初めての山谷(さんや)体験

 前節で書いたヒッチハイク行脚で、東京に着いたその日のことだったと思う。
 ぼくは前々から憧れていた保坂展人の青生舎を訪ねた。
 保坂は、
 「今年は九州の年かもしれないな」
 などと云って笑った。当時、青生舎が発行していた『KIDS』(『学校解放新聞』を改題)の編集長を任されていたのが、やはり福岡出身の平野裕二氏だった上に、偶然にもこの同じ日の早朝、一人の青年が青生舎のドアの前で寝ているところをスタッフが発見したのである。青年の名はGといって、年はぼくと同じで当時18歳。佐賀県から延々数ケ月を費やして、やはりヒッチハイクで今朝、東京入りしたところだという。
 このG君に勧められて、この日の夜、一緒に山谷へ行った。前年に高校生新聞編集者会議で知り合った笘米地の家に泊めてもらう予定だったのだが、同い年の風変わりな青年に興味を持って、予定をキャンセルし、一晩行動を共にしてみることにしたのである。
 山谷というのは、東京の北区だか何区だかの辺りにあるいわゆるドヤ街、数千人の日雇労働者が暮らす街である。教科書的、社会学的に云えば、国家や大資本が、必要な時に使い捨てできる労働力をプールしておくための場所だ。金町一家という暴力団が、一帯を支配している。この支配に抗して、山谷争議団という労働組合が結成され、闘争を続けているが、暴力団による労組メンバー襲撃などに対しても、警察は見て見ぬふりに等しい対応をする。さあ左翼の出番だということで、中核派や解放派など、多くの新左翼セクト(いわゆる過激派)が、主要な活動拠点の一つにしている場所でもある。
 真冬には、住む場所を持たない労働者が路上で凍死することも多く、それを防ぐために「越冬闘争」をやる。地区内の公園を占拠して、共同生活をするのである。公園の周囲は、バリケードで取り囲まれている。労働者の団結を嫌う暴力団が神経をとがらせて、襲撃してくる危険があるからだ。公園の入り口には、鉄パイプを持った寝ずの番が交替で立つ。
 そんなヤバい世界がこの現代日本にあるなんて想像もしていなかったぼくは、G君に誘われるままに、のこのこついて行ったのである。電車の中でG君の説明を聞いて、かなりビビったが、同い年のG君の手前、「やっぱやめとく」と云い出すのも恥ずかしい。
 G君は18歳にしてすでに筋金入りのアナーキストで、後で聞いた話、佐賀で警官を半殺しの目に遭わせて「あん時は冗談じゃ済まなかったな」などと笑ってるような奴である。剣道の達人らしい。対してこちらは「自由」とか「民主主義」とか云ってるナマっちょろいハンパ者だ。コドー君の口癖は、「オメーは甘いんだよ」だった。
 夜遅く公園に着くと、あちこちに焚き火を囲んだ人の輪ができていて、ぼくらもそのうちの一つに入った。
 ぼくらが入った輪には、中核派のメンバーたちが集っていた。暴力団の襲撃に備える「防衛隊」として越冬闘争に駆けつけているのだ。
 すでに酒が入っていて、中年のベテラン活動家らしい男が、大学生ふうの若い活動家たちに囲まれて、すっかりいい気分になって得意げに昔話を喋っている。機動隊と乱闘したり、交番に火炎瓶を投げ込んだりの武勇伝に、若い活動家たちは歓声を挙げて、もっと喋ってくれと酒をさらに勧める。
 「革マルをブチ殺したこともある」
 ヤッバい所に来ちゃったなあ、と隅でおとなしくしてたら、突然、赤紙が舞い込んだ。
 「君たち、若いんだから防衛をやってこい」
 と云うのである。
 ぼくはコドー君と二人、鉄パイプを持って公園の入り口に立たされた。コドー君の方は事情も分かってるし、そもそもこういうことやるつもりで来てるし、しかもそのうえ剣道の達人なんだからいいかもしらんが、なんでぼくまで……と内心不条理を感じながらの防衛だった。
 しばらく立っていると、右手から黒い大きな外車が、ゆっくりと近寄ってきて、ぼくらのすぐ目の前に停まった。
 うわ。来ちゃったよ。
 泣きそうな気持ちになったが、幸い、ただの様子見だったようで、停まったのはほんの数秒、すぐに車はいなくなった。
 まったくヒドい話である。