『最低ですかーっ』あとがきインタビュー

同書に収録するつもりで書いたが長すぎてお蔵入りになった自作自演インタビュー
(2004年夏ごろ執筆・未完・小見出しも途中までしかつけてないし)

    さっさと本題に入れ

 お務めご苦労さんでした!
 「うむ。誰だか知らないがどうもありがとう」
 それにしても、堕ちるとこまで堕ちましたねえ。無名の頃から外山さんに注目している長年のファンとしては、感慨深いものがあります。
 「現代日本唯一の政治犯に向かって失敬な。別に堕ちたなんて思っちゃいないよ。それに『無名の頃から』って、自分で言うのもなんだが、今でも充分に無名だ」
 そう、そこですよ、そこ。外山さんは確かに今でも充分にきわめて無名です。
 「微妙に強調して繰り返すなよ」
 せっかく頑張ってこんなに苛酷な弾圧を受けたというのに、世間ではまったく話題にすらなっていません。
 「悲しい限りだな」
 そこで、です。ここはファンとして何とかお力になりたいと、外山さんの単行本復帰第一弾の企画を用意しました。
 「『復帰』って……おれはどこにも消えていたつもりはない!」
 まあそうこだわらずに。
 「で、どんな企画だ」
 やっぱ興味津々なんですね。
 「もう無名はイヤだからな。ぜひ聞かせろ」
 簡単です。これまで外山さんが書いたたくさんの文章の中から、グッとくるフレーズをただ時代順にだらだら並べただけのものです。
 「『だらだら』は余計だろ」
 これなら外山さんがいなくてもできます。実はもう私の方でとっとと作っちゃいました。3時間でできました。これです。
 「働き者は結構だが言葉のハシバシにトゲみたいなものを感じるな」
 掛け合いはいいですからとっとと目を通しなさい。
 「はい。どれどれ……ふむ、ふむ、なるほど。なかなか。ふむ、ふむ。これがまた。くー」
 静かに読めんのですか。
 「これが落ち着いて読んでいられるか。我ながらいいこと言ってるなあ。天才としか思えん」
 まあ一応、私、長年のファンという設定ですから、同意せざるを得ないのが恥ずかしいです。
 「それでこれがちゃんと本として出版されるというわけだな」
 タイトルも決めました。『最低ですかーっ! 外山恒一語録』です。「最低ですかーっ!」てのは、一時期外山さんがライブの最初にツカミで叫んでたのを思い出して。
 「ああ、やってたな。ちょっとネタとしては古い気もするが、まあいいんじゃないか。ちなみに獄中で新ネタも考えたけど。『元気ですかーっ! 元気があってもなんにもできない!』ってやつ、どう?」
 獄中生活の辛さが偲ばれます。それはともかくここからが本題です。
 「流したな」
 すでに説明したように、今回の本は、外山さんの過去の数々の名フレーズを、時代順にだらだらと並べたもので、基本的にはどこから読んでもオッケーな、いわば外山思想の入門書なんですが、それだけでは今ひとつ読者に不親切かと思いまして。
 「それぞれのフレーズが、どういう背景事情のもとに書かれたかってことが分からないからな。まあ分からなくても充分面白いはずだが、分かればなお面白い。年表みたいなのをつけた方がいいんだろうが、ただ味気ない年表を挿入するだけじゃ芸もないし、そこで君がインタビュー形式でおれの活動歴を聞き出すためにやってきたというわけだ」
 きわめて説明的で協力的なセリフをありがとうございます。
 「つまらん前置きに字数を使いすぎたからな。さっさとやれ」

    おれ、なんで自分のこと、
    「ドロップアウトしたエリート」みたいに
    錯覚し始めたんだろう

 まず事務的に、生年月日、出身地などを。
 「一九七〇年7月26日生まれで現在33歳。この本が出る頃には34歳かもな。出身地は、両親が鹿児島県姶良郡の隼人町と加治木町なんで、そこらへんということになる。ただ4歳か5歳の時に、ばあちゃんたちを除いて一家で福岡県大野城市に引っ越したから、育ちはほとんど福岡だが」
 ご兄弟は?
 「下に2人。2歳下の妹と、5歳下の弟がいる」
 長男ですね。
 「しかもB型だ」
 成績優秀だったとお聞きしていますが。
 「そのつもりだったんだけどね。獄中で冷静に自分の半生を振り返ると、なんだか怪しい気もしてきたな。おれが通ってたのは、大野城市立大城小学校というところで、当時たしか1学年90人ぐらいで、飛び抜けて成績のいいのが3人いた。おれはその中の一人だったんだが……」
 大したことないですよね。
 「だよな。田舎の小学校のたった90人の中ですら1番じゃないんだからな。実際、ラサール受けて落ちてるし。おれ、なんで自分のこと、『ドロップアウトしたエリート』みたいに錯覚し始めたんだろう。しかも小学校の時の他の2人は、勉強だけじゃなくスポーツもできて、おれ、そっちの方はまったくダメだったから」
 ゼンソクだったと。
 「うん。でもスポーツできないってのも、今から考えると思い込みで、リズム感とか持久力、瞬発力はあって、ただ筋力がなかった。あと協調性も。だから野球とかサッカーとかはダメなんだけど、鉄棒とかマット運動とかはできるの」
 華がないですね。
 「勉強がそこそこできるってだけの、地味な子供だったな」

  1年の時の担任は
  「レーニン」というあだ名の社会科教師で……

 で、福岡市早良区の私立西南学院中学校へ進学。エリート校じゃないですか。
 「まあそこそこのな。だけどああいう学校へ行くというのも考えもので、みんなそれぞれの出身小学校では、勉強できる秀才ってことで、一目置かれてたわけだよ。ところが西南中に来てみると、全員そうだから、当然その中でまた序列ができるよな。極端な話、小学校の時は1番だったのに、西南中ではビリってことがあり得るわけだ」
 アイデンティティの危機に陥るんですね。
 「そう。それで西南中でも成績上位になれるような一部を除いて、大半の奴が勉強以外のところで自分の位置を確保しようと思って、個性を競いだすんだよ。ずっと『1番であること』にこだわってきた連中だから、勉強以外の何らかのジャンルで、『1番であること』を自分に課し始めるんだな。一般にエリート校には個性的な奴が多くなるもんだけど、それはこういうメカニズムだね」
 外山さん自身は?
 「おれも入学した時点では上から2割くらいのところにつけてはいたんだけど、小学生時代の『栄光』に比べたら、それじゃ満足できないわな。それでおれの場合は、下手くそな推理小説の創作と、独学でのピアノの練習。そっちに没頭することで、なんとか『おれらしさ』を確保しようとした。当然勉強の方はオロソカになるから、卒業する時には下から2割あたりになってたな」
 でもまあ、今現在は文筆と音楽で食ってるわけですから、まったく無駄というわけではないですよね。
 「食えてないから微妙だが」
 外山さんはあちこちで、西南中で左翼偏向教育を受けたなんて書いてますが。
 「今思えば、全共闘世代の教師が多かったんだな。しかも志を持続してるタイプの。実際に市民運動なんかに積極的に参加してる教師も何人かいたし。1年の時の担任は『レーニン』というあだ名の社会科教師で……」
 教師にそんなあだ名つける中学生もどうかと思いますが。
 「まあ一応エリート校だからな。そんで、1年の社会科はずっと地理だったんだけど、最初の授業は地理総論みたいな話で、その時の最後の結びの一言が『国境線は不変ではない』だったことは今でも強烈に覚えてる」
 中1の最初の授業ってことは、事実上まだ小学生相手ですよね。
 「ろくでもないよな。で、その後、日本各地、世界各国の個別の話になってくんだけど、毎回毎回、その地域にどんな社会問題があるかってことを、教科書は使わず、教師オリジナルの資料プリントで詳細に解説していくわけ。水俣病とか原爆とかって話なら普通の中学校でも少しは触れるだろうけど、沖縄の米軍基地問題から、三里塚の成田空港建設反対闘争、青森県六ヶ所村の問題まで、全部このレーニンの授業で教わった。今のおれの立場からすると、そういう教育はいかがなものかと思うけど、評価を抜きにすれば、教師が熱を入れてやってるぶん、聞く側としてはむちゃくちゃ面白い」
 それで影響を受けたわけですね。
 「いや、リアルタイムではそれほど。レーニンの周りには熱心な信者みたいな生徒が何人もいて、社会研究部って部活が組織されててね。レーニンに率いられて市民運動の集会に行ったりとか。その連中はその連中で、やっぱりそこにアイデンティティを見いだしてたんだろうけど、おれはさっき言ったように推理小説とピアノにハマってたから。レーニンの授業は面白く聞いてたけど、それはそれ。西南中時代を通してずっとおれは政治的無関心だった。もちろん、その後の活動にレーニンの影響がないと言えばウソになるけど」

