なぜ山の手緑をテロったのか

ミニコミ『外山恒一vs矢部・山の手 外山側の見解』より

 話せば長くなる。だが話さざるを得ない
 銭湯利用者協議会の渡辺洋一(活動家名・「矢部史郎」)と山の手緑は、長年の「同志」であり、98年には共著で本(『ヒット曲を聴いてみた』)まで出した仲である。
 ぼくは、2000年3月18日、銭湯利用者協議会の山の手緑をテロった。といっても、拳で頭や顔を3、4発殴っただけだが。
 なぜそんなことをしたのか、きちんと弁明しておこうと思う。
 とくに洋一とは89年の第一回全国高校生会議以来、10年来の「同志」だ。
 山の手緑とは、93年の退屈お手上げ会議で出会い、当初はその(実際に会った者には説明するまでもないことだが)エキセントリックでファナティックな、ちょっとでも気に入らないことがあればすぐにヒステリーを起こす独特のキャラクターに猛烈に反感を抱いたが、彼女が洋一とコンビを組んだ関係上、頻繁に顔を合わせざるを得ず、そのうち「なかなかいい奴じゃないか」と思うようになっていた。特に96年から98年にかけての時期は、二人はぼくの全国レベルでの最良の「同志」となっていた。
 その彼らと敵対関係に陥ったのが、99年3月のことである。
 事情が非常にこみいっているので、分かりやすく順を追って話そう。
 95年、震災とオウムの年だが、この年にぼくは東京で「だめ連」と出会い、その作風に計り知れない衝撃を受け、「これを福岡でやろう」と決意した。が、「だめ連」のペペ・神長とぼくの生来のキャラの違いからだろう、なかなか思いどおりにコトが進まず、ぼくはついにギブアップして、心機一転、それまでの「地元での活動にこだわり続ける」という方針をいったん撤回して、96年夏、東京に移転した。
 結局この東京生活は、家賃の高さとそれに比しての間取りの狭さからほとんどノイローゼ寸前になってわずか半年ほどで頓挫するのだが、この間に、「銭湯料金値上げ反対と行政による銭湯業者の保護」を掲げる洋一・山の手の運動事務所に頻繁に出入りし、日々議論を交わす中で急速に親密な関係になった。
 それまで、おそらく意図的にではあろうが、度量の狭い作風(些細なことですぐ仲間を「反革命」として切り捨てるような)で運動展開していた二人が、「丸くなった」と周囲に云われるようになったのは、実は他ならぬぼくの成果だと内心思っている。彼らも参加者として関与した座談会「ヒット曲研究会」の活動が、流行歌を聴くような連中を「ブルジョア的」と排除し、カラオケすら「党として禁止」していた彼らの作風をソフトに変えたという側面は、強調しておいてよいと思う。
 前述のとおり、半年の東京生活から撤退し、97年2月、また福岡に出戻りしたぼくは、「福岡版だめ連」形成の運動をゼロから再スタートすることになった。
 創刊されたばかりの『じゃまーる九州版』などを活用し、同年夏には30人ほどのネットワークが福岡で形成され、6畳2間のぼくの新しい「拠点」はあれよあれよという間に賑やかになっていった。
 97年夏から翌98年初頭にかけての約半年が、福岡の運動の第一の高揚の波だったのだが、洋一・山の手の二人が初めて来福したのはそのピークの時期にあたる97年8月だった。わずか2泊3日の福岡訪問だったが、その盛り上がり具合に二人は狂喜して帰っていった。
 だがこの「福岡版だめ連」の第一の波は、運動とは名ばかりの運動、ただ連日、飲み会を繰り返すだけの、運動としての体を成していないただの交流圏にすぎなかった。そのことに、ぼくは次第に苛立ちはじめた。
 「運動」の成立を不可能にしている、サブカル・スノッブ(ぼくのコトバで云えばメ渋谷系モ)の中心にいたのが、ヘンリーという東京の「だめ連」周辺とも交友のある女だった。
 些細なことで、突然ヘンリーはぼくのことを嫌悪しはじめ、ぼくは渡りに舟とばかりにヘンリーを中心としたサブカル・スノッブ一派を交流圏から排除した。98年2月のことである。このため交流圏は一挙に縮小した。
