない運動ばかりやりやがって」とグチり合いながら、全国各地のくだらない集会を「粉砕行脚」して回る日々は楽しかったが、さすがにそう長くは身がもたない。91年に入る頃には、すっかり疲れて、私を含め同志たちの気持ちもすさんできた。こうなると、例によって不毛な内輪モメが始まる。
 一連の闘争で敵を罵倒する技術はすっかり身についていたから、それが今度は身内に向かう。ちょっとした「日和見的」な言動が、糾弾の対象になる。私はその頃すでに一派の中核にいて、リーダーではなかったがイデオローグ的な役回りだったから、常に糾弾する側にいた。同志たちが次々と消耗して脱落していき、最後にリーダーと私の二人が残った。私に対するリーダーからの糾弾が始まった。私は屈服せず、自己批判を拒否して、決裂した。私はまた一人になった。


    3.

 まもなく笠井潔の『テロルの現象学』を読んだ。連合赤軍事件やソ連の粛清裁判のくだりは、なるほどそういうことは起きうるものだと腑に落ちた。そもそも運動全体の規模が小さい時代で(つまりだから暴力が身近ではなく)、また私たちのグループもどこかの閉鎖的な拠点にこもるような方針を何かの拍子に採用したりしなくて本当によかったと心から思った。私が同志たちに対しておこなった糾弾の内容は正しかったが、正しいことが必ずしも良いとは限らないのだと考えるようにもなった。
 前後して、「腹腹時計」も読んでいた。左派系の運動シーンに何年も身を置いていれば、新左翼ふうの血債論的な反差別論を、私だっていつのまにか自然に内面化している。しかしその論理を徹底的に追求すれば、反日武装戦線に志願する他なくなるのだということを理解した。私には単純に勇気がなくて、「日帝本国人としてのオトシマエ」をつけるための唯一の選択肢へと跳躍する決断ができなかった。動機が本末転倒的だと思わないでもなかったが、反日闘争への不参加に整合性をつけるために、新左翼ふうの反差別論とは違う革命の論理を組み直さなければと考えた。またこれも多少ヤツアタリ的かとは自覚しつつも、やはり私と同じように反日闘争に決起する勇気も、あるいは私とは違ってその必然性を理解する知性もないくせに、聞いたふうな反差別論を開陳する奴を見ると虫酸が走るようになった。
 党派との本格的な接触はなかったが、党派機関紙の類を目にする機会は当然いくらでもあったから、どうやら中核派が一番「反差別」に熱心な党派であるらしいことは見当がついていた。論理的には説明できなかったが、内ゲバを敢行する情熱と血債論的な反差別論の強調とには何か共通の心情的根拠があるようだとも気づいていた。また中核派の機関紙には、何かにつけては「華青闘告発、華青闘告発」としつこく書いてあって記憶に残り、他の新左翼運動史の本にも手をのばしているうちに、たしかにこの事件の前と後とでは全共闘運動の雰囲気が一変しているぞ、と確信を持つようになった。華青闘告発以前の全共闘の記録はひたすら楽しい。読んでいてワクワクする。しかし華青闘告発が起きるやいなや、途端に陰惨な雰囲気が漂い始めるのだ。それがちょうど津村喬の『われらの内なる差別』という本が評判になっている時期であったことにもすぐに気づいた。東大全共闘が云い出して、全共闘運動全体に流行した「自己否定」というスローガンについても、それまでは「このままイイ子ちゃんでい続けると、このろくでもない社会の役に立つ人間になっちまうぞ」といった、つまりともすれば機動隊や民青との衝突に臆して闘争現場から逃げ出しそうになる自分を鼓舞するためのかけ声、ぐらいに理解して受け止めていたが、この言葉が反差別論と結びつくとろくでもないことになるし、実際そうなったのではないかと考え始めた。東大闘争の主要キャラの一人である助手共闘の最首悟が、また反差別運動における重要人物でもあることを思い出して、やっぱりそうなんだと思った。「論理的な暴論」のようなものがそもそも大好きな私は呉智英の著作をそれ以前から愛読していたが、呉が反差別運動批判をテーマに書く時には、たびたび津村喬と最首悟が槍玉に挙げられていることに改めて気づいて、さすがセンセイと唸った。
