『人民の敵』第3号(2014.12.1発行)


コンテンツ4
〈未発表原稿〉単行本用『全共闘以後』序章
〈正規版“購読”検討用・抜粋〉


 欧米のポストモダン論は、「六八年」を肯定的に総括し、それを継承する「六八年以後」の運動展開の模索の努力と密接に結びついているが、日本のそれは違う。内ゲバの全盛期がまだ続いている七〇年代末に大学に入学した世代のうちの先鋭的な部分、すなわち内ゲバさえなければラジカルな政治運動に新たに身を投じていた可能性が極めて高い層が、しかし内ゲバのために簡単には政治的な運動へと身を投じることができず、その外側から時代状況をあれこれと分析するための便利なツールとして、輸入思想としてのポストモダン論を受け入れた。その際、欧米のポストモダン思想に含まれる政治的文脈は当然のごとく隠蔽され、むしろ学生運動などの“政治的なもの”を忌避するための高級な言い訳のレトリックとしてそれは活用された。欧米では「六八年以前」の古い左翼運動を否定し、「六八年」に始まる新しい左翼運動を正当化し理論化したものであるポストモダン思想が、日本では、「六八年」のそれをも含めた新旧の一切の左翼運動それ自体を「古くさいもの」として切り捨てることを正当化する言説として“換骨奪胎”されたのである。
 八〇年代初頭の「ニューアカ」ブームで台頭したアカデミシャンたちや、それと併走した「サブカル」文化人たちを中心とする、六〇年前後生まれの“新人類”論客たちの存在が、その後の論壇地図を規定している。欧米では「六八年世代」を含んだ「六八年以後」の論議であるポストモダン論が、日本では「六八年世代」を排除した「六八年以後」の論議として定着し、この日本的に倒錯した“思想地図”を疑わない者だけが“ポスト新人類”の論客として登場することが許されるという論壇力学が今なお強力に働いている。


 新左翼運動とは、乱暴にまとめてしまえば、第二次大戦後の冷戦構造を構成した米ソ二大陣営の双方を否定し、それらを乗り越える「第三の道=未知」を求める試行錯誤だった。そしてそれ自体が冷戦構造に規定されたものにすぎなかったということは、それがほとんどファシズム運動だったということでもある。冷戦体制とは、本来「三つ巴」である二〇世紀の総力戦体制を、あたかも二元対立であるかに偽装した体制であり、その中で見いだされる「第三の道」は何らかの「未知」ではなくファシズムである以外にない。
 もちろん新左翼運動の当事者たちすらがそのことに無自覚であったし、今でもほぼそうである。まして「六八年」のピークにおいてリアルタイムにこれを直観していたのは、全共闘学生に「君たちが一言『天皇』と言ってくれれば私は喜んで君たちと手を結ぶ」と呼びかけた三島由紀夫ただ一人であろう。
 しかし例えばスガ秀実は日本の新左翼運動を詳細に分析した〇三年の労作『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」史論』(作品社)で、日本の新左翼思想の形成期において日本版のファシズム文化運動たる「日本浪曼派」の再評価と導入がおこなわれていたことに注意を促しており、「実存的ロマンティシズム」に彩られた新左翼運動が少なくともファシズムすれすれの運動であったことに自覚的であるように見える。先走るがスガが七〇年の「華青闘告発」を高く評価するのは、それが新左翼運動のファシズム性を「告発」しその脱却を求めたものであるとの認識によると見ることもできる。


 連合赤軍事件は赤軍派本体の壊滅後にその残党が引き起こした極めて特異な事件にすぎないし、仮に武装闘争へと向かった潮流に限定しても、華青闘告発を経た「六八年」の主流は赤軍派ではなく「東アジア反日武装戦線」である。
 まず反日武装戦線は、赤軍派とは異なりいわゆる党派ではない。京大全共闘に深くコミットした若い理論家・滝田修が提起した「パルチザン闘争」論に触発されたもので、ごく数名の活動家による言わばユニット的な小集団が都市ゲリラ戦をそれぞれに独立して敢行していく形態である。もちろんそれら複数の小集団を束ねる上部組織のようなものは想定されていない。つまりノンセクト的なのである。思想的にも、反日武装戦線は華青闘告発以後の反差別運動の文脈にある。
 七四年の昭和天皇爆殺未遂事件と三菱重工本社ビル爆破事件をはじめ、七〇年代前半、「東アジア反日武装戦線」名義で複数の小グループがいくつもの爆弾闘争を敢行し、七五年に一斉摘発を受けて壊滅した。
 が、反日武装戦線が「六八年」の直接の延長線上に登場した武装闘争であるとしても、それは「戦死」や死刑や長期投獄を覚悟するという超人的な意志を固めた少数者のものである。「六八年」を経た新左翼ノンセクト活動家の量的な主流は、もっと日常的で散文的な個別闘争の現場へと散っていった。
 それは在日、沖縄・アイヌ、部落、障害者、女性、同性愛者などさまざまのマイノリティの解放運動であり、三里塚や水俣などでの地域住民闘争であり、釜ヶ崎や山谷などの「寄せ場」における最下層の労働運動であったりした。それらは相互に結びつき、全体としては何となく一つの大きな潮流を成してはいたが、かつてのようにそれらを自称「前衛党」が統括的に指導することはもはや不可能だった。
 こうした展開は「六八年」を経たとくに西側先進諸国の新左翼運動に共通して見られるものであり、例えば「ツリーからリゾームへ」というポストモダン思想の決まり文句の一つもこのことを理論化・正当化したものであるし、さらに近年「マルチチュード」と形容されているのも要するにそれら諸運動の担い手たちのことである。