私塾構想・詳細

 私塾構想を改めて整理し、提示する。

 私は、本気で革命を志している。
 そのために、国内のどこか特定のエリアを革命勢力の牙城と化し、そこを拠点に現政権を打倒するか、少なくともそのエリアを現政権から分離独立させる形で、革命政権の樹立を目指す。
 まあ現時点では、この「最終目標」については「話半分」で受け取ってもらっておいてよい。
 さしあたり重要なのはその前段部分、つまり国内の特定のエリアを革命勢力の牙城とすることである。
 この「特定のエリア」は、少なくとも首都圏ではあり得ない。また、関西圏でもあり得ない。
 その理由は、何よりもまず首都圏や関西圏には「ライバルが多すぎる」からである。私は、既成のとくに左翼の革命運動を全否定している。まったく新しいビジョンに基づく、まったく新しい革命運動を一から形成しようと志しているのだが、首都圏や関西圏には、これと「まぎらわしい運動」が多すぎるのである。もちろん私は、「素人の乱」や「プレカリアート云々」などの新勢力を念頭に云っている。私は彼らの運動をかなり高く評価しているし、そこから学ぶべきは学ぶつもりだが、究極のところでは否定的に見ている。彼らの運動は一見「新しい」が、実際には既成の左翼運動の表層のみを改めたものにすぎないからだ。彼らは既成の左翼勢力と思考の枠組みを完全に共有しており、ただ運動のスタイルのみが「新しい」。私はもっと「別のこと」をやろうとしているのだ。
 私は現時点でまだ、「少数派の中の少数派」である。今や「少数派の中の主流」となりつつあるそれら「まぎらわしい運動」が隆盛を極めるエリアでは、まだ自らの勢力を一から築き始める段階で四苦八苦している私にとっては、いかにも闘いづらい。
 私は「無風地帯」を選択しなければならない。

 すでに何度も表明しているとおり、私は「沖縄を除く九州」をこの「特定のエリア」に選んだ。この選択に必然性はなく、理論上はべつに四国でも北海道でも、あるいは中国地方とか東北地方とかでもいいのだが、いったん選択した以上は変更はない。

 さて、では「沖縄を除く九州」をいかにして我が革命勢力の牙城と化すか、である。
 もちろんその基盤となるのが「私塾構想」なのである。

 塾は、「教養体系の共有」を目的として運営される。
 私の革命のビジョンにおいては、その参加者が何か特定のイデオロギーを共有する必要はない。つまり、私は塾でファシストを育成するつもりはない。
 私が塾生たちに伝授するのは、単に一つの教養体系にすぎない。
 もちろん、教養体系を共有することによって、個々の志向は似てくるとは思う。別の云い方をすれば、卒塾生全員が単一の志向を持つことはないが、結果としては一定の幅の中に収まると思う。具体的には、卒塾生たちはファシズムか、アナキズムか、ナショナリズムを信奉するようになるだろう。べつに私はこの「三択」を塾生に迫ったりはしないが、おそらく自然にそうなるだろうということだ。もちろん、そうならなくてもかまわない。ただ、仮に私のこの予測どおりになったとして、その場合、ファシズムを信奉するようになった塾生は我がファシスト党「我々団」の主力メンバーとしてその活動を担っていくだろうし、アナキズムやナショナリズムを信奉するようになった塾生は、それぞれ独自の活動を展開していくだろう。方向は三つに別れても、卒塾生たちは「同窓のよしみ」から親密な交流を続けるだろうし、ファシズムとはアナキストとナショナリストとの結託なのだから、つまり卒塾生のうちファシズムを選択した者によって担われるファシスト党「我々団」を間に挟んで、ファシズムを選択しなかった卒塾生たちが独自に組織してゆくアナキズム勢力とナショナリズム勢力の相互交流がおこなわれて、結果としては大枠においてファシズム勢力が形成されていくのである。

