総統に訊く(2)


 

 「学生運動を復活させようではないか」

 何ですかいきなり。

 「日本ではここ20年あまりの間、学生運動は事実上存在しない。そんな国は他には北朝鮮ぐらいのものだ。もちろん北朝鮮に学生運動がないのは苛酷な圧政だからで、日本にないのとは意味が違う。つまり日本だけが異常だということだ」

 それはそうかもしれませんが、しかし第一、そういう状況はたかだか20年どころじゃないでしょう。40年ぐらい続いているんじゃないですか?

 「それがまずマスコミによって作られたイメージにすぎない。マスコミは学生運動を“過去の話”にしておきたいのだ。そうであるかぎり、安心して“若者の政治的無関心”を嘆いたりしていられるから。たしかに現在、学生運動は壊滅している。しかしそれは80年代半ば以降のことで、例えば72年の連合赤軍事件を境に学生運動がほぼ消えてなくなったかのようなイメージは、本当に学生運動が壊滅してしまった80年代半ば以降にマスコミが定着させたウソだ。そもそも運動に高揚と停滞の周期があるのは当たり前で、70年代初頭から80年代の半ばまで、日本の学生運動が停滞局面にあったのは事実だが、消えてなくなっていたわけではない。つまり80年代半ばまでは、停滞と云ってもそれはいずれまた高揚局面が来ることを期待できる水準にとどまっていた。様子がおかしくなったのは、あくまで80年代半ば以降だ。実際、ほとんどの大学でいわゆるノンセクトの学生運動は、80年代後半から90年代初頭にかけての数年間に消滅している」

 今の学生に「ノンセクト」なんて“専門用語”は分からないと思うんですが。

 「これは失礼した。“セクト”というのは思想的な派閥のことだが、学生運動に関して云う時には、具体的には60年代から続いているいわゆる“過激派”の組織のことだ。中核派とか革マル派とか、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。これに対して“ノンセクト”というのは、そうした組織に属していない活動家のことで、もちろん運動である以上、集団を形成することはするにしても、組織的な縛りはユルくて、つまり個々の参加者の自由度が高い。セクトは特に70年代の過程で、使う言葉も運動スタイルも硬直しきって、状況に対応できなくなっていくんだが、ノンセクトは世代交代すればスタイルも変わる。もちろん硬直しさえしなければセクトだから悪いってことはない。しかし現実にはそういう“マトモなセクト”が少なくとも大規模には生き残らなかった。いっぽうノンセクトの学生運動は、80年代半ばまでは、全国のたいていの大学に、少数派ではあるけれどもそれほど極端な少数派ではないという程度には存在していた」

 それが80年代半ば以降、ついに壊滅してしまったのはどうしてですか?

 「いろんな理由があって、ここで簡単に説明するのは難しい。ただ一つには、これは少々我田引水っぽくもなるが、運動を継承しつつそのスタイルを柔軟に変えてもいけるような主体性を持った、つまりノンセクト向きのタイプが、私のように大学に行く前にドロップアウトしてしまったからだと思う。80年代後半というのは、管理教育がまだ全盛で、同時に高校を中退することが選択肢として一般化しはじめた時代だから、反骨精神と主体性を兼ね備えた人間ほど、大学に進まなかった。私の同世代で大学に行った人間というのは、少なくとも管理教育体制下で無事に高校を卒業できた程度には柔順なタイプで、たまたま勧誘されて学生運動に参加しても先輩から受け継いだスタイルをせいぜいルーティンに繰り返すことしかできないんだから、つまりノンセクト向きではない。だからノンセクトは本格的に停滞しはじめて、まだ高校中退という選択肢が一般化してなかった私より3つ4つ上の世代が大学を卒業する90年代初頭の時点で、ほぼ壊滅したということだろう。早稲田や法政という例外的な大学でも、活動家が少なくとも10人20人の単位でいたのはせいぜい90年代半ばまでだろうし、法政では松本哉という天才的な指導者が現れたためにその後も一瞬、奇跡的に盛り返したけれども、総じて90年代初頭にはノンセクトの学生運動は全国的に壊滅したと云っていい。管理教育が下火になって、ノンセクト向きの資質を持った学生はその後また新しく入学しはじめただろうが、その時点ではもう運動そのものが大学には残ってなかったわけだ」

 ということはつまり、今の現役の大学生のほとんどは90年前後の生まれだと思われますから、彼らはもう、生まれてこのかた、身近には学生運動なんて見たことも聞いたこともない、ということになりますよね。

 「せいぜい、ごく一部の大学に今も残っている、セクトによる学生運動ぐらいだろう。十年一日どころか三十年一日の、『日本帝国主義がどーのこーの』というビラや機関紙を発行する、どう見ても学生とは思えない謎の中年が仕切っているらしい“学生運動”を、自分には無関係なものと感じる方が当たり前だ。しかもほとんどの大学には、そういう“不思議な学生運動”すら存在しないんだし」

 ではどうすればいいんでしょうか?

