『人民の敵』第8号(2015.5.1発行)


コンテンツ4
〈インタビュー〉with 小野和道

〈正規版“購読”検討用・抜粋〉


外山 黒テントとはどういう?
小野 初めて宮崎に黒テントが来たのが73年で、その時に上演運動というか、宮崎に黒テントを呼んだ人たちがいて、あと「ぐるーぷ連」という、井上貴子って人が宮崎で立ち上げた実験的な小劇場演劇の劇団もそれに関わってたんだけど、そのうち彼らがちょっと余裕がなくなってきたとかで、誰か引き継いでくれる人がいないかという話になって、ぼくも文化評論的な文章を『宮日(宮崎日日新聞)』によく書いてたし、彼らとつながりができてたから、じゃあぼくがやろうかって。
外山 宮日に書いてたのはどういう文章なんですか?
小野 美術批評とかかな。演劇批評も時々書いてた。宮日にそういう方面に詳しい記者が他にいなかったからね。他にもちょっとしたコラムを書いたり……。文学に関しては主に他の雑誌に書いてたけどね。
外山 それは宮崎の文芸同人誌的な……。
小野 そういうものもあったし、宮崎には『鉱脈』という、評論を主体とした大きな雑誌もあるし。ところが、そういうところに書きながら、文学というものに対する疑問がどんどん大きくなって、それを当時は論理的に解明することはできなかったんだけど、今から思えばそれもやっぱり70年代に起きた価値観の変動ってことに関わってる。当時はそれがまだ把握できずに、もっと感覚的に、「文学者の“生き方”がなってないから、こんなつまらない文学を書くんだ」とか云ってたんだけど(笑)。知識人たちは“目”だけで書いているが、大衆的な表現は“目”ではなく現実の生活の中でのさまざまなぶつかり合いの中から生まれてくるんだ、とか。東北から流れてきた3人ぐらいの旅役者のグループがいて、それについての批評として、彼らはきちんと彼らの生活実感の中から表現を立ち上げているって文脈で書いたんだけどね。とにかく既成の文学とか、いわゆる文学的な演劇といったものが少しも面白くないと感じるようになって、それがどうしてなのか、それらに変わる新しい表現がどこにあるのか、論理的には解明できずにいた。そういう状況の中でアングラ演劇との長い付き合いが始まって、そのうち文学評論なんかはあまり書かなくなって、むしろ都市論というか、宮崎っていうくだらない街がどうやって形成されたのかっていう……(笑)。70年代から始まって、90年ごろまで、とにかくずっとイライラしてたね。それが平成になったあたりでスポッと広い空間に放り出されたような気分になって、10年間、遊び呆けたんですよ。
外山 図書館にはいつまで勤めてたんですか?
小野 平成2年(1990年)に退職した。定年まであと2年あったんだけど、それで重しというか、活動の制約もなくなったし、やっと自由になれたと思って、黒テントや「どくんご」と関わって遊び呆けたんだね(笑)。
外山 黒テントはいつ頃まで“テント芝居”をやってたんですか?
小野 平成4年(1992年)まで。テントが老朽化して破れたんですよ。それでテント芝居がやれなくなって、宮崎にも来なくなったから、付き合いも終わった。それと入れ替わるように「どくんご」との付き合いが深くなる。
外山 「どくんご」とは何がきっかけで付き合いが始まるんですか?
小野 自動車に2、3人で、宮崎に流れてきたんだ。その頃ぼくはちょうど映画祭の実行委員長をしていて、それで彼らがぼくを訪ねてきたんだな。
外山 映画にも関わってたんだ。何でもやってますね(笑)。


