『人民の敵』第9号(2015.6.1発行)


コンテンツ2
〈発掘インタビュー〉with 沢村真司(仮名)

〈正規版“購読”検討用・抜粋〉


外山 “反抗的姿勢”みたいなものは中2から?
沢村 やっぱり小田実の『何でも見てやろう』だよね。あれを読んだのが中2の冬なんだよ。だけど中3の頃はまだ大前研一とか読んで、“生活者の視点”がどうこう云ってたぐらいだからさ(笑)。それでも同時に小田実の他の文章もたくさん読み進めてて、だんだん教条的な左傾化をしたんだろうな。……でまあ、会議(高校生新聞編集者会議)のことを知るんだけど、『ダッチうさぎ』とか会議の報告書とか全然きちんと読みもせずに、オレの方がエラいという確信を持ってて、オレが東京に出て行ってこいつらを“指導”してやらなきゃいかん、と思ってたんだよ(笑)。
外山 そうなんだ(笑)。
沢村 うん、すげえゴーマンな奴でさ(笑)。ただ、なんか“日の丸・君が代を粉砕する高校生ナントカ会議を呼びかける”とか何とか書いてあるのを目にして、なかなか骨のある連中もいるじゃないか、って自分は何もしてないくせに思ったりして(笑)。その呼びかけをしてる人の電話番号が載ってたから個人的に連絡して、「どういうことをやろうとしてるんですか?」とか訊いたりした。
外山 それは誰だったの?
沢村 Mさんといって、すごく妙な感じの、洋一(後の矢部史郎こと渡辺洋一)みたいな人なんだけどね。その人に、新聞部に届くと見せてもらえないから、会議の資料なんかを今後はオレにも個人的に送ってくれって頼んだ。で、高1の冬休みは、スーパーでみかんの叩き売りをやってた記憶があるなあ。会議に参加することは決めてたから……。
外山 バイトして資金を貯めてたんだ。
沢村 あ、ごめんごめん、よく考えたらその前年の中3の終わりの春休みに東京に行ってるわ。小田実の本を読んでたから、当時は「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連。小田らが80年に結成。80年代の“無党派市民運動”の中心団体)ってのが、とにかくものすごい組織なんだと思ってたんだよ(笑)。あらゆる市民運動の精鋭たちが集まってると思ってた。まだ電話代には気を遣ってたから、3分間だけ、と思いながら時々「頑張ってください!」みたいな電話を入れたりしてたんだよ。「デモのやり方を教えてください」とか「横断幕の作り方を教えてください」とか(笑)。で、中3の終わりに東京に行って、日市連の事務所を訪ねたり、国家秘密法の反対集会とか、『朝日ジャーナル』の“ネットワーキング”欄を見て(笑)、いろんな集会に行ってみたり。秘密法反対集会の会場は日比谷公園の小音楽堂で、見津さん(のちに秋の嵐の中心人物となり、95年死去した見津毅)が司会をしてたのを覚えてる(見津毅の遺稿集『終止符からの出発』巻末年譜に87年4月5日、日比谷公園でおこなわれた「やばいぜ! 秘密法 お花見っ大集会」に参加したとの記述がある)。「造反有理」(青生舎のパンク・バンド)のライブもあった。もちろんその時はどっちも個人的につながったわけではないけど。……小6の時の(たしかシンガポールだかマレーシアだかの)日本人学校の同窓会って名目で東京に行かせてもらって、そんなことばっかりしてた。それが最初の東京。


外山 もちろん青生舎にも連絡をとったんでしょ?
沢村 高1の5月ぐらいにね。ただ最初は、ちょうど“土井たか子を東京都知事候補に!”とかいう、“元気連”だか何だかっていう活動をしてるところっていう認識で、若者の運動だってことが分からなくて、電話だけかけて実際には足を運ばなかったんだ。後になって保坂の本を読んで、あれがそうだったんだ、青生舎は本を出してるだけじゃなくいろいろ活動もやってるんだと気づいて改めて連絡をとり直したぐらいで、まあよく分かってなかったんだよ。戦前の日共地下組織を訪ねるような気分で青生舎を初めて訪ねたりして(笑)、でも当時はすでに『KIDS』(青生舎が当初発行していた月刊機関誌『がっこうかいほうしんぶん』の後身)になって潰れかかってるような状況だったし……。
外山 もう『がっこうかいほうしんぶん』ではなく『KIDS』になってた時期なんだ?(移行は86年11月のようだ)
沢村 うん。だから、あんまり内実がないんだな、こんなにつまらいものなのかって感じた覚えがある。
外山 青生舎を訪ねたのはどの時点?