 華青闘告発以前の全共闘は良い。華青闘告発からすべてがおかしくなった。だから、華青闘告発は全共闘運動の延長線上に必然的に起きるものなのか、それ以外の方向へ展開する可能性はなかったのか、というのが全共闘について考える時に私にとって一番重要なテーマになるんだなと見定めた。
 とまあ、一人になった私が異端的極左活動家(つまり共産党などを除く左派のほとんどがその濃度はともかく内面化している血債論的な反差別論を必然化しない、何か別の革命の論理を模索する極左活動家)として再出発する決意を固めた91年の段階で考えていたのはおおよそ以上のようなことだ。
 もちろん私は圧倒的に遅れて……いや全共闘の後に「遅れてきた」どころではなく「生まれてきた」ぐらいの大遅刻青年であるから、リアルタイムでの経験によらず、20年後にも読める資料から得た断片的な知識に基づいての思考である。だからリアルタイム世代のスガ秀実が近年続けている詳細な分析を読んで、今では認識を改めている箇所も多い(スガへの異論があるとすれば、「華青闘告発への道」が必然的であったとする点にはやはり同じがたいという程度だ)。しかし21歳の私は、スガの一連の仕事が開始されるまで、こうした問題意識を誰とも共有できないまま孤独な試行錯誤を続けなければならないハメに陥ってしまったのである。
 もっともそれからしばらくの間の私が実際に展開したのは、単なる能動的ニヒリズムではないかと批判されても仕方がないような、今から思えば無意味な闘争ばかりだ。同時代のすべての左派が立脚しているのとは違う革命の論理を見いだすのだといくら息巻いても、それがそんなに簡単に見つかるものなら他の誰かがとっくに手をつけているはずで、そうそう何かうまい解決の道を見いだせるわけがない。進むべき道が見つからないなら無為でいるべきものを、何でもいいからとにかく動いていないと退屈で死にそうになる、こらえ性のない左翼小児病患者ときている。結局、もうとっくに見切りをつけている戦後民主主義返りした左派系の運動現場にたまに登場してはモメゴトを起こし、罵倒されたり追い出されたり稀に殴られたりするのを、面白おかしくレポートに仕立て、多少センスだけは共有してくれている友人知人に読ませては大笑いさせ溜飲を下げてもらう、というやはりどう考えても不毛なことを3年ほど続けた。


    4.

 転機はまず95年に訪れた。明けるやいなや阪神大震災というあの年だ。
 私の前述したような無自覚な能動的ニヒリズム闘争にシンパシーを抱いてくれていた数人を伴って、ヒッチハイクで瓦礫の街に駆けつけた。震災の翌日だ。もちろんただの物見遊山である。2日間ほどメチャクチャにぶっ壊れた街をぶらぶら散策して、福岡に戻った。入れ替わるように、大量の若者が、ボランティアのために全国から神戸入りしはじめた。ニュースでその様子を見て、ケッと思った。他人を助けてるヒマがあるなら、その前に何とかしなきゃいけない自分の現実ってものがあるだろう。91年に私たちの闘争が失速すると同時に、地球環境問題(権力との衝突が不可避となる原発問題だけはうまく回避するようなタイプの)やエイズ感染防止の啓発キャンペーンに取り組む同世代の若者の姿が目立ち始めて、その健全さ無邪気さに苛立ち続けていた私は、震災ボランティアの若者たちにもまずはケッという反応をすることしかできなかったのだが、実は一方で動揺もしていた。今の自分はちょっとすさみすぎ、グレすぎなんじゃないだろうかと。