    入学するなり、学校に泊まり込みで朝から晩まで
    軍隊式の行進の練習、あいさつの練習

 高校時代の話に移りましょう。外山さんは、たしか高校受験に失敗するんですよね。
 「うん。成績に問題あったわけじゃないんだけど、いろいろ説明するのメンドくさい事情があって、志望校を県立の1本にしぼったあげくに落ちちゃって、それで福岡市西区にある私立中村学園三陽高校というところに二次募集で入る」
 新設で、外山さんの代が第一期生と。
 「そう。だから学校側も張り切っちゃって、とにかくいい評判を作ろうと、生徒をガチガチに縛ったんだよね。入学するなり、学校に泊まり込みで朝から晩まで軍隊式の行進の練習、あいさつの練習とか」
 高校入学が86年ですから、外山さんの中学高校時代ってのは、いわゆる「管理教育」の全盛期ですね。
 「そういうことになる。ただし西南中の場合は、戦前からのプロテスタント系学校でもともとリベラルな校風ってのもあるし、さっき言ったように志を持続してる全共闘世代の教師がたまたま力を持ってたから、中学校の3年間は『管理教育』とはまったく無縁、むしろ当時としては奇跡的な『自由の砦』みたいな場所で過ごしたことになって、だからこそ逆に三陽高校のやり方が異常に見えたんだろう。まあ、たしかに異常は異常だが」
 で、決起と。
 「一人でしょっちゅう職員室に抗議に押しかけてたっていうだけなんだけどね。しかしそれがおれの活動家人生の始まりだ」
 この三陽高校には高1の1学期しかいなかったんですよね。
 「こんな不自由なとこで3年間も時間を無駄にするのはゴメンだからな。鹿児島の隼人町のばあちゃんの家に一人で引っ越して、そこから鹿児島県立加治木高校ってとこに86年9月から通った。転校の理由は、父の転勤の『予定』があるとかなんとか、かなり強引にデッチ上げた」

    社会問題に目覚めれば
    自然に左へ行くしかないっていう、
    そのほとんど最後の世代だね

 加治木高校は地方の進学校だと聞きますし、それほどガチガチの「管理教育」じゃなかったのでは?
 「まあね。3年数ケ月ぶりの男女共学でもあるし、転入した当初は毎日が楽しくてしょうがなかったよ。だけど、『補習』の問題でぶつかるんだな」
 九州全域でおこなわれている、朝課外とか、ゼロ時限目とか呼ばれてるやつですね。
 「名目上は生徒の自主参加ってことになってるけど、事実上全員強制参加というアレ。どうも九州にしかないシステムのようだけど、まあこの本は主に九州でしか出回らないようなんで、わざわざ説明しなくてもいいか。別に深い理由はなくて、単に早起きがメンドくさいってことで、自由参加なんだからおれは出ないって表明しただけで、大問題になっちゃってね。それをきっかけに、加治木高校は地元では『自由な校風』ってことになってるけど、そんなのウソなんだってことがだんだん見えてきて、ことあるごとに学校当局と衝突って日々が始まる。三陽高校の時はほとんど孤立してたけど、加治木高校では少数ながら話し合える仲間もいたし、ファンみたいな女の子もついたりして、それなりに楽しかったな。うふ」
 気持ち悪いなあ。それで具体的にはどんなことを?
 「生徒会の連中とはよくぶつかってたなあ。あいつら学校側のイヌだったからね。それで生徒総会なんかで、壇上の生徒会の奴らと、おれたち少数派の過激分子とで論争になったり。まあ青臭くて熱い感じでやってたよ。あと、放課後の空き教室に仲間を集めて、社会問題の勉強会をこっそり主宰したり」
 社会問題なんかへの関心はこの頃からですか。
 「そうだね。ほら、西南中の時にはレーニン率いる社会研究部の生徒たちがたくさんいて、そういうムズカシイことはあいつらに任せておけばいいかって感じだったんだけど、高校行くと、誰もそんなことに関心持ってないじゃん。これはマズいんじゃないかって、なんか危機感が出てきて、それで新聞やテレビのニュースを熱心にチェックするようになって」
 ちょうど中曽根首相の時代です。
 「中曽根、レーガン、サッチャー。悪役がしっかりしてて、社会問題に目覚めれば自然に左へ行くしかないっていう、そのほとんど最後の世代だね。で、新聞なんか読んで一定詳しくなると、誰かに教えたくなるじゃん。それで休み時間とかに仲間内でしょっちゅうそんな話ばかりするようになって……熱い時代だったな」
 でも聴いてたのはさだまさしだったんですよね。
 「お恥ずかしい。ずっと優等生のつもりできて、『ロックは不良の音楽』という、当時ですら珍しい迷信を抱いてたから。日々学校当局と闘うおれにシンパシー感じてたらしい同級生の女の子が、尾崎を勧めてくれたことあったけど、興味なかったし、結局その時は聴かなかったかな。聴いても、バイク盗んだり校舎の窓ガラス割ったりって世界には、当時のおれは共感できなかったと思うなあ。むしろ『やっぱ不良の音楽だ』って確信を深める結果になっただろう」
 しかしさだまさし聴きながら学校と闘ってるってのは……。
 「キチガイだよな」
 キチガイですね。