沢村 初めて会議に参加した時だよね。88年の春休み。……とにかくそれまでの、日市連関係の運動とか、あちこち訪ね回ってるうちにだんだん“高校生運動”みたいなイメージが出てくるんだ。たまたま行った先で、高校生ぐらいの奴が他にいないかなあって意識して探し始めたり。88年の関東会議の後もずっと東京にいたわけだし、ヒマじゃん。だからあちこち訪ねて、高校生でそういう奴がいないか、探してみたよ。その頃になるとすでに“高校生軍団”みたいなものを頭の中で勝手に思い描いてたからさ。“原発止めちゃおう会”だとか“赤かぶ家”(たしか当時の豊島区議かなんかの事務所で、山本夜羽音や鹿島拾市ら「秋の嵐」周辺の若者が立ち上げた「馬の骨」の拠点にもなっていた)とか訪ね歩いた。青生舎が紹介してるようなところにはだいたい行ったよね。
外山 「原発止めちゃおう会」も青生舎周辺だっけ?
沢村 なんで知ったんだろう。あそこはMPD(83年に結成されたブント系の新左翼組織で、リベラル派の選挙運動支援などをおこなっていた)なんだよね。あ、春に仙台に行った時にMPDの党員と知り合って、東京ではこんなことをやってるんだよって教えてくれたんだ。あと、洋一郎(のちの“社会派エロマンガ家”山本夜羽音=山本洋一郎)にもいろいろ教えてもらったり。
外山 洋一郎とはどこで知り合うの?
沢村 会議のOBとして、だよね(洋一郎は札幌北高校の新聞部員で、80年代前半期の新聞編集者会議系の有力活動家の1人だった)。
外山 それはもう88年春の時点で?
沢村 いや、春の段階ではまだだな。関東会議の夏でしょう。どういう経緯だったかな。名前は知ってたんだよね。ああ、『KIDS』に赤かぶ家のことが載ってたんだよ。


外山 ……で、森田に初めて会った時の沢村の印象は?
沢村 だからもうかなり“オレ様”じゃなくなってたんで……。
外山 森田と徹太郎が対立して激論になったりしてなかった?
沢村 その時期は事務連絡的なことがメインだったし、表面的にはケンカになったりはしてなかったけど、徹太郎ん家に電車で帰る時に、「君が早めに来て手伝ってくれて助かってるけどさー、会議も大変なんだよ。メンドリ派だとか、何々派だとか出てきちゃってね」みたいな話は聞いた。徹太郎が「森田さんって徹底的な討論を求めるタイプで、もともとはオレもそうだったんだけど、それだけじゃダメだと思うんだよ」とか云うんだけど、オレは実践的な経験が何もないからチンプンカンプンでさ(笑)、一方的に聞くだけで、何も云えなかったよ。とにかく表面的にはそんなにギスギスした対立みたいなものは感じられなかった。
外山 じゃあ単に印刷とか、そういうのを手伝ったりして……。
沢村 そうね。でも毎日毎日、それなりに議論したりもしてたよ。だから中西の(中西智康を実行委員長とした91年3月の第3回高校生会議に向けたミーティング。実行委員会は、中西ら古参メンバーはともかく、新参メンバーの劣化は否めなかった)を見てると、こんなことで大丈夫なのかって思ったよ。寝てる奴とかいるんだもん。まあ当時の新聞会議のミーティングでも、主に話してるのは森田で、隅の方でグタグダしてる奴もいるんだけど、いろいろ話し合うべき問題は次々と出てきたりしてね。地方の高校生が、参加するはずだったんだけど参加できなくなって云々とか。あと宿舎の布団の数が足りないことが分かって、森田が貸し布団屋に電話して値切り交渉とかしてて、そういう時は森田、大人びた声色を作って、「すごいなあ」ってただただ感動してた(笑)。……何を議論してたかなあ。“全体討論”のテーマを何にするか、とかだったかなあ。そのへんは結構モメてたような気もする。あと、森田からは“昔話”はだいぶ聞かされたよ。今はかなり停滞してるけど、2年上の先輩たちの代には『ダッチうさぎ』みたいなミニコミが乱立してて、いろんなイベントやキャンペーン的な行動がおこなわれたり、それが学校側の弾圧に遭ったり……っていう。
外山 そういう話をするのは主に森田なんだ。
沢村 うん。森田からしか聞かなかったと思う。
外山 ぼくもそうなんだよ。関東会議の宿舎で、沢村以外には知り合いもいないし1人でポツネンとしてたら森田が声をかけてきて、会議の経緯とかいろいろ話してくれた。
沢村 森田にしてみれば、そういう話を聞かせるに値する奴があんまりいなかったと思うよ。
外山 我々は値する奴だった、と(笑)。


外山 佐久間君って、仙台の?(高校生による反原発グループを主宰していた。第1回高校生会議参加者)
沢村 あれは青生舎情報で「かっぱ塾」に行ったら、反原発をやってる子がいるよ、って教えてもらったんだ。
外山 その“全国行脚”は、ぼくと一緒にやった88年暮れのやつじゃなくて、88年の関東会議の直前の、沢村の個人的なやつね。
沢村 うん。あ、他にも秋田の封建的な女子高に行ったな。何かのツテで、面白い先生が合宿を主催してるって聞いて行ったの。単なる女子高の、その先生が顧問として主催してる合宿だったけどね。
外山 新聞部の?