 ぼくは、残った中の数名で「自由民権運動・ラジカル九州」という新グループを結成し、政治色の強い交流圏の再確立を目論んだ。
 これが軌道に乗るのが98年の秋以降なのだが、2回目に洋一・山の手が「銭湯協」の仲間数名を伴って福岡に来たのはその直前の8月のことだった。彼らは、前回来福した時と比べての、交流圏のあまりの沈滞ぶりに、「福岡の運動はうまくいっていない」との印象を持ったようだ。
 詳細は別の機会に改めて書くことにするが、ここにぼくの私的な恋愛問題も微妙に絡んでくる。
 当時ぼくの「恋人」であり、「自由民権運動・ラジカル九州」の中心メンバーでもあったHが、ちょくちょく電話などで山の手緑に「相談」を持ちかけていたのだ。ぼくは自由恋愛主義者で、「1対1恋愛」を否定していたのが、Hに不安や警戒、嫉妬の感情を抱かせていた。それをHは、「外山さんは運動を、新しい女を漁る場としか考えていない」などと自分に都合のいいように歪曲して、山の手に御注進していたのである。どうも山の手は、それを真に受けていたフシがある。ヘンリー一派を排除した事情も、洋一・山の手には理解されず、悪印象を与えたようだ。福岡の運動が「うまくいっていない」のは、ぼくのそれらの「方針」のせいであると彼らは判断したらしい。自分たちがごく最近まで、寄ってくる新参者たちを次々とブルジョア的だの何だのと理由をつけて排除しまくっていたことは、コロリと忘れてしまっているらしい。
 実際には当時、福岡の運動は「うまくいっていない」のではなく、その直後、98年秋に始まる「福岡版だめ連」高揚の第二の波へ至る「再編期」にすぎなかったのである。
 夏に、「オフィスVAD」という、若いノンセクト左翼グループと知り合った。東京の「だめ連」のペペと同期の早大出身者が、転勤で福岡にやってきたのを機に結成したグループだったが、「外山系」でない若い左翼グループの登場は、ぼくが福岡で活動を開始して以来初めてと云って過言ではない、画期的な出来事だった。
 秋には、これまた別ルートで、やはりぼくらに年齢的に近い男性が、「メンズリブ福岡」を旗揚げした。行政とのタイアップも含めた精力的な活動展開で、同グループはあっという間に数十人規模の大所帯となった。
 99年に入ると、「ウェイブラット」という、引きこもりの少年少女たちの自助グループと関係ができた。
 また、寺山・赤瀬川的な活動を展開する現代美術のネットワークともつながりができた。
 自分たちの「自由民権運動・ラジカル九州」を含め、これらの運動体をヨコにつないだのが、第二期「福岡版だめ連」で、99年3月ごろには総勢百名近い巨大な交流圏が形成されていた。こうした成果は、ぼくが前年2月時点でヘンリー一派を切り、政治色を強め、おぼろげながらもある種の「目的意識」をもって活動を展開したことによる、つまり、ぼくの「ヘンリー一派排除」の判断は正しかったのだと今でも考えている。
 ところがここでまたしてもぼくの私的な恋愛問題である。
 99年元旦、Hの妊娠という事態が勃発した。結局2月に中絶し、ぼくに息子(娘かもしれんが)が誕生することはなかったのだが、この過程で、ぼくとHの恋愛関係は次第にギクシャクしはじめた。運動は盛り上がる一方なのに、私的空間は滅茶滅茶、という状況は奇妙な気分だった。
 3月、ぼくはあることでキレて、Hを殴打した。ふだん暴力をふるわない人間がガラにもなく暴力をふるうと、加減というものが分からないから、やり過ぎて鼓膜を破ってしまった。
 もともと、山の手に「運動相談」にかこつけた「恋愛相談」をしていたHである。当然、このことは洋一・山の手の耳にもすぐに入り、99年3月中旬、彼らは「福岡を外山カルトから解放するため」(これは同志・鹿島拾市が、彼らが福岡入りする直前に彼ら自身の口から聞いたフレーズである。洋一・山の手コンビの方がよっぽどカルト人気に支えられているクセして、まったくいい気なものである)と称してやってきた。
