対談 西部邁vs外山恒一 60年安保の闘士vs90年安保の革命児

『週刊SPA!』1993年3月3日号に掲載


西部 外山さんの自伝『注目すべき人物』(ジャパンマシニスト)、読ませていただきました。読んでいて、とつおいつ思い出しながら、なんか、これは僕のような人だなあ(笑)と。押し売りする気はないんだけど、たとえば、あなたは思春期の頃から個人で生きてらした感じが歴然としてある。実は本当は自分のこと言うのはいやなんだけど、齢に免じて勘弁してもらえば、僕は60年安保やったせいで世間から組織的に運動やったというふうにみなされている。しかし、それは僕個人の意識から言うとまったく個人行動だったという感じがあるんです。人から誘われて入ったわけでもないし、僕の場合、「俺、やりたい」と言って始めて、「俺、やめたい」と言ってパッと終わった。それっきり。そういう体質だったんですね。
 もう一つは、紋切り型の表現だけども、偽善的というのかな、欺瞞的なものについては、やりきれない、体ごと抵抗せずんば止まないという感じがある。あなたの場合、いわば偏差値教育的なそれに抵抗する。ところが、抵抗したあげく、実は偏差値教育・管理教育に対してヒューマニズムの復権みたいなことを言ってるような人たちのほうが、はるかに隠微な形での抑圧体制を敷いていて、その偽善と欺瞞の化けの皮をはがずんばやまないという感じになりましたでしょう。僕もまたそういう体質だったんですね。ただ、僕のほうが、ま、時代も人間も平凡だったのかね、本当は僕も自分に対して「注目すべき人物!」と言いたかったのだけれど(笑)

外山 僕が住んでいた九州で『朝まで生テレビ』がネットされるのが遅かったせいもあって、僕が初めて西部さんを見たのは89年夏の「どこへゆく社会主義」という回でした。僕はその直前に「フォー・ビギナーズ」という現代書館刊の社会問題概説シリーズの『マルクス』『毛沢東』ってのを読んで、俄然、マルクス主義に目覚めたところだったんです(笑)。で、『朝ナマ』を見ると、西部さんは反・社会主義の側に並んでて、発言をきくたびに、この人はなんてヒドイことばかり言うのかとすごく反発してたんです(笑)。80年代後半というのはちょうど反原発やらエコロジーやらさまざまな社会問題を語ることがブームのようになっていた時期で、僕自身もそうしたいわばメネオ社会派モの言動にかなり影響される形で社会変革の活動を始めたという面があった。しかししばらくさまざまに活動を続けていく中で、周囲のネオ社会派たちのあまりの底の浅さが見えてきてしまったんです。昨年『朝ナマ』でエコロジー問題の回に、合成洗剤を問題にして石鹸作りに燃えている市民運動家が会場で発言したのを見て、テレビの前で横の友人に「社会問題なんてのはもっと全体的・相互関連的なものなのに、なぜ石鹸がすべての問題の中心であるかのように熱中できるのだろう」と疑念を口にしたら、いきなり西部さんがテレビの中で同じこと言いだして、アレッ(笑)と思って以来今まで何度も同様の場面があって、僕もついに「反動化」したのか(笑)と。

西部 外山的言い方をすれば、我々はやっぱり聡明なんですよ。むしろ、異様なのは石鹸主義者たちなんです(笑)。バカにしてるわけじゃないんですけど、それに熱中できるというのはどう考えても異常なんですね。個人の趣味事ではいいんですけど、公のテーゼとして石鹸を押し出してくるって、ほとんどクレージーですよ。

外山 ネオ社会派の中からその欺瞞性を突き破ってラジカル化した“90年安保”は、自ら「注目すべき」と言わざるをえないほど量的には少なかった。中森明夫さんが“80年安保”と呼んだ文化運動や、浅田彰現象やポストモダン・ブームなども、当時中学生になるかならないかだったぼくは知らなくて、10代後半を迎え自分の抱える不全感のようなものを自覚し始めた時、それに根拠を与えてくれる思想や表現は“80年安保”の影響ですべて相対化されているという状況だった。だから90年安保は最初、ネオ社会派的なものに吸収される形で出発するしかなかったんです。

