獄中短歌「百回休み」009
独房に悲しき活字中毒者むさぼるように起訴状を読む

 留置場と拘置所の間に、ある種の“線”が引いてあるらしい。
 留置場で所持していた私物が、拘置所では施設の預かりとなることが多い。
 こっちからすれば“同じ獄中”で、なんで所持していてよいもの悪いものに違いがあるのか、しかも拘置所と刑務所の間でならともかく、「推定無罪」の原則が適用されるはずの、まだ有罪判決が確定したわけではない立場にあることは、留置場の「被疑者」と拘置所の「被告人」も同じなのに、と思うのだが、ここらへんが日本の司法システムの無原則なところだ。ある犯罪者仲間(?)は、拘置所で看守に「でも留置場では……」と食い下がったら、「あそこはまだシャバだから」と云われたらしい。おい違うぞ法務省、意識改革しろ意識改革。
 もちろん本や雑誌は留置場でも拘置所でも所持できる。
 が、留置場から持ってきた本をそのまま拘置所の自分の部屋まで持っていけるわけではない。私物はいったん、すべて拘置所の預かりとなる。
 「願箋」といって、なんか要望がある時には、それに内容を書いて、朝、担当の看守に提出する。預かりとなっている私物の本の中からこれこれを手元に置かせてくれというのも、いちいちこの「願箋」に書いて提出しなければならない。実際に本が手元にくるのは「願箋」を提出した翌日で、だから拘置所に移された日の翌朝に「願箋」を提出し、さらにその翌日にようやくその本が手元にくる。
 「官本」といって、拘置所に備え付けてある雑多な本の中から借りられるしくみもあるのだが、そんなの初日は知らないじゃないか。
 私物は原則としてすべていったん施設の預かりなのだが、例外が裁判関係書類だ。それらはすべて本人の手元におかれる。「起訴状」もむろんそれに含まれる。裁判に必要な準備をするのは被告人の当然の権利だし、そのために必要な書類まではたとえ一時的にであれ取り上げるわけにはいかないという判断だろう。そこはいいんだけど、なんか違うぞ法務省。