ファシスト党〈我々団〉の基本政策

2020.01.01


 現在は第4次世界大戦の戦時下にあり、「ファシスト党〈我々団〉」はその戦時下抵抗組織であると同時に、というよりそれ以上に、大戦終結までの良識派の避難所である。
 詳しくはアントニオ・ネグリ&マイケル・ハートの『マルチチュード』、大澤真幸の『文明の内なる衝突』、笠井潔の『例外社会』その他、外山の『全共闘以後』第4章第8節などに譲るが、いわゆる冷戦が「起こらないままに起きている戦争、奇怪に宙づりにされた戦争、戦闘なき戦争として遂行された」(笠井『探偵小説論III』)第3次大戦であり、世界的には01年の9・11以後に全面化し、日本国内的にはそれに先んじて95年のオウム事件を機に全面化した、いわゆる反テロ戦争が第4次大戦である。
 反テロ戦争では、(没政治的な凶悪犯罪も含む)テロ防止を口実に、ひたすらのセキュリティ上昇が追求される、したがって軍よりも警察が主役となる戦争であり、とくに第1次・第2次大戦のような形態の戦争を念頭に置いていては、それが戦争であることを認識することすらできない戦争である。オウム事件以来とどまることなく急速に進行している監視社会化・警察国家化は、マヌケな左派がよく云うように“戦争への道”などではなく、それ自体が戦争なのである。
 かつ、前記『文明の内なる衝突』でも説かれているように、この監視社会化・警察国家化は、左派が掲げてきたフェミニズム、エコロジーなどに立脚するPC的な正義と親和的であり、つまり左派はもはやその主観に相違して戦争推進勢力の主要な一員と化しているのであって、左派がこの戦争を認識しえないのも当然といえば当然のことでもある。
 さらに、云うまでもなくこの監視社会化・警察国家化は、人民の熱狂的支持によって支えられている。自由より安全を望むのは人民の習性であり、これは仕方のないことだ。したがって、民主的な方法によってこの趨勢を覆すことは不可能である。むしろ、民主主義を徹底すればするほど、監視社会化・警察国家化はますます進行するだろう。民主主義を否定するファシズム路線にしか、良識派の展望はありえない所以である。
 これら諸点に関する認識が、わが党のあらゆる方針の大前提となる。

 我が党は民主主義を否定するファシズム政党であり、当然、我が党による一党独裁体制の樹立を、その理想実現の手段とする。
 およそどんな国家権力であれ、あるいは政党であれ、理想とするのは民生の安定、つまりいわゆる“国民の(人民の、でもよい)生活が第一”ということである他なく、ファシズム政党といえどもその点に変わりはない。違うのは、我々は民主主義によってはそれを実現しえないと確信している点である。つまり我々は人民自身よりも人民の利益をよく知っているということであり、建前上は民主主義を否定しえない左派勢力と違って、そのことを隠す必要もないということである。我々にすべて任せてくれれば悪いようにはしない。
 人民は政治のことなど考える必要はない。愚民の考え休むに似たり、である。いや休むより悪い。監視社会化は進めるわ、原発は止められないわ、近隣諸国との関係は険悪化する一方だわ、ろくなことがない。我々に任せればすべて上手くやる。
 人民の利益とは要はパンとサーカスである。つまり経済的安定と娯楽である。この2点さえ保障してやれば、人民は政治に不満など抱かない。したがって我々は、そのことに全力を傾ける。人民のためではなく、人民が不満を爆発させて我々の独裁政権の打倒を望んだりしないようにするためであり、再び人民に権力を委ねて我々を迫害する現在のような監視社会・警察国家を復活させないためである。我々が国家権力の掌握するのは、何よりも人民から身を守るためであり、したがって人民は権力から遠ざけておかなければならない。
 我々はもともとアナキズム的な絶対自由主義者であったし、政治思想的には反国家、少なくとも“小さな政府”派であった。しかし人民にパンとサーカスを安定供給するためには“大きな政府”の存在が必然化される。ここに“小さな政府”派が“大きな政府”を運営するというファシズム路線のアクロバットが生まれる。よく考えてみれば、問題は政府が大きかろうが小さかろうが、我々がその政府に監視さらには干渉されたくないということであって、我々自身が政府であればその大小など知ったことではないのである。
