どいの そもそも芝居が好きな人たちの群れではなかったんだな、おれたち(笑)。
五月 たしかに古参メンバーと最近のメンバーではそこが大違いだよ。古参は誰も演劇好きじゃない(笑)。ツアーをやってない時期はろくに他の芝居を観にも行かないし、まして自分がやるなんてとんでもないっていう(笑)。
外山 どいのさんたちは最近は主に毎日、事務作業に追われてるの?
五月 ファンクラブ会員向けにDVDを編集したり……。
どいの これまで宣伝用には北海道のニュース番組で特集された時の映像を使ってたけど、あれももう何年も前(09年)のものだし、各地での宣材用にも何か新しいものが必要だろうってことで。
五月 映像編集のこととかよく分かってないから、いざ始めてみると大変なんだよ。素材をただ短く編集すればいいんだと思ってたけど、そんな簡単な話じゃないことに始めてみてから気づく(笑)。
どいの あとは草を刈ったり、馬小屋(物置)を修理したり……。
外山 とても演劇人の生活とは思えない。ただの農夫(笑)。
外山 どいのさんは高校時代から芝居をやってたんだよね?
どいの うん。
外山 その時点ですでに黒テントに影響を受けてたんだっけ?
どいの そうだけど、一番最初の時点ではむしろ新劇の理論書とかを読んでたんだ。それこそ千田是也とかを読んで、面白いなあと思って芝居を始めた。
外山 実際に芝居を始める前にそういうものを読んでたってこと?
どいの そう。完全に理屈から入ってる(笑)。
外山 ……五月さんも高校から?
五月 やってない(笑)。演劇はまったくノータッチ。
どいの だけど五月さんは釧路の高校時代に「ジス・イズ」(どくんご釧路公演の受け入れ先)で大野一雄(土方巽と並ぶ“暗黒舞踏”の巨匠。10年に百三歳で死去)の公演を観たりしてるんだよ。
五月 黒テントもやっぱり「ジス・イズ」が釧路に呼んでたらしいんだ。すごく面白かった時代の黒テントのはずなんだけど、結局その当時は出会わずじまい。
外山 「ジス・イズ」って店にはよく行ってたの?
五月 そうでもない。
外山 じゃあなんでまた大野一雄なんかを?(笑)
五月 ポスターを見て、これは面白そうだって友達と観に行った。ダンスというか、“踊る”ことには関心があったのね。そういう時代だったし……。
どいの どういう時代だ(笑)。
五月 いや、体育の授業に“創作ダンス”とかが取り入れられ始めたり……。何人かずつのチームに分けられて、それぞれダンスを作って発表する、みたいなことが始まった頃だと思うよ。
外山 だけど学校が求めてた“ダンス”は大野一雄とかじゃないでしょ(笑)。
五月 うん、違うと思う(笑)。
外山 どいのさんもそうだけど、後続世代のテントの人たちって、赤テントや寺山テント(寺山修司の劇団「天井桟敷」)じゃなくて、反発してるにせよ継承意識を持ってるにせよ、どうも黒テントを一番意識してるみたいだよね。それはやっぱり“公有地闘争”(民間の自主的な企画での公共公園の利用をなかなか許可しようとしない日本の都市管理行政を問題視して、市街地の公園での公演実現にこだわった黒テントの方針)だとか、単に演劇作品の内容だけにとどまらない、演劇を取り囲む状況全体に切り込もうとした姿勢が関係してるのかな。
どいの そうかもしれないね。黒テントには“運動”的な側面が濃厚だもん。赤テントも“運動”だっただろうけど、それを“運動だ”とは絶対自称しないもんね。黒テントは“運動”であることを公言してたし、実際に“運動”的に展開してたし。
外山 ちゃんとした演劇批評の確立まで目標に掲げて、演劇誌(機関誌「同時代演劇」)を発行したり、晶文社の人もメンバーだったりして。
どいの ああ、津野海太郎(晶文社の編集者で、黒テントの演出家の1人)。おれも頭でっかちの高校生だったし……。
外山 まず評論から演劇に入ってるんだもんね(笑)。
どいの 黒テントの理論家の1人に佐伯隆幸って人がいるけど、彼の演劇論集を読んでも何を書いてるのか全然分からないんだ。一言も分からないと云ってもいいぐらい(笑)。だけどこの人は一体どういう情熱に取り憑かれているんだろうってぐらいの言葉の奔流にはヤラレたね。
外山 読んでないけど、ウチ(我々団本部)の本棚の演劇コーナーにも何か1冊あったような気がする。……ともかく高校生のうちにそういう黒テント系の演劇論なんかも読むようになってた、と。
どいの もちろん。佐伯隆幸を読もうとして「分からん、分からん」と頭を抱えて(笑)。シャープペンシルでたくさん線を引いてさ、主部と述部以外のところを残して消して、要するに何を云おうとしてるのか……(笑)。
外山 英文解釈みたいな読み方になっちゃうんだ(笑)。
どいの うん。ものすごい悪文なんだもん。
外山 たしか“赤い教室”(黒テントが開設した演劇教室)に通うために関東の大学に進学した、って。
どいの そうそう。要は“親と対決する”って道を選ばずに、親を納得させつつ黒テントに参加する方法として。何が何でも関東の大学に行くんだという決意で受験戦争を乗り切った(笑)。
外山 浪人はしてないんだ?