 こう抽象的に説明してもイメージが湧かないだろうから、塾の具体的なカリキュラムについて述べる。

 学習スタイルは、大きく読書会と上映会の二つである。ごく稀に、学校の授業のような、私が「講師」となっての講義スタイルの学習もおこなうが、基本的には読書会と上映会を一日おきに繰り返す。

 まず読書会について述べる。
 最初にマルクス主義について学習する。塾の全期間をとおして、要は革命運動史(文化運動史も含めて)を学んでもらうのだが、まずはマルクス主義の何たるかを理解していないことには、革命運動史は理解不能だからである。
 最初に理解してもらうのは、単純で教条的なマルクス主義である。いわゆる現代思想系の左翼学者たちは、そうしたものは真のマルクス主義ではない、マルクスの真意はそんなものではなかったと主張するが、その主張を理解するためにも、まずは古臭い教条的なマルクス主義の体系を理解しておく必要がある。
 テキストには、『共産党宣言』を使うことになるだろう。全部で5章くらいから成る薄い本だが、もちろん、このテの本を読み慣れていない者がいきなり読んで分かる本ではない。
 私の主宰する読書会はたいていそうなのだが、テキストを人数分用意し、まず参加者全員がその第一章だけを各自黙読する。その上で、理解できなかった箇所を挙げてもらい、理解できている者が解説する。参加者全員が疑問点を解消できたら、第二章へ進んで、同じことをやる。
 『共産党宣言』は薄いから、一日で消化することができるだろう。「一日」とは要は「9時5時」のことである。もちろん昼食時間を挟んで、読書会も上映会も、毎日「9時5時」でおこなう。
 教条的なマルクス主義についての学習は、この『共産党宣言』一冊だけにするか、それともさらに『賃労働と資本』とか、あるいは『フォービギナーズ マルクス』とか、他にも1、2冊やるか未定だが、とりあえず「基本」だけ押さえてもらえばよい。
 次の読書会は、立花隆の『中核vs革マル』をテキストにする。新左翼運動史を学ぶには格好のテキストである。これも、「各自一章ずつ黙読した上で……」のスタイルである。これは上下巻の厚い本なので、消化するには2日か3日かけることになるだろう。
 間に高木正幸の『全学連と全共闘』などを挟むかもしれないが、新左翼運動史を理解した上で、次は竹田青嗣の『現代思想の冒険』である。塾生はここで初めて、デカルト、カント、ヘーゲル……といった近代哲学史に触れることにもなる。しかし後半のいわゆる「現代思想」を扱った部分は、新左翼運動史をふまえていなければ本当は理解不能であるはずで、つまり私としては入塾後かなり早い段階でまずは近現代の思想史を塾生に大ざっぱに理解してほしいのだが、近代思想はともかく現代思想まで含めた思想史を理解してもらうにはその前提に新左翼運動史の理解が必要で、新左翼運動史を理解するにはその前提に教条的なマルクス主義についての理解が必要であるという判断から、これまで述べたような順序になっている。
 近現代の思想史をおおまかに理解してもらえば、あとはラクである。順番はもはやどうでもいい。
 塚原史の『言葉のアヴァンギャルド』をテキストに、20世紀前半の前衛芸術史を学ぶ日もある。扇田昭彦の『日本の現代演劇』をテキストに、演劇史を学ぶ日もある。何をテキストにするか決めていないが、英米のロック史やJポップ史を学ぶ日もある。これらアート系諸分野の通史は、思想史や革命運動史を先に踏まえているといないとでは、その理解の度合いに格段の開きが出てくる。昨今のアート・シーンが総じて低レベルでくだらないのは、そういう基本のできていない連中が大量に参入した結果でもある。
 半年間のカリキュラムの前期3分の1で、さまざまのジャンルの通史をひととおり押さえた上で、中盤3分の1の期間は、さらに詳細に運動史を学ぶ。例えば日本の戦前期については、10年ごとに丸一日を使う。戦後史は60年代半ばまでまず5年区切りで丸一日を使い、それ以後は1年ずつ進めてゆく。むろんその際には、狭義の政治運動シーンでの重要事件のみならず、サブカルチャー・シーンにおける重要な動きや、流行語やベストセラーなどの社会風俗的な現象まで幅広く扱い、その時代を全体的にとらえることができるようになってもらう。ヒット曲の類は、代表的・象徴的なものを実際に何曲も聴いてもらう。
 後期3分の1(正確には後述するように最後の1ヶ月を除く「5ヶ月目」の1ヶ月間ということになるが)には、比較的固いテキストを使う。柄谷行人や大澤真幸といった現代思想系や、笠井潔『テロルの現象学』、スガ秀実『革命的な、あまりに革命的な』などである。これらをちゃんと読みこなすには、つまりそれまでの4ヶ月間に身につけた教養を総動員しなければならない。柄谷や大澤はともかく、笠井やスガが若い諸君にあまり人気がないのは、若い読者にそれを読みこなすだけの教養が欠けているためだと私はニラんでいる。
 以上が、塾のカリキュラムの半分を占める読書会形式の学習のおおまかな全体像である。すでに述べたように、半年間(後述するように正確には5ヶ月間)をとおして、読書会の日、上映会の日、読書会の日、上映会の日……と交互に繰り返される。