 資本主義に対するスタンスもこれと類似である。資本主義がろくでもないことを我々はよく知っている。資本主義がどういうしくみであるかについての分析は、マルクスの云うとおりである。しかし同時に、反共主義者がさんざん云ってきたとおり、また現実の共産主義の実験が実際そのとおりに終わったように、資本主義をやめると社会が停滞してしまう。したがって、資本主義は“廃止”するのではなく“規制”しなければならない。云い換えれば、資本主義の悪をよく知る社会主義者でもある我々が一党独裁体制を樹立して、その上で社会主義をやらないというのもまた、ファシズム路線のアクロバットである。
 資本主義社会での利潤追求を放ったらかしにしておくと、例えば公害を垂れ流す企業が出てきたりする(原発をやめない電力会社もその1つだ)。そういう時には我々は当該企業に恐ろしい制裁を加える。
 資本主義社会における貧富の差それ自体は別にあってもよかろう。富める者がどんどん富むのは構わないし、それが可能でなければ企業家たちも技術革新の努力を放棄しかねない。問題は貧しき者の貧しさが度を超えることで、放っておくと人民の不満が爆発して我々の政府は打倒されてしまう。つまり手厚い社会保障は是が非でも必要である。財源などどうにでもなるだろう。タックスヘイブンなど利用して税金逃れをしている連中の中から数人を見せしめに残虐に処刑してやれば(民主主義でも法治主義ですらもないファシズム政権には朝飯前のことだ)、今すぐにでも充分以上の財源が確保されるはずである。いわゆるベーシック・インカムだって実現しうるだろう。
 以上のような意味では、ファシズムは社会民主主義(資本主義の少なくとも即時廃止は目指さない社会主義)的な側面を持つ。スターリンが社民主義をファシズムの同類と見なしたことは、それなりに正しいとも云える。ただしファシズムが社民主義と決定的に異なるのは、民主主義ではないことであり、あえて云えば“社民主義政党による一党独裁”を目指すという、これまたファシズムのアクロバットの1つである。

 人民にとって、というよりも人間にとって、経済的安定よりもむしろ重大なのは精神的な安定、アイデンティティの問題である。人はパンのみにて生きるに非ず、である。パンも大事だが、それ以上に、人は要するに“生きる意味”に飢えてしまう生き物なのだ。
 生きる意味などというものは結局、その者が生きている世界の空間軸つまり社会と時間軸つまり歴史の中に、自らの役割を見出すということ以外ではない。人民の多くは半径数メートルの世界に生きているので、世界=家族(+友人知人)ということで我々がことさらに介入する必要もないのだが、それなりの無視しえない率で、そんな慎ましいレベルでは満足しえず、つまりいわゆる“大きな物語”を渇望してしまう者も存在する。家族や友人関係、せいぜい地域社会といった規模ではなく、天下国家やナショナルあるいはグローバル・ヒストリーの中に自らの果たす役割を見出さずには精神が安定しないという厄介な者たちである。
 その極端な場合には革命家となり、我々の同志として迎え入れられるか敵として抹殺されるわけだが、少なくとも我々の場合は、自ら価値を生み出すことのできるニーチェ的超人の結社であり、ざっくばらんに云えば空間軸では常に現在進行形の革命の偉大な事業の中に、時間軸では、失敗した者であれ成功した者(ムソリーニなど)であれろくでもない成功をした者(レーニンやスターリンやヒトラーなど)であれ革命を志した諸先輩方の系譜に連なる者として自らを位置づければよいだけの話だ。
 問題は、我々の同志や対等な敵になりうるほどの器でもなく、慎ましい人民でもない、身の程知らずなタイプの人民である。これまた放っておくと我々の支配に不満を抱き始め、対等な敵になりうるタイプと違って容易に弾圧しえないほど量が多いので、面倒を見てやらなければならない。べつに難しいことではなく、ナショナリズムを刺激して馴致すればよい。
 我々ファシストはナショナリストではないが、人民を馴致するために適度なナショナリズムは必要であることを否定しない。人民はせいぜい背伸びしたってナショナリズム的な世界認識を超え出ることはできないのだ。そうであれば、それを逆用して人民を良導するに如くはない。
 ナショナリズムなどしょせんフィクションである。我々の良識に照らして“好ましい”ことを“日本人らしい”振る舞いとして流布すればよい。例えば、人民が近隣諸国に無用な敵愾心を抱いたりするようなことそれ自体は仕方のないことだ。世界中どこでも、隣国同士というのは仲が悪いものであって、仲が良ければそもそも別の国になどなってはいない。ただその敵愾心が差別感情となり、さらには国内のマイノリティに対する具体的な迫害となることを抑止しなければならない。差別感情の発露を抑止することにつながるのであれば、「日本人はチョーセンジンとは違って他民族の者を悪しざまに罵ったりはしない」などと、それ自体は差別的なレトリックであっても、人民の良導のために使用してよい。ましてマイノリティを暴力的に迫害するなど、白人のブタどもの振る舞いであって日本人どころか東洋人失格である。