    それで、うう……自転車に
    ラジカセくくりつけて九州遊説などと……

 「加治木高校にいたのがちょうど1年間。高2に上がったあたりから、だんだん周りの熱も冷め始めて、孤立して居づらくなるんだよね。それでまあ、ふたたび逃亡、と」
 福岡県立筑紫丘高校へ。
 「これまた『父の転勤の予定が中止になった』とかいうテキトーかつ強引な理由でね。加治木高校としてもこんな問題児はさっさと処分したいって感じだったから、深くは追及されなかった。それで87年9月に、筑紫丘高校へ転入」
 しかしなじめず、と。
 「うん。もうすっかりキチガイが板についてたからね。加治木高校の頃はまだ、一から社会問題に目覚めていく過程を周りも見てたから、いきなり孤立することはなかったんだけど、筑紫丘に入った時には、最初からアブない奴になってるわけでしょ。そりゃ浮くわなあ。校内に仲間なんか一人もできなくて、それならいっそ、学校の外に、社会派な高校生の集団を作ろうと思い立つわけだ」
 ほんとの自民党……。
 「わーっ! 黙秘する! 黙秘するーっ!!」
 よりによってなんという恥ずかしいネーミングを……。
 「当時のおれは、思想的にはまったく凡庸な戦後民主主義者でね。日本共産党のシンパだったし、さだまさし聴いてたぐらいだからそのセンスのほども推して知るべし。まあ、『ほんとに自由と民主主義をめざす政党を』ってことでそんな名前に……」
 高校生の政党とか言って。若さのかけらも見えませんよ。
 「何でも喋ります。何でも喋りますから許してください」
 全部おまえがやったんだな。
 「すみません」
 仲間は何人ぐらいいたんだ。
 「10名ちょっとです。主に西南中時代の友達で、他の高校に通ってる奴に連絡とって……。それで、それで、うう……自転車にラジカセくくりつけて九州遊説などと……」
 ラジカセ? ほう、それで何を流そうとしたんだ? まさか……。
 「さ、ささ、さだ、まさしの、うう、反戦歌なんですーっ!」
 嘆かわしいなあ。クニのおふくろさんも泣いているぞ。
 「すみません。ごめんなさい。いっそ死刑にしてくださいーっていつまで取調べコントやってんだ」
 いや、つい面白くて。
 「念のために言っておくがこの自転車遊説計画の直前にブルーハーツのファーストを聴いて衝撃を受け、ロックに転向しつつある時期ではあったんだぞ」
 威張るほどのことではないです。
 「しかしこの遊説旅行が新聞で小さく報道されて、それで学校側にバレてあっけなく弾圧される。『高校生が政治活動などモッテノホカ』ってことで」
 50日間の停学処分ですね。
 「正確には無期停学で、ほんとは退学処分が1度決定されたのを、また新聞が取り上げそうになったんで、慌ててワンランク落としたらしい」
 その程度で退学とは、80年代の「管理教育」ってほんとスサマジイ。
 「さすがのおれも学校にいながらいろんな活動していくことに限界を感じて、この停学期間中に自主退学を決意するわけ」
 じゃあなんでそのまま退学しなかったんですか。
 「いや、大検受けようと思ってたから、そのためには2年修了まで行った方が、受けなきゃならない科目数が減ってラクなんだよね」
 この期に及んでまだ大学進学には未練があったわけですね。
 「我ながら情けない話だな。ああ、それから高校やめるといっても、このまま負けっぱなしでただやめるのもシャクだと思って、退学に至る経緯を手記にまとめて、どっかから出せないかと考えたんだよ。それで停学期間中に大手の出版社数社に企画書みたいなものを送って、そしたらまだ高校やめないうちに徳間書店から出版を引き受けるって返事があって」
 なんとそれでは高校やめた後の「進路」も確保した上でのことだったんですね。なんかとことんヘタレな感じですが、それじゃあ本が出せるって保証がなければ、高校をやめてなかった可能性も?
 「さすがにそれはないと思うが」
 結局やめたのはいつですか?
 「たしか春休み中に退学届を出そうと思ってて、気がついたら始業式で、慌てて出しに行ったんだな。いや、退学届は出してないか。なんか停学を解除するにあたって、署名も印鑑もある、『日付なしの退学届』ってのを提出させられていて、要は次に何か問題を起こしたら、学校側で勝手に日付入れて『自主退学』の体裁で放校にしちゃうぞって人質みたいなもんなんだけどね。それがあるから、どうぞご自由に日付を記入して退学にしてくれって言いに行った」
 やっぱヒドイ話ではあるなあ。
 「たまたま3年の担任になる予定だった教師が『理解ある大人』系の人で、考え直せと何度か自宅まで来たけど、始業式以降は一日も登校せずに、最終的には1ケ月ちょっとで正式に退学ということになったな」

    まずは仲間を集めなきゃということで、
    地元の駅前とか学校前とかでビラまきを

 高校をやめて以降は?
 「やめてすぐかやめる直前か、青生舎の本に出会うんだよね」
 保坂展人がやってた、反管理教育のグループですね。
 「そう。それに完全に影響されて。こういうふうに学校と闘えばよかったのかと。でも自分はもう学校をやめるわけだし、かといって学校の状況は変えていかなきゃならないと思い続けていたし、そもそも気分的にはまだ高校生だったしね。学校を変える運動をやるためには、学校にはもういられないっていう、なんかヘンな感覚を持ってたな。まあそれは正しい感覚でもあるけど。それで、『反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ』というのを結成した」
 結成といっても最初は一人ですよね。
 「もちろん。だからまずは仲間を集めなきゃということで、地元の駅前とか学校前とかでビラまきを始めた」
 念のために訊きますが、その頃はもうさだまさしは……。
 「そっちも中退だな。ブルーハーツを中心に、尾崎とかエコーズとか聴くようになってたし、ちょっと後にはRCサクセションも」
 活動方面も土井社会党ブームに連なる保坂展人路線に衣替えしたし、ようやく外山さんも80年代後半型の正しく青臭い若者に変身できたんですね。おめでとうございます。
 「決定的な転機になったのは、この88年夏に東京で開催された『高校生新聞編集者会議』ってのに参加したことだな。毎年春と夏に、全国の高校の新聞部員たちが集まって、2泊とか3泊とかで合宿して、朝から晩までひたすら議論するというイベント。それぞれの学校に対して闘う姿勢で新聞を作るという方針を掲げてて、もちろん学校側とは一切かかわりなく高校生だけで自主的にやってる。70年代から代替わりしながらずっと続けてきたものらしい。高校やめてても、年齢が現役高校生と同じなら参加できるというので行ったんだけど、強烈なカルチャーショックを受けた。何しろそれまでは九州の井の中の蛙で、自分より行動的な高校生なんて周りにいなかったからね。ところがここへ来てみると、おれなんかよりずっとディープにやってる奴が全国各地から何十人も集まってた。同世代で対等に、というよりもおれの方が教わる立場になるような仲間に、おれはここで初めて出会ったんだよ」
 幕末にショボい藩で息巻いてたハネッカエリが、京や江戸に出て、他藩の志士たちに初めて交わったような感じですか。
 「いよいよ気合が入った。おれも負けちゃいられん、九州ででっかいムーブメントを築きあげて、ライバルたちに一目置かせなければ……」
 筑前藩に外山恒一あり、と。
 「そんな感じ」