沢村 生徒会。あんまりちゃんと話はできなかったな。とりあえずこっちが出してる新聞とか、全国会議の資料とか見せたら、向こうは感激してたけどね。その後もいろいろ資料は郵送してたけど、何も返事はこなかったし。その時に訪ねたのは、他は東京周辺だけ。
外山 「共生舎」とかにも?(千葉県柏市にあった反管理教育運動の拠点スペース。元赤軍派の小学校教員が主宰し、当時“自由ラジオ”と呼ばれたミニFM放送なども実践した。89年3月の第1回全国高校生会議に中3で参加した前出の中西智康も当初出入りしていた)
沢村 存在は知ってたけど、高校生はいないって云われたから訪ねなかった。赤かぶ家と、原発とめちゃおう会と、もちろん青生舎と……。青生舎に行っても現役の高校生とか当時はもういなかったから、あんまり何度も行く気にはなれなかったけどね。あと青生舎の周辺で、反原発の若者交流会みたいなのに参加したっていう、名前は忘れちゃったけど、静岡の人を訪ねたかな。たしか名古屋にも行って洋一(前出のとおり後の“矢部史郎”。高校時代には県立旭丘高校の社会問題研究部の部長で、日雇い労働運動や反原発運動に関わっていた)に会ったんだよな。
外山 洋一とはどういう経緯で?
沢村 ネットワーキング名古屋とかいうピースボート系のスペースがあって、その年のピースボートが名古屋から出航するところで、洋一も乗って中国に行くとかで、ちょうどそこに来てたんだよね。で、なぜか最初の会話が、「君、何ヘル?」(どこの党派? の意)っていう(笑)。
外山 どっちがどっちに?
沢村 洋一がオレに(笑)。たまたま他の人とそういう“何々派がどうこう”って話をしてたんだよ。それを妙に思ったらしくて、いきなり横からそう訊かれた。
外山 どう答えたの?
沢村 いや、フツーに「そういうんじゃないよ」って。で、洋一がその日、アオカン(野宿)するとか云うから、付き合った。アオカンしてる時に、洋一が実は生徒会でいろいろやってて云々って話も聞いて……(たしか洋一は生徒会長でもあったと思う)。海のものとも山のものともつかない話をするんだ、洋一が。10数校で非公然の生徒会連合を作ってどうこうとか(実際にある程度は実体があったようだ)、名古屋ですごい地下活動めいたことをやってる奴なのかと少しビビったんだけどさ(笑)。洋一と別れた後に、今度は大阪の余里径倶楽部(不登校者向けの“フリースクール”を兼ねた反管理教育グループ)に行ったんだったかな。……もう少し後の時期に、修学旅行で京都に行った時にも、寺とか見て回ってもしょうがないから、あちこち運動関係のところに電話して、“イキのいい高校生はいませんか?”的な、さ(笑)。まったく何を考えてたんだろうな、オレ(笑)。
外山 “運動”のことで頭がいっぱいだったんだ。
沢村 それで、寺社見学をサボって鐘ヶ江(京都で反原発グループを主宰していた高校生。第1回高校生会議参加者)に会いに行った。実は、トレンディな奴だなあと思って圧倒されたんだよ(笑)。「若者の心を掴むようなことをやらなきゃダメだよ」とか云うからさ(のち90年に入る前後あたりから森田・沢村・外山・洋一ら高校生会議の中核メンバーが急速にラジカルさの度合いを深める過程で、機関誌的に時折発行されていたミニコミ『ごった煮』誌上で鐘ヶ江のそうした“トレンディ路線”は“反革命”として徹底批判された)、そういうものなのかな、オレはセンスが古いのかなあって、鐘ヶ江の云うことにいちいち動揺して(笑)。