 男尊女卑的な価値観についても同様である。フェミニズムなどしょせん女の浅知恵とでも云う他ない。人民は理詰めで説得するよりも、「日本人らしくない」とか「男らしくない」などと咎められたほうが“効く”のだ。であれば、「日本人らしい」や「男らしい」の内実を、より好ましいイメージで充填していくほうが早道である。
 当然、「日本人らしさ」や「男らしさ(あるいは女らしさ)」といった価値観の流布は、一定の知性を持ち合わせた者にとっては抑圧的である。そうした政策は都市部以外で推進され、それらの地域は大多数の人民つまり男らしい男や女らしい女の楽園となり、都市部はそのような野蛮に耐えられない程度に知的な少数の人民のための避難所となる。

 すでに永住権を得ている在日朝鮮人などに対しては、拒否権を認めずに日本国籍を付与する。
 日本国民の大多数は日本民族だが、マイノリティとして琉球系日本国民、アイヌ系日本国民、朝鮮系日本国民その他が存在する。多くの施策が圧倒的マジョリティたる(いわば)“日系”日本国民を念頭とするものであり、さまざまな場面でマイノリティの存在が見落とされたり、不快感を抱かせられるようなことも起きうるのは、そもそもマイノリティというのはそういうものであって、仕方がない。しかしファシズム政権としては、大多数派の日本民族のナショナリズム的心性を尊重すると同時に、それらマイノリティのそれぞれのナショナリズム的心性も尊重し、それぞれの固有の文化的伝統を保護・継承しようとする試みには支援を惜しまない。また、就職差別その他、目に余る差別に対しては厳しく取り締まる。具体的にどういった差別が「目に余る」もので、どの程度なら蒙昧な人民の振る舞いなのだから仕方がないと放っておくのか、という判断は党がその公正なバランス感覚を認めた担当者に委ねられる。
 その他さまざまの差別問題についても同様である。ファシストは原理的に、実存主義的な人文系教養人である。そのような存在であるファシストが、「それはたしかにヒドい話だ」と思えば介入する。民主主義ではないのだから、何が差別で何が差別でないのかを多数決で決めたりはしないし、法治主義ではないのだから、何が差別で何が差別でないのかの基準を前もって一律に定めておこうとはしないということである。

 中国がどんどん推進しているように、IT技術の恐るべき発達によって、もはや国家権力は国民全員を個人単位で監視することが、やろうと思えば可能になっている。我々も当然、国家権力を掌握した以上はそれをやることになる。我々の初発の動機は反・監視社会ということだが、先述の別の例と同様に、よくよく考えてみれば、それは我々が現体制下で監視されるのはまっぴらだということであって、我々が監視する側になるのであれば、むしろ徹底的に監視して、民主主義復活の悪辣な陰謀を防がなければならない。
 ただし、もともと監視社会化に反感を持っている我々のやることであるから、自制はする。つまり基本的には“監視するだけ”で、現在の中国のように不満分子を根こそぎ拘束したりはしない。いよいよ我々の身が危うい時に強権発動すればよく、やり過ぎは却って人民の不満を増大させるし、我々がうまくやって見せた上で中国にもそのように御注進する。
 犯罪の抑止についても同様で、原則としては事後対応が望ましい。よっぽどの場合はともかく、抑止に過剰に力を入れると窮屈な社会になってしまう。そうしないためには、「可能だが、やらない」という判断が必要となる。問題は、「よっぽどの場合」であるか否かを誰が判断するのかということである。民主主義社会では、民主的に制定された法に従って杓子定規な対応が求められ、しかも可能なかぎり抑止せよというのが民意だから、どんどん窮屈な社会になる。ファシズム社会では、我が党が公正な判断力(要はバランス感覚)を認めた担当者の裁量に任されるから、あまり窮屈な社会になることはない。