    『フォー・ビギナーズ マルクス』っていう
    入門書を一冊読んだだけなんだけど、
    ものすごく興奮して、
    一晩で頑固なマルキストになったよ

 ところで大検の方は……?
 「そういえばちょうどその前後に受けはしたんだけどね。2ケ月ぐらいたって合格通知が届いた頃には、すっかり運動の方が面白くなってて、大学受験の勉強なんかやってる場合かと」
 そこでようやくほんとにドロップアウトできたわけですね。
 「福岡で地道にやってたビラまきの成果も上がり始めた。秋には10人前後は集まってたんじゃないか」
 みんな高校生ですか?
 「高校中退者や浪人生もいたけどね。中学生もいた。まあこの時点では、たまにマクドナルドみたいなとこに集まってダベってたにすぎないけど」
 なるほど。
 「ところがここに、東京の例の『高校生新聞編集者会議』がらみで騒動が起きる。おれはウブだったから興奮してたけど、実際あそこに集まってた高校生たちの大部分ってのは、今なら『しゃべり場』みたいなとこに出ちゃうようなタイプで、要するに大したことはないんだ。おれがそれ以下だったって話。しかし中にごく少数、ほんとに過激な奴らがいて、それが当時の『会議』の生ぬるい方針に愛想を尽かして、新しい『会議』を一から作り上げて分裂開催しようと騒ぎ出したんだな。おれは当時そんなに過激ではなかったんだが、なんとなく成り行きでそっちの動きに加担しちゃうことになった。その『全国高校生会議』創立メンバーは、東京に3人、あとは広島に1人と、福岡のおれの計5人。これで翌89年3月までの、事実上4、5ケ月で全国集会をやろうってんだから、まあ無茶だよな。ところが、おれたちはこれをやりきったんだよ。広島の同志とおれの2人で、全国行脚して仲間を発掘しようってことになって、そいつは高校生だったから、この88年暮れの冬休みに、それをやった。主に各地の反管理教育や反原発の運動に連絡をとって、高校生でそれに参加してる奴がいれば実際に訪ねていくって形」
 ほんとに幕末の志士活動みたいですね。
 「この時にヒッチハイクって移動手段を開発したんだよ。試しにやってみたらうまくいったんで、これ以後この『全国高校生会議』系の同志たちは、互いに盛んにヒッチで行き来するようになる。これでカネもなくそれぞれ地元では変わり者の少数派である10代の活動家たちが結びつく全国的なネットワークが形成されていく。結局、翌89年3月に東京でやった『全国高校生会議』という3泊4日の合宿には、沖縄から北海道まで、ほんとに全国各地から80余名の活動家高校生を結集した。携帯電話もインターネットもない時代に、我ながらよくやったもんだよ」
 退学にいたる手記の話はどうなったんですか?
 「これは89年1月だから、『会議』より少し前だね。『ぼくの高校退学宣言』と題して徳間書店から刊行された。幸か不幸か福岡でだけベストセラーになったから、地元の中高生が大勢連絡を寄越してきた。2月に印税で福岡市南区の高宮駅近くに1DKのアパートを借りて、そこをDPクラブの『事務所兼たまり場』とした。当時、そうやってアパートなんかを借りて、誰でも出入り自由ってやる『フリースペース運動』っていうのが全国の若い活動家の間で流行ってたから、おれもそれをマネしたんだな」
 外山さんがマルクス主義者になったのもたしか……。
 「この頃だね。やっぱりこの年の2月か3月か。つっても『フォー・ビギナーズ マルクス』っていう入門書を一冊読んだだけなんだけど。体系的な思想ってのに出会ったのはそれが初めてなわけだから、ものすごく興奮して、一晩で頑固なマルキストになったよ。それでも、今ふりかえっても、その一冊だけ読んだ時点でのおれのマルクス主義理解は、伝統的・古典的なものとしては大枠で間違ってなかったから、まあ天才ってすごいよな」
 はいはい。DPクラブの活動としてはこの時期どのような?
 「主に高校前での盛んなビラまきだね。変わったところでは、高校生メンバーからの『タレコミ』で、体育館や運動場で風紀検査のある当日に、浪人生や大学生のメンバーでハンドマイク持って駆けつけて、フェンスの外から妨害するって活動を2回ぐらいやったと思う」
 それは楽しそうですね。
 「でもなあ……。本を出して活動拠点も借りて、人数も急に増えたから、最初は何かすごいことがやれそうだとワクワクしたんだけど、夏ごろにはもうウンザリしてたな」
 というと?
 「20人くらいの中高生たちが、ただ毎日のようにアパートへきてダベってるだけで、何にもやらない。ビラまきなんかも、おれと他2、3人の大学生や浪人生のメンバーに集中してたし、通ってる学校の中で何かやるっていう本来の活動も、アパートに来てる奴らは一切やらないんだよ。むしろたまにしか来られないような、筑豊とか壱岐に住んでるメンバーの方が、実際に自分の高校で闘ってた。アパートの存在が、要するにガス抜き装置として機能してたんだな」
 それで外山さんの怒り爆発と。
 「うん。でもそうすると、逆ギレしてみんな出て行っちゃって、これが89年10月のDPクラブ分裂事件。もちろんさっき言った筑豊や壱岐のメンバーなんかは残ったけど、もともとアパートに頻繁に出入りしてた中からはやっぱり2、3人しか残らなかったな。本も夏には品切れで入手困難になってたから、新しい読者が連絡とってくるわけでもないし、一気に淋しい感じになった」
 その局面を打開せんと……。
 「90年4月、19歳にしておれが、新1年生として高校に再入学するという、これまた無茶なアクロバットをやる。久留米市立南筑高校ってとこ。学内で盛んに活動して、DPクラブの機関誌にペンネームで報告したりして。アパートに出入りしてる奴はともかく、他県で機関誌購読してるだけのメンバーには、それが実は外山恒一であることは分からない。そんなんでまあ、頑張ってる高校生がいるぞと、気合を入れてもらおうと思って」
 覆面高校生。本書収録の89年の語録には、その時の文章もありますね。
 「うん。しかしやっぱ19歳で高校1年生でしかも活動家ってなると、大学で過激派の拠点守ってるオヤジの比ではないぐらい浮くからね。1年ももたずにまた中退。それでも2年近く学校の外でそれなりの修行をして、改めて生徒として学校に通ってみると、現役の時には気づかなかったことがいろいろ見えてきて、結果的にはものすごくプラスになったけどね」
 他にこの頃の活動としては……。
 「2冊目の本『ハイスクール<不良品>宣言』ってのが駒草出版という東京の小さなとこから出たのが90年の6月か7月だな。89年2月から90年3月あたりまでに、DPクラブの機関誌に書いた文章をまとめたもので、初期の活動レポートから、分裂事件の詳細な推移なんかが載ってる。最初は『ふざけるな! 中高生』ってタイトルになる予定だったんだけど、駒草出版から『ふざけるな! 校則』って本を出してたはやしたけしからクレームがついて、こういうトンチンカンなタイトルになった。だからってわけじゃないけど、この本は売れなかったな」
 装丁もダサダサですしね。