外山 北海道はいつ行ったの? 「ほっけの会」といつ知り合ったのか、って意味だけど(宮沢直人をリーダー格とする88年の反原発ムーブメントの最左派「札幌ほっけの会」の最年少メンバーだった岩間陽子もやがて高校生会議系の中核的なメンバーの1人となる)。
沢村 88年の夏に北の方にも行くことにした時に、「北海道には面白い奴はいないの?」とはあちこち訊いて回ってたんだよ。そしたら洋一郎(前出のとおり後の山本夜羽音)が、「オレの後輩で岩間陽子ってのが中学校を留年しながら活動してるよ」って云ってた。それで電話番号は控えてたんだけど、実際にコンタクトをとったのは、高校生会議をやろうって話になってからで、そしたら向こうも「やろうやろう」って、一番ノリのいい反応で。「じゃあ(後に『ごった煮』に移行する高校生会議系のミニコミ誌で、当初は新聞編集者関東会議の参加者間の連絡用に沢村が発行を始めた『関東通信』に)原稿書いてよ」って云うと、いつも「書く」って云いながら結局1度も書いてきたことないんだけどさ(笑)。
外山 89年春の全国会議に向けた新聞編集者会議の実行委員会が分裂していく過程にはずっと居合わせてたの?
沢村 基本的には広島にいて、森田から状況を聞く感じだった。そもそも夏の関東会議の直前の頃にはすでに、高新連はもう実質的に潰れてて、それでも時々は集まったりもしてたらしいんだけど、オマエがいると集まりが悪くなるから出てくるな、とか云われたらしいんだよね、森田が。それに対して、「じゃあもういいわよ。関東会議はアンタたちでやんなさいよ」って飛び出したらしい。断片的にしか覚えてないけど、とにかくそうやって森田がパージされて、たぶん関東会議の準備を進める過程で、もう森田の理解者が誰もいなかったみたいなんだよね。橋本君(外山や森田と同い年の高校中退者で、森田・沢村・外山、さらに青生舎の唯一の現役高校生活動家として活躍していた笘米地真理と共に、5人で第1回全国高校生会議の実行委員会を形成する。ただしその後まもなく高校生会議系ネットワークとは疎遠に)も、関東会議に参加して初めてやっと数少ない理解者になるんだし、笘米地もまだ登場してないでしょ(外山と同様、やはり関東会議で初めて登場。なおそこで外山と意気投合し、89年10月にDPクラブが分裂して外山の急速なラジカル化が始まる頃まで、笘米地が高校生会議系では外山の最も近しい“同志”となる)。ミケさん(東京の女子高生で、森田・ミケ、そして福島のFとで三羽ガラス的につるんでいた)だけだったんじゃないかな。でもミケも高3だったからもうあんまりそういう場には出てこなくなってて……。
外山 いま説明してくれてるのは、88年春の全国会議の後の話だよね? その頃は森田の他には、沢村はどのへんと連絡を取り合ってたの?
沢村 F、ミケ、森田だな。徹太郎とは連絡してなかったし、ユタカともしてなかった。だけど森田って電話してもほとんど出ないんだもん。
外山 そうだったね(笑)。いつも留守だった。たまに出るとビックリしたぐらいで(笑)。森田が電話に出た時には、どんな話を?
沢村 内輪ウケの話ばっかりだよ。
外山 誰々は最近どうしてる、とか?
沢村 あと、学校でこんなことがあったとか、新聞を出したとか。あ、オレ、高2の1学期は新聞を出すのに熱中してたんだ。
外山 修道高校の新聞部で?
沢村 うん。
外山 学校批判的な?
沢村 全然そんなことないじゃん、あれ。見たことあるでしょ?