 犯罪関連でついでに言及しておけば、薬物・賭博・売買春などの“被害者の存在しない犯罪”は非犯罪化される。ただし、これらも完全に自由化すると人心の荒廃を結果する危険性なきにしもあらずだから、いっそ国営とすべきかもしれない。そうすれば、国民個別監視テクノロジーを駆使して、例えば健康や経済状態を著しく損なわない程度に国営施設でそれらを人民に提供するといったことも可能になる。非合法下の場合によくありうるように売春婦が危険に晒されることもない。もちろん大麻など、ほぼ無害であることが明らかなものは即座に解禁される。
 国民個別監視テクノロジーは、むしろ文化政策に活用される。
 調べようと思えば、誰がどこで何を買ったか調べることが、国家権力には今や可能である。もちろん監視社会に反感を持つ我々は、そこまでやろうというのではない。しかし例えば、あるミュージシャンのある曲を購入した者の1人1人について、個人の特定までは可能だがやらないにしても、我が党の党員であるか否かということだって把握できる。つまり、そこらへんの人民によるヒットチャートと、知的にも文化的にも優れた我が党員たちの間でのヒットチャートを、別個に集計し、発表できるということである。人民のヒットチャートには現在のAKBとかエグザイルとかジャニーズとかアニソンとかミスチルとかセカオワなどに相当するゴミ楽曲が主に並んでいて、我が党員のヒットチャートにはちゃんとした曲が並ぶ。もちろん他のさまざまな文化ジャンルについても同様のことが可能だろう。こうした施策には、表現規制的なことを伴わずして、芸術家ども自身も含む人民に対する好ましい教育的効果があるはずである。

 学校教育は全廃される。
 代わりに、原則として年中無休の学力試験場が各地に開設される。そこで例えば、現在の中卒レベル、高卒レベルなどに相当するような学力認定試験がおこなわれ、合格すれば、それらの試験に応じた学力が公認されることになる。
 ただ同じ地域に同じ時期に生まれたというだけの集団を狭い空間に囲い込み、ただ特定の教科の学力がいくぶん高いというだけの者(教員)には不可能であるに決まっている(したがってトンチンカンな)人格的指導のもとに置くという、不条理で抑圧的な学校制度では、いじめなどの深刻な問題が起きて当たり前であり、しかも学力さえ身につかない。学校制度は歪つな人間を大量生産する諸悪の根源である。
 現在の学校に似たものとして、学力試験合格実績を競う塾や予備校が民間で運営されるだろうが、いじめなど起きようもなかろうし、そのようなところへ通わずとも独習して試験に臨むこともできる。
 大学制度は、諸々の抜本的改革(レッドパージなど)の上で存続することも検討されるが、少なくとも私学助成は全廃される。基本的には、文系の学問には大規模な図書館さえあればよく、研究活動は個人レベルあるいは私塾で充分だし、さらに云えば我が党の指導者養成機関が文系の最高学府の役割を現在すでに果たしている。
 話を戻して、学力試験の内容、つまり“中卒レベル”や“高卒レベル”に求められる知識の内容は、現在のそれとは多少異なってくるだろう。これは「ナショナリズムの活用」の問題とも関連してくる。
 日本はもはや“世界に冠たる”どころか“アジアの盟主”にもなれないことがはっきりしている。それはとりたてて悲しむべきことでもなく、そもそも日本は歴史上のほとんどの時期、極東のマイナーな国だったのである。ここ百年ほどがむしろ例外的にブイブイいわせてただけであって、元に戻るだけの話である。ここ百年ほどの、すでに失われつつある(もう失われた?)栄光の時期に未練がましく縋り続ける者が、例えば中国に無用な反感を抱いたりする。もともと中国こそが東アジアの、というより世界レベルの主要国だったのであり、これまた元に戻っただけである。
 しかし同時に、日本は世界に類を見ないユニークな国でもある。愛国心などカケラもない我々ファシストが云うのだから確かだ。そしてそのユニークさの理由もはっきりしている。柄谷行人の「文字論」(『〈戦前〉の思考』所収)や石川九楊の『二重言語国家・日本』で説かれているとおり、日本語が漢字と平仮名・片仮名の3種類の文字で表記される言語だからである。日本語を母語とする者の思考や感性は、この独特の表記法に規定されており、例えば日本が西洋以外でダントツにいち早く近代化に成功した理由も単にそのためだったりする。我々が人民に流布すべきナショナリズムは、俗に云う“ナンバーワンよりオンリーワン”、日本は“1番”の国ではないが、独特で面白い国なのだ、という側面にアイデンティファイさせるものとなる。日本語の特殊性に規定された日本人の思考・感性の特殊性が維持される限り、日本が国際社会における存在感を発揮しうる局面はままあるだろうし、それは人民のナショナリスティックな欲望を満たしうることである。また、日本語さえ滅びなければ日本民族が滅びることもない