 「トンデモ本の類だな。それからこの時期の重要な活動として、『街頭ライブ』。89年8月下旬だから、DPクラブ分裂事件より前だ。当時は『久々に元気な若者が現れた』ってことで、後に対立する福岡の左翼市民運動のオジサンオバサン連中にもチヤホヤされてたから、大きな集会なんかやる時にはよく声がかかってたんだね。それであるイベントの宣伝で、天神でビラまきをやる時に、せっかくだから目立つように横でギター弾いて何か歌でもやってくれと頼まれて」
 ギターはいつから?
 「ええと、筑紫丘高校時代からだな。クラシック・ギター部に入って、でも入部が10月で冬休み明けには無期停学になったから、実質3ケ月しか在籍してないんだけど、退学した後もフォークギターとエレキギターを手に入れて、細々と練習はしてた。そんで、『ブルーハーツしかできませんよ』って言ったら、それでもいいって言うから、すごく恥ずかしかったけど、これも運動のためだと思ってガマンしてやったの。当時まだストリート・ミュージシャンみたいなものは一人もいなかったから、珍しいし、しかもブルーハーツだから。当時ブルーハーツ聴いてるのは、やっぱり感覚的に近い、熱くて青臭くて、ちょっと社会派も入ってるようなタイプの奴が多いから、それっぽいのが次々に立ち止まって聴いていくわけ。これは仲間集めに使えるってんで、そもそものイベント宣伝期間が終わってからも、DPクラブのメンバー数名で時々やるようになる」
 それが今に至る福岡路上文化の始まりであると。
 「そう。しかし『街頭ライブ』って名称はどこからきたんだっけなあ。まるで一般名詞であるかのようにいつのまにか使ってた。当時はもちろん『ストリート・ミュージシャン』なんて言葉は流通していなかったし、『ストリート』どころか『路上』って言葉もなんかこっ恥ずかしくて使う気になれなかったけど。たぶん『街頭演説』からの連想だな。音楽活動というより、仲間集めの政治活動だったし、実際『街頭演説』に近い意識で歌ってたんだと思う」
 さて90年夏以降、DPクラブの活動は一気に先鋭化します。外山さんは20歳。
 「なんといっても、7月に神戸で起きた校門圧死事件だね。おれの活動史上の最重要の転換点だ」
 もう分からない人の方が多いと思うので説明しときます。神戸の高校で、女生徒が遅刻ギリギリに駆け込もうとしたんですが、校門指導で立ってた教師が、始業のチャイムと同時に勢いよく鉄の門扉を閉めちゃって、それに頭を挟まれて死亡したという事件です。全国の反管理教育運動が、これを管理教育批判の攻撃材料に使う中、外山さんたちはなんと現場へ生徒を罵倒するビラを配りに行った。
 「テレビのニュースで、生徒たちがモザイクごしに、聞いたふうな学校批判、教師批判をするのが許せなくてね。本当にそう思ってんなら学校を変える運動をやれよと。普段からやっておかないから学校側が調子に乗って、こんな事件を起こすんだよ。それがいざ事件が起きて、テレビが自分たちの意見を聞いてくれるとなると、ここぞとばかりに学校批判。なんかDPクラブにガス抜きに来てた醜悪な中高生メンバーと二重映しになってね、それで罵倒ビラをまきに行った」
 そこから外山さんの学校批判が、<教師?生徒の共犯関係>を告発する運動に変化していくんですね。
 「なんか突破口が開けた感じがした。と同時に、既成の反管理教育運動の連中との衝突も始まるんだけどね」
 既成の運動では、生徒はあくまで被害者で、生徒批判はタブーになってた、と。
 「さらに『子どもの権利条約』批准促進キャンペーンが、この頃、学校問題やってる市民運動の世界を席巻しててね。それに対する批判と、まあ総合する形で、既成の運動にかみついたんだね」
 この時期の運動を担ってるのは、福岡のDPクラブというより、『全国高校生会議』系の仲間たちですよね。
 「そうだね。DPクラブは分裂以来、全然仲間は増えてなかったし、残った少数のメンバーが一気に先鋭化していくだけで。そのDPクラブ残党を一構成要素とする形で、高校生会議系の全国ネットワークが反管理教育運動の最左派として暴走する。どこかで<守旧派>の集会があると聞きつけると、全国から10名前後の高校生会議系の一党がヒッチハイクで集結して、盛んに論争を挑んで予定調和の集会を大混乱に陥れるという、そういう運動。とんでもない機動力だったな」
 この時期の活動は、『校門を閉めたのは教師か?』って本にまとめられています。これも駒草出版からで、はやしたけしとの共著ということになっていますが。
 「たしか90年11月頃に出たんだな。反管理教育運動の<守旧派>の一人であるはやしと、おれとの論争的な往復書簡が第一章で、第二章以降、おれとはやしが、それぞれの立場で校門圧死事件を論じてる。今言ったような活動のレポートも含めてね。外山恒一史上、最も地味な本であると同時に、最も重要な本であると、おれは思ってる」
 東京の<秋の嵐>なんかと結びつくのもこの時期ですよね。
 「うん。<秋の嵐>は、87年に結成された反天皇制の若者グループで、首都圏の学生運動の異端部分と、左翼パンクバンドのメンバーで構成されていた。原宿ホコ天が主要な活動舞台で、89年から90年にかけて逮捕者を何人も出して、一部には<最後の過激派>なんて言われてるね。お互い、既成の市民運動と合わなくて、<秋の嵐>の中にも既成の運動を激しく批判してるメンバーが何人もいたから、意気投合したんだよ。年齢的には向こうが高校生会議系よりちょっと上だけど」
 そういう新しい「同志」も登場して、90年いっぱい盛り上がると。
 「それが91年に入るあたりから失速する。とにかくあちこち敵に回し過ぎて身動きとれなくなったし、あんまり突出しちゃったもんで一から新しいメンバーを獲得するのも難しくて。しかもこういう運動の常で、行き詰まると内部での相互批判がだんだん陰惨な雰囲気を帯びてくるし、気分的には同志殺害事件の連合赤軍なんかとまったく一緒なんだよ。そこへちょうど湾岸戦争が始まって、それまでの<秋の嵐>やおれたち高校生会議系みたいな、八方破れで過激なノリとは似ても似つかない、凡庸で退屈な大学生の反戦運動みたいなのが幅をきかせ始めたりして、若者の政治運動シーンが一気にすごくつまらなくなった」
 結局DPクラブは91年5月に解散ですね。
 「高校生会議も、91年3月の第3回で終わり。<秋の嵐>も、だいたい同じ頃に事実上解体してるね」
 そして外山さんは、マルクス主義者もやめてしまいます。
 「笠井潔の『ユートピアの冒険』って本を読んで、転向。この後2年ぐらいかけて、この人の主著である『テロルの現象学』をなんとか理解できるまで何度も読み返して、以後10年ほど、笠井潔の革命理論が、おれの活動を支えてきた」
 91年5月のDPクラブ解散から、外山さんの活動はまったく違う局面に入るわけですね。
