世紀末のブルーハーツは未だ登場せず

別冊宝島『音楽誌が書かないJポップ批評1』に掲載

 自分と社会とを有機的に関係づける言葉やノリを編み出す作業は社会運動の要だ。ここをうまくクリアできれば、その運動は以後高揚に向かうことを約束される。だから運動の最前線では日夜そんな言葉やノリの創出にエネルギーが費やされ、情熱の量、成果の質ともにそれらは音楽の世界におけるそれの比ではない。ミュージシャンの提供する言葉やノリなど運動家のそれと比べればいかにも不徹底で中途半端で、魅力に欠ける。
 そんなわけだからぼくには「音楽に対する愛」などかけらもない。「音楽なんか嫌い」ってのが(たとえ建前でも)パンクの基本だ。
 半年ほど前に上梓した編著『ヒット曲を聴いてみた』(駒草出版。ぼくの主宰するメンバー10人の社会分析機関「ヒット曲研究会」座談会の記録。以下『ヒット曲』)の中でも、ぼくは以下のような重要な発言をしている。
 「初期ブルーハーツみたいなムーブメントを左翼と云わずに音楽と云っちゃうんなら、左翼なんて言葉に存在意味ないよ」

 もう98年だというのにブルーハーツの話から始めるなんて時代錯誤も甚だしい。しかし80年代末のブルーハーツ以降、積極的に支持しうるミュージシャンは存在しないし、また90年代Jポップの停滞も、ブルーハーツとの距離で測ると見えやすくなる。
 90年代のある時期までのJポップは「ブルーハーツ的なもの」の後退と拡散の過程だ。
 ブルーハーツは、以下に挙げるさまざまな要素の、幸福な結合だった。
 応援歌的要素は「がんばれロック」へと頽落する。ジュンスカだのリンドバーグだの、一時期のヒットチャートにはそのテのロックが蔓延していた。「がんばれロック」は多数派から多数派への応援歌である。ブルーハーツが「別の共同性」へと聴く者を駆り立てるのに対し、「がんばれロック」は既成の共同性を強化する。要は生徒会的「みんなでガンバロー」、受験勉強や無意味な賃労働をがんばるのであって、家出や退学や、ましてや運動をがんばったりはしない。
 「マイナーコードのアイデンティティ」とも云うべき要素は、黒々としたルサンチマンへと変質して長渕剛に受け継がれる。長渕共同体を支えるアイデンティティは、ヒット曲研・鹿島拾市の形容によれば「時代遅れかもしれないが真実のある男」である。ブルーハーツには、自分たちが社会のマイナーコードであるという自覚はありつつも、「時代遅れ」なんてマイナスのセルフ・イメージはなかった。むしろ圧倒的少数派のくせに、あろうことか「世界のまん中」に身を置いているつもりでいた。現在のヒットチャートにおいて、長渕は完全に浮きながら、しかしいる。「チャラチャラした軽薄なヒット曲」に背を向けた長渕信者たちは、ギター小僧と化して路上にあふれている。
 ブルーハーツや当時の反原発、反管理教育運動には、素朴な本質主義とでも云うべき要素があった。つまり今現在自分が置かれている現状は「本当」ではない、どこか別の場所に「本当の自分」「本当の世界」「本当の生き方」等々……があるはずだ、という感受。本質主義はイデオロギー(虚偽意識)だが、80年代末にはそれを現実の社会関係の中へ投げ込んでみる選択肢が存在した。例えば80年代末の数年間、高校を中退することは状況へのカウンター的意味を持っていた。むろんそれは錯覚や幻想にすぎなかったが、自分をとりまく抑圧的な環境の「外」に出られるかもしれない、「本当の何々」と出会えるかもしれないと妄想できる選択肢が、探せば身近に存在したのが80年代末という幸福な時代である。本質主義的な自意識が、他者と出会うことで試され得たのだ。ところが90年代的な本質主義であるミスター・チルドレンに他者はない。自意識の無間地獄をさまよう本質主義。「『君はこうでしょ?』って説きふせた後で、『ぼくもそうなんだ』。そんなふうに他人に侵入してくるんだよね」(『ヒット曲』より山の手緑)。ブルーハーツ、反原発、反管理教育という図を当てはめれば、ミスチルに対応するのは自己啓発セミナー、心理学・哲学ブーム、「癒し」……である。前者は外の世界へと開かれた本質主義だが、後者はどこまでも自意識の球体に閉じ込められている。
 外の世界への回路が閉ざされてしまった90年代。この変化を、最も正確に映し出しているのがスピッツだろう。これはヒット曲研・鹿島の次の発言に尽きる。「スピッツの歌の主人公は、いったんはブルーハーツを経由してんだよ。しかしもはや『ぼくら何かを始めよう』みたいな気分にならない。だけどかつてそれを経由してるから、『ナイフ』なんかも隠してある。『空も飛べるはず』で、『隠したナイフが似合わないぼく』とか云ってるわけ。ブルーハーツの『少年の詩』で、『ナイフを持って立ってた』時のナイフをまだ持ってるんだよ。もしかしたらそれが『渚』の、『野生の残り火』を持ってるんだという自己認識になるのかもしれない」(『ヒット曲』より鹿島)。「ブルーハーツ的なもの」の最良の部分の一つが、スピッツには継承されている。その誠実な自己省察は賞賛に値する。だがその誠実ゆえに、スピッツは鮮烈な解放のイメージを提示しえないまま、ただ90年代的閉塞の自覚を表明するのみである。