どいの うん。で、埼玉大に入学して黒テントの“赤い教室”に通い始めるんだけど、当時の埼玉大演劇部にはいい役者さんが結構いて、黒テントはまだまだ活動を続けるだろうし、逆に埼玉大演劇部で活動できるのは今しかないんだから、ということで次第に大学での活動に集中することになった。
外山 83年に改めて劇団名をつけることになったのは、何か理由があるの?
どいの だいたいその頃からおれの学籍も怪しい感じになってて(笑)、それと同時に、この先も続けていきたいような気持ちになり始めてもいて、だったら大学の名前を冠した“演劇研究会”だと具合が悪い気もしてきたんだよ。
外山 あ、“続けていく”ってのには“今のこのメンバーで”って意味も含まれてるわけだ。どいのさん自身の学籍もどうなるか分かんないし、他のメンバーもそろそろ3年、4年になって“卒業”とかが視野に入ってくる状況で……。
どいの そういうことですね。それにそもそも当時の首都圏の大学の劇団で、“何々大学演劇部”とか“演劇研究会”とか名乗ってるところはほとんどなかったし、それこそ早稲田の「第三舞台」みたいに何らかのそれらしい劇団名を名乗ってるのが普通だったってこともある。実際そうした方がすっきりするんだよ。“演劇研究会”だと、同じ大学の中にもう1コ別の劇団を立ち上げたりしにくいでしょ。学内に作風の違う劇団が複数あった方が面白いのに。
外山 たしかに「第三舞台」だって早大演劇部の中の3つ目の劇団って意味だもんね。
どいの そうなんだ。
外山 あれ? ずっと65年生まれぐらいだと思い込んでたから気づかなかったけど、どいのさんって、もしかしたら鴻上尚史(「第三舞台」主宰)と同じぐらいの世代かも。
どいの 向こうの方がだいぶ年上でしょう。
外山 58、59年ぐらいの生まれだと思うから、たぶん2、3歳違いだよ。「第三舞台」の旗揚げもたぶん80年代初頭だと思う(改めて確認してみると鴻上は58年生まれで、早大構内の“特設テント”での旗揚げ公演は81年5月)。
どいの へー、そうか。……そうそう、この年表では“83年に発足”って記述から85年3月の“第二期活動開始”まで2年ぐらい空いてるでしょ。この間に早稲田の構内の「こだま」って劇団のアトリエで、佐藤泰博の演出でぼくらが芝居をやってるんだ。早大の「こだま」って、久米宏を輩出した由緒正しい劇団ね(笑)。ちょうど同じ時期に、鴻上尚史も構内にテントを建てて芝居をやってて、それを「こだま」の人たちが「あんな奴らは“反動”だ、潰すべきだ」とか云って、シュプレヒコールを上げに行ったりしてて(笑)、東京の劇団の人たちはすごいなあ、埼玉大もこんな感じになればいいのになあ、って(笑)。
外山 埼玉大では学生運動にも多少は関わってたの? 自治会は革マルなんだっけ?
どいの いや、民青。ぼくらが一番近かったのは、やっぱり全共闘の末裔たちが愚連隊化したような……(笑)。そういう人たちは学園祭の実行委員会に集まってた。戦旗派(日向派)の人たちも多少いて、さらに中核派も少しいたから、一時期はかなりピリピリしてたみたいだけど(新左翼党派の多くが支援していた三里塚闘争の現地農民団体が83年3月に分裂し、そのどちらを支持するかで諸党派も2系列化して抗争が生じた)。あと、当時は“反原理”だよね。
外山 そうか、原理研の問題が焦点化してる時期だ(原理研=統一教会が学生運動潰しを狙って大学への浸透を図り、これに対抗することが80年代をとおして全国共通の学生運動の主要テーマの1つだった)。80年代初頭なら、学生運動はまだフツーに存在してたでしょう。
どいの 83年以前ぐらいの段階では、ぼくらも新聞委員会の人たちと関係してて、三里塚に誘われて一緒に行ったりもしてた。
外山 サークル棟にタムロしてるような文化系サークルの人たちは、学生運動の人たちと共存してて、誘われてたまにいろんな運動の現場に行くのも、当時はそんなに特殊なことでもない感じだよね、きっと。
どいの とはいえすでに“後退戦”の雰囲気だけどね。学園祭の実行委員会には、ジャズ研の連中とか、落研とか、あと意外にも“お茶研”とかの連中がいて……。
外山 オチャケンって茶道部のこと?