 では上映会ではどんなことをおこなうのか。
 とにかくひたすら、いろんなものを観てもらう。
 塾などという形態で「教える」ことのできるものはしょせん知識だけであるが、革命的な運動を担うにはもちろんセンスも必要である。センスを「教える」ことはほとんど不可能だが、大量の作品に触れることは、センスを磨く糧にはなる。上映会には、そういう目的もある。
 もちろん、分かりやすく「革命的」な映画は重点的に上映する。『ファイトクラブ』とか『トータルリコール』とか、あるいは『カッコーの巣の上で』とか『アダムスファミリー2』とか。どう云えばいいのか分からないが、ある種の「基本的な映画」も観てもらう。例えば、『未来世紀ブラジル』、『タクシードライバー』、『ブレードランナー』、『時計じかけのオレンジ』……といったラインである。フェリーニだゴダールだワイダだ……といった例を挙げればキリがないが、そういう「映画史的に重要な監督」の作品もそれぞれ1本ずつくらいは観てもらう。
 あるいは『カサブランカ』と『ボギー、俺も男だ』とか、『十二人の怒れる男』と『12人の優しい日本人』といった、よくできたパロディ映画とそのネタ元を続けて上映、という試みも考えている。
 とにかく「9時5時」で3本も4本も連続上映して、大量の作品を浴びるように観てもらう。ダレないよう、「同時上映」の組み合わせを考えてメリハリはつけるようにする。
 もちろん日本映画も上映するし、ドキュメンタリー作品も観る。「映像の世紀」などはもちろん全部観る。
 『コンプリート・ビートルズ』、『ウッドストック』、『8マイル』、『24アワーズ・パーティ・ピープル』といった音楽映画や、BBC制作の「ロックが駆けぬけた半世紀」といった音楽ドキュメンタリーも観る。
 いくつかの演劇作品については、まず戯曲を読み、その後で舞台映像を観る、ということもやる。
 シティボーイズ、イッセー尾形、大川興業、ラーメンズ、あるいはモンティパイソンといった、知的な路線の「お笑い」の上映もやる。
 さまざまの刺激を与える大量で雑多な映像を、とにかく浴びるように観てもらうということだ。