 無関係な話。
 ヒット曲研・マオの最近の発言。
 「なんか女性ボーカルが動物、野獣みたいになってきてる一方、男の方は、か細い声でセンチなこと歌ってるって傾向があるよね」
 マオはUAやミーシャやコッコや……を指しているのだが、小室系もスピードも大黒摩季みたいな人たちも、確かに野獣化してる。「元気だ」とかじゃなく、「動物」。
 一方、男の方ってのは云うまでもなく大量の「ビジュアル系」バンド群を指している。

 さて98年である。
 90年代前半は、「ブルーハーツ的なもの」の頽落と拡散の過程、端的に「後退期」としてとらえることができるが、後半に入ると状況は別の位相へ変転したように見える。
 言葉とノリの最前線は、冒頭で述べたように社会運動の現場にあるが、そこでもこの時代の変化はそれに応じた新しい動きを形成させつつある。
 「ブルーハーツ的」反原発や反管理教育は、やはり90年代前半、急速に衰退し、現在ほぼ雲散霧消した。代わって95年、首都圏に「だめ連」が登場する。「交流、トーク」「ハク、うだつ」「平日昼間の男たち」……といったトボけた用語とダサカッコいいノリで、「ダメ連」は運動現場で急速にその影響力と影響圏を拡大しつつある。さらに96年には「風呂なしアパートの豊かな生活」を守ると称して「銭湯料金値上げ反対」を掲げる「銭湯的労働者協会」、98年には「法政の貧乏くささを守る会」の貧乏学生運動が活躍。やはり90年代後半に入って活性化が著しいメンズリブ運動も見逃せない。まだ「××運動」と総称しうるほど明確な形を成してはいないが、台頭するこれら一連の運動には、互いに相通じる問題意識と作風がある。
 その背後には、「警備員のバイトにさえ人格改造セミナーみたいな研修がある。人格の搾取が、搾取の最後の仕方としてあらゆる労働領域にまで拡がっている」「20代の失業率を数%押し上げるぐらいの層として、いつまでたってもロクに働かない連中ってのが出てきてる。『おれたちは自由に生きるんだ』『ロックだぜ』みたいな、自分たちのこと支える何らかの理念みたいなものを持ってそうしてるんじゃなくて、何もなくてなんとなくそうなってしまった。でも現実にはいろんなシンドさがどんどん出てくる。シンドい。働くのもイヤだけどこのシンドさからも逃れたい。切羽詰まってにっちもさっちもいかなくなってくる」(以上、『ヒット曲』より鹿島)という客観的な社会状況がある。
 「だめ連」をはじめとする一連の運動は、こうした状況に対し、シンドさに押し潰されてノイローゼみたいにならず、なんとか冷静さを保つ処方箋を提示している。それらと比較すれば圧倒的に立ち遅れているとは云え、Jポップの世界にも似た動きは見られる。
 その一つが「がんばれロック」の進化形態たる「癒しロック」。もはやジュンスカや爆風スランプのように真っすぐな「がんばれ」では支えきれないほどのシンドさが、多くの人を「癒しロック」へ向かわせている。具体的にはジュディマリやマイラバ、そしてルクプルときてキロロに至る線である。
 強迫神経症的な現れとしてポケビ。「イエロー・イエロー・ハッピー」をヒット曲研で入念に分析したが、すべての行、そして行間が、「シンドイ、シンドイ……」と訴えている。そしてそのシンドさをせめて相対化する言葉すら、彼らは持ち得ていない。
 猿岩石ブームはもはや少々古い現象だが、しかし相変わらずヒッチハイク、ストリート・ミュージシャン的な若者風俗が、「もう一つの生き方」的にメディアで提示され続けている。しかしそれらが何ら解放に結びつかないことは、もう10年ヒッチハイクと街頭ライブを続けているぼくが誰よりも一番よく知っている。だから虚しいのだが、シンドさから逃れるためにそれらにすがろうとする大量の若者たちの存在は、この時代の危機の深さを裏側から照射するものとして無視できない。
 ギリギリ解放的な可能性を提示しているのはパフィー(奥田民生)だろう。そこには、シンドさをブラブラ脱力してやり過ごそうという開き直りの言葉とノリがある。ただし何らかの「別の共同性」を開示しないそれはあくまで緊急避難的なものでしかないが。

 運動現場は常に「世界のまん中」だが残念ながら客観的にはマイナーな世界である。状況を乗り切る処方箋はないかと周囲を見渡した時、シンドさへの字義どおりの「反動」でしかない小林よしのりか、「終わりなき日常を生きろ」つまり「何もするな」という宮台真司ぐらいしかフツー見当たらない。反動化するか我慢するかの選択肢しか提示されていない若者たちのなんと不幸なことか。
 だがそうであるがゆえに、危機はますます深まり、状況を臨界点に導きつつある。現在は間違いなく高揚期であり98年はまだその通過点にすぎない。カタストロフィは近い。
 世紀末の「ブルーハーツ」はまだ登場していない。

 (評 いたずらに危機を煽る、左翼にありがちなアジテーションです。預言者気取りが鼻につき、心に響きません。20点)