 したがって、国語教育は日本語成立の経緯を感得しうるものでなくてはならない。もちろん日本語の特殊な表記法は、先進国・中国の文化を咀嚼するための試行錯誤の過程で洗練されてきたものである。昨今の売国自民党政権は国語教育から漢文の比重を減らし、おそらくは排除する傾向にあるが、日本人が日本人らしくあるためにこそ漢文教育は必要であり、中国に学びながら日本人であることをやめることがなかったことの証しが、漢文には宿っているのだとも云える。もちろん漢文だけでなく、漢字教育が何よりも重要である。日本独特の漢字の使用法に熟達することが、日本文化を理解することとほぼイコールだからである。反米教育的な観点からも、GHQによって廃止された旧字・旧仮名を、書けずとも読めることぐらいは“中卒”学力認定の基準の1つとすべきだろう。
 歴史教育においては、過去の日本がやらかした“悪事”について、現在以上に徹底的に出題範囲とする必要があろう。どうせ我がファシズム革命政権樹立前の、歴代のろくでもない政権がやらかしたことである(第2次大戦期の日本の体制はファシズムではない。ファシストと呼びうるような者たち、例えば北一輝、石原莞爾、中野正剛などは全員敗北しており、イタリアやドイツのようなファシズム革命、つまり反体制勢力の中から登場してきたファシズム勢力による政権奪取は日本では結局起きていない。日本に成立したのは、国際情勢の変化の成り行きで同盟を結んだ独伊の体制を既存の政府自身の判断で外形だけ真似た、せいぜいのところ“擬似ファシズム政権”でしかない。もちろん我々はファシストなのだから、「当時の日本の体制はファシズムではなかった」というのは擁護ではなく批判である)。
 ただ一方で、近代史において欧米列強が日本を含む非欧米地域に対しておこなった悪事の数々を、もちろん現在以上に徹底的に認識させる必要もある。黒人やインディアンに対しておこなってきたアメリカ政府の数々の暴虐についても同様だ(資本主義と民主主義を称揚する無責任な国に似つかわしい“ホロコーストの民間委託”とでも云うべきもので、我々の陣営でナチスの不肖の先輩たちがやらかした“国家が責任を負うホロコースト”について、少なくともアメリカの白人にあれこれ云われる筋合いはない)。それらに比べれば、日本がやらかしてきた“悪事”など可愛いものである。
 左派がことさらに反発する日本神話についても、“あくまでも神話”として、きちんと知っておいてもらう必要がある。
 歴史というよりは政治経済かもしれないが、バカウヨやバカサヨを増長させ、監視社会化・警察国家化をもたらした民主主義時代の諸事件についても、東西の歴代の革命運動家たちの苦闘と、しかし稀にいざ革命に成功した場合の悲惨な出来事の数々についても、少なくとも“高卒”レベル認定においては詳しく知ってもらう。結果として、べつにファシズムのイデオロギー教育などおこなわずとも、ファシスト党に任せておくのが一番良いのだろうと人民は納得するだろう。知らせないことによってではなく、知ろうと思えば(学力認定をしてもらいたければ)知ることができる状況を十全に保障することによって、強要せずに支持されなければならない。我々は正しいのだから、何も隠す必要はない
 外国語は、必要な者が身につければよく、“中卒”や“高卒”の学力認定試験の出題範囲とはしない。それでも正しい国語教育によって、音読みと訓読みの区別がつき、和語を音読み漢語に置き換えることができれば、中国語など身につけずとも筆談で(助詞的な要素などは「in」とか「of」とか「for」とか「but」とか「because」とか「if」といった現在の中1レベルの英単語で補えば)中国人と相当に高度な意思の疎通が図れる。外国語を身につけることよりも、日本語を身につけることのほうが重要である。
