外山 じゃあ今回はファシズム論にしましょうか。つまり世間一般にイメージされてる“ファシズム”って、単に右翼運動が凶暴化したような感じでしょ?(笑) だけど実際には、千坂さんもよく云ってるように、ファシズムの源流はむしろ左翼だったりするっていう。
千坂 そうだね。一般にはファシズムって右翼出自だと思われてるだろうし、せいぜいが右翼版のラディカリズムって理解でしょう。だけど右翼ラディカリズムとファシズムはやっぱり違うものだと思う。
最近、といってももう20年ぐらい前で、日本にだけ未紹介ってことにすぎないんだけど、ゼエヴ・シュテルネルって人が書いたファシズム論が、“ファシズム左翼出自説”なんだ。シュテルネルによれば、ファシズムが誕生したのは、イタリアでもドイツでもなくフランスで、シャルル・モーラス率いる右翼の「アクシオン・フランセーズ」の第二世代が左翼のサンジカリストと合流して「セルクル・プルードン」って組織を作ったのが始まりだという。“第二世代”ってことは、そもそものアクシオン・フランセーズとも距離があるってことだ。「セルクル」っていうのは英語で云うと「サークル」で、要するに“プルードン・サークル”ってことだね。
“プルードン会”って名称から明らかなとおり、アナキズムとも関連した団体でしょ。シュテルネルがファシズムの起源として見出したグループが、著名なアナキズム思想家の名前を冠してるってことに象徴的に表れてるものがあるよね。さらにはサンジカリズムの代表的なイデオローグといえばジョルジュ・ソレルでしょ? ソレルは、第二インターの社民的なマルクス主義を代表してたカウツキーやベルンシュタインへの批判として、“革命”ってものに再び暴力性を回復させなければならんということで登場してきた人だよ。そういう意味でもセルクル・プルードンって団体の存在は面白い。
常識的なファシズム論では、ファシズムは思想性のない一種のデマゴギーで、あっちこっちの思想から断片だけ拾ってきた“寄せ集め”みたいなもんだとか、あるいはプラグマチックに、自分たちの役に立ちそうなものは何でも使うけれども、そこに何ら原理的一貫性のない思想であるとか、さらにはニヒリズムとして理解して、ファシストは何も信じてなくて、すべては利用主義、御都合主義でいろんなことを云ってた……とまあ、世間に流布してるファシズム論って、せいぜいそういうものだよね。ところがシュテルネルによれば、ファシズムには明確なる理論体系があり、世界観があり、自意識があって、それはプラグマティズムでもニヒリズムでもない、というわけ。この研究が日本ではまったく紹介されてないんだ。もちろん専門の研究者にはある程度知られてるのかもしれないけど。
外山 その説自体がもう20年も前のものなんですね。
千坂 20年か、30年か(註.『The Birth of Fascist Ideology』という著作が89年にフランスで刊行されている)。
外山 シュテルネルは、ファシズムをどういう思想だと見なしてるんですか?
千坂 ベースにあるのは、いわゆる“生の哲学”だね。ファシストなりのある種の歴史意識によって支えられた“生の哲学”っていうのかな。そういうものが基底にあるから、べつに行き当たりばったりに路線を出してるのでも、何でも手当り次第に否定して破壊していたのでもなく、きちんとしたビジョンに基づいて行動してたんだってシュテルネルは解釈してる。つまり、知的な独立性を持つ政治的・文化的な現象であり、自由民主主義とマルクス主義を批判する第三の革命的立場である云々。どこかの出版社が翻訳を出せばいいのにね。フランス語の原本の英訳版は出てるし、英語が読める人はたくさんいるから、そういう人に訳してもらって読むと面白いでしょう。ファシズム論については他にもアメリカのカリフォルニア大学にロバート・スーシーって人がいて、邦訳すると『ファシスト知識人』というような、フランスの対独協力派つまりコラボ派のファシスト作家のドリュ・ラ・ロシェル論を書いたりしているけれど、彼は“ファシズム右翼出自説”の最近の第一人者だね。シュテルネルが“左翼出自説”の第一人者。だけどスーシーの方も日本では未紹介なんだ(註.千坂氏の古くからの友人である、草創期の新右翼活動家で現在は西日本短期大学教授の牛嶋徳太朗氏が、同短大の紀要でいくつか翻訳紹介しているようだ)。とにかく諸外国でのファシズム研究の成果が、日本ではいかに紹介されずに立ち遅れているかってことだよ。
外山 だけど、仮にファシズムがナショナリズムと社会主義の双方の要素を受け継ぐものだとしても、スターリンの“一国社会主義”だってそうじゃないかと云われかねないですよね。千坂さんは、スターリンの“一国社会主義”と例えばヒトラーの“国家社会主義”では何が違うと考えてるんですか?
