『人民の敵』第2号(2014.11.1発行)


コンテンツ3
〈発掘インタビュー〉with 佐藤悟志
〈正規版“購読”検討用・抜粋〉


外山 「秋の嵐」との初対面はどんな感じだったの?
佐藤 ムチャクチャだったよね。ぼくは実は元戦旗派で日向派だったって話したら、「おれは両川派(西田派)だった」って云う奴がいて。
外山 ん? ナニ派?(註.日向派を荒派とも云うように西田派を両川派とも云うことを知らず引っかかってる)
佐藤 戦旗派って2つあるじゃん。ぼくがいた日向派と対立してたのが両川派。そこにいたって奴がいて、それが(高橋)吉昭(註.高橋氏は当時も今も通常「高橋よしあき」の表記を使用しているが、読みやすさを考慮して本稿では「吉昭」表記とする)さんなんだけどさ(笑)。吉昭さんに「日向派は“3・8分裂”をどう総括してるんだ」とか追及されちゃったりしたんだけど、そもそもお互い辞めた同士で何を云い合ってるんだっていう(笑)。それが見津君(見津毅 みつ・たけし)と一緒に「秋の嵐」を始めた「テーゼ」(パンクバンド)の吉昭さんだったんだな。あと穴水君ってのがいて、彼と話してるうちに「おまえも日向派だったのか」って分かったり。穴水君は日向派の、埼玉の高校生組織のキャップだったのかな、結構世渡りが上手で出世する奴なんだ(笑)。出世するんだけど同時に飽きっぽい奴で、飽きると辞めてしまう(笑)。飲み会って云っても公園で飲んでたんだけど、「風の旅団」(テント劇団)の人なんかも一緒にいたなあ。つまり「秋の嵐」だけじゃなくて、反天皇制の運動をやってる人たちの中でも小汚ない感じの人たちっていうか(笑)、アナキスト系の人たちが集まって飲んでたって感じかな。遠くから公安も監視してた。で、穴水君が「公安にも酒を飲ませてくる」とか云い出して、それをみんなで止めたりして、大変だったんだ。でも結局飲ませたな(笑)。穴水君が突然、公安の方に近づいて行こうとするから、殺すつもりなんじゃないかと思って慌てて止めてたんだけど、コップに日本酒か何かついで「飲め!」とか云って公安にムリヤリ酒を勧めて、公安もそれをイヤイヤ飲むっていう可哀想な状況になって(笑)。ぼくはそれまでもっときちんとした過激派の運動をやってたから、そういう雰囲気はかなり衝撃的だったんですよね。集会が終わって近くの公園で酒を飲むなんて信じられない! っていう(笑)。信号無視すらしてはいけないっていう組織にいたんだから。
外山 そうか(笑)。しょーもないことで弾圧の口実を作らせちゃマズいもんね。
佐藤 きちんとした運動だったんですよ。それが、公園で酒を飲む? しかも公安に酒を飲ます!? 一体どういう……(笑)。まあカルチャー・ショックだよね。ビックリしましたよ。


佐藤 とにかくホコ天の隣がたまたま明治神宮でさ、ホコ天のバンドが集まって「秋の嵐」を形成したって関係上、明治神宮が目の敵みたいになってた。明治神宮にとっては災難だよね(笑)。だからその日も明治神宮に入ろうとしたら、警官隊が出てきて「入れろ」「入れない」の揉め事になった。ところがぼくが無関係なフリをして入ろうとしたら、入れてしまったんだ。その頃からぼくのパフォーマンスは冴えててね(笑)、すぐに気づかれてつまみ出されたんだけど、その時にぼくはわざとジタバタして地面を這いずり回ったりしたので、すごく“弾圧されてる”ようなイメージになったんだな(笑)。みんな興奮して盛り上がっちゃって。それ以降もそういう“弾圧パフォーマンス”というのをぼくは得意として、しょっちゅうやったから、みんな結構それに引きずられて真似をするようになった。……話してて思い出してきたけど、ぼくのせいだったのか(笑)。“ヒロヒト・キョンシー隊”の話とかって見津君から聞いた?
外山 それは何?
佐藤 天皇が下血して重体で死にかかってるところに、ぼくとアラシ(「秋の嵐」の女性活動家の1人)と見津君の3人でヒロヒトのお面をかぶって、ぼくがパジャマ姿で下血する様子を担当して、見津君は軍服を着てたのか。とにかく三者三様のヒロヒトの服装をして、キョンシーみたいに一列になってピョン、ピョンと……(笑)。
外山 ホコ天で?
佐藤 明治神宮の前。あそこの歩道橋は一周できる作りになってるでしょ。だから一周してみたり、神宮の門の前で死んだ真似をしてみたり……今考えるとヒドい奴らだな。人間とは思えない(笑)。
外山 反応はどうだったの?