外山 『サルママ』(宮崎で90年代半ばに数号発行され、昨年“16年ぶりに復刊”した本格的なサブカル系ミニコミ誌)とはどういう関わりだったんですか?
小野 神谷君(神谷マサユキ氏。90年代の『サルママ』編集長で、現在は宮崎市内のバー「ストロボマンボ」店主)って人がいるでしょ。彼がぼくの例の、どうしてこの宮崎というくだらん街ができたのかって本を読んで、感銘を受けたらしくて、「会いたい」って連絡してきたんだよ。会ってみると不思議なもんで、神谷君はウチの息子の中学校の同級生だった。噂も聞いてたんだ。高校生の時にロックバンドをやってて、女の子のファンもいっぱいついて、学校から注意されてたらしいんだよ。それで結局、高校を中退したって。そんな若者が宮崎にもいるのか、会いたいなあと思ってたんだけど、息子に「紹介してくれ」って云うのもヘンでしょ(笑)。その時はそれっきりだったんだけど、やがて神谷君から連絡があって、こっちも会いたいと思ってたのが10数年ぶりにようやく会えた。それからしばらくして神谷君が雑誌を作り始めて、ちょうどその頃ぼくも、それまでの既成の文学を思いっきり小バカにするような雑誌を始めようと思って、何人かで編集会議を繰り返してたところだったんだよ。だけど彼が持ってきた『サルママ』を見た瞬間に、おれがやりたかったのはコレだ! と思った。同時に、おれにはとてもじゃないがこういう雑誌は作れない、って自分の雑誌を始めることは諦めた。むしろ『サルママ』を宮日で紹介して、それに関連させて紙上座談会を5回やったよ。
外山 宮崎論壇で“『サルママ』問題”が突然……(笑)。
小野 なんでこんなものを取り上げるんだって抗議もたくさんあったようで、宮日サイドからも「やめてくれ」って云われた。こんなことを続けられたら宮日の文化部は崩壊するって云うから、崩壊すればいいじゃないかって(笑)。宮崎の演劇や美術や、あるいは『サルママ』とかからメンバーを集めた座談会を5回ぐらい。
外山 あ、『サルママ』の人たちも紙面に登場するんだ。
小野 うん。いろんな人を集めて、宮崎の図書館事情とか、劇場とか美術館について論じ合ったり。結局「あんなもの要らない」っていう話になるもんだから……(笑)。美術館なんか芸術作品の棺桶だ、チェルノブイリの石棺とそっくりだ、とか(笑)。演劇でも、宝塚をそのままリメイクしたようなものをやって、千人ぐらい観客を集めてる面白いところがあったんだけど、そういうものを絶賛するもんだから、宮崎の古い文化人たちには腹が立って仕方がないわけだ。そんな座談会を5回だか、8回ぐらい続けたのかな。はっきり「やめろ」と云われたわけではないんだけど、ぼくの担当だった記者がいじめられるし、それぐらいでやめた。
外山 『サルママ』にも載ってましたけど、宮崎に昔、ヒッピーのコミューンがあったっていう、あれはいつ頃の話なんですか?
小野 昭和43年(1968年)から何年間か(註.ネットで検索すると、ヒッピー・コミューン「夢見るやどかり族」が宮崎に存在したのは71年からとか、72年からとか、諸説ある)。ちょうどぼくがイギリスに行く頃に、彼らが宮崎に流れてきてコミューンを作った。
外山 宮崎の人たちではなく、よそから来た人たちなんだ。
小野 “ななおさかき”って人が中心的な、まあリーダーでね。詩人で、アメリカのゲイリー・シュナイダーなんかとも交流があった人。伊東旭っていう宮崎の画家が彼らを宮崎に呼んだんですけど、宮崎にとって非常に重要な、必要な人たちだと思いましたね。
外山 どのあたりにコミューンを?
小野 一ツ葉海岸の松林の中にテントを張って暮らしてた。今は港になってる場所だけどね。住居用のテントやら、全体の集会場やら、いろいろ建ってたよ。そこで毎晩、飲んで暮らしてる。ただ彼らは、いろいろ表現する能力は持ってるんだけど、それを長い時間をかけて鍛えていくようなことができない人たちだったね。ななおさかきって人は詩人だし、当時一緒にいた中から何人かは作家あるいは芸術家として自立していったけど、多くは反体制的な雰囲気、ドロップアウト文化に惹かれて楽しげに参加していただけだろうし……。一部はやがて屋久島に移動しましたけど、彼らが何年か宮崎にいたことは、ぼくなんかにもかなり影響を与えてくれました。何をしても生きていけるんだなあって。当時の若い人たちも影響を受けて、その代表的な1人が『サルママ』の神谷君だと思う。
外山 何か“店”もあったって……。
小野 ありました、中心街で「やどかり」って喫茶店。そこへ行くと、彼らが持ってるロックのレコードがかかってた。当時の宮崎にはロックなんか聴いてる人はほとんどいなかったし……。
外山 ヒッピーたちが黒船で運んでくるわけですね(笑)。
小野 彼らはアメリカから直輸入で持ってたりするんだもん。
外山 中心街の喫茶店と一ツ葉のコミューンとは、だいぶ離れてますよね。
小野 「やどかり」が“出店”みたいなものだった。自分たちの生活スタイルをアピールして、受け入れてもらうような役割もあったのかな。……ところが79年か80年か、宮崎が非常に不景気になった時期があって、彼らも経済的にやっていけなくなったし、港ができるというので立ち退きも迫られて、宮崎から出て行った。