 「要は80年代後半から90年にかけてってのは、高揚期だったんだよ。青臭くて熱いハネッカエリの10代が、全国各地に大量発生して、おれなんかもその一人として出発した。みんなブルーハーツを聴きながら、感性知性のおもむくままに行動してた。<秋の嵐>や高校生会議の一派はその中の最も先鋭的で突出した部分にすぎなくて、その基盤になる時代の熱みたいなものは確かにあった。それが91年に入ったあたりで、サーッと波が引くように消えていく。高揚期に大衆の一人として運動の世界に飛び込んで、後退期に大衆が運動の現場から姿を消してなお、そこにとどまり続けようとする意志を持つ者が革命家となるってなフレーズが笠井潔の本の中にあるんだけど、その意味ではおれはこの時、革命家として生きることを決意したんだな」
 DPクラブを解散してからしばらくは、何をしてたんですか?
 「なんにもやる気が起きなくて、そもそも何をやっていいのかも分からなかったし、これまでやってきたことは一体何だったのかと、呆然としてた」
 生活はどうしてたんですか?
 「90年の半ばくらいから、完全に例の<街頭ライブ>で食うようになってたからね。初めのうちこそ、仲間集めのためとか思ってたけど、カネ入るようになって堕落した。ブルーハーツとRCサクセションばかりやってたのが、カネが入るからってビートルズなんかやり始めてね。おれ外国語はまったくダメだから、歌詞の意味も分かんないくせに。まあまだ長渕には手を出さないという程度の<分別>はあったけど。場所も、夕方の西鉄福岡駅前から、夜の親不孝通りに変えたし、それはもう露骨にカネ目当ての街頭ライブに変質しちゃってるってことだ。もっとも当時は他に街頭でギター弾いてる奴なんかいなかったから、いわば独占市場で、金・土の夜に3時間ぐらいずつやるだけで、計5万円くらいにはなってたからね。活動に消えるカネもなくなったし、まあ裕福な暮らしだったよ。何しろ週末の夜しか労働してないんだから、あとはアパートでひたすらレンタルビデオ観たり、本読んだり、音楽聴いたり……」
 優雅だなあ。
 「精神的には辛い時期だったんだけどね。でもおかげで、文化・芸術の素養が多少ついたのはよかった。それまではそっち方面、からっきしダメで、映画とかもほとんど観てないような人間だったから」
 たしか『注目すべき人物』の執筆は、この時期じゃないですか?
 「ああ、そうだ。高校時代から、DPクラブ解散までの、おれの全活動史を三人称で総括するって本。実際に刊行されるのはだいぶ後なんだけど、執筆は91年9月だね。書き上げて、東京の出版社をあちこち回ったんだけど、どこも出版を引き受けてくれなくて、頭に来て『インディーズ版』とか言って、百何十ページのミニコミにしちゃうのが92年の2月。そのミニコミ版をまたいくつかの出版社に送って、ようやくジャパンマシニスト社ってとこが引き受けてくれる」
 またマニアックな版元ですね。
 「全国高校生会議の初代実行委員長だった笘米地真理ってのがここから先に『熱烈的日本少年』っていう彼の熱い高校生活の手記を出してたんで、それで持ち込んでみたらOKが出た。そもそもは反管理教育運動<守旧派>のボス・保坂展人周辺の出版社なんだけどね。結局、出たのは92年の秋」
 外山さんが『週刊SPA!』に初めて登場するのが91年の12月です。
 「91年1月に、まだDPクラブ最盛期の高揚の中で書いた文章が、3月に『別冊宝島』に載って、それをコラムニストの中森明夫がたまたま目にして、コイツはすげえってことになった。まあ、確かにあれは歴史に残る傑作だったからな。そんで92年の年頭だか春だかから、『SPA!』で<中森文化新聞>って連載を始めるから、ぜひ寄稿してくれってことで、そのプレ企画みたいなページに登場したのが最初」
 <サブカルの未来の主役たち>の一人として取り上げられてます。
 「何も言うことはないな」
 街頭ライブがムーブメント化するのはいつ頃からですか?
 「それもこの91年12月くらいからだと思う。その前段階として、91年春から夏にかけて、DPクラブが一番過激だった頃にそのシンパみたいな存在だった福岡教育大学の自治会のメンバー数名が、毎週親不孝通りにギター持参でやってきて、一緒に騒いでた時期があるんだけど、その連中が就職とかで消えて、いったんまた淋しくなる。それからまた、おれと、DPクラブの元メンバー2、3人で細々と続けるうちに、年末あたりから急に常連客みたいな取り巻きの若者が増え始めた。これが、そのうち自分でやりたいと、独立するみたいな形で親不孝通り周辺のあちこちに散り始めるのが、92年の5月とか6月とか……」
 福岡路上文化史の忘れられた草創期ですね。
 「ちゃんと記録は残してあるんだけどね。おれの書いたものなんか誰も読みゃしないから」
 まあそうイジケないで。
 「イジケてんじゃなくて怒ってんだよ」
 そういえば確か『カルピス』っていうミニコミが……。
 「あれもこの頃か。記録によれば92年6月に出てる。おれの<思想的オナニーの産物>ってことで『カルピス』なんだけど」
 反学校、反教育、反民主主義、反・反差別、反フェミニズム、反ヒューマニズム、反大衆……なんて掲げてますけど。
 「考えてみればあれが現在に至るおれの<反共左翼>運動の開始宣言だな。もっとも『カルピス』自体は1号しか出なかったが」
 前後しますが外山さんの第5著書である『さよなら、ブルーハーツ』の記述は92年4月25日から始まっています。
 「ちなみに第4著書はさっき話に出た『注目すべき人物』ね。『さよなら、ブルーハーツ』は編集者がつけたタイトルで、中身とはあんまり関係がない。福岡の街頭ライブの日々を綴った、まあ日記文学」
 ブンガクですか。
 「いちいちうるさいなあ。どさくさにまぎれさせてよ」
 92年4月25日というのは、尾崎豊が亡くなった日ですね。
 「もともとそんな大ファンってわけでもなかったんだけど、人間20代半ばにして死んじゃうこともあるんだなあって、まあ当たり前なんだけど、つい衝撃を受けてしまって、それで20代を偉大なパンクスとして駆け抜けようと決意。その疾走の様子を日記につけとこって思って、それがたまたま街頭ライブのムーブメントとしての最盛期に重なったもんで、結果としてとんでもないハイテンションの日記文学の成立となるわけだ」
 ブンガクですか。
 「文学なのだ」
 92年4月25日から始まる『さよなら、ブルーハーツ』の記述は、22歳の誕生日を挟んで、同年8月2日で終わっています。
 「激動の3ケ月だったな」
 しょーもないことですが、初めて酒を覚えたのもこの頃だとか。
 「いまどき立派な青年だろ? 初酒が92年の7月で21歳、初タバコが翌93年5月で22歳。ちなみに童貞を失ったのも90年の10月10日体育の日だから、20歳になってたな。人間やっぱオクテの方が、一皮むけてからの暴走にも凄みが出るんだよ、わはは」
 その<激動の3ケ月>のクライマックスが、8月2日の<ブルーハーツ・コンサート粉砕闘争>というわけですが……。
 「説明するのメンドくさいな」