佐藤 当時は天皇の話題が社会全体で共有されてる状況だったけど、とくにホコ天をウロウロしてる通行人なんか、天皇制に“賛成だ”“反対だ”って人がそんなにいるわけでもないから、「何かやってるなあ」ぐらいのもんじゃないの? 駅の近くでやれば、何をやっても人だかりぐらいできるから、駅員に迷惑そうな顔をされたりして(笑)。そういうことをやってたのが88年だね。ぼくが覚えてる当時のエピソードは“キョンシー”ぐらいだな。あ、あと芝居もやった。(写真を見せて)これがぼくで、皇太子殿下の役をやってるんだ。10月30日だね。参宮橋の上で芝居をやってる。「秋の嵐」には演劇系の人も結構集まってたんだけど、バンド系の人の方が多くて、彼らのギグというか、野外コンサート? そっちが活動の主体になってたんで、演劇系の人たちのフラストレーションが溜まってたんだな。じゃあ演劇をやってバンド系の奴らにもそれを手伝わせようって話になって、演劇というか、即興劇みたいなのをやって、やっぱり弾圧されてつまみ出される、取り囲まれて強制的に渋谷の方まで連れて行かれるっていう。それが最初の“強制連行”だったんじゃないかな。
外山 じゃあ、天皇が倒れて以降しばらくは、警察側もそんなに強圧的ではなかったの?
佐藤 “かけ合い”みたいな感じだったのかなあ。「秋の嵐」が集まって何かブーブー騒ぐ、と。そしたらオマワリさんたちが出てきて「うるさい、うるさい」って邪魔をする、と。すると「秋の嵐」の側は「やられたー、やられたー」「仕返しだー、仕返しだー」って怒って、何かまたしょーもないパフォーマンスを考えてきて、それをやる、と。そしたらオマワリさんがさらに怒って「うるせー、オマエラあっちに行け」「非国民め、オマエラなんか人間じゃない」ってつまみ出す、と。「秋の嵐」もさらに怒ってまた何か新しいイヤガラセを考えて……そうやってエスカレートしていくわけですよ(笑)。だんだんお互いに馴れ合うというか、パターン化しちゃうというか、最初は警察もどう対応していいか分からずに戸惑ってて、強硬な弾圧はしにくいというか、手を出しにくいのかなあって感じがあったけど、そのうち警察も慣れてきて、「秋の嵐」のメンバーは見つけ次第に神宮前から排除するようになる。捕まえて、つまみ出して、渋谷の方まで連れて行って、ポイって(笑)。警察がそういうふうに対策の手法を確立してきたから、「秋の嵐」の方も戦術をエスカレートさせていくっていう展開。最初の頃はさあ、ホコ天にある、代々木公園のA地区とB地区をつなぐ歩道橋の真下でバンド演奏をやるってぐらいのことは、他のバンドだってやってることだし、ぼくらがやっても警察もあまり文句は云わなかったんだよ。ところがだんだん、闘争の舞台がホコ天のエリア内ではなくて、ホコ天を出て明治神宮の前ってふうに移動してしまって、そこから警察との対立関係というのが鮮明になってきましたね。ただやっぱりその“芝居”がメルクマールだったのかな。それ以降、バンド演奏による“反天皇制”の表現、っていう路線からもっと直接的なものに変わっていく。“弾圧パフォーマンス”による反天皇制表現って路線に移行しちゃったんで、それでバンド系の人々との齟齬が生まれ始めてしまう。『黄砂』の創刊号を読めば分かるように、創刊号の頃の人たちはみんなバンドの人なんですよ。見津君だけ違うけど、ニョキ君っていうのは「NORA」ってバンドの人で、黒田君は「NUE」っていう動物解放のバンドで、穴水君は「ヘルネーション」っていう過激派バンドで、高橋吉昭は「テーゼ」でしょ。そういう人たちが中心だった。元はどこかの党派にいた人というのも多いんだけど、ざっと構成を云えば、バンド関係者が3分の1、元過激派が3分の1、あと3分の1は……何だろう、“市民”かなあ。


外山 「1・15」(昭和天皇死去直後の「秋の嵐」2回目の逮捕事件)の段階ではまだそういう、吉昭さんとか、バンド系の人たちが残ってたよね?
佐藤 うん。でもそれが最後だね。1月7日に天皇が死んで、「1・8」(「秋の嵐」最初の逮捕事件)で見津君たちが捕まる。
外山 「1・8」にはベレー君(佐藤)もいたんでしょ?
佐藤 いたよ。なぜか捕まらなかったけど。例の“ジャンパーがどうこう”っていうのがぼくなんだよ(逮捕されかけたが抵抗の過程で着ていたジャンパーが脱げてしまい、警察側がそれまでの服装の記録から彼が「秋の嵐」のメンバーかどうか判断できなくなって、放り出されたという)。
外山 実はぼくもいたんだよ。
佐藤 なんで?
