鹿児島交通違反裁判
第一審

被告人最終陳述
(2007年9月18日)

 正直に申し上げて、私はもはやこの裁判のことなどどうでもよくなっている。
 日本の裁判官が公正な判決をおこなうことがまず滅多にないことを私はよく知っているからである。したがってここで何を云っても無意味なのだが、傍聴人もいることだし、傍聴人のために以下発言する。

   1.一方通行違反について私は無罪である

 私の当日の行動は以下のとおりである。
 私は、その思想信条の表現の一環としていわゆる「ストリート・ミュージシャン」活動を日常的におこなっているものであるが、この日も午前1時ころまで天文館文化通り付近でこれをおこなっていた。
 文化通りやアーケードには同様の活動をおこなう若者が多数あり、私は自らの活動を終えると、そうした他のストリート・ミュージシャン仲間を訪ね、交流することを常としていた。
 文化通りやアーケードは、夜間は車両の通行そのものが禁止されており、だから私がそのように他のストリート・ミュージシャン仲間を訪ねる際には、楽器などの道具を積んだ原付を押して、一般の歩行者としてその区域を移動する。
 事件の日も、同様に原付を押してこの一帯を歩きまわり、他のストリート・ミュージシャンと交流した後、アーケードを通って、そのしばらく後の1時41分ころに警察官に停止を求められた地蔵角交番前に出た。
 私はこの後、付近にある飲食店に立ち寄るつもりであった。その飲食店に行くためには、アーケードを出てまずそのまま直進すればよかったのであるが、私は店の場所を誤認し、地蔵角交番の前で原付にまたがり、エンジンをかけて、起訴状にある当該の一方通行の道路を、そのことを知らないままにではあるが、指定されたとおりの方向に運転して走行した。
 が、その道路の出口に至る前に、私は店の場所を誤認していたことに気づき、Uターンをして、道を間違った起点である地蔵角交番の前まで戻り、そこを左折しようとしたところを、交番前で立ち番をしていた警察官に見とがめられ、停止を命じられたものである。

 以上のような経緯であったから、起訴状に記載された事実は、一部に誤認を含んでいる。すなわち、私が当該の日時に当該の一方通行の道路を、「その出口方向から入口方向に向かい、原動機付自転車を運転して通行し」たことはそのとおりであるが、「出口」地点を通過してはおらず、したがってそこに設けられている道路標識を確認することができず、よって「同標識を確認しこれに従うべき注意義務」を怠ったものではなく、有罪とすることはできない。
 またこのような私の主張をもし認めるとするならば、道路標識を数メートルおきに設置しなければならなくなるではないかと裁判官は云うが、思うに多くの一方通行の標識は自動車を対象として想定し設置されている。そして実際、交通の安全と円滑を図るにはそれで充分である。原付は小回りがききUターンも容易であるが、一方通行道路を逆走したとしてもただちに対向車の通行を妨げてしまうほどの車幅もなく、また逆走に気づいた時点で再度Uターンすることも容易である。道交法は、「道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする」ものであり、原付での一方通行の逆走を完璧には防止できないような標識設置の現状が必ずしもこの道交法の目的から外れているわけではない。またとくに今回のようなケースにおいては、逆走を現任した警察官がその原付を停止させ、逆走の事実を指摘してUターンさせればそれでよいではないか。

   2.一方通行違反についてのその他の情状

 さらに、当該道路の道路事情も勘案されなければならない。具体的には以下のとおりである。
 まず、当該の道路は、常時一方通行を定められたものではない。一方通行の指定がおこなわれているのは、夜10時から翌午前2時までのわずか4時間だけである。
 私は上記のとおり、この時間帯、多くは「ストリート・ミュージシャン」の活動(やその延長での仲間との交流活動)をおこなっており、したがってこの時間帯に原付を運転すること自体が稀で、実際に私はこの道路をこの時間帯に通行したことがそれまでになかった。
 また、当該の道路は2車線であり、大半の時間帯において双方向の通行がなされていて、上記の事情から私がこの地点で日常目撃することになる時間帯の車両の通行は常にこの双方向のものであった。
 そのうえ、問題の一方通行の時間帯においても当該道路のの通行量はそれほど多くはない。今回改めて現地へおもむき観察してみたところ、この時間帯には、道路左端にタクシーが多数停車して客待ちをしており、あるいはこのため一方通行の指定がなされたものかもしれないが、ときおり通行する一般車両は右側の車線ではなく、道路中央の車線区分線の上を通行しており、すなわち停車中のタクシーを避けながら左側車線を通行しようとしているように見える。通常、一方通行の道路を間違って逆走した場合、対向車の存在によってすぐにそのことに気づき、とくに原付ではUターンが容易であるから、必然的に早い段階で通行方法を改めることになるが、当該道路では実際の状態が以上のようなものであったことから、私から見て自身が通行すべき左側車線は半ば空いており、その誤認に気づきにくかった。
 さらに付記すれば、そのような道路状況であったから、私の過失による一方通行道路の逆走行為が、なんらかの事故につながる危険性もきわめて低かった。

