長渕剛がその気になれば川内原発再稼働ぐらい簡単に阻止できる

15年3月執筆

 

 昨年の今頃、鹿児島の川内原発が、現在すべて停止している日本の原発の“再稼働第1弾”となるという報道があった。
 九州では(福島からも遠いし)あまり反原発運動は盛り上がってないし、このままではまんまと再稼働を許してしまうと思い、福岡の九州電力本社前で毎週抗議活動を続けている“反原発右派”の中心的活動家2名と急遽、再稼働を本当に阻止しうる方法はないのかと謀議した。
 その結果、「長渕剛のファンが起ち上がれば(少なくとも鹿児島での)原発再稼働は阻止できる」との結論に達した。

 まず前提として、長渕は反原発の立場を鮮明にしている。
 3・11以降、ライブのMCでも、雑誌のインタビューでも、「原発は許せねえ」と繰り返し語っている。それどころか、2012年の(現時点では最新の)アルバム『Stay Alive』に収録されている10分強の、したがってアルバムのメインと云ってよかろう曲「カモメ」は、ストレートな反原発のメッセージソングである。
 第二の前提として、長渕本人は反原発の立場を明らかにしているのに、そのファンたちはまだほとんど行動を起こしていない。
 他の地域と同様、残念ながら鹿児島でも反原発運動を主導しているのは左派・リベラル派である。だが典型的な“保守の地盤”である鹿児島で、左派・リベラル派を全員かき集めたって人口の1割にも満たない。そんな“少数派”がいくら騒いだところで、県知事をはじめ地元の保守政治家たちにとっては痛くも痒くもない。
 だが、おそらく想像がつくように、長渕剛のファンは政治的には右派・保守派である。『Stay Alive』のジャケットにも、どーんと日の丸があしらわれている。
 鹿児島に限らず、地方の保守派には2種類いる。中央政財界とつながった“エスタブリッシュメント”的な連中と、“東京”とか“中央”とか“オカミ”とかが大嫌いな“頑固オヤジふう”の人々とである。後者のタイプの保守派が熱狂的に支持する“郷土の英雄”的存在が、鹿児島においては長渕剛と西郷隆盛なのである。当然多くは前者である鹿児島の保守政治家たちも、この層が声を上げ始めたら、左派・リベラル派のように黙殺してはいられない。
 長渕がもし、ライブMCや雑誌インタビュー、あるいはアルバム収録の曲、といった“狭義の音楽活動”の枠を超えて、もう一歩踏み込んで動いてくれれば、鹿児島の保守的な世論も沸騰し、(他の地域はともかく少なくとも鹿児島の)川内原発再稼働は阻止しうる。そのためには、左派・リベラル派が長渕に登場をお願いしてもムダで(そんな連中が長渕ファンでありえないことはバレバレだし、“政治利用”されるだけだと拒絶されるに決まっている)、実際、過去にお願いしたこともあるが何の返答もなかったと聞く。まず長渕ファンたちが起ち上がって、長渕がもっと踏み込んだ発言・行動ができる環境を整えなければいけない、というのが福岡の“反原発右派”の諸君と謀議した結論だった。

 昨年3月から8月まで、私は頻繁に鹿児島入りし、“長渕ファン”でかつ“反原発派”でかつ“先頭に立って行動するにもヤブサカでない”かつ“できれば若者”を探し求めて歩いた(4月の衆院補選で山本太郎氏が擁立した候補者の選挙ボランティアに志願したのも、ただただ休憩時間などに他のボランティアと交流してその中に“行動する気のある反原発派の長渕ファン”を見出せることを期待してのことだった。鹿児島には長渕ファンなどいくらでもいるはずなのにボランティアの中には1人も見つからず、既存の反原発運動がいかに“人民と乖離”しているかを改めて痛感した)。
 もちろん“単なる長渕ファン”を鹿児島で探すのは簡単だ。しかし“反原発運動を率先してやる気のある”という条件がついてるから、“探し方”もなかなか難しいのである。
 結局、8月で諦めた。
 私自身が長渕ファンであれば他にやりようもありそうだが、仮にファンを“装った”としてもすぐ見抜かれるだろうし、“鹿児島の長渕ファンを組織する”という任務はどうも私には担いきれないようだと断念した。
 もともとのイメージとしては、とにかくまずは10名前後の長渕ファンを組織し、鹿児島で長渕の楽曲オンリーの“反原発サウンドデモ”を波状的に敢行するつもりだった。デモ出発地は西郷銅像前、もう1人の“郷土の英雄”西郷どんに「原発再稼働は必ず阻止してみせます」と誓いを立ててから市街地を練り歩き、ゴールは(鹿児島の“後者”的な保守派にはまったく人気のない)大久保利通の銅像前で「オマエの近代化路線の行き着いた先が原発だコノヤロー」と糾弾して解散、というものだ。
 2回、3回と繰り返すうちに参加者数百名の“右派系反原発デモ”として定着してきたら、いよいよ長渕本人に「力を貸してください」とご登場を願う。おそらく長渕は、「おれの故郷・鹿児島で、おれを慕ってくれる若者たちが、おれ自身も反対している原発の再稼働を阻止するために、おれの力を必要としている」という状況になれば、一も二もなく応えてくれるはずだ、と考えていた。