外山 笘米地(真理)っていうのがいて……。
佐藤 名前は聞いたことがある。
外山 青生舎界隈の人で。
佐藤 本(『熱烈的日本少年』90年・ジャパンマシニスト社、共著『生徒人権手帳』90年・三一新書)を出した人だよね?
外山 うん。ぼくらがやってた「全国高校生会議」の第1回実行委員長。
佐藤 「1・8」はどこらへんから見てたの?
外山 いや、見てたんじゃなくて「秋の嵐」のデモの中に一緒にいた。
佐藤 へえ、ほんと?
外山 実はいたんだよ(笑)。
佐藤 じゃあその日のことはよく知ってるんじゃないの? 歩道橋の下でスクラム組んで座り込んだり……。
外山 あんまり記憶が定かじゃないんだ。よく事情も知らずに、ただ笘米地に誘われるままに行ったもんだから。どういう経緯があってどうなるのか、状況全体がよく分かってなかったから、後で鹿島(拾市)君とかから「こういうことがあった、ああいうこともあった」って云われると、たしかにそうだったと思い出すんだけど……。
佐藤 記憶が混濁してるんだ。恐怖でいっぱいだったんだよ(笑)。
外山 そんなに怖かったという印象はない。だって自分が逮捕される可能性なんか考えてなかったもん。ぼくはただの“一市民”だと思ってたから(笑)。
佐藤 当日のビデオは見た?
外山 うん。こないだ見たらぼくも映ってた。
佐藤 そうなんだ。
外山 どれがぼくなのか分からないと思うし、教えないけど(笑)。恥ずかしいんだ。笘米地が「とにかく顔は隠せ」って云うから、手近にあったもので顔をグルグル巻きにして行った。
佐藤 そうか……。あの日は結構みんな来てたんだよね。平野(裕二。当時の青生舎の中心的活動家)君とかも来てた。
外山 89年の3月に第1回の「全国高校生会議」をやるんだけど、その準備のミーティングのために東京に出てきて、笘米地の家に泊めてもらってた。
佐藤 それはまたグッド・タイミングだったね。
外山 たしか1月10日ぐらいにはもう福岡に戻ってたはずだから、この「1・8」の1日かぎり、ぼくは“前期「秋の嵐」”を体験したっていう。
佐藤 おいしいとこだけさらっていく外山一派の体質が表れきってるね(笑)。「1・15」もいれば面白かったのに。「1・15」はバンド演奏を予定してたんだけど、当日にはもうそれはメインじゃなくなってたというか、バンドどころじゃなくなってたんだよね。この日に吉昭さんも逮捕されるし、機動隊は乱入してくるし、右翼もやってきて、右翼とは殴り合いの武力対決になって……。そういう一連の出来事に群衆は盛り上がってしまって、バンド演奏は刺身のツマになっちゃった(笑)。
外山 ぼくはそういう右翼が来たり逮捕者が出たりっていう“荒れる”場面に限っていつも居合わせてないんだよ、“後期「秋の嵐」”の時にも。「1・8」だけなんだ。


外山 そうそう、「青狼会」はいつから名乗り始めるの?
佐藤 青狼会は……。最初の方で話した横浜の「ヤング・ネットワーク」ってところの同人誌と、「秋の嵐」の『黄砂』と、ぼくは両方に文章を寄稿してたのね。同じ文章を両方で使い回してた。『黄砂』に載せる時は「ブラックベレー軍団・刈谷蓉介」って名前で、「ヤング・ネットワーク」の方では「青狼会・佐藤悟志」って名前にしてたんだよ。そういう使い分けで始まった。
外山 青狼会名義の文章に「民主主義のファシズムに対抗して云々」とあるけど、これはどういう……。
佐藤 それはかなり後の文章だから、後付けの理屈だけど。つまり「秋の嵐」ってのは“反天皇制”を掲げて闘ってたわけだよね。だけどそれは続けていくうちに「大衆民主主義との闘い」になってしまうんですよ。それはもちろんぼくが勝手にそう解釈してるんだけどね(笑)。
外山 「売春の自由党」で書いてる文章には「89年頃の愚かな私に云々」ってくだりがあるけど……。