 彼らがやったのは、「外山恒一欠席裁判」である。
 要するに、この時期形成されていた「福岡版だめ連」の主要メンバーを一同に集めての、ぼくの悪口大会である。
 もともとワンマン体質を自覚しているぼくのことだから、そんなことをすれば当然、ぼくのやり方への不平不満が噴出する。ぼくはあっという間に、自分が築きあげたネットワークから、自分が排除されてしまう恰好になった。ぼくはこのことでHを責めたから、ぼくとHの関係も、さらに悪化して、Hはノイローゼになって精神科へ通うようになった。洋一・山の手は「H側」に立ったつもりだったのだろうが、彼らのやったことはHをも苦しめたのである。その証拠に、これ以後、Hは山の手への「相談」をやめている。
 来福の際、ぼくも一度だけ彼らに会った。欠席裁判の翌日、ファミレスで、3人で話し合ったのである。
 彼らはぼくに「折伏」を迫った。福岡が「うまくいってない」のはおまえのせいだ、「引退」しろ、と云うのである。そんな要求が呑めるわけがない。第一、彼らが乱入するまで、少なくとも運動面では、福岡は「うまくいっていた」のである。会談は物別れに終わった。これが、今回のテロを除いて、ぼくが彼らと直接会った最後である。
 二人が東京へ戻ってからの福岡の運動状況は混乱をきわめた。大人数でやるはずだった4月統一地方選に際しての「投票率ダウン・キャンペーン」は、結局ぼく一人でやることになった。「自由民権運動・ラジカル九州」の中心メンバーの一人、伊藤謙児が2月に正式結成した「だめ連・福岡」も、実質ぼくを排除する形で展開し、単なるサロンと化してまもなく崩壊した。百人の交流圏を最大動員して迎え撃つはずだった9月のテント芝居「風狂フーガ」(広島)と「魚人帝国」(京都)の福岡公演制作もガタガタになって、興業的に失敗した。Hとも結局夏に悲惨な形で別れた。
 彼らが帰った後の福岡の惨状に激怒して、ぼくは直後の3月23日、「おまえらのせいだからな」「おまえらは加害者だ 本質的に 無自覚な」という文面の2つのFAXを送りつけた。ちょっと解説が必要だろう。「おまえらは加害者だ」というのは、ぼくがHを殴った件を彼らが重要視して、最近なにかと問題になっている「ドメスティック・バイオレンス」(夫婦間・恋人間の男から女への暴力。直訳すると「親密な暴力」)の加害者としてぼくを糾弾する、という場面が会談の際、あったことを念頭においている。もちろん、ぼくはHを殴ったことそれ自体を反省していない。怒った時には、相手が男であろうが女であろうが、また恋人であろうが赤の他人であろうが、殴っていいのだと当時も今も思っている。
 また、この一種狂乱的な文面は、本来ぼくとHの問題である私的な恋愛事件に、彼らが「当事者」面をして介入してきたことへの意図的な対応である。彼らを逆上させて、本当に「当事者」にしてやろうというぼくの策略だ。
 連中は見事にこの策略にハマった。
 直後に書かれたのであろう、『情況』99年5月号の「矢部史郎+山の手緑」名義の論文「負債とファシズム」末尾の筆者近況報告欄に、山の手緑は錯乱して書いてしまった。
 「先日、知り合いの活動家がサイコパスだったことが判明。運動を組織しながら、女を殴っていた。女を殴るぐらいなら運動なんかやるな。関係者に根回しして排除したら、恨みのファックスを送り付けてきた。気持ち悪い。」
 ぼくはこれを読んで狂喜した。少なくとも山の手はこれで破綻した。
 ある人は、「サイコパス」なんて「サベツ用語」を平気で使う山の手への嫌悪感を表明した(ぼくはこの批判には同じないが)。
 別のある人は、「昨日までの同志に対してこんな書き方はないだろう」と不快感を露わにした。別に構わないが、たしかにヒドいとぼくも思う。