 「どうするも何も、状況を一変させる斬新で画期的な方法なんかないよ。世の中おかしい、変えなきゃいけないと思う学生が、まず自分の大学で一人でビラでもまき始める以外にない」

 今どきビラまきですか?

 「すぐ『ネットで人を集めて……』とか云い出す奴が多いんだよ。そりゃネットも一つの手段として使えないわけではない。それはそれで使ってもいいんだけど、運動の核になるメンバーは、ネットなんかじゃ集められない。というのは、不特定多数の前に自分の姿を公然とさらしてモノを云う覚悟が、少なくとも運動を中心で担う人間には必要だからだ。ネットで集められるのはシンパだけだと思った方がいい。例えば自分たちの考え方や活動を紹介するサイトを作るのはいいし、むしろ作った方がいい。しかし、そのサイトを見ろというビラをまかなければ、サイトを作る意味もない。まあ大学の状況によっては、最初は公然とビラをまくのは難しいということもありうるが、その場合はビラ置きでもビラ貼りでもいいから、とにかくリアル世界に登場しなければ始まらない」

 しかしそう簡単に仲間が集まりますかね?

 「そこらへんは私は楽観的だよ。というのも、社会的・政治的なことに対する関心そのものは、近年急速に高まっていると思うからだ。私の印象では、無関心のピークは90年代後半あたりだったと思う。知的な若者は宮台真司に、バカな若者は小林よしのりに感化されていた暗黒時代だ。いずれにせよ社会問題なんかに深入りせずに、まったり生きろだのオトナになれだの、ろくでもない言説ばかりが流布されていた。ところがその後、状況は激変。宮台や小林さえ少しはマトモなことを云うようになったほどだ。社会のしくみを根本的に何とかしないことには状況はヒドくなる一方だと、よっぽどのバカでも分かるぐらい、日本社会が末期的な様相を呈してきた。“政治的無関心”の時代はとっくに終わっている。受け皿がないからそれが顕在化していないだけなんだよ。あるいはそれこそネットがガス抜きとして機能している側面もある。しかし一方で、ネットで“発言”してるだけじゃ何の意味もないということにも、マトモな人間はもう気づき始めているだろう。今や受け皿が必要なだけだ。そして受け皿というのは、まず一人でビラまきでもなんでもやってやる、という人間が作り出すものだ」

 その“一人”がなかなか現れないんじゃないですか?

 「それはもう単純に意志と決意の問題だから、議論してもしょうがない。決意した者がまず始めろ、と云うしかない。最初の一人がいればいいんだよ。もし自分の通う大学で自分が“最初の一人”になってやろうという者があれば、とにかくまずビラをまけと云いたい。ビラは愚直なものでいいと思う。ウケを狙ったり気をてらったりしない方がいい。そういうアクロバットは私や松本哉なみのごくごく稀な天才にしかどうせうまくやれないし、“今の世の中はおかしい、変えるべきだと思う、一緒に行動する仲間がほしい”といったようなことをオチャラケずにストレートに書いた方が好感も持たれるはずだ。明らかに学生でもなんでもない謎のオッサンやその下僕のような連中が、難解な“専門用語”満載の怪しいビラをまいてたって反応なくて当たり前だが、どうやらモノホンの学生らしき人間が日常用語でマジメな内容のビラを配っていれば、反応は必ずある。もちろん数人だろうが、しかしまず最初の数人の仲間が必要なのだ。一人ではなく数人になれば、あれをやろうこれをやろうと話し合えるし、楽しくなる。ハタから見て楽しそうであれば、さらに仲間は集まってくる」

 集まって何をやればいいんでしょう?

 「例えば私と同じように“学生運動の復活”を現代の最重要課題の一つと考えているらしいスガ秀実氏は、『とにかく何でもいいから目の前の教員と具体的に闘え』と云っているけれども、私は必ずしもそんな必要はないと思う。学生運動の伝統的なテーマと云えば学費問題とかサークル棟や学生会館の管理運営問題だったりするけれども、その種の問題ももはやどうでもいいような気がする。最低限、自分たちの“たまり場”的な空間を確保する必要はあろうが、べつにどうしても学内にそれを設けなければならない理由もないし、だから自治会だの学園祭だのもやっぱりどうでもいい。むしろ直接に社会一般の問題に目を向ける方がいいんじゃないだろうか。私は実は右翼学生運動の誕生を期待しているところがあるんだが、とりあえず右でも左でもいい。格差社会問題でも戦争反対でも、あるいは拉致問題でも外国人参政権反対でも、何でもいい。自分や、集まった仲間が重要だと実感できるテーマを愚直に追求すればいい。今、そもそもの私自身の志向というか、これまでやってきたこととは違うことをわざと云ってるんだが、身近な学内問題よりも、“天下国家を語る”的な方向の方が、逆に分かりやすい状況なんじゃないかと思うわけだ。学内問題、典型的には学生に対する当局の不当な管理の問題なんかは、例えば仲間集めのビラまきとか、あるいは具体的な社会問題への取り組みを呼びかけるビラまきを当局が妨害してきた時に初めて見えてくるような、むしろちょっと遠い問題かもしれない」