外山 知らない。
沢村 『ときめき通信』だとか……。
外山 ああ、あれか。軽いノリのやつだ。だけど沢村に『ときめき通信』ってタイトルを聞いた時に、なんてセンスのいい奴なんだ、と思ったよ(笑)。
沢村 えーっ!? 何で?(笑)
外山 だってぼくにはそういうセンスはなかったもん。当時はもっと生真面目でさ。とても『ときめき通信』なんてセンスは……(笑)。
沢村 『ごった煮』にするか『ときめき通信』にするか、ずいぶん悩んだんだけどね。それで後で『関東通信』の名前を変える時に、その時に使わなかった『ごった煮』を使った。
外山 よかったよ。『ときめき通信』になってたら、ぼくなんかとても寄稿できなかった(笑)。


外山 ……あ、1つ訊いときたかったんだ。夢一族って、どこでどう知ったの?
沢村 「ギョギョーム」(広島にあったアングラな若者たちのたまり場)ってテント芝居の実行委員会的なこともやってたんだよ。それで差し入れに行くのについてくようになって……みたいな感じ。
外山 一緒に行った「世紀末三文オペラ」(88年秋)が最初?
沢村 そうだよ。
外山 11月だっけ?
沢村 それぐらいだったかな。
外山 部落研総会の前後だよね。
沢村 だと思う。10月か11月か。
外山 まあ、それも何か資料が残ってるのを見れば分かるかな。
沢村 たしかテントで暴れたんだよね、オレが(終演後の打ち上げで泥酔して突然叫びながら側幕に体当たりし、たまたまその上で作業をしていた役者が転落しそうになった)。
外山 役者に殴られたりしてたよね(笑)。
沢村 酔っ払ってて覚えてないよ。
外山 ぼくが覚えてる(笑)。そうそう、それでぼくは秋好と知り合うんだよ。
沢村 そうなんだ。
外山 一緒に行った広島公演で、打ち上げの場で手袋をなくして、しょうがないから夢一の人に、「この後の福岡公演の時に取りにいくんで、もし見つけたらとっといてください」って云って帰ったの。で、福岡公演の会場に行って、「せっかく来たんだから観ていけ」って話になって、打ち上げにも残って、そしたらぼくが入った輪の中に秋好がいた。
沢村 へー。
外山 縁は何とやらと申しますよ(笑)。
沢村 世界は狭いよなあ。
外山 やっぱのあの頃は、とにかく何か動いてさえいれば自然に次々とつながるような状況だったんだよ。そういう時代のパワーみたいなものがあったよ、あの80年代末には。
沢村 今はないの?
外山 ないよ。
沢村 動く気にもなれないしな。再編期なんだろうね。
外山 あの頃は、ちょっと何かやれば人もすぐ集まってきてたもん。
沢村 例えば?
外山 ビラをまけば誰か連絡とってきたし、どっか行けば何かやってるやつがいて、歓迎してもらえたし。あちこちにいろんなことやってる奴がいて、そのツテをたどってどんどん広がっていけたじゃん。最近はもう、ぼくなんかに高校生が連絡をくれても、「今どこにも面白いとこなんかないよ」としか云えないもん(笑)。
沢村 連絡してくる人はまだいるんだ?
外山 少しはね。こっちももうパワーがなくて、3ヶ月ぶんぐらいまとめて手紙の返事を書いたりするんだけど、「今は何もないから、君が何か始めてください」としか書けない。
沢村 不思議なのは……もし仮にオレが今、高校生で何かやろうとしてたら、外山の本とか見つけて、巻末に載ってる連絡先にとりあえず連絡してみると思うんだよ。「他に誰かいませんか?」って、ギャーギャーうるさいぐらい食い下がって、外山を閉口させると思うんだ(笑)。「“面白い場所はない”とか云うけど、他にも連絡してくる奴とかいるでしょ?」って。「広島の方で誰かいませんか?」って訊くと思うんだよな。
外山 そこまで元気のいい奴がいないんだ。


外山 (88年末に第1回高校生会議の宣伝のために外山と沢村がおこなった“全国行脚”で)「ビジョンズ」の鐘ヶ江たちに会ったのは、何とかっていうフリースペースじゃなかった?
沢村 いや、反原発関係の何かの事務所だよ。京都の後は名古屋で、たしか結構人が集まったよね。
外山 あれは「高活研」(前出。高校生活動研究会)の人たちだったでしょ?
沢村 高活研と、岡崎の一派(愛知県岡崎市の頭髪自由化運動。なおこの数人の高校生グループのリーダーが、後に民青系全学連委員長を務め、現在は“オタクコミュニスト”を称しサブカル批評家として活躍する紙屋高雪である。彼らも第1回高校生会議に参加)。
外山 岡崎の連中はどうして知ったの? そもそも当事者の1人が、有名な市民運動家(森山昭雄。愛知教育大の教授で共産党系文化人)の息子だったからかな?