 さて、読書会にせよ上映会にせよ、「9時5時」である。
 共同生活であるから、「食事当番」などの雑務が多少あるとはいえ、「5時9時」は自由時間である。毎日8時間寝たとしても8時間余る。そうした時間を、塾生は自由に使ってよい。
 塾内には大量の文献、音源、映像がある。正規の「授業」で扱うのはそれらのほんの一部である。
 文献は、「授業」ではほとんど入門書的なものしか扱わないが、そうでない書籍も大量にある。また、入手の容易でないビラやミニコミの類も大量にある。もちろん、「勉強」に疲れたら、エンタテインメント小説や軽いエッセイの類もこれまた大量にある。
 音源も、邦洋問わず、たいていのものは揃えてある。例えば渋谷陽一の『ロック・ベスト・アルバム・コレクション』で紹介されているものを片っ端からレンタル屋で借りてきてi-tuneに入れてあったりもする。
 映像ソフトも大量にある。最近、レンタル屋はVHSからDVDへの切り替え進行中で、VHSソフトを1本50円とか100円とかで放出しているから、大量に買い込んで揃えてある。これまた例えば文春文庫の『洋画ベスト150』で紹介されているような作品は9割方置いてある。アカデミー賞作品も、第一回の『つばさ』なんてものからこれまた9割方は揃えてある。
 つまり、半年間ではとうてい消化できない量の文献・音源・映像が塾内に常備されているのである。絶対に押さえておいてほしいものは正規の授業で読ませ、聴かせ、観せるが、あとは個々の塾生の興味のおもむくままに、「自由時間」を活用して渉猟していってほしい。これまた面倒見のよいことに、塾内には複数のCDラジカセやビデオデッキや小型テレビ、さらにはヘッドホンまで用意されている。
 もちろん、時には塾生同士の議論や飲み(タダ酒も常備!)、あるいは私が開発して伝授するゲーム形式のセンス・トレーニングに時間を費やしてもよい。

 順番は前後したが、この塾、名称を「革命家養成塾・黒色クートベ」という。
 塾舎は、福岡市内某所に確保した5LDKの一軒家である。
 塾生は、ここで私とともに半年間の共同生活をしながら「修行」の日々を送ることになる。
 「入塾費」や「月謝」の類は一切必要ない。それどころか、食費もこちらで負担する。もちろん塾舎の家賃や光熱費も、である。
 つまり塾生は半年間、食・住を完璧に保障された状態で、「修行」に専念できるのである。
 家賃・光熱費・食費・酒代などの必要経費は、私と、半ば塾生で半ば運営スタッフであるS嬢が働いてまかなう。S嬢は時々日雇いバイトをするし、私はほぼ毎晩「街頭ライブ」で稼いでくる。
 これほどまでに恵まれた「修行生活」を満喫するための入塾条件は、卒塾後に少なくとも4、5年は九州(沖縄を除く)にとどまり、何らかの活動を担う意思を持っていることである。そういう決意のない者を半年間も養うほど私やS嬢はお人よしではない。
 「何らかの活動」とは、必ずしも私が主宰しているファシズム結社「我々団」のメンバーとしての活動を意味せず、卒塾生は我々団に加盟する義務を負わない。また、この「何らかの活動」とは必ずしも狭義の政治運動を意味しない。このあたりは後述する。
 九州外からの塾生は、最後の1ヶ月間、何か福岡市内でバイトを見つけて通ってもらう。塾舎から通えば生活費は一切かからないのだから、卒塾時にはその1ヶ月ぶんのバイト代が丸々手元に残ることになる。それを、卒塾後の住居を九州内に確保する資金としてもらう。福岡市中心部以外なら、九州内では敷金その他計10数万円で風呂つきアパートを借りることができる(福岡市中心部でも、風呂なしアパートなら借りられる)。
 また、九州外からの塾生は、入塾の際に、家財道具一式を私に預けておくこともできる。そうすれば、卒塾後にわざわざそれらを取りに戻る必要がない。その「物置」としても活用できるよう、熊本の拠点アパートを引き払わずに維持しているのである。
 もともと九州内に本来の住居のある塾生や、貯金があってわざわざバイトをする必要のない塾生は、最後の1ヶ月間も学習に充てることができる。その場合、基本的には24時間が「自由時間」の扱いになるが、要望があれば「追加」の読書会や上映会を開催してもよい。