どいの うん。茶道の人たちって時に過激化するみたいなんだよ(笑)。
外山 知ってる。佐賀で見つけた飲み屋のマスターが、話し込んでみると佐賀大全共闘の中心メンバーで、佐賀大でも茶道部が全共闘の主力サークルの1つだったって云ってた(笑)。茶道ってハタ目には作法とかでガチガチの世界に見えるんだけど、実は“自由”こそが本質なんだとか。
どいの 茶室のあの入り口をくぐると、その瞬間からもはや“身分”なんか関係ないっていうね(笑)。
外山 ……唐十郎の芝居をやったというのは?
どいの 「淫蕩のエピグラム」の1年前ぐらいだね。
外山 84年あたりに……。
どいの その時も埼玉大構内にテントを建てて。
外山 「淫蕩のエピグラム」は、85年11月ってことはすでに風の旅団を観た後なんでしょ?
どいの これはもうまさに“影響モロ”の芝居ですよ。
外山 火とか水とか派手に使って……(笑)。
どいの そうそう。
外山 社会派な感じで?(笑)
どいの うん(笑)。
外山 将来的には旅公演をしようって志向も、もう芽生えてるの?
どいの どうだっけなあ……。
五月 私が入った時の印象では、旅“を”していこう、って感じではなかったよ。テントを買って、旅“も”してみよう、ぐらいの感じ。さらには稽古場も持とう、って。テントと稽古場、両方を持つためにお金を貯めようって話をしてた。必ずしもテント公演だけをやっていこうって感じでもなくて、ホールでの芝居もまだやってたし、ましてテントでの“旅劇団”になるような将来イメージはまったくなかったと思う。でも1度くらいは旅もやってみよう、ぐらいの。
外山 この85年11月と、その前の唐作品の時のテントは……。
どいの 単管(鉄パイプ)組みで……。
外山 当然、88年に旅をする時のテントはまだないんだよね?
どいの うん。シートはどこか、中央大学だったかな、他の大学の演劇部から借りてきた。当時はまだラチェットという道具の存在を知らずに、スパナでクランプ(鉄パイプどうしをつなぐ器具)を締めてたよ(笑)。
五月 いろんなことを実際にやってみて、それがうまく行ったり行かなかったりってことを繰り返してた時期だった思うなあ。面白そうだと思うものはいろいろ出てきて、それを次々に試してるだけで、旅“が”面白いって感覚はまだなかったと思う。
外山 “どくんご原始時代”って感じだね(笑)。「淫蕩のエピグラム」は旅団の影響をモロに受けてたって話だけど、その影響からはかなり早い段階で抜けちゃうの?
五月 うん。ほんの一時期だった(笑)。
外山 どこらへんで志向性が違ったのかな? もちろん旅団に限らず曲馬系の芝居は“イデオロギー先行”という印象が強いけど。
どいの 88年の最初の旅で、広島とかで例によって打ち上げの席で現地の受け入れの人たちから“生きざま”とか問われるんだよ。そのことでもうみんなウンザリしてたわけだから、少なくともその時点ではもう影響は完全に脱してるよね(笑)。
外山 いよいよ旅をしようって話は、86年あたりでもうかなり具体的に出始めてたの?
どいの 86年11月から12月にかけて、“メンバーをふたつの組にわけそれぞれ公演”とあって、山田零たちは“花組”と称して埼玉大構内で芝居をやるけど、ぼくら“雪組”は浦和の他に3ヶ所(横浜・松本・名古屋)の小劇場でやってるでしょ。
外山 えーと、この「ゲリラの棲む岸壁」ってやつか。
どいの それははっきりと、近い将来“旅”をすることを念頭においた“斥候”だったんだ。
外山 で、87年の1年間を、主に資金作りに費やす、と。いよいよ旅に出ようって話が具体的に進み始めるのには、何かきっかけがあったの?