 震災の翌2月。私は東京で「だめ連」の運動に出会った。当初早稲田大学の弱小ノンセクト・グループとして出発しただめ連は、例えば「熱く交流レボリューション」などに象徴される、ダサすぎて却って笑える類の恥ずかしい直球スローガンやフレーズを確信犯的に多用する斬新な「トーク」の技術を武器に、首都圏のさまざまな左派系政治運動、アングラ文化運動、さらに文系の若手研究者たちのシーンにまで介入、ことごとく面白がられて、結成からわずか3年で、数百人を擁するジャンルの垣根を超えた巨大な「交流圏」を首都圏に成立させていた。出会ったその日から、1ヶ月以上にわたって私はだめ連界隈に入りびたり、彼らの脱力系トークの心地良さにほとんど一方的に聞き入っていた。結論としては私はつまり、大いに癒されたのである。
 とりあえずだめ連に学ぼう、と思った。福岡に戻って、だめ連のやり方をそっくり真似て、「交流圏」を作ってみよう。地球を守るだボランティアだと無邪気に盛り上がっている若者たちに対しても、遠くから「ケッ」と冷ややかに見つめているのではなく、直接の「トーク」の可能性を追求してみよう。こうした「だめ連路線」は、そもそも追求しようとしていた「異端的極左」の方向とはズレるけれども、時々くだらない左派系の集会を荒らしてウサ晴らしするようなニヒった活動をだらだら続けるよりはいくらかマシだろう。
 せっかくそう決意したところに、さらに翌3月、あの地下鉄サリン事件が起きた。私は恐怖した。むろんオウムに対してではない。それまで運動周辺で見聞きしてきた水準をはるかに超える「トンデモ」レベルの微罪逮捕、別件逮捕を乱発する警察の強硬姿勢と、それを圧倒的に支持し、いやそれにとどまらず「警察のやり方はまだ手ぬるい」とさえ云わんばかりの世論やメディアのマス・ヒステリーぶりに対して恐怖したのである。当時、誰も読んでくれないような特殊なサブカル誌に唯一持っていた連載コラムに、「戦争が始まる」とまで書いて警鐘を鳴らそうとしている。後に述べるように、この認識はある意味決定的に間違っていた。しかし、ラジカル道に邁進して以来、凡庸な左派がことあるごとに繰り返す「これは『いつかきた道』だ」式の反戦の言辞を軽蔑してきた私が、この時ばかりは本気で「戦争が始まる」と思ったのだ。
 しかし左派の反応は驚くほど鈍かった。世論との乖離を恐れてか、左派はほとんど沈黙し、どころかオウム・バッシングに同調する左派系ジャーナリストの姿が目立つほどだった。当時すでに一定の知名度のある左派論客で、世論と対決する覚悟を示してよく奮闘しえたのは、わずかに吉本隆明とスガ秀実の二人だけだ。むしろ宅八郎や鈴木邦男、さらには『週刊プレイボーイ』といった、常識的な論壇的感覚からすればトンデモ系、電波系と見なされてきたような部分が、原則的な警察批判の論陣を張っていた。他は全滅だ。
 以来現在に至るまで、大小無数のある共通の方向への社会の変化が生じてきた(後述)。私はその一つ一つにいちいち恐怖し、機会あるごとに注意を呼びかけながら、それらがすべて「オウム以降」の文脈にあることを強調してきたが、(何年か経って森達也が私とは無関係に独自に同じことを云い始めただけで)ほとんど誰も反応してくれなかった。


    5.