沢村 いや、たぶん違う。……ふと思い出したんだけど、千葉に“粉砕”だか何だかっていう(笑)、何だっけ、あれ?
外山 えーと、“管理教育を粉砕する……”
沢村 “千葉の管理教育を粉砕する中高生の会”だ(笑)。あれは今思えば千葉大ノンセクトの関係なんだよね。森田が千葉大の連中とは知り合いだったみたいだけど。
外山 で、岡崎の連中は?
沢村 何で知り合ったんだっけなあ。
外山 洋一が知ってたんじゃないの?
沢村 そうだねえ……。
外山 あるいは青生舎関係?
沢村 そんなはずはないよ、岡崎一派は日共じゃん(笑)。
外山 すごく有名な運動になってたよね。なんか長髪登校を始めた息子を支援する運動として始まって……。
沢村 あと、明和高校なんかも訪ねたよね、2人で(88年9月、愛知県立明和高校で服装自由化を求める生徒30人が私服登校の実力闘争を開始し、全国報道された。メンバーの一部は渡辺洋一の高活研の活動にも参加していた)。
外山 行った行った(笑)。なんともうまく対話できなかった記憶がある。
沢村 田舎の高校生だったんですよ、我々が(笑)。
外山 いつ行ったっけ?
沢村 あれもこの全国行脚の時だよ。たしか早朝に笹島(東京の山谷、大阪の釜ヶ崎にあたる、名古屋の日雇い労働者街)に着いたんだよな。あんまり寝てなくて、眠くて何を話したんだったか覚えてないんだけど、高活研の人たちに高校生会議の話をして……その晩にたしか笹島の炊き出しで杉浦(中核派の高校生だった気がする)に会うんだ。チャーミーとかいう奴にも会って、明和高校の私服登校の人の連絡先を教えてもらって……丹下君だっけ? 丹波君かな?
外山 丹下君。
沢村 電話してみるんだけど、向こうが警戒しちゃって会ってもらえなくて(明和高校の私服登校のメンバーも何人か第1回全国高校生会議に参加したが、この丹下ナニガシは参加していないはず)、しょうがないから翌日に明和高校に直接行くんだよ。
外山 生徒会を訪ねたら、生徒会の連中は私服登校のことを迷惑がってたもんね。
沢村 なんかチャラチャラした連中で、男と女がキスしてたりして、何なんだこいつらは、って(笑)。
外山 そうだったっけ。
沢村 イチャついてたじゃん。で、お菓子とか食べながら、軽薄な感じで。
外山 加治木高校(外山が通った2つ目の高校。鹿児島県。外山は教師たちだけでなく御用生徒会の連中とも闘争の日々を送った)の生徒会もあんな感じだったから、とくに驚きもしなかったけどね。
沢村 オレは共学じゃないしさ。
外山 で、その夜に今度は岡崎に行くんだっけ?
沢村 そうだね。でもどこに行ってもあんまり話が盛り上がったという覚えはないんだけどな。
外山 その後に静岡に行くんだよ、浜松かな?(反原発集会で演奏した女子高生バンドを訪ねた)
沢村 あいつら、その後も東京とかでバンド活動を続けてるのかなあ。
外山 どうしてるんだろうね。
沢村 メンバーの家に行って、ライブのビデオ見せてもらったじゃん。そしたら「キンタマー!」とか下品なこと叫んでて(笑)。ブルーハーツのまんまコピーみたいなバンドだったけど……可愛い子がいたよね。
外山 よく覚えてないけど、1人いたような気がする(笑)。DPクラブ(外山が福岡で主宰していた反管理教育グループ)関係のビラとかミニコミとか、一時期までは送ってたんだけどね。
沢村 オレもずっと送ってたよ。
外山 何の反応もなかったけど、まあその程度の人たちだったんだろうな。あの頃、ブルーハーツのコピー・バンドなんかいっぱいあったし(笑)。だけど反原発の集会で演奏したとかじゃなかったっけ?
沢村 1回だけね。
外山 どうやって存在を知ったの?