 以上から、仮に私の過失を責めて有罪とするにしても、その過失を招きやすい具体的な状況が多々あり、また私の行為がただちに何らかの事故につながる危険性もきわめて小さく、たとえ違反であっても重大な違反とまでは云えないから、通常の一方通行違反において求められる反則金5000円から、相応に減額した罰金刑としなければ、法の運用の公正さを保てない。

   3.速度違反について

 速度違反については、起訴状記載の事実の真実性について争う意思はない。
 しかし、そもそも警察の速度取り締まりは、実態として、スピードを出すと危険な地点ではなく、むしろ逆に、交通量が少なく、見通しがよく、スピードを多少上げても危険を生じにくいため、実際にスピードを上げて走行する者が多い地点でおこなわれており、つまりいわゆる「取り締まりのための取り締まり」がほとんどで、必然的に、今回のようなこうしたいわゆる「ネズミとり」の方法で摘発される速度違反はほとんどすべて、実際にはまったく危険な運転ではないことになり、多くの運転者の警察に対する反感・不信感を高まらせる結果をしかもたらしておらず、本来追求されるべき交通安全の役にはまったく立っていない。
 つまり私が「ネズミとり」の方法で速度違反を摘発されたということは、皮肉にもその地点がそもそも多少スピードを上げても安全な地点であることをむしろ意味している。
 実際、今回、私が速度違反を指摘された道路は、歩行者の極めて稀な郊外の道路で、片側2車線であるうえ見通しもよく、時速50キロで走行することに伴う危険性は事実上まったくない。実際、多くの自動車がこの国道10号線の海沿いの区間を時速7、80キロで走行しているほどである。
 よって本件は、仮に有罪であるとしてもただちに何らかの事故に結びつく危険性の高い重大な違反とまではいえず、こうしたケースで通常の違反者に求められる反則金10000円から、相応に減額した罰金刑を科すべきである。

 さらに重要なことは、そもそも原動機付自転車に対する現行の速度規制には問題があるということである。
 原付の最高速度を時速30キロとする規定は、少なくとも40年間以上にわたって改定されないまま現在に至っている。
 しかし40年前の道路事情(舗装されていない道路がきわめて多かっただろう)や、原付の性能(現在とは比較にならないくらい劣っていただろう)とを考えれば、そのような時代において適当と考えられた制限速度が、現在においてもそのまま通用すると考えることはできない。
 実際、整備された現在の道路で、性能の上がった現在の原付を使用する場合、時速50キロでの走行は必ずしも危険な運転ではない。
 誰でも知っていることであるが、現実に時速30キロ以下のスピードで走行している原付はきわめて珍しい。多くの原付は、歩行者が多かったり死角が多かったりする道路を走行する場合を除いて、時速40キロから50キロで走行しており、私が先日ためしに熊本市内の国道を時速40キロで走行してみたところ、ほとんどの原付がこれを追い越していった。
 つまり、最高速度を時速30キロとする現行の規定が、現実とまったく適合しておらず、死文化しているのである。この死文が生き返るのは、警察が取り締まりをおこなう時だけであり、つまり多くの原付利用者には、この規定は運転者の安全のためではなく、警察の反則金収入確保のために存在しているとしか感じられないのである。これは、原付に対するもう一つの不合理な規制である「二段階右折」に関しても同様で、もともと原付運転者の安全を確保する目的で定められた規制が、実態としては、現実に何ら危険性がなかったものを形式的に取り締まるケースがほとんどで、つまり法の目的と運用が本末転倒し、運転者に警察への反感・不信感を増大させる結果をしかもたらしていない。
 本来であれば、道路整備状況の進展や、原付の性能の向上などをふまえて、その最高速度に関する規定を改めるべきであったのに、それがなされていないのは、立法の不作為という他なく、こうした立法府の怠慢を個々の運転者の処罰へと責任転嫁することは許されない。
 よって裁判官は私を無罪とし、立法の不作為を判決文で指摘して、法の改正を促すべきである。