佐藤 それは基本的には幸淵さんからずいぶん影響を受けたという話で、幸淵さんとはやっぱり「秋の嵐」で出会った。ほんとは幸淵さんからも話を聞くといいと思うんだけどね。幸淵さんは当時から「売春婦の人権」を掲げてたり、「アンチ国防婦人会」ってグループをやってたり、「秋の嵐」にも参加してた1人だけど、「秋の嵐」の中でも異色の活動家で、なかなか人民大衆には理解しがたい主張を展開してた。……話を戻すと、つまり社会全体が“自粛”状況から“即位”状況への一連の過程で“天皇陛下万歳”って空気になっていった。それは単にマスコミが作り上げてるってだけではなくて、国民の側がそれを求めてるという側面もある。そういう天皇制と闘うためには、民主主義そのものを否定しなければならなくなるっていう。民主主義や、議会制の下での多数決原理みたいなものを批判しなければ闘えない。国民みんなが天皇陛下の崩御を悲しんで、新しい天皇の即位を祝うという状況があり、こっちはそういう国民と対決して弾圧しなきゃいけないってことになると、どう考えてもそれはファシズムじゃん(笑)。だけどそういう選択は仕方がない。民主主義の下でのファッショ的な抑圧・弾圧と闘うためには、自由主義の側のこちらもやっぱり“自由主義のファシズム”で武装しなければならないんじゃないかと。例えば1932年のドイツの国民投票では「ユダヤ人を人間として扱ってはならない」って決議がされた。民主主義の結果として、ユダヤ人はファッショ的な支配の下に置かれることになった。これが民主主義のファシズムなんです。それに対抗するためには、ユダヤ人の人権を守ろうという自由主義の側もファッショ的な手段をとらざるをえない。で、青狼会は「自由主義ファシズム」「リベラル・ファシズム」を掲げたわけですよ。そういうふうに今は考えてるし、たぶん当時も似たような考え方をしてた。
外山 当時って、具体的にはいつ頃?
佐藤 この「楽しい戦争」って文章を書く過程だよね。
外山 『平和がいいに決まってるのか?!』ってパンフだね。「アナルコミクス号外」ってなってて、「教師のヘイワより俺たちの戦争を!」ってサブタイトルがついてる。90年8月6日発行。


外山 法務省突撃戦についてもう少し聞きたいんだけど。
佐藤 張振海が中国に引き渡されたっていうんで、法務省に抗議しに行こうって話が「秋の嵐」周辺で出て……。
外山 最初は何かの集会に行くんでしょ。
佐藤 うん。数寄屋橋だったかな、アムネスティか何かの集会。「アジア人権フォーラム」だっけ? とにかくそういう集会があるっていうから勝手に合流しに行った。で、集会が終わって、やっぱり法務省に直接抗議に行こうってことになって、みんなでタクシーに分乗して法務省に向かったんだ。ぼくはもう、人質でもとって実力で奪還しようかってことまで妄想してたんだけど、なかなか一人ではそこまでやれないし、何か他にやれることはないかと思ってたところに、たまたまみんなで抗議しに行く展開になって……。法務省は目の前にあるんだし、これは何かやらねばと思って突撃した。「1・8」の弾圧の時に、どこかの記者が明治神宮の敷地に勝手に入ったってことで捕まってて、だけど微罪ですぐ出られたっていう例があったから、法務省に突入するとはいっても、ただ入るだけでそんなに暴れたりしなければ、すぐ出られる割に世間へのアピール効果は大きいんじゃないかと思って、まあ“弾圧パフォーマンス”の延長の発想だよね。で、突っ込んだんだな。思惑は見事に当たって、3日で出られた。ゴールデン・ウィーク前だったから、検事さんも鬱陶しかったんじゃないの? せっかく休みの計画も立ててたのに、こんな奴らの相手をしてゴールデン・ウィークを潰すのはイヤだって(笑)。でも結局その後に今度は見津君たちが捕まってね。
外山 “みどりの日”か。笑い袋が壊れて大失敗したって(笑)。(註.90年4月29日、見津毅らが“みどりの日”の式典会場に一般人を装って侵入し、式典中に抗議の意思表示で騒いで逮捕された事件。その際に笑い袋も投じたが、床に落ちた衝撃で壊れてうまく作動しなかったという)
佐藤 たしかぼくが出た日に今度は見津が捕まったんだよ。行き違いになった。それで結局、担当検事はゴールデン・ウィークを取れなかったんじゃないか?(笑) その恨みが「(91年)5・4弾圧」につながっていったのか(笑)。
外山 見津君もベレー君も同じ検事が担当するの?
佐藤 たぶんね。公安部の検事。見津君たちは何日ぐらい入ってたんだっけ?
外山 結構長かったんじゃないかな。
佐藤 1週間ぐらい?
外山 2週間じゃなかったかな。
佐藤 はー、可哀想に……。ゴールデン・ウィークは完全に潰れてしまったね。
外山 あ、見津君じゃなくて検事さんね、可哀想なのは(笑)。
佐藤 ぼくの配慮も虚しく(笑)。やっぱりその時の恨みが「5・4弾圧」に返ってきてるわけだ。恐るべし、「秋の嵐」。“無思想・無内容・無節操プラス無神経”(笑)、極悪非道の犯罪者集団だ。