 ところが私の力量ではこれを実現することができなかった。
 9月、別件で上京した際に、何人もの友人知人に「鹿児島でこういうことをやろうとしてたんだけど、うまくいかず断念した」という話をした。すると「じゃあ東京でやってみよう」と、私が編集長を務めている“反体制右翼マガジン”『デルクイ』の常連執筆陣の面々が乗り気になってくれた。
 で、10月、12月、2月と計3回の“長渕オンリー”の反原発サウンドデモ、通称「男たちの脱原発」デモが浅草→上野のコースで実現したのである(解散地点が西郷銅像前)。
 まず東京で盛り上げて鹿児島に飛び火させよう、と作戦変更したわけだが、現実は厳しかった。東京の中心メンバーのうち大石規雄氏(代表)と佐藤悟志氏は本当に長渕ファンなのだが、ハタ目にはだいぶヒネリの入った“特殊なファン”に見えてしまうだろうし、デモの呼びかけは東京にも多数存在するはずの“ガチ長渕ファン”には浸透せず、毎回の参加者のほとんどは「長渕ファンが反原発の声を上げるなんて、素晴らしいと思います!」という非ファンの賛同者で、“デモ終了後の打ち上げで初参加の長渕ファンたちと交流し今後だんだん主催者側に回ってもらう”という目論見もハズれた。
 主催者たちの間にも疲れが見え始め、とりあえず先日の“第3回”でいったん打ち切ることになった。

 東京での試行錯誤の過程で固まっていた、この運動の“最終形”のイメージも、そんなわけだからもう“白状”してしまおう。
 ファンの熱い声に応えて、長渕がいよいよ本気になったとする。その場合、長渕は何をすればいいのか?

 例えば再稼働が3日後に迫っているとする。案の定、左派・リベラル派の運動は盛り上がらず、ルーティンを繰り返すばかりで、再稼働を許してしまうのは確実な状況となっているはずである。
 だが“再稼働3日前”ぐらいのタイミングでよい。“2日前”でも充分かもしれない。
 長渕がすべてのスケジュールをなげうって、再稼働当日じゃないし左派系・リベラル系もまだほとんど集まっていない川内に忽然と姿を現す。
 たぶん長渕は現時点でtwitterとかやってないと思うが、突然“長渕剛公式アカウント”がtwitterに登場したかと思いきや、その第一声が「川内原発ゲート前、なう」。さらに続けて、「電気を使わずアコースティック1本で、おれはおれの魂の叫びを、再稼働の瞬間までこの地に響かせ続ける」「ぶっ倒れても、血ヘドを吐いてもおれは歌い続ける」等々と第二声、第三声……。
 2004年の鹿児島・桜島での野外オールナイト・ライブに7万5千の聴衆を集め(その功績を称えて現地にモニュメントが建立されている)、今夏は富士山に10万人を集めるだろうという長渕の一世一代の“義挙”である。その勇姿を一目見ようと、2日間、3日間で全国から少なくとも数千、もしかすると数万の長渕ファンたちが川内原発前に殺到するだろう。そんな事態になれば、再稼働は“白紙撤回”となるかもしれないし、少なくとも“延期”にはなるはずである。
 長渕はおそらく、元来“群れる”ようなことは好きでなかろうし、まして左派・リベラル派のいわゆる“プロ市民”どもと手を組むなど考えるだけで虫酸が走るだろう。が、長渕は今回(ファン以外とは)誰とも手を組むことなく“単身決起”するだけでいいのだ。

 話はここで終わらない。
 誰もがもう絶対に再稼働してしまうと考えていたところに、1人のミュージシャンが起ち上がってアッという間にこれを阻止してしまった。
 この“奇跡”は、国際ニュースになるに決まっているのである。
 音楽で社会を変え“ようとした”ミュージシャンは古今東西いくらでもいる。だが実際に具体的に何事かをなしえたミュージシャンなど皆無に等しい。ことによると長渕は、ジョン・レノンやボブ・マーリーと並び称される、いやそれ以上に偉大な“世界的ミュージシャン”になれるかもしれないのである。
 個人的には“川内原発ゲート前ライブ”では「ろくなもんじゃねえ」を繰り返し歌って“テーマソング”的にフィーチャーしてほしいのだが(“原発なんか、ろくなもんじゃねえ”のニュアンスに受けとれるだろうし)、というのも、外国人にも覚えやすかろう“ピーピーピー♪”の部分が国際ニュースに乗って、ジョン・レノンの「平和を我等に」や「パワー・トゥ・ザ・ピープル」の一節のように、世界中の“闘う民衆”の間に広まるかもしれない。台湾や香港で、中東で、ウクライナで、デモで街路を埋めた群衆から“ピーピーピー♪”の大合唱が巻き起こる光景は、まさに長渕にとっても“ミュージシャン冥利に尽きる”ものではなかろうか。
 わずか2、3日すべてのスケジュールをなげうって“義挙”に踏み切れば、長渕は、“宿敵”と伝えられるサザン桑田ごとき足下にも及ばない、“世界の長渕”になれるのだ。

 ……と、こんなことはファンではない私だからこそ思いつくのだろう。真剣なファンたちには、長渕をネタに面白がっているだけのように見えるかもしれない。
 たしかに私は今回、とりあえず川内原発の再稼働を阻止できればそれでいいのである。
 が、長渕が本気で起ち上がれば、再稼働を阻止できるし、結果として長渕は国際的な存在となる。
 真面目なファンの方々にとっても、長渕本人にとっても、全然悪い話ではないと思うのだが、どうだろう。