 とにかく私はまた福岡で活動を再開した。先述のとおり、だめ連ムーブメントを「輸入」する試みだ。
 当初はあまりうまくいかなかった。能動的ニヒリズムの数年間のうちに、私の言葉遣いはかなり生硬になっていたし、またオウム事件直後というタイミングになってしまったので、「戦争」に備えなければという内心の焦りとだめ連路線とを自分の中でうまく接合することができない苛立ちにたえず襲われてもいたのだ。
 東京のだめ連やその周辺の動向にも、ずっと注意を払いながら福岡での模索を続けた。もちろん時には上京して、それをじかに「視察」して回ることもあった。面白い動きがあれば、それも福岡へ「輸入」した。
 例えば「メンズリブ東京」である。日本のメンズリブ運動は、90年ごろまず大阪で始まったが、当初それは(たいていは「つれあい」の)フェミニストからのさまざまの糾弾に屈服した男たちの「自己批判」運動の色彩が強かった。当然「異端的極左」道を追求する私にとっては愚劣この下ない運動だったが、東京に飛び火したメンズリブはこれとは少し違っていた。彼らはフェミニズムを否定するわけではないが(むしろ支持しているだろう)、とりあえずそれとは別次元の問題として、「男らしく生きろ」という世間からのプレッシャーは男自身にとってキビシーのだ、という自己解放運動の側面を強調したのである。つまりかぎりなくだめ連的な「脱力運動」としてのメンズリブ。まもなく福岡にもメンズリブ団体が誕生するが、私はそこに結成段階から介入して、大阪路線を警戒し東京路線を導入する努力を続けた(最終的には敗北した)。
 あるいは「銭湯料金値上げ反対」運動である。一見あまりにも地味なテーマに思えようが、東京で日常的に銭湯を利用しているのは、家賃の安い風呂なしアパートに住む若者たちである。「一人前の社会人」たろうとする者は、世間体を考えてか、無理をしてでもベラボーに高い風呂つき物件に住んで、ほとんど家賃を稼ぐためだけに朝から晩まで働かされ「社畜」と化していくわけだが、つまり風呂なしアパートに住んでいるのは、そういう生き方を(自覚的にかどうかはともかく)しない若者たちであり、この運動はそうした層を組織することを念頭におこなわれていた。したがってまた「ウチブロ的」(もちろんプチブル的とカケてある)な生活スタイルに対する批判は、不況期の厳しい労働環境の分析を含み、今日の「プレカリアート」諸運動を10年近く先取りしていた感もある。さらに風呂なしの木造アパートが多数残る雑然とした町並みを守れという主張は、整然として管理の行き届いた町並みへの再開発に反対する、管理社会批判・監視社会批判のモチーフを含んでいた。発行するミニコミが多少難解でありつつもポップだったため、首都圏の運動シーンに徐々に影響力を拡大していた。
 そして松本哉の「法政大学の貧乏くささを守る会」である。「学費値上げ反対」や「サークル棟建て替え反対」といった学生運動の伝統的なテーマを、「貧乏くささを守れ」というコミカルな切り口で再編し、奇想天外な(マヌケな)戦術を次々とくりだして、沈滞しっぱなしのノンセクト学生運動を短期間ながら久方ぶりに高揚させるという奇跡を実現した。
 福岡の「交流圏」も、がんばって続けているうちにいつのまにか総勢百人程度に拡大し、彼らにも私が東京から「買いつけ」てくるそうした一連の運動情報や関連文書、さらには次々と発明される新しいキーワードやキャッチフレーズは受けがよく、それらに共通して漂っているノリやセンスは一定浸透した。その過程で、少なくとも「オウム以降」の状況に関して私自身がこだわってきた課題と、この「だめ連福岡」の運動とを結合する方向性も見えてきた。それを私は、「自警団から身を守るための自警団」と表現した。東京の一連の運動に参加している若者たちもそうだし、だめ連福岡の「交流圏」に集まってきた若者たちもそうなのだが、要するに世間一般から見れば「わけのわからない怪しげな連中」である。オウム以降、そのような連中を市民社会から一掃するためのさまざまの動きが強まっている。そのことをよく認識し、こちら側も団結して市民社会の大多数派たる「健全な連中」から身を守るべく準備していかなければならない。実はこの発想こそが私の考える「ファシズム」の原型なのだが、当時まだそこまでは自覚していなかった。そして進むべき方向性は見えたのだが、実際にその実現に向けた試みへと踏み出す前に、このだめ連福岡の「交流圏」は突然崩壊してしまう。
 私が当時付き合っていた女性を、つまらない痴話喧嘩の末につい激高して殴ってしまい、そのことが「交流圏」内外の左派系活動家の糾弾の対象とされたのが崩壊の始まりである。もちろん私は、これまでさんざん述べてきたような問題意識でいたから、このテの糾弾に簡単には屈服しない。私を支持する者と左派系を支持する者とに「交流圏」は分裂するし、またまだ感覚的なシンパシーで出入りしていたにすぎない圧倒的多数はこうしたシビアな状況になるとたちまち寄りつかなくなってしまうし、こっちももうそれどころではないので彼らを引き止めるエネルギーもないし、という次第である。
 結局私と相手女性とは(半ばムリヤリ)引き離され、そのまま別れることになったのだが、女ってのはアサハカなもので(と私はもはや現在では確信をもって女性をサベツするファシストなのであるが)、私と別れてからさらに左派系の運動に積極的に参加するようになった彼女は、1年以上を経ていきなり当初の殴打事件について私を刑事告訴してきたのである。しかも彼女についた弁護士グループが、福岡であの「子どもの権利条約」の運動の中心にいた、当時何度かその集会を「粉砕」したこともある相手だったのだ。もちろん彼女ももはやその一員であり、当然その裁判闘争を支えようという福岡の左派系市民運動の活動家の中には、90年代前半の能動的ニヒリズム時代に激突した相手もたくさんいて、彼らはこれを機会についに私の政治生命を断ち積年の恨みを晴らさんと目論んでいる。つまり私にとっては、ますます後には退けなくなるような状況がこれ以上ないというほど完璧に構築され、私はそれまでの活動家人生のすべてを賭けてこれと対決せざるをえないという、それはそれはもう大変なことになってしまったのである。


    6.