沢村 名古屋のピースボートの事務所を訪ねて洋一と知り合ったでしょ。その時に反原発をやってるオバサンがいて、「浜岡原発の現地集会にも来てた子たちがいたわね」とか云ってたから、ついつい探し当ててしまったんだよ。その集会の実行委員会の人をつきとめて電話して、教えてもらった。
外山 すげーな(笑)。そうだよね。それぐらいやんなきゃネットワークなんか築けないよな。


外山 ……6月の文化祭ってどういう話だったっけ? 高校生会議の連中が何人か行ったよね。誰が行ったっけ?
沢村 ミケ、F、森田でしょ、あと洋一、外山……来たよね、Fに会いに(笑)。
外山 うん(笑)。
沢村 でも毎年どっかの文化祭に行ったりしてたんだよね。その前の年は灘高の文化祭に何人か行ってたし……たしか水戸が「ウチの文化祭に来い」って呼びかけたんだと思うんだよ。それでFとかミケとかが来るって云い出して。オレが呼びかけたって来なかったと思うけどさ(笑)。
外山 あの時、文化祭が終わった後にどこか、フリースペースみたいなところに行かなかったっけ?
沢村 あれがその“小さな学校”の人の娘の家なんだよ。実家がすぐ近くにあるのに、なんか知らないけど一人暮らしさせてもらってたんだよね。たまたまそこが使えたから、そこに行ってドンチャンしただけだよ。
外山 ぼくはたしか、すぐ福岡に帰っちゃったんだけどね。
沢村 なんで?
外山 いや、Fのことでツラかったからさ(笑)。一応いったん行って、みんなが買い物か何かに出かけた隙に帰っちゃった。
沢村 そうだったっけ。何も云わずに、いきなり?
外山 たしかそうだった。会議系じゃない人が誰か他に1人残ってて、「帰る」って伝言だけ残して。
沢村 悲しい話だ(笑)。
外山 いやー、ツラかったよ、あの時は(笑)。
沢村 そういえば文化祭に関しては、“タテ看事件”とか、しょーもないこともありましたけどね。
外山 ああ、あった。何だっけ?
沢村 水戸が、文芸部か何かのタテ看を代わりに書いてやったんだよ。「君たちは目覚めなければならない」とか、ゲーテがどうこうとか(笑)。
外山 「ゲーテは我々に味方するか?」だっけ?
沢村 そんなやつ。文芸部っていうか、修道では“文芸班”だったけど、そのタテ看を水戸がゲバ字(学生運動特有の書体)で書いたんだよな。それを大々的に目立つとこにバーンと立てるなんてことに、もちろん当局が気をよくするわけないからさ。当然「ダメだ」って云われて、「なんでダメなんだ」ってオレたちが怒って抵抗したわけじゃん。でも当事者の文芸班の連中が日和っちゃったからなあ。オレはその時、完全に熱くなっちゃって、「このままワッショイ・デモをやろう」とか云ってたんだけど、あまり誰も乗ってくれなくて(笑)。教師たちと激論してるのを、洋一とか外山まで、取り囲んで聞いてたんだよね。
外山 修道高校は私服登校が認められてたでしょ。だからぼくらも修道の生徒のフリをしてた(笑)。
沢村 その後、生徒会室かどっかで、教師役と生徒役に分かれて架空のティーチ・インみたいなことをやったじゃん。モメた場面の再現というか。洋一が教師のモノマネをして、「先生は君たちより30年も長く生きてるんだぞ!」とか云って(笑)。
外山 覚えてないな。それは同じ日? ぼくが帰っちゃった後じゃなくて?
沢村 そんなに早く帰っちゃった?
外山 2日目とかならもういないよ。
沢村 分かんない。女装大会とか見てないの?
外山 それは?
沢村 オレが女装して、すげー気持ち悪かったらしいんだけどな(笑)。
外山 見たような気もするけど……Fのことで頭がいっぱいだったんだな(笑)。


外山 釜ヶ崎暴動(90年10月。ほとんど70年代初頭以来、日本で発生した久々の“暴動”だった。労働者たちを暴力的に支配する“手配師”のヤクザが地元警察と癒着していた証拠が出て、暴動となった。報道されるや、地元大阪だけでなく全国各地から、政治派やヤンキー系のみならず単に鬱屈したタイプまで、多くの若者も興奮して駆けつけた)のことを聞いておかないと。行ったんだよね?
沢村 行ったよ。2日目の終わり頃だけどね。
外山 どういう成り行きで行くことになったの? そもそもまだ格納庫(埼玉県入間市の農家の小屋を改装してテント劇団「驪團」が稽古場として使用していたのを引き継ぎ、森田・沢村・洋一ら高校生会議系の数名が89年末から共同生活。別称“稽古場”)に住んでたんだっけ?