どいの いや、旅を1回で終わらせずにその後もずっと続けるかどうかはともかく、1度はやろうってことは前々から云い合ってたわけで。そもそもテントで芝居をやることと、旅をすることは、イメージとしてセットになってたようなところもある。旅をしてるテント劇団しか知らなかったからね。実は関西には旅をしないテント劇団が存在してたし、そういうところは他にも各地にあったんだけど、知らなかった。
外山 86年の、近場の横浜はともかくとして、松本・名古屋の遠征でさっそく現地と何らかのつながりができたりもしたの?
どいの 名古屋で白髪とつながったのがこの時。
外山 あ、なるほど。
どいの あと松本のマホさんが……。
外山 マホさんはもうこの時点で登場するんだ。
どいの 88年の春旅には同行してるわけだし……中学を卒業してすぐ、春旅に参加した。87年中だったか、ぼくらは中学校の卒業公演を観に行ってるんだよ。
五月 マホさんが“妖精パック”を演ってた(笑)。
外山 『ガラスの仮面』で北島マヤが演るやつだ(笑)。
外山 ちょっと時系列が混乱してきたけど……とにかくいよいよ旅の資金が貯まって、88年の“春旅”ってことになるわけだよね。劇団を3つに分けたというのは、それぞれ“東日本”“西日本”“裏日本”を担当したんだっけ?
どいの ぼくら“星組”は東日本というか北日本を担当する感じがはっきりあったし、山田たちの“音組”もはっきり西日本を担当してたけど、“うねけ組”っていう佐藤チームは……。
外山 “うねけ”って何?
どいの 知らない(笑)。
五月 ヤッシーがつけたんだったか、何だかよく分かんない造語(笑)。
外山 “音組”には山田さんの他に誰がいるの?
どいの 山田、ケンちゃん、マホさん……。
外山 “星組”は?
どいの おれと五月さん、ズンちゃん、リッチーとか。
外山 “うねけ組”に佐藤さんって人と……。
どいの 外山君が知ってるところでは、ヤッシーだね。
外山 で、“うねけ組”はどっち方面を回るの?
どいの 地域的にはバラバラで、それまでにできてたツテをたどって各地を行ったり来たりしてた。
外山 あ、“星組”と“音組”で東西に分かれて主に“新規開拓”に挑戦して、“うねけ組”はもうすでに多少はツテができてるところを固めていくような役割だったんだ。
五月 そうそう。
外山 あ、“誘拐”ってぼくの云い方が悪いのか。さっきから訊いてるのは、“ハーメルン(の笛吹き)”的な意味での“人さらい”。芝居を観て興奮してそのままついてきちゃうような現象だね。
どいの そういうのは時々あったよ。
五月 やっぱり人数の多い時期って、こっちの目も行き届かないでしょ。連絡もうまく行き渡らなかったりして、1人置いてきちゃってることにしばらく気づかなかったり(笑)。それと同じで、逆にいつのまにか1人増えてたとしても……。
外山 座敷童だ(笑)。
五月 それでもまあいっか、っていう雰囲気が漂うんだよね。
外山 ぼくが初めてテント芝居ってものを観た頃(88年)には、旅の最後の頃は出発時点より人数が増えてるってことが毎回のように起きてるって、劇団の人たちが云ってた。あちこちで公演してるうちに、そのままついてきちゃう人が必ずところどころで出てくるって。だからテント芝居ってそういう、“ハーメルン”的なイメージがあったんだけど。
どいの ぼくらの旅でも多少はそういうこともあったけどね。
五月 だけどそれも「君を待っている」までだよ。「パブリック」、「サクラ」、「君を待っている」と大所帯で旅を続けてる時期。
外山 何人ぐらいだったの?
どいの 15人ぐらいかなあ。
五月 で、「君を待っている」をやる前に、借金できるメンバーにはみんな借金させて、ムリヤリ旅をやったもんだから、それが終わった時点でもう経済的に完全に行き詰まって、「もう無理!」って(笑)。
外山 連年のようにやってるもんなあ、88年、90年、91年と。
五月 “いつまでもこんなことやってられないわー”って感じでかなりのメンバーが一斉に抜けて行ったから(笑)、だからそれ以降は、“お祭り騒ぎ”的な勢いで旅をするというより……。
外山 もうちょっと堅実な……。
五月 “堅実”っていうか、すごい変わり者だけが残った(笑)。
外山 01年の「踊ろうぜ」の時は最初から背景が開きっぱなしで、そのまま最後まで1回も閉めなかったでしょ?