 「交流圏」の崩壊が99年春、その後しばらくほとんど抜け殻のようになって(初めて精神科の門も叩いたし)かつてなく荒れてすさんだ生活を送っていたが、そこへ突如、裁判所からの「召喚状」と初公判期日を知らせる通達(もちろんそもそもショボい痴話喧嘩でしかないわけで、在宅裁判である)が届いてビックリ仰天したのが2000年暮れのことである。
 この裁判の経過について説明しはじめるとまた長くなるので省くが、真正面から連中と対決することを決意した私は、以下のようなスタンスでこれに臨んだ。

 ぼくの問題意識は極めて明確だ。セクハラ問題あたりから予兆があって、近年のストーカー規正法、DV(ドメスティック・バイオレンス)防止法など、誰も正面切って反論できないような大義名分で、国家権力の及ぶ領域が市民社会のすみずみにまで拡大していく状況にぼくは反対だということだ。しかも、国家権力の肥大化に本来なら歯止めをかけるべき左翼勢力が、むしろフェミニズムの猛威に萎縮して、それを事実上、後押しさえしているという様は言語道断と云うべきだ。
 (当時の文章より。補足しておくと、私の事件は相手方である左派の連中に「ストーカー事件」「DV事件」として認識されていた。後者については云うまでもないが、前者は本稿では省略した「交流圏」崩壊過程での私のいくつかの言動や、さらには字義どおりの「濡れ衣」や「云いがかり」を含んだ諸々を指す)

 ここは重要なので、後になって獲得した視点も加えつつになるが、もう少し詳細に私の問題意識を説明したい。
 2009年現在、世界は戦時下にある。しかもその戦争は新たな世界大戦、「第四次世界大戦」(「第三次」はいわゆる冷戦)である。一般にはそれは、「対テロ戦争」と呼ばれている。
 対テロ戦争が世界大戦であるというのは、アメリカの戦争に世界中が巻き込まれているという意味ではない。対テロ戦争には、あらゆる国が程度の差はあれ主体的に取り組んでおり、例えば我が国でも95年の地下鉄サリン事件以来、対テロ戦争は独自に継続されている。
 今次世界大戦の最大の特徴は、それが「内戦」的であることだと云われる。内戦では、主役は軍隊ではなく警察である。それまで漠然と想定されていたスケールをはるかに凌駕する大規模な犯罪(たいていは何らかの「テロ」)発生をきっかけに、警察力の無際限の強化が始まる。これは「戦争への道」などではなく、「警察力の無際限の拡大」それ自体が戦争行為としておこなわれるのである。私はオウム事件に接して「戦争が始まる」と恐怖し、それについて「この認識はある意味決定的に間違っていた」と先に述べたのはつまりそういうことである。オウム事件によって「戦争への道」が開かれ始めたのではなく、つまり「戦前」期に入ったのではなく、実はオウム事件勃発の時点が「開戦」であり、以後はもう(比喩でもなんでもなく字義どおりの)「戦時下」だったのである。
 たしかにアメリカは世界中に軍隊を送り込んでいるように見えるだろうが、本質的には、アメリカは「世界の警察」として警官隊を送り込んでいるにすぎない。アメリカがアルカイダに対しておこなっていることは、日本がオウムに対しておこなっていることとまったく変わりがない。
 開戦は何らかの具体的な事件(地下鉄サリン事件や「9・11」)をきっかけとするが、いったん始まってしまうと、この戦争は(開戦にあたってアメリカ指導部がまさにそう宣言したとおり)永遠に続く。二度とサリン事件や「9・11」のような事態を招かないためには、オウムやアルカイダさえいなくなればそれで安心、とは云えないからだ。そこで官民一体となっての「不審者」狩りが始まる。