沢村 いや、中西宅(高校を中退し、新高円寺で一人暮らしを始めていた)に居候してたんだ。
外山 格納庫っていつまで存在したんだっけ?
沢村 オレが住んでたのは9月までなんだよね。前年の暮れに住み始めて、実質的には7月まで。8月は北海道に行ってたし。
外山 そういえば格納庫って、第2回の会議以降は誰が出入りしてたの?
沢村 深沢君(“民青君”と呼ばれていた、民青内の不満分子)、「10代の会」関係、橋本君(「風の旅団」の役者だったゴドーこと橋本吾道のことと思われる。第1回高校生会議にも一瞬参加)も呼べば来てたし、あとはエミリー(第1回からの会議参加者。首都圏のある種悪名高いアナキスト活動家の妹だが、本人はどちらかと云えばサブカル志向だった気がする)とか……。
外山 エミリーも住んでたよね?
沢村 うん。5月ぐらいから。
外山 恒常的に出入りしてた人はそんなもん?
沢村 あとは中西でしょ。時々外山も上京して来てたでしょ。後半の時期は京大の人たちもよく訪ねてきたけど。
外山 中西宅はいつからあるんだっけ?
沢村 中西がアパートを借りたのは……8月だ。
外山 いきなりスドーが転がり込んだんじゃなかった?(数藤俊彦。福岡のDPクラブの主力メンバー。沢村と同い年だが休学だか留年でこの当時まだ高3。家出して一時上京したのだったと思う。親元から外山に問い合わせがありスッとぼけたような覚えがある。スドーは高校生会議には参加しなかったが、DPクラブと他の高校生会議系との親密な交流の過程でほぼ“一員”的な扱いになっていた。11年6月、喘息発作で死去)
沢村 そうそう。あと、この頃みんなでTシャツを作ったりしてたな。“レーニンTシャツ”だとか。
外山 どこで?
沢村 中西宅で、森田とか水戸とかが。……釜ヶ崎暴動の話だったでしょ? あれは、たまたま中西宅に森田も水戸も集まってたところだったんだよ。
外山 そもそも90年7月に、神戸の校門圧死事件(7月6日)で現地にビラまきに行ったでしょ(90年後半の外山そして高校生会議派の、反管理教育運動の最左派としての急激な突出のメルクマールとなった闘争。DPクラブ名義での高校生会議派による“闘わない生徒”批判の激烈なビラまきは何度かおこなわれたが、初回の7月16日のメンバーは外山・沢村・中西の3人)。
沢村 行ったね。
外山 あの後はしばらくどうしてたの?
沢村 あの後は……仕事してた。解体工事の。
外山 中西宅から?
沢村 その時はまだ稽古場。それでカネを貯めて北海道に行った。1ヶ月ぐらいいて、東京に戻ってきてからはしばらくイトケンの家でゲームとかしてて、その後に今度は大阪の女性のところに転がり込むの。
外山 それも8月中?
沢村 もう9月。そこから今度は京都の水戸のアパートに行って……もうHCNの集会(90年8月5日、森田・外山・水戸・スドー・イトケンの5人で、神戸で開催された校門圧死事件がらみの高校生集会に参加、大多数の中高生参加者と険悪な激論となり、予定調和の集会を“粉砕”した。現地ビラまきに次ぐ高校生会議派の突出の第2のメルクマール)も終わってたでしょ。で、その後に稽古場に戻ってみたら、夢一族が芝居の稽古に貸してくれって云うんで貸したらメチャクチャ汚しやがって、住めない状況になっちゃってたから中西宅に脱出したんだよね。
外山 それで中西宅にしばらくいたんだ。何をしてたの?
沢村 仕事と……ダラダラ(笑)。とにかく働いてたね、あの頃は。
外山 そういうところに釜ヶ崎暴動が起きるんだ?
沢村 うん。ある日たまたま、水戸とか森田とか、バッと集まったんだよ。で、テレビをつけたら大阪で暴動が起きてるっていうから、「うわー、どうしよう。行こうか?」って話になったの。だからほんとに“たまたま”なんだ。水戸はちょうどその日に京都からやってきて、また関西にトンボ帰りするようなことになっちゃったんだけど。暴動が起きてるってテレビで云ってて、「マジ?」「こんなことが起きるの?」「野次馬に行こうか?」「行こう!」って。その時はタクシー使って用賀まで行ったもん(笑)。