 今はまず天下国家を語れ、と。

 「例えば何か、ドキュメンタリー映画の上映会だとか、誰かを呼んでトーク・イベントを開催するとか、自分たちのテーマに沿って“やりたいこと”を追求してみる。すると、当局が教室を貸さないとか、情宣のビラまきやポスターの掲示をやらせないとか、あるいはイベントの開催そのものを認めないとか、いろいろ壁にぶつかるかもしれない。当局との衝突は、そういう問題が起きてからの話ぐらいに考えていればいいんじゃないか」

 さきほどチラッと、右翼学生運動の誕生を期待しているという話が出ましたが。

 「もちろん左翼の学生運動もあった方がいいんだが、右翼学生運動の方が未知の可能性を秘めていると思う。左翼学生運動には正直、たいした可能性はないんじゃないか。60年代末の全共闘でその可能性はとことん追求されたし、やりつくされた。どんなに盛り上がってもたぶん全共闘以上のことはできないし、そもそも左翼学生運動が再び全共闘ほど盛り上がるということもないだろう。しかし右翼学生運動の可能性はまだほとんど追求されたとは云いがたい。スガ氏の云う“目の前の教師と具体的に闘う”ことさえほとんどおこなわれてこなかったし、しかもやろうと思えばそれも簡単にやれる。アカデミズムの世界では今でも左翼の方が主流なんだから。かつて敗戦直後の“学園民主化”の時期に、勢いづいた左翼学生が“戦犯教授追放”の運動を展開したという話があるけど、それと逆のことをやるのも面白い。つまりまあ“レッドパージ”だな。北朝鮮を擁護するような言動を過去にさんざんやってきた左翼教授なんか掃いて捨てるほどいる。そういう左翼教授どもの“スターリニズムへの加担責任”を追及する右翼学生運動が盛り上がったら、大学当局や政府はどういう反応をするんだろうね。外国人参政権の問題にしたって、賛成・推進の立場の左翼教授はこれまた大量にいるわけだし。なんかいかにも“このファシストめ!”と罵倒されそうなこと云ってるけど」

 レッドパージ闘争ですか。実現したらすごいですね。。

 「在特会より嫌われそうだ(笑)。しかしまずはともかく、方向が右だろうが左だろうが、学生が社会問題に取り組む、それもボランティアだNPOだという“健全”で鼻持ちならん感じではなくて、社会の根本的な変革を要求する反体制的な運動をやることが珍しくも何ともないという、当たり前の状態を回復することが重要なんだが、私自身の希望としては、基本は右翼的な愛国路線で、かつ格差社会や管理社会の問題に関しては左派的な問題意識も一定導入する、というのが一番いいという話。左翼の学生運動に対しては、大学当局も政府も徹底弾圧の方針で臨んだわけだけど、右翼反体制の学生運動が盛り上がれば、弾圧はむろんするに決まってるとはいえ、同時にすごくやりにくいというか、対応に苦慮するんじゃないだろうか。そうなるとかつての左翼学生運動がたどったのとは違う展開もありうるわけで、つまり“未知の可能性”だね」

 そういう中期的・長期的な展望はさておき、いずれにせよまずは、我こそはと“最初の一人”に志願する学生が、あちこちの大学に出てこないことには始まりませんね。しかし左翼的な方向でやるならとりあえず大丈夫でしょうが、右翼的な路線を掲げる場合には、セクトの活動が残存してる大学だとかなり危険な気もします。

 「たしかにその点がちょっと心配ではある。しかしまあ、実際に手を出してきたら迷わず警察に突き出せばいいだけの話だ。そんなところで反体制運動の原理原則を律義に守ってたって仕方がない。少なくとも一人とか数人規模の段階でセクトと正面衝突して勝てるわけないし、正面衝突することに意味があるわけでもないし、左翼学生運動の歴史の中で“どんなことがあっても警察は介入させない”という“ルール”が結局セクト側だけを利してきたことは明らかなんだし、無意味な潔癖主義を内面化しない方がいい。一から運動を立ち上げなきゃならない段階で、どうせ滅びていくしかない“旧・新左翼”セクトとの争いにエネルギーを割くのは不毛にすぎる。もっとも、彼らもそういう都合のいい“ルール”が共有されているかどうか分からない相手に、しかも右翼であれば共有されていない可能性の方が高いと判断するだろうし、これまでノンセクトの左翼学生に対してやってきたような無茶をそう簡単にはやれないはずだよ」

 要するにあまりあれこれ心配しないでとにかくやる気のある奴はまずやれ、ということですね

 「そう。やりゃいいんだよ、やりゃ。簡単な話だ」

 


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