 もっとも本質的な批判が、また別のある人から出た。3点ある。まず「女を殴るぐらいなら運動なんかやるな」の部分。女を殴った奴にも、人を殺した奴にも、「運動」をやる権利がある。山の手は、清廉潔白な人間にしか「運動」をする「資格」がないというのか。そういう山の手自身はそんなに清廉潔白なのか。次に「関係者に根回しして排除した」の部分。古典左翼的なスターリニスト根性丸出しだ。そして全体的なトーン。「あいつはキチガイですよ」なんて口ぶりで他人を貶める心性の下劣さときたら……。
 ぼくが最も腹を立てたのは、連中が、「外山恒一がHを殴った」ではなく、「男が女を殴った」と書いたことだ。ぼくとHは、ぼくとHという個別具体的な人格としてではなく、男・女という抽象的な記号として処理された。
 付け加えれば、どうでもいいことだがまあ百人ほど面識のない他者をランダムに選び、それぞれ個別に外山・山の手と会談させて、「さあどっちがよりサイコパスですか?」と問うたらぼくに勝ち目はないことくらい、山の手を直接知る人間なら誰にでも分かることだ。
 また、連中はやはり同時期に出た『現代思想』99年5月号の同じく「矢部史郎+山の手緑」名義論文「市民? 誰が!」において自らの所業の正当化を試みている。曰く、
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 家庭内で行使される暴力と暴力による支配は、通常、家庭内の問題であるとして放置される。身近にいる人間は、初めは暴力を問題化し介入を図ろうとするが、そのうち、暴力を行使する男性と暴力に服従する女性のカルト的関係を尊重し、追認するようになる。「あれは二人の問題である(私には介入できない問題だ)」というふうに。(中略)暴力が「親密な暴力」として追認され、その間違った認識が第三者にも共有されたとき、被害者はますます孤立し、無力な状態に追いやられてしまう。
 家庭内暴力から被害者を防衛するには、まず「親密な暴力」なる神話を禁止する断固とした態度が必要となる。(中略)暴力を行使する者は、問題は私的な家庭内の問題であると主張する。もちろん家庭内であろうとなかろうと、私刑は法的に認められるものではないのだが、彼は家庭内という理由を盾に、リンチの正当化を図る。
 (中略)「親密な暴力」に介入しようとする者は、家庭という神話を禁じ、積極的に男性を抑圧し、そのため少々マッドな外観を強いられる。そのマッドな外観に耐えられる者だけが、「親密な暴力」という神話を引きはがし、暴力を禁止できるのだ。
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 だってさ。
 もうこれは笑う他ない。何が「少々マッドな外観を強いられる」だ。「少々」じゃなく完全に「マッド」だよ、この「サイコパス」が! 
 それ以外の諸点については、これを読む諸兄の判断に任せよう。ぼくとしては、やっぱり「恋愛」という局面においては、他の人間関係とは質の異なる特有の「空気」を帯びるものだと思うし、社会のルール(「法的」? ははは)で一刀両断してよいものではないと考える。恋愛に絡む諸事態は、基本的に「二人の問題」だというのがぼくの立場だ。それに、女が(つまりHが)「孤立し、無力」だという決めつけにも腹が立つ。Hもずいぶんナメられたものだと同情する。ぼくはこういう人間観に我慢がならない。それに普段ほとんど暴力をふるわない人間(ぼく)が、たかだか一度「恋人(H)」を殴っただけで、やれ「家庭内暴力」だ「私刑」だというセンスは、やっぱり「マッド」で「サイコパス」な方のものでしょう。
 ぼくと洋一・山の手コンビが同志関係から敵対関係に変移した事情は、以上に述べたとおりである。