どいの えーと、そうだっけ(笑)。
五月 そうだよ。
外山 まずズンちゃんとヤッシーが遠くから、虫取り網とか持って走り込んで来て……。しばらく目の前で2人で何かやったと思ったら、今度は他の4人がまたもっと遠くから、昨年も使ってたブルーシートの宇宙服で「おーい!」って叫びながら手を振って登場する。そのまま最後まで、途中の劇中劇みたいな“シンデレラ駄洒落大会”のとこ以外、ほぼずっと開きっぱなしだった。ところが次の「ベビーフードの日々」(05年)の時は、基本的には背景は閉じてて、たまに開くような感じで。
どいの うん、そうだった。
外山 それについて、ずっと開けてるんじゃなく、最初は閉じてて、途中から開く方がむしろ“屋外でやってる”って印象を強く与えられることに気づいたって云ってたと思うんだけど……。だから「踊ろうぜ」以前は基本、開きっぱなしだったのかと思ってた。
どいの たしか“ぶり返し”みたいなことが起きてたんだと思う。やっぱりもっと開いていこうぜ、そっちの方が楽しいよ、って方向にいったん行った時期があったんだよ。
外山 じゃあ初期の、88年とか90年とかでも閉じてたの?
どいの その頃はまだ“テント”意識というか、テント“劇場”っていう意識が強いから、むしろ閉じてたよね。
五月 「パブリック」なんて、“外”なんかほとんど見えない。そもそも地面の舞台で、1段上がってもいないし、広いテントだったし、泥だらけで暗ーい感じなんだけど(笑)、「サクラ」の時は全部上がってて……。
どいの 舞台が、ね。
五月 でっかいフスマみたいなのがあって、それを開ければ外が見えるし、って感じにしたけど、それは単に開けたり閉めたりするだけで、今みたいに“だんだん開く”ってことでもない。その次の旅でもそうで、今度はフスマじゃなくて“ドア”だったかな。
外山 つまりテントの構造そのものは閉じてないんだけど、舞台装置で閉じてある、と。
五月 うん。「トカ・ワピー」が一番パーパーだった。
外山 開けっぴろげテント?
五月 そうだね。時々バタンと降りてくる扉みたいなのはあったけど、アミアミだし小っちゃいし。そこのフスマより小さかったんじゃないかな。
どいの それだけでも“閉じてる”感じは作れるはずだ、っていうコンセプトだったんだけどね。
外山 「ノンノット(ポケット、ゴーゴー!)」(98年)の時は?
五月 壁とかはないけど……。
どいの 背景は完全に開いてるんだけど、役者は舞台から下りないんだよ。
五月 そういうルールだった。
どいの 舞台を飛び出してバーッと背景に走り込んでいくとか、そういうことを禁止して(笑)。
外山 95年の旅には、具体的には誰がいるんですか?
五月 「トカ」は私と伊能と……ズンちゃんとトシちゃん(田代俊子。このインタビューでは聞きそびれたがおそらく初期からのメンバー)とケンちゃんかな(笑)。
外山 え? じゃあほぼぼくが知ってるような面々の“どくんご”は、もうこのあたりからなんだ。
どいの そうです。そのあたりが、ある一時期を担った“コア・メンバー”だね(笑)。
外山 05年の「ベビーフード」の時点ではまだ、ストーリーの“残骸”みたいなものがうっすらと感じられたんだけど。
どいの うん。そうだね。
外山 もちろん具体的にはさっぱり分からないんだけど(笑)、どうも背景に何かありそうなことは伝わってくる。
どいの 「踊ろうぜ」とかはもっとそうだし。
外山 うん。「踊ろうぜ」の方がはっきり……“ありげ”だった(笑)。
どいの 結局やっぱり“ありげ”にとどまるでしょ。どこまでもはっきり伝えるような説明能力もおれたちは持ってないしさ(笑)。
外山 「踊ろうぜ」ぐらいの“ストーリーありげ”な感じが、それまでのどくんごの平均的な感じなの? それともそれ以前はもうちょっとはっきりあったの?
どいの いやいや、やっぱりあんな感じですよ。
五月 でも「踊ろうぜ」ははっきり脚本があるし……。
外山 そうみたいだね。
五月 それ以前は、「チェーホフの『ワーニャ伯父さん』です」っていう(笑)、そういう“原作”みたいなものだけがあって(95年の「トカ・ワピー クエンダ・ワピー」は「原作」として「ワーニャ伯父さん」とあり、93年の「よろこんで」は近松門左衛門「堀川波鼓」、91年の「君をまっている」はチェーホフ「三人姉妹」がそれぞれ「原作」との表記がある)、その中から“やりたいシーン”をやればいい、みたいな。「踊ろうぜ」はそういうのとはずいぶん違った。“ストーリーがあります”ってことに縛られてしまって、“ヤバい!”と思ってもう次の「ベビーフード」では“やーめた!”って感じだったんだと思う(笑)。