   4.本件における私の勾留について

 私は、本件において6月12日に逮捕され、7月11日まで丸1ヶ月にわたり勾留された。
 本件において私は、当初から正式裁判を求めており、捜査機関による任意出頭の要請に対しても、仮に出頭したとしても黙秘するから出頭の意味がなく、また本件事案の性質上、私の供述の有無に関わらず起訴・不起訴の判断は可能であるからやはり出頭の意味はないとして任意出頭しなかった。
 捜査機関はこれをもって、任意出頭に「正当な」理由なく応じない者を強制的に拘引できるとした刑事訴訟法の規定を形式的に適用し、私を逮捕・勾留したものであるが、そもそも今回の事案に関しては私の主張するとおり、私の出頭それ自体が必ずしも必要不可欠であったとはいえず、私が出頭を拒否したからといってわざわざ逮捕・勾留してまで私を取り調べる必要があったとはとうてい認めがたい。
 実際、私は当初の宣言どおり、捜査機関の取り調べに対し一貫して黙秘を続け、したがって供述調書も作成されなかったものであるが、それでも捜査機関側は、手持ちの記録に基づいて私を起訴している。つまり、取り調べをおこなわなくても起訴・不起訴の判断は可能なはずだという私の当初からの主張は正しかったことが証明されているのであり、逮捕・勾留が不要で不当なものであったこともまた証明されている。
 そもそもこのようなやり方での逮捕・勾留がゆるされるとすれば、捜査機関はあらゆる者に対し軽微な形式犯の容疑で任意出頭を要請し、それを拒否したからといって逮捕・勾留できることになり、こうした逮捕・勾留が公然とまかりとおることは、おそるべき警察国家化、恐怖政治、圧政へとつながるものであるから、裁判官は捜査機関による逮捕状・勾留状の請求を充分に精査し、不必要な請求を退けて国民の自由権を保障する責任を負っているものであるところ、今回のケースに鑑みるに残念ながら裁判官はこの責任を誠実に果たしていないという他ない。