 しかし考えてみれば、山の手がぼくを攻撃した深層心理には、近親憎悪があったと思う。たしかにここ数年、(前に書いたようにぼくのおかげなのだが)山の手は「丸く」なり、寄ってくる新参者たちもそのまま定着して、彼らの運動は盛り上がりを見せている。山の手はたぶん、ヘンリー一派を排除したぼくのやり方に、過去の自分を見たのだ。「私が苦労してやっと克服した体質を、まだ外山は引きずっている、キーッ!!」というわけだ。ぼくのH殴打事件と、山の手のぼくへの言論暴力事件と、どっちが「ドメスティック・バイオレンス」かとよくよく我が身に問うてほしい。
 ちなみにHは、ぼくと別れた後、彼を知る周囲の誰もが、ぼく以上に「潜在的バタラー」(「バタラー」とは、「ドメスティック・バイオレンス」の加害者男性のこと)と認めるFと恋愛関係を構築し、ぼくのもとを去った。もしも洋一・山の手の介入がなければ、ぼくとHの恋愛関係は8割くらいの確率で修復されたろうことを考えると、もしも将来、Hがまた「ドメスティック・バイオレンス」の被害者になった時には、その責任の一端は彼らにあると云ってもあながち間違いにはならないだろう。
 福岡の運動状況もまだ連中の介入に端を発する混乱の尾を引いたまま流動化しており、ぼく自身、99年夏から極度の鬱状態になって精神科へ通院するようになって現在に至っている。「福岡版だめ連」第三期は当分、来そうにない。
 この1年、洋一・山の手への怒りや恨みで夜も眠れない毎日を過ごしてきた。これは誇張ではなく、それで精神科で抗鬱剤だけでなく睡眠薬も処方してもらっているくらいだ。
 これだけ書けば、ぼくが山の手をテロった気持ちも御理解いただけようと思う。これでも理解してもらえないのなら、理解してくれなくてもいいと思う。
 当初は、洋一をテロるつもりでいた。
 山の手は「マッド」で「サイコパス」、つまりテンネンだから、山の手に怒りをぶつけても仕方がないと考えていたのだ。それよりも、本来、放っておけば錯乱して何をしでかすか分からない山の手の首にヒモをつけておくのが役目のはずの洋一が、今回、むしろ山の手の錯乱を後押しするような暴挙に出たことに腹を立てたのだ。しかもぼくと洋一とは、10年来の「同志」だったというのに……。
 標的を山の手に変更したのは何も洋一に喧嘩で勝つ自信がなかったからではない。喧嘩が強いことを自慢してもしょうがないが、ぼくは少なくとも、そんなに強くはないが弱くもない。喧嘩というのはたいてい、双方によほどの力量差がないかぎり、怒っている方が勝つ。だから洋一をテロることは簡単だった。
 山の手をテロったのは、まず第一に今回の福岡の運動破壊の領導者は間違いなく山の手だったこと。第二に、山の手が「マッド」で「サイコパス」なキャラを押し通せるのは女だから、つまり女は少々無茶をやっても殴られたりはしないという世間の「良識」に、山の手は甘えているのだというぼくの私見。第三、最大の理由は、ぼくが「女を殴った」こと自体を一寸たりとも「反省」していないのだという意思表示である。
 「軍報」(註.この文章と同時公開した山の手緑襲撃の現場レポート)での表現は大袈裟である。
 あれは“中核vs革マル”のパロディで、エンタテインメントとして読めるようにとの配慮で書かれたものだ。
 実際のところは、素手で顔や頭を3、4発殴った、という程度の「テロ」だ。「ツバを吐きかけ」というのもウソである。もっとも、計画としては、ツバを吐きかけるつもりでいたのだが、M(註.洋一つまり矢部史郎の妻。ただし当時は結婚前。我がファシスト党の“起源の闘争”である「マイ・マジェスティ事件」の下手人の一人でもあり当然「リスト」には掲載済)がいたのは想定外で、慌てて吐き忘れたのである。
 想定外ではあったが、Mがいて本当によかったと思う。そうでなければ、ぼくは怒りにまかせて思う存分に山の手を殴り続け、間違いなく重傷を負わせていただろうと思うからである。それでは何年たっても「冗談」にならない。
 いずれにせよ、現場に放置してきたミニコミの表紙に書きつけたように、ぼくは洋一と山の手を「まだ同志」だと思っている。
 今は当然無理だし可能でもお断りだが、「数年後に再会」を願っているというのはぼくの偽らざる本心である。