西部 僕だってそうですよ。自分の中にすごく弱気があった。一時期、『赤旗』という共産党の機関紙に、しょっちゅう固有名詞入りで僕に対する罵詈讒謗……って言わないんだな、きわめて正しい批判が載った(笑)。それには理由があって、60年安保のときに東大の委員長をやったんだけど、ニセの選挙をやったのね、僕が。全部、投票用紙入れ替えてのゴマカシ選挙。その結果、ニセの委員長となって60年安保に突っ込んでいった。それからだいぶたってから、自分の齢もあるから、そろそろはっきり言わなきゃと思ってね、私はニセの委員長でしたと書いたんです。そしたら『赤旗』が、こんな東大教授は許すなと騒いで、それを読んで、まあ半分は正しいなと思ったんだけれどもね(笑)。あなたはどうですか、こんな言い方して悪いけど、自分はニセモノであるという感覚はありましたか。

外山 あります。左翼的な活動というのは常に暴動や反乱といった非日常的な状況を追求していくわけですが、さて自分がそんな極限状況に完全に耐えられるかというと、まったく自信がない。そういう意味でぼくは「ニセ左翼」です。しかしその耐えられないであろう暴動や反乱の現場とは、同時にものすごく魅力的なものだという気持ちも捨てられないわけで……。

西部 僕はうわべでは一応トロッキストとされちゃったんだけど、僕らの時代で言うとトロッキーたちが言った永久革命論というのがあった。毛沢東のようなこと言ってるんだけど、それを読んだとき、なんだ、俺、永久に革命やってなきゃいけないのか、そんなきついこと俺にはできないぜ、という感じがありましたね。

外山 90年秋の釜ヶ崎暴動に同年代の少年たちがバーッと駆けつけたというのも僕のいう90年安保の現象の一つです。あれを単に底辺労働者階級の暴動ととらえると少年たちが集まったというのは単なる一エピソードの類に堕してしまいますが。ぼくの友人も何人かあの場に駆けつけて、投石したり車に火をつけたりの非日常的暴動状況は大変な解放感だったと言います。が、同時に何かの拍子に自分が「警察のスパイ」だと誤解されてリンチされかねないという恐怖感があったと言うんです。90年安保は釜ヶ崎暴動を含めて数回の暴動を体験しているんですが、僕はそのすぐ周辺にいながらタイミングが悪くて一度もそういう現場の実感を経験してません。西部さんはぼくと違ってそんな種類の経験をされているでしょうが。

西部 60年安保なんて伝説化されてますけど、単に石投げただけなんです(笑)。公と私ってのは、あんまり切断できないけど、やっぱり別次元にある。自分の体験で言えば、左翼体験を公に考えていくと、あんなのは最低だという結論に達した。ところが確かに反乱とも言えない小規模のものだったけど、あれに参加することが僕にとって大人になるイニシエーションだったんですね。あれがなきゃ、俺、なんか変な人間のまま一生終わったんじゃないかなってね。だから、しょせんメ私モの話なんです。60年安保でも釜ヶ崎でもいい、そのエッセンスを私の物語としてくみ取ればそれでいいんじゃないかな。

外山 ただ、やっぱりその場に居合わせなかったというのがすごく後悔で。僕も行ってれば、そういうのはもう卒業だ、みたいに言えたんだろうけれども……。

西部 少なくない若者がそうおっしゃるんだけど、こういう事実があるんですよ。僕らもう50何歳ですよ。全共闘世代だって40歳代半ば。いい齢して、まあまあの社会的立場にいたりしながら、いざ私を語る段になったら、本当にある意味じゃ薄気味悪い、依然として60年安保でいえば旧左翼的な体質・気質を密かに持ち永らえていてね、それを酒場で発揮する。また大量にマスコミ入りした全共闘世代が、まさか全共闘のスローガンは言えない、繰り返せないんだけども、それを何倍にも水割りした上で、何かルサンチマンというようなものを活字の世界で出すということをやっている。妙な反乱めいたことに遭遇したおかげで、40代、50代になってバカになっちゃってるというのが、ごろごろいるわけです。それとくらべたら、これは決してリップ・サービスで言うんじゃないんだけども、今の若者たちに期待してるんですよ。それはスカスカの感じはあるかもしれない、不全感もあるでしょう、ただ、これから人生は長いですよ。それで、いい齢になって愚かしいということとくらべたら、若いときにある種の不全感を切実に持って、いつもそういう問いを自分に発せざるを得ないという今の若い世代のほうがずっと可能性がある。私は今の若者に対して断固としてエールを送りたいという気持ちがあるんです。ほんとなんです。それがまたどういうわけか、僕の人徳のないせいか、よく間違えられるんです(笑)。