 では外山さん自作の<自己紹介ビラ>から引用します。えーと……「親子でROCK」などというふざけたタイトルで、「ふだん学校で苦しんでいる子供たちをブルーハーツの歌で元気づけてあげよう」などというタワケた主旨のブルーハーツ・コンサートを福岡の左翼市民運動家たちが主催した。ブルーハーツの熱烈な支持者でもあった外山は激怒し、当日本番中、会場の福岡サンパレス3階席から3千枚の抗議ビラを散布、警備員と乱闘になる。全共闘くずれの主催者は、「20年前なら半殺しだぞ」と。市民運動ムラとの対立を不可逆的に決定づけた92年夏の事件……。
 「まあそういうこと。でもこれはやっぱり『さよなら、ブルーハーツ』を読む方がよく伝わるよ。品切れだから古本屋か図書館で探すしかないけど」
 その『さよなら、ブルーハーツ』が宝島社から出たのが93年4月です。その前に第四著書の『注目すべき人物』がジャパンマシニスト社から92年11月に出ていて、さらに言えば92年夏から例の『週刊SPA!』の<中森文化新聞>に連続登場し始めます。それを機に他の雑誌にも外山さんを取り上げる記事が多く出たし、宝島社の音楽雑誌『バンドやろうぜ』での連載も93年2月から始まって、22歳の外山さんというのは、とにかく活字メディアに出まくってた印象があります。
 「短い春だったな」
 振り返ってみて、どうですか?
 「その当時から現在に至るまで、よく他人から、中森明夫にテキトーに遊ばれて、結局使い捨てられたなんて言われるんだけど、おれ自身にはあまりそういう感覚はないんだよ。この時点で出てた5冊の著作はすべて中森氏とは関係なく自分で原稿持ち込んで出版に至ったものだし、そもそも中森氏に<発掘>される以前からおれは充分活躍してたつもりだし。でも<中森文化新聞>で初めて外山恒一を知ったなんていうアンテナの鈍い人たちからすれば、そんな印象になるのも仕方ないが」
 そもそも外山さんのこれまで一番売れた本ってのは、デビュー作の『ぼくの高校退学宣言』ですしね。
 「ただまあ、時期は悪かったかな。おれの活動の第一のピークはこれまで話したように90年の夏から暮れにかけてで、91年から突然停滞期に入るわけだよね。この停滞の中でもがき苦しんでる状況自体を逆手にとって、売り上げはともかく作品の水準として大成功させたのが『さよなら、ブルーハーツ』なんだけど、中森氏のプレゼンテーションはそのへんを踏まえた上でのものではなかったからね。停滞は93年秋ぐらいまで続くんだけど、中森効果で雑誌メディアに盛んに取り上げられた時期ってのはちょうどこの停滞期にすっぽり収まってしまう。中森氏による<発掘>がもう2年早いか、あるいは遅いかしていたら、だいぶ結果は違ったと思うけど」
 活動的に最も盛り下がっている時期が、最もメディアで取り上げられた時期であるというのが、外山恒一の悲劇である、と。
 「そうなんだよなあ。もっとも一つだけ大失敗があって、それは第四著書『注目すべき人物』を、ハードカバーで出したこと。なんか重々しい本にしようとか編集者と悪ノリしちゃって、3千円の本になってしまった」
 そんな高い本、誰も買いませんよねえ。
 「初期外山恒一の入門書としては今だに最適の本なんだけどね。せっかくあちこちで取り上げられてたんだから、素直に千五百円ぐらいの本として出してれば、少なくともその後ライターの仕事に困らない程度には売れてたと思う」
 やっぱ未練が……。
 「いや、結果的には良かったんだよ、あの時点でメジャーになりきれなくて。その後の長い不遇の時代がなければ、獄中での<回心>もなかったはずだから」
 なんか負け惜しみのようにも聞こえますが、ちなみに何ですかその獄中での<回心>というのは。
 「それはまあこれからのお楽しみということで」
 他に22歳の時のことで触れておくべきことは何かありますか?
 「いくつかある。まず東京の三鷹にアパートを借りて、福岡との往復生活を始めたのが92年の秋。もっともたいていは福岡にいることの方が多かったけど。それから<全国高校生会議>時代の同志である渡辺洋一と、<革命的オレ様戦線>ってのを提唱する」
 後の矢部史郎ですね。
 「今では完全な敵対関係にあるけどな。こいつと92年の暮れ頃だったか、三鷹のアパートでダベってる時の思いつきを文章化しただけで、実際にそういうグループが結成されたわけではないし、ほとんどギャグのようなものでしかなかったんだが、今に至るニーチェ的左翼運動の模索の出発点ではある。それからこれはあんまり話したくないことなんだが、93年5月にとある女性に恋をしてな」
 ほほう。
 「以来10年間ずーっとその女性に片想いを続けてたんだよ」
 93年から10年といえば昨年じゃないですか。
 「まあな。その間、他の女には手を出しまくってるんだけど、それはほとんどその女性に受け入れてもらえないがための代償行為でしかなくて。あり得ない想定ではあるが、その女性がもしおれに『死ね』と言えば、それがどんな理由であれおれは喜んで死ぬことができたと思うよ」
 なんかこの本にふさわしくないヘビーな話ですね。
 「何が言いたいかというと、おれはこの93年5月を境に、宗教的な人間になったということだな。宗教というのが何なのか、実感として理解できるようになった。あちこちでおれのバイブルだと言ってる笠井潔の『テロルの現象学』をおれが本当に理解できたのも、これ以後のこと」
 黙って聞いてよーっと。
 「それがちょうど10年を経た二〇〇三年5月に、獄中で<回心>が訪れて、その女性を想い続けることも、それから笠井潔主義も、全部放棄しちゃうんだ」
 え!? それも<回心>とやらと関係があるんですか。ますます気になるなあ。
 「だからそれはこれからのお楽しみだって」
 93年8月にやった<退屈お手上げ会議>について説明してください。
 「あれはあんまり思い出したくないんだよなあ」
 それほど重要な活動ではないんですか?
 「いや、めちゃくちゃ重要だよ。なにしろ91年以来の停滞期を終わらせたイベントだから」
 それじゃあ<退屈お手上げ会議>開催に至る経緯をざっと聞かせてください。
 「何度も言うように、我々の運動は91年以来ずっと停滞してたわけ。それで、当然焦りが生じる」
 その我々ってのは、かつて<全国高校生会議>をやった同志たちですか?
 「それももちろん含まれるし、あと<秋の嵐>の連中とかね。みんな自分たちが長い停滞の中にいるって自覚が深まってきて、なんとかこれを突破したいと。そこへおれが、さっき話したように92年秋、東京三鷹にアパートを借りて、ちょくちょく上京するようになるわけだな。おれは常に自宅をたまり場みたいにしちゃう習慣があるから、その三鷹のアパートにも、時折かつての同志たちが集まって酒盛りが始まる。そうこうするうち、とくに旧高校生会議系の同志たちとの間に、またああいうことをやれないかって話が何度も出てくるようになった。たった5人から始まった高校生会議が、短期間に80余名を結集させて、それが90年の高揚の基盤となるネットワークに発展したんだから、またアレをやれば、次なる高揚を生み出せるんじゃないかと期待したんだね」
 そうはならなかったわけですか?