 改めてその気になって周囲を見渡せば、「今に何かしでかしそう」なのはオウム信者だけではない。北朝鮮工作員、外国人犯罪者、ヤクザ、ストーカー、DV男、20代(まして30代)無職男、キレる子供たち、キレなさすぎる子供たち(引きこもり)、我が子を虐待する親、飲酒ドライバー、路駐ドライバー、……しまいには、ゴミをきちんと分別しない奴や、繁華街で歩きながらタバコを吸って平然としている奴まで、どいつもこいつも不気味な犯罪者予備軍に思われてくる。
 一般市民は自ら進んで街じゅうに監視カメラを設置し、街頭パトロールを組織し、子供たちに防犯グッズを配る。
 マスコミも戦時協力を惜しまない。ちょっと迷惑な住人がいると聞けば殺到し、糾弾し、追放を支援する。犯罪被害者の悲惨をドラマチックに演出し、加害者への憎悪だけをひたすらかき立てる。
 職業裁判官が非情で(冷静で)、他の事例とのバランスなどという被害者にとってはどーでもいいことを理由に、加害者に厳罰を科すことをためらうので、直接リンチに参加させろという要求が高まって、裁判員制度まで導入された。
 ついでに触れておくと、そもそも間違いなく「テロリスト」である「新」左翼諸党派の存在が放っておかれるわけがなく、明治・早稲田・法政といった、これと一定の妥協をしてきたことで有名ないくつかの大学当局も、強硬な対決方針への変更を余儀なくされた。
 挙げていけばキリがないのだが、とにかく95年以来この国で起きているこれらの現象全体が戦争(内戦)なのであって、海外派兵や改憲や靖国や日の丸・君が代や……といった類の諸問題は、今回の戦争とは少なくとも直接の関係がない。右派政治家の一部に、何かにつけては軍を海外に出したがったり、9条に手をつけたがったりする者がいるのは、それに反対する左派と好対照をなす「冷戦ボケ」か、せいぜいアメリカとの付き合いの問題であって、我が国が独自に主体的におこなっている戦争の問題とは関係がない。
 現在もし本当に「反戦」のスタンスに立つのであれば、日本軍がアフガンやイラクやどこかの海賊退治に派遣されようが、そんな瑣末なことには見向きもしないで、95年以来無数におこなわれた警察力強化の戦時政策を一つ一つ改めて問題にしてゆくことだ。具体的には、オウム対策法や盗聴法や組織犯罪対策法や住基ネット法やストーカー防止法やDV防止法や犯罪被害者支援法や健康増進法やリサイクル法や路上禁煙条例や……をすべて撤廃させ、少年法や刑法や道交法の厳罰化方向への改変をすべて取り消させ、駐車監視員制度や裁判員制度を中止させ、街頭の監視カメラやNシステムやオービスや……を撤去させる、さらにはいたずらに不安を煽って戦時協力しているマスコミにもその姿勢を改めさせる、といった方向のものでなければ、今おこなわれている戦争に反対していることにはならないのである。
 裁判闘争時点に話を戻す。
 今列挙したようなさまざまの戦時政策の一つ一つに関して、ただそれが「戦時政策」であることに気づいていなかっただけで、私はその都度その都度、危機感を表明していた。しかし左派は、過去の戦争(しかも一つ前の戦争である冷戦よりさらに一つ前の戦争である第二次大戦)のイメージに呪縛され、盗聴法や住基ネットといった系列の問題にかろうじて(しかし「反戦」の文脈ではない形で)反応しただけで、DV法や健康増進法といった系列の戦争法案にはまったく反応できなかった。それも当然で、DV法やストーカー法や被害者支援法の類はフェミニストたちの(「被害者の人権」はそもそも性犯罪のそれについてまずフェミニストたちが云い始めたということを私は決して忘れていない)、健康増進法やリサイクル法や路上禁煙条例の類は(嫌煙権活動家を含む)エコロジストたちの、つまり一連の「戦時政策」のかなりの部分が実は左派の要求と支持によって推進されてきたものなのだ。