千坂 ヒトラーの“ナツィオナル・ゾチアリスムス”は“国家社会主義”とも“国民社会主義”とも訳されるけれども、“一国”は抽象的で“国家”“国民”は個別具体的なんだよ。フランス国民とドイツ国民はそれぞれ別個に具体的に存在してる。ところが“一国”というのは、どこの国にも当てはめられるシステム的な概念だと思う。別の云い方をすると、スターリンの“国”は“国家”的であり、ヒトラーの“国”は“民族”的である、ってことでもある。人間でいえば、「個人」と「個性」の違いのようなことでもある。
エルンスト・ユンガーが『デア・アルバイター(労働者)』という本を書いてナショナル・ボルシェヴィズムだと評されたけど、G・ダルカン編集のナチス親衛隊の機関紙『黒色軍団』がユンガー批判を掲載してて、ユンガーには民族的な色彩がないと云ってるんだ。少しもドイツ的ではなく、無機質だって。つまりそれは、ユンガーの思想は“民族的”ではなく“国家的”で、スターリン主義じゃないか、という批判だと解釈することもできる。実際ナチスはおそらく“民族的”ではあっても“国家的”ではなかったんだと思う。ナチスにとって“国家”は手段でしかなくて、本質は“党”にあるんだからね。そもそもスターリンにしてもヒトラーにしても、それぞれ“一国”とか“国民”と云いながら、どちらも個別の“国家”や“民族”を超越していくような要素を持ってる。それはスターリン主義なら“階級”だし、ナチスなら“人種”だよね。“人種”って“民族”の上位概念でしょ。それによってある種のインターナショナル性を持ちうるんだ。スターリンもヒトラーも“一国”とか“国民”とか云いながら、“国民国家”を超える国際性を持ちえてた。それは今でもそうだよ。イスラエルにも“ファシスト”がいるし、モンゴルにもいる。アメリカにもロシアにもいる。世界中に“ファシスト”はいるわけで、それはファシズムがむしろ“超ナショナル”なものだからで、“一国”社会主義であるはずのスターリン主義の党が世界各国にあるのと一緒だよね。
だけど一方で最近はスターリン主義に比べればファシズムの方がいくらか人気があるのは、たぶんファシズムにはパイオニア的な側面があるからだと思う。スターリン主義って“既得権益擁護”っぽい印象があるんだと思うんだよ(笑)。“一国”社会主義だと、閉鎖的で、そもそも防衛体制でしょ。守りの体制だからパイの奪い合いになりがちで、国内で他人の足を引っ張り合うことになる。ファシズムなら、パイは“外”の未開の地に奪いに行けばいい(笑)。スターリン主義の保守っぽさと比べてファシズムには、批判者は“擬似革命”にすぎないと云うだろうけど、ある種の革命的なイメージがある。あるいは通俗的なレベルで考えても、ファシズムは“生の哲学”みたいなものに結びつきやすくて、“生きがい”とは何だ、“実存とは”って方向に行きがちだけど、スターリン主義ではなかなかそうならないでしょ?
外山 そんな悩みは“プチブル的”ですからね(笑)。
千坂 ファシズムについてもっと真剣に検討されるべきだよ。右翼よりむしろ左翼がもっと真面目に考えるべきなんだ。例えば第二インターのカウツキーやベルンシュタインの社民主義に反発してソレルなんかが登場したわけでしょ。現代の左翼はどうなんだ、と。みんなリベラル派になってしまって、構改派や社民派みたいな改良主義ばっかりじゃないか。それを突破する契機をどこに見出すかだよ。昔ならボルシェヴィズムが突破口だったわけだし、あるいはアナキズムもそうだったかもしれない。だけど今はボルシェヴィズムはスターリン主義として否定されてて、ボルシェヴィキ方式を批判したグラムシ的な路線に取って代わられてる。その流れをどこかで断ち切って、別の流れを見出してそっちに渡ってしまわなければならない。
外山 今は自称アナキズムさえ“社民化”してるでしょ。
外山 ところで社民主義と構造改革主義って、結果的には似たような姿になるけど、そもそもは由来を異にする思想ですよね?