 さて卒塾後の「進路」である。
 はじめの方で述べたように、おそらくはほとんどの塾生が、卒塾時点ではファシストかアナキストかナショナリストになっている可能性が高い。もちろんやはりすでに述べたように、それ以外のものになってもらってもかまわない。
 が、うちファシストとなった者には、ファシスト党「我々団」の活動を担ってもらう。塾を経由した団員が10名を超えた段階で、私は「臨時総統」を辞し、その10余名のうちの誰かが正式の「総統」に就任する。
 ファシストとならなかった者は、それぞれ自由に活動を開始すればよい。
 ファシストとなった場合でもそうだが、その活動は必ずしも狭義の「政治運動」でなくてもかまわない。
 音楽活動を始めてもよいし、どこかの劇団に加入してもよい。文芸同人誌を始めるもよし、前衛美術シーンに参入するもよし、お笑いに走るもよし、飲み屋を開業するもよし、もちろん狭義の「政治運動」路線を選択して立候補準備にかかったり、労働組合を組織しはじめたりするもよし、とにかく何かを「発信」する側に回ってくれればよい。
 どんなジャンルを選択しても、卒塾生はそのシーンで短期間のうちに重きをなすに至るだろう。上記のカリキュラムを思いおこすがよい。私にしてみれば実はたいした「教養」でもないのだが、この程度の「教養」ですら、とくに地方において身につけている若者は皆無である。数年を経ずして、卒塾生たちが九州各地のさまざまのシーンで主導的役割を果たすだろうことは想像に難くない。

 例えば音楽活動を始めた卒塾生は、その活動の過程で獲得した「客」を、他の例えば演劇活動を始めた卒塾生にもつなげるようにする。逆もまたしかり。文芸活動に進んだ卒塾生も、選挙運動に進んだ卒塾生も、飲み屋を始めた塾生も、それぞれの客やファンや支持者を、互いに供給しあう。
 こうして政治運動も文化運動もごっちゃになった革命的なシーンが活性化する。

 というのがとりあえず数年スパンの私のビジョンである。
 ここまでイメージを提示すれば、私がそれを限られた特定のエリアで展開したいというニュアンスもさらに理解しやすくなるだろう。

 入塾志願者は5月21日時点で2名(九州外から1名、九州内から1名)である。このままさらなる志願がなければ、これに私とS嬢を加えた総勢4名での「修行生活」が始まることになる。
 たとえそうなったとしてもスタートするが、できれば塾生はもう少し多い方がいい。私とS嬢で、10名までは養う覚悟である。
 なお書き忘れていたが5LDKの塾舎には、ここにずっと住む私とS嬢以外の個室はない。私とS嬢の個室に1部屋ずつ、上映会に使う視聴覚室が1つ、読書会に使う講義室が1つで、DK部分が図書室も兼ねる。
 講義室が夜間は塾生の寝室となる。むろんザコ寝である。
 夜更かしして読書や映像・音源の視聴をしたい塾生は、視聴覚室や図書室や、ちょっとした廊下の部分でそうしてもらう。
 もう1部屋あるはずだと鋭い諸君は気づくだろう。これは女子塾生の寝室とする。もちろん女子もこの女子部屋でザコ寝である。というわけだから、女子も安心して入塾を志願できる。
 私とS嬢以外の一般塾生にはプライベート空間がないのだが、一般塾生諸君は私たちと違って半年だけの滞在なのだからそこらへんは辛抱してもらいたい。

 第一期は、7月1日から12月31日までの半年間である。
 諸君にはまだ1ヶ月、入塾を検討する時間が残されている。なにしろ決意と片道ぶんの交通費があれば身一つで入れる塾である。ギリギリまで検討してほしい。
 なおカリキュラム上、中途入塾は認められない。また、原則として塾舎には塾生以外の立ち入りを認めない方針であるから、スタート前の現時点ではともかく、開塾後は「見学」などのための短期訪問の類も認めない。
 7月1日以後に入塾を決意した諸君には、来年1月からの第二期生となってもらう。