 英語教育も公的にはおこなわない(“中卒”や“高卒”の学力認定試験の科目としない)。もちろん、いかに世界情勢が変容していこうとも、国際社会で英語がブイブイいわせている状況は少なくともしばらくは続くだろう。これに対処するため、日常生活の範囲で人民でさえ自然に身につける、日本語の日常用法に紛れ込んでいるカタカナ語の類を改変する。我々は“言葉をいじる”ことに対して原則として慎重であるが、たかだか近代、しかもほとんどは敗戦後に流入したにすぎない欧米語をいじることはとくに問題とは考えない。まず和製英語の類は放逐する。さらに重要なのは、欧米語の片仮名表記を可能な限り原音に近づけることである。学力認定試験の問題文なども含む公文書でそれを徹底し、民間にも自然にその表記が浸透していくよう仕向ける。例えばエネルギーではなくエナジとすることなどは当然として、ドッグはダグ、メーカーはメイカ、ポエムはポウイム、バリケードはビャラケイドゥ、ボキャブラリーはヴォウキャビャレリである(現実問題として、アメリカ発音とする。また、ここに示したのはあくまで素案で、最終的には英語学者による協議機関を設けて委任する)。現在の感覚ではヘンだが、どうせ慣れる。LとRの書き分けはできないなどをはじめ、そもそも外国語なんだし限界もある。しかしこうすることによって、英語など勉強したことがない人民でも、カタコト英語で現在よりは英語圏人と意思の疎通が図れるようになるし、いざ英語をちゃんと勉強しようという時にもラクだろう。
 日本人に外国語を身につけさせることよりも、外国人に日本語を身につけさせることのほうに力を入れる。
 ファシズムはそもそも反グローバリズムの思想であり、国境の壁は閉じないまでも高めにしたい。例えば、街の公設の(あの青い道路案内看板や、信号機に付いてる交差点名の表示板などを含む)案内表示からは醜悪なローマ字表記の“フリガナ”を含め外国語は一掃し、フリガナをつける場合も平仮名・片仮名表記のみとする(こちらが外国へ旅行に出る時のことを考えてもみよ。日本に来るなら50音ぐらい覚えてこいというのだ)。短期滞在はともかく、長期滞在には日本語の試験を課す。もちろん入国希望者のための日本語学校を国営で運営してもよい。その場合、会話よりも読み書きに重点を置くことになる。長期滞在者には帰国後に“ニッポンすごい!”の走狗に(強要はしないが)なってもらいたく、そのためには日本文化を正確に理解させる必要があるからである。先に述べたとおり、読み書き法の特殊性こそ日本文化の粋である。それに前記『二重言語国家・日本』を読めば分かるとおり、日本語は、話し言葉を書いているのではなく書き言葉を話しているのだから、日本語の学習法としては読み書きを優先するのが正しいのだ。
 朝鮮人や中国人の名前を現地音読みさせる不当要求は拒否する。地域によって読み方は違うが書けば同じ字であるという、音より文字が優位性を持つのが漢字文化というものであり、現地音読みの強要はそのことへの無理解に基づく文化的暴力である。この強要は漢字を廃止して非文明国化した韓国に発するもので、そもそも漢字の本家である文明の源・中国は当然そのようなバカな要求をしておらず、中国人名などに対しては日本の愚劣な左派どもがトンチンカンな“忖度”をしているだけである。例えば文在寅は断乎として日本語では「ぶん・ざいいん」である。

 日本語の問題とも関連することだが、平成の大合併はすべて御破算にする。
 地名を安易にいじることは許し難い文化破壊である。しかも自らが生まれ育った土地の名前を、目先の観光マーケティング的な浅ましい魂胆でキラキラ化するなど(しかも浅はかである。今や日本中にミサト町はいくつあるのか)、ほとんどはド田舎の保守勢力の主導によるものだが、とうてい保守派のやることとは思えない。魂胆が観光マーケティング的なものであることからすれば、資本主義の病理でもある。
 一時的な優遇措置を目当てとした駆け込み合併も多く、一帯の各自治体間での交渉をテキトーに切り上げての、もともとの地域的まとまりとは無関係な領域単位での合併も数知れない。地域の歴史を軽視するものであり、要するに地域共同体の破壊であり、こうしたことの積み重ねが人民のアイデンティティ不安を加速させ、人心を荒廃させもするのだ。
 少なくとも平成の大合併以前の行政区分に戻し、零細僻村が大量復活して非効率にすぎるというのであれば、もともとの「郡」単位の合併という形で再編、行政地名もその郡名とする。歴史的・自然境界的な必然性の観点からすれば、いっそ律令制時代の地域区分に準拠しつつ微調整する再編をおこなってもよい。

 文化政策については、伝統文化以外の芸術・文化諸ジャンルに対する助成はおこなわない。現状を見ればはっきりしているとおり、その種の助成は芸術・文化を堕落させるからである。
 “神仏儒”以外の諸宗教に対しては特別な保護をしないが、迫害もしない。この場合の“神仏儒”には、“神仏儒”の系統であっても、幕末以降つまり近代に入ってから成立した新宗教・新々宗教などは含まない。