千坂 社民主義は、議会に進出して、議会で多数派になって社会主義的な政策を実現するってことでしょ。構造改革派は、議会云々は中心ではなくて、もっと個別の現場で影響力を拡大していく感じじゃないかな。
外山 ああ、文化領域とかも含めて……。
千坂 だから例えばベ平連なんてのは構改派的だよね。“議会進出”とかって発想はしてなかった。当時で云えば社会党が社民で、ベ平連が構改派ってことになるんだと思う。ただどっちも結局は“二重権力”みたいな、現存秩序への対峙的な発想がない。二重権力的な対峙形態を作れないと、何をやっても既存の秩序に回収されてしまうんだ。今はもうボルシェヴィズムですら回収される。マルクス・レーニン主義者たちには言論の自由が認められてるんだから。「ソ連の社会主義にも良いところがあった」とか云っても大丈夫で、そういう言論が許されることによって骨抜きにされるんだよ。一切の正当化が許されていないような立場でなければ骨抜きにされてしまう。
外山 ファシズムはもう、一から十まで全部悪かったことになってますからね(笑)。
千坂 好むと好まざるとに関わらず、そういう立場は今はもうファシズム以外に存在しないって現実を直視しなきゃいかんよ。歴史上の具体的なファシズム政権を肯定するか否定するか、どう評価するかとは別の次元の問題として、現代においてファシズムが持っている意味がそこらへんにある。
外山 いかに回収されないか、という……。
千坂 その媒介としてのファシズムっていうのかな。そこが分からないと左翼は社民か構改にしかならないし、右翼だって単なる保守派の別働隊にしかならない。たしかに現実の運動としては、社民や構改か、保守的なものしか不可能かもしれないよ。そもそも原理的に思考するってことは“不可能性の探求”だし、現実の糧にはならない。にも関わらず、社民や構改や保守にとどまらずに、仮にそのように見えたとしてもそれは単に現実によって強いられた姿にすぎないのであって、本当はそれらを超えようとする志向を持ってるんだという、そのことの担保としてファシズムを標榜することに意味がある。現存秩序に対する全否定性を帯びているのは、現代の民主主義社会においてはファシズムだけなんだから。
外山 同じ社民的な要求を掲げて運動を展開するにしても、ファシズムの名の下にそれをやることで、単なる社民であることを脱却できるってことですよね、たぶん。そもそも歴史上の現実のファシズムだって、結局はまあ社民的な政策をやってるだけですし。
千坂 歴史上に存在した現実のファシズムを肯定する必要はないと思うんだ。実際、イタリアでもドイツでもファシズム政権だからって別に肯定的な意味では大したことはやってないし(笑)。だけどさっきも云ったように、現在における“ファシズム”の唯一の意義、必要性、肯定性は、左翼が社民や構造改革派になったり、右翼が保守の別働隊になることを断ち切るところにあるんだ。
外山 ファシズムを標榜するだけでそれが可能になる(笑)。
千坂 名乗るだけでいい(笑)。名乗るだけで制度内の議論の枠組から追放されるんだから。
外山 しかも名乗るのはそんなに難しいことではない。ファシズムは、ナショナリズム的な問題意識と社会主義的な問題意識の融合なんだから、実際の主張の内容は単にナショナリズム的なものであっても単に社会主義的なものであっても不自然ではない。
千坂 ファシズムを標榜すると、全否定の対象になって、端的に“悪者”にされる。逆に云うとファシズムを嫌う連中ってのは“いい子”なんだ。“いい子”志向を捨てきれず、“悪者”になりきれない連中なんだよ。だけど“いい子”志向を残してたら、必ず現状にからめとられる。それを断ち切れる可能性を唯一持ってるのがファシズムで、それ以外は、しょせん程度の差で“良いところもあるし悪いところもある”って云われて回収されてしまう。
外山 言論の自由がありますからね。ファシズムだけが言論さえ許されてない(笑)。言論として許されてしまうと、じゃあ民主主義のルールに則って、選挙とかに出て“正しさ”を競い合ってください、ってことになりかねません。
千坂 現代社会が全否定してるファシズムこそが、逆に云うとすべての言論を規定してるんじゃない? ファシズムを許容してしまうと“外部”がなくなって、基準が失われる。あらゆる立場の言論が、論敵を非難する時にそれがファシズム的だと云うわけでしょ。云われた側も、自分の主張は決してファシズム的ではないと弁明しなきゃいけない。
外山 『共産党宣言』にそんなフレーズがありましたね。“論敵から共産主義のレッテルを貼られなかった者があるだろうか”って。
千坂 “悪魔”であるファシズムは、実は逆立ちした“神”になってるんだ。……とにかく現実のファシズム政権がドイツやイタリアで何をやったか、そんなことはどうだっていい(笑)。各国のファシズムの個別の社会政策とか、あんなことをやった、こんなことをやった、そんな話はどうでもいいし、そもそもファシズム政権が実際にやったことなんて、失業問題を解決したとか、アスベスト対策をちゃんとやったとか、社民と大差ないんだし(笑)。ファシズムだって“政治”なんだから、そりゃ“いいこと”もいっぱいしてるよ。肯定するにしても、矮小なファシズム肯定論者のようにそういうところで肯定したって仕方がない。自らを既存の言論秩序と切断するところに、現代における“ファシズム”の持つ最大の意義がある。