 触れる機会がなかったので今触れるが、90年代を通して私は「反帝反スタ」と(わざと声高にコトサラに)云い続けてきた。しかもその場合後半の「反スタ」をより強調してであり、その含意は、冷戦崩壊以降、政府はどうも「左傾」しているのではないかという直感的疑惑だ。もちろん今述べたような、本来左派的な政策が(しかも刑事法的な部分にさえ)次々と取り入れられていく状況に着目してである。多くの人が、90年代に世の中は急速に右傾化したと云っているが、実は逆なのではないか。しかもこれらPC(ポリティカル・コレクトネス)的な政策は、云うまでもなくあの華青闘告発以来の左派の正義の現在形であり、つまり「全共闘は(自分でも気がつかないうちに)勝利している」のではないかと、やはり私はスガ秀実の指摘を改めて待つまでもなく、90年代のうちからさんざん云い散らし、たいていは「電波系」扱いされてきたのである。
 裁判闘争の過程は、私にとってそうした疑念をさらに強くさせられていく過程で、したがって私は急速に「右傾化」しはじめた。
 まず弁護士が見つからなかった。私の問題意識そのものはやはり左派的なものだったし、だからまずは福岡の心当たりの左派系弁護士を何人かあたってそれを説明してみたのだが、結局どいつもこいつも相手側を支持するという(もっとも地方には弁護士の総数自体が少なく、中でも数少ないロコツに左派的な弁護士はたいてい実体的に相手方と関係があったのだ)。
 どうにも困り果てた私は、きっと右派のはずだという予測のもとに、北朝鮮による日本人拉致疑惑(小泉訪朝前である)を追及していた市民団体に連絡をとり、私の立場と置かれた状況とを説明して、誰か弁護士を紹介してもらえないかと頼んだ。実際に紹介してもらった弁護士は結局この事件を引き受けてくれなかったが、最初に相談を持ちかけた相手はやはり想像どおり分っかりやすく右翼思想の持ち主で、私の「左翼異端派としての左翼主流派批判」を大変面白がってくれて、今に至るも交流が続いている。
 結局私は事実上弁護人ナシで(国選弁護人はもちろんついたが、法廷で弁護人と被告人がお互い丁重な言葉遣いで罵り合うような事態にまでなった)闘う覚悟を固め、左右の政治運動シーンを味方につけられないならいっそ前衛芸術シーンの注目を集められないかと、裁判を徹底的にパフォーマンス化する戦術(弁護人とモメてみせたのもその一つ)を採用して裁判官を激怒させ、事前に相談したどの左右の弁護士あるいは法廷取材の経験が長い新聞記者たちも「どんな有能な弁護士でも無能な弁護士でも、執行猶予つき有罪判決以外の判決はあり得ない」と意見を一致させたショボい痴話喧嘩裁判で、驚愕の実刑判決を勝ちとり、2002年5月から04年5月まで、丸2年間もの獄中生活を経験することになったのである(どうも私は極めて紳士的な物腰を維持したまま裁判官という人種を挑発し激怒させる技術に長けすぎているようで、昨年も原付バイクによるショボい交通違反を正式裁判に持ち込んで、「求刑の8倍」というこれまた前代未聞のトンデモ判決を引き出し、これは全国報道された)。
 かなり右傾化しつつあったとはいえ入獄の時点ではまだ私は「異端的極左」のアイデンティティを保持していたが、2年間の獄中生活のちょうど中間の時期、ついに「転向」に踏みきった(「獄中転向」とはまたいかにも戦時下にふさわしいふるまいであると自負している)。
 ただし私は転向して右翼になったのではなく、右翼とはまた別種の政治的立場である「ファシスト」になったのである。獄中でムソリーニの前半生を詳細に描いた評伝(藤沢道郎『ファシズムの誕生』)を読み、ムソリーニがまさに異端的極左の立場から、右でも左でもないオリジナルの思想としてファシズムを創出していく過程に心底から共感し、その志を継ぐことを決意したのだ。


    7.