 「高校生会議の時ってのは、時代の追い風があるんだよ。80年代後半は、青臭くて熱い社会派の若者が大量にいて、単にそれがまだきちんとネットワークされていないってだけだったから、やろうと思えばすぐ高校生会議みたいなことがやれた。ところが90年代前半はそうじゃないからね。結果的には百人以上を集めて東大駒場で3泊4日の合宿をやったんだけど、大半は『SPA!』や『バンドやろうぜ』でのおれの呼びかけで集まってきた受動的な参加者でしかなくて、高校生会議の時みたいに、もともと各地で何かやってる奴らが集まったわけではないんだよ。それでもう、こんなはずではなかったって、おれを含めて呼びかけた側の人間は、当日は完全にダウンしちゃってて、もうなんかぐちゃぐちゃだったな」
 それじゃあやっぱり、失敗だったと。
 「ところがそういうわけでもない。レベルはともかく、少なくとも<何かやりたい>って10代20代が百人以上集まって合宿するんだよ。そりゃ、妙な熱気は生まれるわな。期間中に具体的な何かが生まれたわけじゃないんだけど、参加者の多くが、<何かやらねば>という気持ちをやる前より強くして、しかも同じ思いを持った同世代のネットワークもそこでできるわけだろ? 例えばサッカーチームを作ろうなんて言い出す奴がいて、おれなんか何つまんねえこと言ってやがると思ってたけど、それが後に知る人ぞ知るサッカー界の異端的圧力団体に発展したりするの。あるいは<退屈お手上げ会議>から生まれた矢部史郎・山の手緑のユニットが銭湯料金値上げ反対運動なんて妙なことを始めて、この二人は今じゃ『現代思想』誌の常連だ。他にも例えば宝島社の『音楽誌が書かないJポップ批評』シリーズの常連である<線引き屋>とかいうライター集団も、元を辿ればやっぱりこの<退屈お手上げ会議>がきっかけになってる。そういうわけで<退屈お手上げ会議>ってのは、おれの中でも失敗だったのか成功だったのか、今に至るも釈然としない出来事なんだよ」
 外山さん自身は、<退屈お手上げ会議>から何も得られなかったんですか?
 「そんなことはなくて、福岡で<反共左翼革命結社・日本破壊党>を結成したのは、やっぱりこの<退屈お手上げ会議>の直後に、その参加者となんだから」
 あ、そうか。ちなみに何人ぐらいでやってたんですか?
 「破壊党は4人。おれを含めてうち3人が<退屈お手上げ会議>の参加者。もっとも破壊党ってのはおれのワンマン・グループで、しかもこれはありがちでかつ良くないことなんだけど、残りの1人は当時のおれの彼女なのね。そういう構図だから、おれが彼女と別れてふさぎこんだような状態になると、あっというまに活動の音頭とる奴がいなくなって、グループ自体が自然消滅しちゃうの」
 でも破壊党はそれなりに盛り上がったみたいですね。
 「93年10月に結成して、実質94年7月までかな。短い活動期間に、<寺山修司展粉砕闘争>や<公安調査局事件>を始めいくつかのヘンテコな闘争をやってる」
 その二つの闘争に関係する文章は、本文の<語録>の中にもありますが、一応、おおまかに説明しといてもらえますか。
 「<寺山修司展粉砕闘争>ってのは、デパートの中にあるギャラリーで開かれたイベントで、単に仲間募集のビラを無断で配ってて、主催者とモメたという93年11月の事件。<公安調査局事件>は、後にオウムで脚光を浴びる公安調査庁の九州支局が、日本破壊党の活動について内密に調査してることの証拠になるような文書を、うっかりおれのアパートの前に落っことしていっちゃったという94年7月のマヌケな事件」
 寺山修司展の方はともかく、公安調査局の事件の方は、もっと知られてもいい事件だという気もしますが。
 「福岡の『読売新聞』だけが両方ともちゃんと報道したけどな。ちなみにこういう、活動が軌道に乗ってる時には<中森文化新聞>からは一切お呼びがかからないんだから困ったもんだよ。よく考えたら、この前後で<中森文化新聞>に出たのは、さっきの<退屈お手上げ会議>のレポートと、破壊党が短期間に崩壊してまたヤケになって路上で<セックスフレンド募集>ビラをまくという奇行を演じた時だけだから、もうわざとじゃないのかというぐらい外山恒一に関して重要なことだけは報じていなかったのが<中森文化新聞>だな」
 やっぱり中森さんのこと恨んでます?
 「いや全然。恨んでない、つもり、だったんだけどなあ……」
 94年夏に日本破壊党を解散して、その後はどうなります?
 「正式には解散したわけじゃないよ。自然消滅寸前の状態になったというだけ。おれが失恋の痛手から立ち直るのに3ケ月ぐらいかかって、というより立ち直るために94年11月か12月に、それまでの恋愛経験をすべて赤裸々に綴ってみるという、まあ自己切開の作業を始める」
 『恋と革命に生きるのさ』というやつですね。恥ずかしいタイトルだな。
 「おれは恥ずかしくないけどね。結局未完なんだけど、三百枚書いてまだ18歳、童貞のままという大河私小説になっちゃって、たぶんあの文体で続けてたら、当時24歳時点まで書き進めても軽く千枚は超えてただろう」
 どうして中断しちゃったんですか?
 「福岡の某出版社で、福岡の街頭ライブ史を綴った本を出すことになって、そっちを先に完成させなきゃならなくなったんだよ」
 それが『アスファルトばかりじゃない』……。
 「そう。これは何というかなあ……要するに外山恒一の80年代後半の活動史を総括したのが第四著書の『注目すべき人物』だよね。『アスファルトばかりじゃない』はその90年代前半版と位置づけられる。もっとも90年代前半のおれの活動は大きく2つあって、そのひとつである街頭ライブ運動の方に焦点を当てたものだから、完全なものとは言えないけどね」
 90年代前半の外山さんのもう一つの活動というのは?
 「『カルピス』の発行、『注目すべき人物』や『さよなら、ブルーハーツ』の著作活動、退屈お手上げ会議、日本破壊党……といったラインの政治的な運動。おれの90年代前半というのは、街頭ライブ周辺の文化運動と、今挙げたような政治運動とを、相互に有機的な関連を作り出せないまま力づくで推し進めていた感じだな」
 ところでその『アスファルトばかりじゃない』の出版の話は結局ポシャったわけですね、現に出てないってことは。
 「そう。もちろん『恋と革命に生きるのさ』も出てないし、さらにやっぱりこの時期にパンフレット的な単行本を想定して書いた『いじめられたらチャンス』も出てない。わずか2ケ月の間に八百枚ほど書き狂ったんだが、どれも出てない。この頃からだな、何を書いてもどこも出してくれないという状況が始まったのは」
 そんな状況で迎えた95年。大変な年です。
 「地震とオウムの年だな。95年を境に、この国は完全に変わってしまった。そしてそのことに気づいているのは、はっきり言っておれ一人だ」
 いや、そういうこと書いてる人はいっぱいいますよ。
 「変わったということに気づいている人はいっぱいいる。しかしその意味を分かっている人間はおれ以外にいない」
 ほー。偉そうですね。
 「もっともおれも今回獄中で考えに考えてやっと分かったんだが。その中身については、近日中にざっとまとめるから、巻末に収録しときなさい」

(未完)