 皇室はもちろん尊重する。ただし明治期以降の“天皇制”は欧米の王制や帝制に合わせた偽の伝統であり、そもそも近代のはるか以前から存在する皇室を欧米ふうの近代法で定義しようとすること自体が皇室への冒涜であると考える。近代以前のそれを前提とした、現在とは違う形に位置づけ直した上で(例えば、皇族方は世事にわずらわされることなく、現在の皇居なり本来の京都御所なりからあまり外に出られることなく、伝統的な祭祀を営み、その時期その時期の一流の知識人や芸術家を時折招いては自由に歓談、芸術鑑賞され、また自らも和歌など詠まれたりしつつ、人民の幸福を祈っておられるという、そういう存在でよいと考える。詩を作ることが中心的な仕事の1つであるような王なり元首なりそれに類した何なりが、このユニークな国以外に存在するだろうか?)、ファシズム政権も皇室を全面的に支援する。

 世界の趨勢を見るに、中国の勢いはとどまるところを知らない。明日にも中国の経済発展は行き詰まるかのように云う右派はすでに四半世紀そう云い続けているが、それは彼らの願望にすぎない。我々ファシストの立場からしても、社会主義政党の一党独裁のもとで資本主義をコントロールするというのが“正解”であり、中国は上手くいって当然なのだ。不安があるとすれば、恐怖政治すぎて人民の不満が爆発するかもしれないということだけであり、だから我々としても、政権樹立の暁には“寛大な独裁政権”の見本を示して、こうしたほうが長持ちしますよと中国に御注進申し上げたいのである。しかも万が一、中共が打倒されてしまったりしたら、中共がギリギリ抑えている人民の反日ナショナリズムが野放図に全面化して、日本の立場はいよいよヤバいことになる。
 アメリカも中国を完全に抑え込むことはもう諦めている。アメリカにとってはアメリカの安全が一番大事なのは当たり前で、いざとなれば日本など簡単に見捨てるだろうし、そうなるのもそれほど遠い将来のことだとは思えない。
 日本は中国の脅威に自力で直面しなければならなくなるのである。
 そこでファシスト得意のアクロバット戦術である。遅かれ早かれ中国の風下に立たなければならなくなるのだから、いっそ今のうちからアメリカではなく中国の側につけばいいのだ。
 1つには、アメリカに見捨てられてから中国についたのでは手遅れだということだ。アメリカを振り切って中国につくのでなければ、日本は中国に自らを高く売り込めない、つまりそれなりに丁重に扱ってもらえない。もう1つには、日本は経済的にはこの先どんどん落ちぶれていく一方だということだ。3流国にまで落ちぶれてしまう前に、1・5流かせめて2流国であるうちに中国につかなければ、やはり中国には日本を丁重に遇するメリットがない。
 右派の一部が云う核武装など、中国から身を守るためには何の役にも立たない。アメリカと違って中国政府はもともと自国の人民の生命財産など何とも思っちゃいないのだ。核兵器はアメリカのような軟弱ヘナチョコ民主主義の国に向けてチラつかせて初めて意味があるもので、中国に向けたところで「やれるもんならやってみろ」と云われてオシマイである。
 どうせ意味がないのなら、核武装などやらないほうがいい。核はいったん持ってしまったら維持するのが大変だ。どんなに経済が傾こうが、莫大な税金を投入して支え続けなければならない。経済的に落ちぶれていく国がやることではない。
 そもそも恐いのは中国であって、中国の側についてしまえば核なんか必要ない。北朝鮮も中国の友好国に手は出せない。韓国より日本のほうが中国のお気に入りになってしまえば、韓国が何を云おうが聞き流せる。アメリカを敵に回すことになるが、要は中国の核の傘に入れてもらうということなのだから、アメリカの核など恐くない。
 もちろん核武装以外の、可能最大限の軍事力を持つべきである。必要最低限ではなく可能最大限である。少なくとも中国が、攻め込もうと思えば可能だがかなりメンドくさいと思ってくれる程度には、軍事強国であり続けなければならない。中国の脅威に直面している他の中国近隣諸国とも、できれば韓国とも、緊密に連携して包囲網を築く必要もある。その上で、中国に対して精一杯のおべっかを使うのである。“日本人特有のユニークな発想”で次々と開発する最新技術を、どんどん無償提供してあげてもよい。「うい奴じゃ、苦しゅうない」と思わせなければならない。
 日本だけでなく他の中国近隣諸国もそそのかして“おべっか包囲網”を築き上げ、気がついたら中国の側が近隣諸国での評判をしじゅう気にしているように仕向けなければならない。欧米諸国が中国に欧米スタンダードを押しつけてこようものなら、“おべっか包囲網”諸国で一丸となって欧米諸国に対抗する音頭取りを日本がやり、中国に恩を着せなければならない。