外山 僕自身、いつも少数派です。同じ世代の中でもね。やっぱり民主主義って結局多数決ですから、民主主義の世の中では、少数派として文句タラタラ言いながら日常を生きていくしかないのかなと。西部さんも『朝ナマ』で見ているといつも苦しい立場に追い込まれているように見えます。数的に言えばね。たとえ「右」と「左」に分かれていても、その「右」の中で孤立しているような感じです。僕は舛添要一さんなんかには全然共感しないんですが。

西部 若い人から手紙が何通かきて、だいたい同じ内容なんだよね。西部さん、お願いだから舛添を殴ってくれと(笑)。

外山 僕の世代の不全感ってのはいろんな回路で表現されたと思います。早い時期には尾崎豊や渡辺美里の「がんばれロック」ですね。不全感を、ただガムシャラに「がんばる」ことで解消しようとした。80年代半ばにはネオ社会派の登場です。自身の不全感を社会正義の立場に立つことで解消しようと反原発やピースボートや校則批判に取り組んだ。あるいは9の字事件とか渋谷のチームとか、オウム真理教とかも、僕の世代の不全感解消の試みだったのではないかと思います。まだあまり知られていない動きですが、反天皇や反教育を掲げたいくつかのラジカルな若者グループの90年ごろの活躍を境に90年安保は終わりました。これはその「同志」からの受け売りなんですが、従来の反体制運動というのは常に敗戦直後の焼け野原や貧困のイメージを背後に持っていて、うかうかしているとまた戦争で焼け野原だぞと人々を脅迫してきたと思うんです。戦後何十年も経過して焼け野原のイメージが風化すると彼らは全面核戦争という究極の終末イメージまで持ち出した。しかし80年代始めの反核運動を最後に、その種の脅迫はもはや説得力を失っています。僕らのやった90年安保は、焼け野原イメージとはほど遠い豊かな消費社会が実現されてもなお、僕らは不全感を抱えているし、またそれを表現し得るということを証明したのだと思っています。

西部 原理的に考えて、不全感の源は何か? 焼け野原のイメージといったものを持ち出す戦後民主主義の言葉ね、それがすべてをローラーにかけちゃった、それで言葉が平板になったせいなんだと。したがって不全を完全燃焼に近づけるためには、何はともあれ言葉の復活しかないんだと。

外山 90年安保は少数派で、同世代と言葉を共有できてませんが。

西部 そこで、プライベートに聞くんだけども、外山さんは恋人はいらっしゃる?

外山 あ、はい。

西部 ぎりぎりの最後は、やっばり恋愛しかないんじゃないかな。必死で築いた一個の激しい恋愛は、一個の60年安保、70年安保に匹敵するぐらいのものなのだ、という覚悟でね。

外山 うーん、僕の場合、結構どろどろしてるんですよ(笑)。恋する相手が不幸なことに実はネオ社会派とか平板なフェミニストばっかりで……。

西部 僕は、この世に真のフェミニストなどいるはずがないと高をくくっているところがある。その端的な例が最近披瀝されたと思うんだけど、皇太子が「一生、全力で守ります」と言ったでしょう。あれに対して、女を守るとはなんだ、女を見下ろしてるじゃないか、という抗議がフェミニストから湧き起こったなんて話はついぞ聞こえてこない。案外、素朴に感動する、もしくは認めているんじゃないかな。昔は、ああいう聞かせ文句を男たちが使ったもんです。僕は、王政復古したらどうかと書いたんだけど(笑)、そんな言葉の中にも、男が女を守るんだ、これが男と女の基本的なルールなんだ、ということが示されていると思う。

外山 フェミニストは女は男よりも抑圧されているかのような言い方をするけれども、自分の恋愛経験を振り返ると相手の方が僕より抑圧されていたとはどーしても思えない(笑)。あんまり腹が立つんで、ひとつフェミニズム批判でも始めようか、と。いつも、何かムカムカしているんですよね。

<終>