 私の考える「ファシズム」の何たるかについて詳細に語るには紙幅が足りないが、これまでの文脈をふまえていただいた上で、「国家権力と対決的な性格のある立場Xが、国家権力が右傾しているために対抗的に左翼勢力と結んでいる場合にはアナキズムと呼ばれ、国家権力が左傾しているために対抗的に右翼勢力と結んでいる場合にはファシズムと呼ばれる」という私なりの要約で、あとは推察されたい(私のサイトhttp://www.warewaredan.com/にはむろん詳細がある)。
 私は、現在の「プレカリアート」諸運動に直接つながってゆくことになる01年暮れからのアフガン反戦や03年のイラク反戦の運動が、若い世代の大量参入によって高揚していく時期に、裁判闘争で精一杯だったり獄中にあったりしたために、まったく関わりを持てなかったことを大変幸運だったと思う。もし関わっていれば、間違いなくまた異端としての苦渋を舐めるばかりで、すべてが徒労に終わる孤独な闘いを強いられていたことだろう。
 もちろん私は獄中で意識的に可能なかぎり一連の反戦運動に関する情報を集め、その推移を注視していた。
 日本の反戦派は、現在に至るも、今回の戦争はアメリカの戦争であり、日本はせいぜいそれに巻き込まれたり、追従しているだけだという観点を抜け出せていない。「現在は戦時下にある」と云う者は多いが、わずかに森達也を除いて他全員が「9・11以来」の意味でそう云っているにすぎない。そのような「反戦」運動に、何の意味も展望もありはしない。
 そして実は現在の私は「反戦派」ではない。最初にブッシュやラムズフェルドが宣言したとおり、今回の戦争は「永久戦争」であって、絶対に「終わらない」のだ。この永遠の内戦状況において、反体制派が取りうる選択肢は「応戦」(か「投降」)以外にない。
 私は、ファシストとして今後右翼勢力と手を結び、左傾した国家権力(とその同伴者である左翼勢力)と対決する道を選んだ。
 現実的な展望はある。
 そもそも左派はなぜ、徴兵制に反対するのだろうか。政府が右傾していようが左傾していようが、志願制であるかぎり、軍隊という存在の本質的な性格上、軍人は圧倒的多数の(体制的な)ノンポリと少数の右翼とで占められる。左派がいくら軍に働きかけようと、せいぜい数名の「反戦自衛官」のごとき変わりダネを獲得しうるのみである。革命の過程が深まってゆけば、それが本物のそれであるかぎり、いずれ必ず警察の武力と対峙しこれを打ち破っていかなければならない局面に遭遇する。その時、軍人が革命側に呼応して起つことを期待できないのであれば、自前の武力を事前に培っておく他なくなる。自前の「革命軍」の建設は、それ自体が極めて難しいばかりでなく、必ず法に抵触するから弾圧をますます容易にさせもする。全共闘も結局、この難所をうまく越えることができずに「敗北」していったのである。
 私は左派が今後も引き続き徴兵制に反対し、軍の赤化を防止し続けてくれることを期待する。逆に我々は、アサハカな保守政治家が、「軍部の暴走」をより容易にするような、シビリアン・コントロールを骨抜きにしてゆくような軍事政策を提起した時には、諸手をあげてこれに賛成しよう。
 全共闘の限界は、それがあくまで左派圏内での試行錯誤にとどまったことにある。そのことは同時に、「華青闘告発への道」をも必然化した。
 若者はいつの時代にも敏感で、かつ反抗的である。国家権力が左傾した現在、多くの若者たちが正しくも右傾化している。
 突破口は「右翼全共闘」の方向にしかない。かつての「左翼全共闘」の半分ほどの高揚でももし実現しえたなら、今度は本当に、我々は「勝つ」かもしれない。