 アメリカは日本を決して見捨てないだとか、日本がまた経済的に盛り返すだとか、いつまでも夢物語にしがみついていないで冷静に考えれば、日本が生き残る道はこれしかない。
 とはいえ嫌韓・嫌中の、要は没落の予感に怯えている結果としての八つ当たりナショナリズムが猛威を振るう現下の民主日本国で、このような方針が広く支持を得られるとはとうてい思えない。本当に日本が生き残りうる道を提示しているのは我々だけであるのに、まっこと人民というのは愚かなものだ。人民は人民自身の利益について常に無知なのである。
 いっそ中国を本気で怒らせて戦争になり、悲惨な敗戦を再び経験してみるがよいのだ。今のフニャフニャ日本では、どうせ韓国と戦争したって勝てやしない。我々も中国は恐いので、なるべくならまず韓国と戦争して負けて、日本はもう尋常な手段ではいかんともしがたい衰弱国家なのだということを思い知ってほしい。
 もっとも我々は悪質きわまりないことばかり考えているファシストである。このまま日本人のヤケッパチ・ナショナリズムが暴発して中国と戦争になり、当然ながら負けて、恐ろしい人民解放軍に占領統治されてしまうことも半ば期待してもいる。もちろん我々はその日に備えて、親中派ファシズムの党建設を急がなければならない。我々の中華おべっか主義はかなり本気のものである(じっさい我々は、仏教や儒教そして何よりも漢字を日本にもたらしてくれた中国に本気で感謝しているのだ)。占領した敵国をいつまでも占領し続けるマヌケな戦勝国はないから、いずれ傀儡政権を仕立てて帰っていく。その時に、我々がすでに数万人規模の本気の親中勢力を築き上げていれば、我々に白羽の矢が立つ可能性も充分にある。現体制の暴力的転覆を中国にやってもらえれば、何も我々が非合法武装闘争の危ない橋を渡る必要もないわけで、こんなにいい話はない。戦争を革命に転化せよということも、戦争に際しては自国の敗戦を追求せよということも、その悪質さには我々ファシストも一目置かざるをえないレーニン先輩の教えでもある。その外患誘致をやるのも我々ではなく、現政権を引き継いで誕生し続け、かつ劣化し続けるだろう民主日本国の歴代ポピュリズム政権のうちのいずれかであるから、我々は常に安全圏に身を置きっぱなしだ。
 また仮に戦争にまでは至らないとしても、我々が数万人規模の(もちろん数十万人規模であればなお良い)親中ファシズム勢力と化し、今後ますます強大化する中国は当然そんな我々に諸々の支援を与えるようになり、そうすれば政権など自然と視野にも入ってこようというものだ。

 我々は民主主義者ではないのだから、人民の過半数から支持されることを目指す必要はない。党に結集するのは数百人に1人でかまわないし、ファシズムなどというアクロバティックな革命思想を正しく理解しうるパーセンテージなど元来その程度のもの、つまり1億人のうち最大で数十万人だろう。固く団結した少数者の周囲には、その数倍の規模の支持者・シンパの層が形成される。
 そして人民の圧倒的大多数は、“パンとサーカス”をそれなりに享受しうる生活さえ脅やかされなければ政治などに興味を持たない、ポストモダン状況が実現していようといまいと最初から“動物”のような存在である。“動物”は群れることしかできず、決して団結することができないから“動物”なのだ。原理的に民主主義を否定しえない左派は、そのような“動物”たちの大多数から支持を得る形で彼らの考える“革命”を実現したいという、不可能な欲望に今後も身を焦がし続けるだろう。
 最大で党員数十万・支持者数百万、ちょっとケンソンして実際にはその10分の1の規模の党員数万・支持者数十万の(つまり現在の共産党より小さくてよい)、固く団結した親中ファシズム政党を実現すれば、いったい誰が我々に対抗できようか。
 我々のなすべきことは、親中ファシズム政党として依拠すべき思想の研究・深化とただひたすらの党勢拡大の努力、これのみである。

 つまり革命は可能だ。

 あらゆる権力は腐敗すると云われる。
 しかしファシズム政権は決して腐敗しない。なぜなら我々はファシストであり、つまり実存主義者だからである。腐敗には我々ファシスト自身が耐えられない。
 「あらゆる権力は腐敗する」などという外在的な批判に我々は耳を貸さない。ファシズム政権、そしてそこに至るファシズム運動を腐敗させないよう、党員1人1人がファシストとしての強い自覚と使命感を持たなければならない、という以上の話ではない。