   5.私の反省の態度について

 本来は必要ないことであるが、このようなケースでは、検察官が「被告人には反省の態度が希薄であり云々」と筋違いを述べることが容易に予測されるので、この点にも言及しておく。
 まず一方通行違反においては、すでに述べたように私にはなんら落ち度がないので、そもそも「反省」を要求されるいわれがない。
 速度違反については、これもすでに指摘したとおり、その根拠となる法律そのものにに重大な不備があり、つまり「悪法」であって、「悪法も法なり」というのは単に法律学上の一学説にすぎず、この学説を支持するか否かは思想信条の問題である。したがって、いわば「悪法には従わなくてよい」とする私の説を司法府が一概に否定することは、私の思想信条の自由を否定する重大な違憲行為である。仮に裁判所が「悪法も法なり」とする立場にたって私を処罰する判断を下すとしても、私の思想信条を一方的に非とし、それを量刑判断の理由に含めることは許されない。
 云うまでもないことだが、私は自らの原付の運転が自他に損害をもたらすような事態を避けるべく、安全運転を常にこころがけており、また警察による交通取り締まりそのものや、道交法そのものが不要であるとは考えていない。交通の安全を利する形態・方法での取り締まりや道交法の運用ならば大いにおこなわれるべきであるところ、実態がそうでないことを批判しているにすぎない。
 「道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資する」という道交法の目的に合致しない、単に警察の反則金収入の確保を目的としているとしか思えない現在の交通取締りに対し、納得できないとして裁判で争った方々のほとんどがその主張を認められず、有罪判決を受けている。日本の裁判所は、警察の日本来的な交通取締りのあり方を追認し、それを改めさせることなく放置している。交通事故がなかなか減らないのは、だから裁判官の責任である。裁判所が真に事故を減らすことを目指すなら、警察の方針を改めさせるべきだし、そのためにはまず、ただちに何らかの事故に結びつく危険性の高い重大な違反とまではいえない単に形式上の違反については原則として無罪判決を出すようにすべきである。
 現状の交通取り締まりの実情に鑑みれば、違反を摘発された者のほとんどが「運が悪かっただけだ」と感じてしまうという、よく指摘される現実には相応の根拠があると云わざるをえない。多くの違反者が、表面上は反省を表明してその実何も反省していないという、それはそれでやむを得ない状況がある中、これを潔しとせず、公の場で不合理な現実を堂々と批判し、より適正な社会正義の実現を求める私の姿勢を、むしろ社会の一員としての自覚と責任の意識に基づくものとして賞賛していただくならともかく、これに「反省」の態度の欠如などといった正反対の誤った評価を下すことは断じてあってはならない。  また、今回のケースにおいては、先に述べたような、明らかに不当と断じざるをえない捜査手法がある。1年有余にわたる再三の不必要な任意出頭要請のみならず、1ヶ月にわたる不当な身体の拘束をおこなっておいて、私に「反省」を求めるなどは盗っ人猛々しいにもほどがある。
 また蛇足ながら、今回、熊本市内において私を逮捕した3名の警察官が、私を鹿児島中央警察署まで護送するに際して、九州自動車道の八代・鹿児島間において少なくとも時速30キロ以上の速度違反を犯している事実を私は自らの目で確認している。彼らの運転は同乗している私にもべつだん危険であるとは感じられなかったが、時速20キロの速度違反を理由として逮捕した被疑者を時速30キロ以上の速度違反を犯して護送する警察官はうかつである。たかが20キロの速度違反をそれほど非難されるべきいわれはないと私が考えるのも当然である。
 さらに蛇足ながら、初公判において私は今後とも原付での速度違反をしつづけざるを得ないと発言したが、これを撤回する。なぜならその後、裁判官のアドバイスにしたがって試しに普通免許の取得に挑戦してみたら何なく取得できてしまったからであり、今後は無理をしてとくに長距離を原付で移動する必要がなくなったからである(これまでの私の速度違反はほとんど、常識的には原付を使わない長距離を移動中に摘発されている)。自動車は原付と違って、他の自動車と同様のスピードで、つまりいわゆる「流れに乗って」する走行をおこなっているかぎり速度違反を摘発されることは滅多になく、また私はとくにスピード狂であるということもないので、今後、私が交通違反で摘発されることはほとんどなくなるだろう。

   6.結論

 1.一方通行違反については、私には何ら落ち度はなく、無罪とすべきである。また、仮に私の過失責任を認めて有罪とするにしても、その過失を招きやすかった状況や、現実に事故を招く危険性の極めて小さかった状況を、私に有利な情状として、相応の刑の減軽がおこなわれるべきである。
 2.速度違反については、立法の不作為を認め、私は無罪とされるべきである。また、仮に有罪とする場合にも、やはり現実にただちに何らかの事故を招く危険性の極めて小さかったことを認め、これを私に有利な情状として、相応の刑の減軽がおこなわれるべきであり、同時に裁判官は、現行法の非合理性を判決文で指摘し、適正な法体系の整備を立法府に促す責任を有する。
 3.そもそも、双方の事案とも、仮に形式上は道交法に違反しているとしても、ただちになんらかの事故につながりかねないほどの危険はなかったというべきであり、このようなケースでは無罪判決をおこなって、警察の交通取締りのあり方を、真に道交法の目的に合致するものへと改めさせるよう善導する責任を裁判官は負っている。こうしたケースで有罪判決をおこない無意味な交通取締りの現状を追認する裁判官は、交通事故の加担者と断じられても仕方がない。
 4.私は本件において丸1ヶ月におよぶ勾留をされており、仮に私の行為が有罪とされるとしてもすでに充分以上に制裁を受けているのみならず、その勾留の不当性を考えれば、仮に罰金刑を科すとしてもこれを未決勾留期間の算入によって相殺することで、私が国家機関から受けた不利益はたとえその一部といえどもただちに救済されるべきである。

 最後にもう一言、強く云ってきたいことがある。
 私が刑事裁判の被告人となるのは今回が3回目であるが、私はいつも同じ目に遭う。
 シュンとしてない被告人を見るとそれだけで不機嫌になる裁判官がどうしてこんなに多いのか。江戸時代のお白洲じゃないんだから。

             2007年9月18日   被告人 外山恒一