ハードボイルド・フェミニズム
──嫉妬とハードボイルド

『「だめ連」宣言!』(作品社)に収録

 ……ぼくも高揚した勢いで、ついにFとのツーショットに成功した。構内をぐるぐるぐるぐるFと二人で歩き回りながら、最初はうじうじと遠回しに、最後は勇気を出してはっきりとFが好きになったと告白した。
 面と向かって「告白」なんぞというものをやったのはそれが初めてだった。
 結局、Fは他に片思いの相手がいることが分かっただけだった。Fはずっと、新聞会議のOBに片思いしているらしかった。
 ぼくは落ち込んだが、しかしもともと「好きだ」と告白したからといってその後どうしたものか考えてもいなかった。フツーなら、「好きだ」の後は「付き合ってください」だが、「付き合う」というのがどうすることなのか全然分からなかった。時々会っていろんな話をすることが「付き合う」ということなら、それまでだって充分「付き合って」いたし、それはそれで楽しいことだった。二人きりで会って公園や映画館に行くことなら、「好きだ」とわざわざ云わなくても、もともとFとは気の合ういい友人なのだから、むしろ「好きだ」なんて云わない方が、こだわりもなくできるはずだった。もっと直接的に、キスしたりセックスしたりするような関係になることか? たしかにFとそんな関係になれるものならなってみたかったが、キスくらいならともかく、セックスはやはり「オクテ」のぼくにとっては、なんだか実感の湧かない話だった。
 「Fが他の人のことを好きでも、ぼくはずっとFのことが好きだよ」なんてことを云って、なんとかショックに耐え、とめどなく喋りながら二人きりの散歩を続けたが、だから何なんだ、こんなことを云って何になる、と自分で思っていた。……

    *     *     *

 ……ぼくはまたFのアパートに4泊ほどした。
 一度、「会議」の時の共通の友人と、3人で外で会った。しばらく話をすれば、また2人でアパートに戻れるだろうと考えていたら、そうはならなかった。ファーストフードの店を出たあと、彼と3人で夜の街を徘徊し、結局、新宿中央公園へ行った。終電もなくなって、3人で一晩過ごさなければならなくなった。ぼくは心の中で彼を責めた。オマエのせいで今夜はFと2人になれないじゃないか。悶々としてぼくは口数少なくなり、Fとそいつが楽しそうに喋っているのを横で聞いていることになる。ぼくはますます不機嫌になる。ぼくはついに真夜中、口に出して云った。「オマエいつまでいる気だよ?」。するとそいつは決まり悪そうな笑いを浮かべて、「じゃ、帰るワ」と云い残して消えた。「何てことを云うんだ」とFにひどく責められた。責められて当たり前だった。Fは誰のものでもない。なのにぼくは、Fを自分のもののように振るまってしまった。「彼氏」でもないくせに──いや、たとえぼくがFの「彼氏」であったとしても、Fを縛りつける権利などないはずなのだ。
 万事がこの調子だ。
 ぼくはどうしていいのか分からなくなり、よくFの前で泣くようになった。それでますますFに重圧を与えた。泣きたければ一人で泣けばよいのだ。Fの前で泣く必要はないのだ。いったいぼくはどこまでFに甘えれば気が済むのだ。いや、きっとFが拒絶しないかぎり、とことんまでぼくはFに甘えるつもりなのだ。まったくぼくは最低だ。最低だと思えば思うほど、また泣きたくなる。悪循環。悪循環と思うとますます泣きたくなる。キリがない。
 4日目か5日目に、Fが「帰ってくれ」と云うので、しぶしぶ福岡へ戻った。本来なら、Fが「帰れ」と云いだす前に自分から帰るべきなのだ。ぼくは弱すぎる。弱すぎて、Fに負担をかけている。「人間はみんな弱いものだ」なんて言葉はクソくらえだ。弱い人間は、本当に相手を好きになることなどできないのではないか? 誰かを好きになるためには、強くなければならない。ぼくはFを好きだなんてことはみんなウソっぱちだ。なぜならぼくは弱いからだ。一緒にいれば相手が不幸になるのなら、自分が引くべきだ。相手の不幸より、自分の不幸を選ぶべきだ。だが、弱いぼくには、自分が進んで不幸になることなどできなかった。ということはつまり、ぼくはFを好きになれないのだ。いつかFに云った、「今はムリでも、いつかFのことを好きになってみせる」なんてのは出まかせだ。Fを好きになろうとなどしていないじゃないか。自分の不幸よりもFの不幸を選んでいるじゃないか。……

    *     *     *

 以上2つの断片的な文章は、未完・未発表の大河自伝『恋と革命に生きるのさ』からの抜粋で、18歳から19歳にかけての恋愛経験について書いた箇所の一部である。「構内」とか「会議」とか、ぼくの活動歴について知らない人には意味不明の語句も出ているが、本題とは関係ないので説明は省く。
 だめ連の登場に狂喜し、その作風に計りしれない影響を受けているぼくだが、たったひとつ、だめ連とは相容れないと感じている部分がある。だめ連の人たちはすぐ尻を出すとかいった些細な点にではない。
 あるがままの自分──「だめ」な自分、弱い自分を肯定しない、というのがだめ連と出会う以前からの、今も変わらないぼくの主義である。これは「だめ」であることに開き直る(悪口ではない)ところから出発するだめ連の流儀とは正反対のものと云っていいだろう。
 ぼくがそのような、マッチョともとられかねない怪しげな主義者となったのは、やはり幾多の恋愛遍歴の結果である。
 恋愛をして一番自己嫌悪をもたらすのは嫉妬だが、嫉妬はどう考えてもやはり「する方」が悪い。
 嫉妬の根拠をなしているのは要するにナルシズムである。自分が相手を想うように、相手も自分を想ってほしい。これはナルシズムだ。自分が相手を想っているかに見せかけた、単なる自分想いである。恋愛とはそういうものだと云う人があるなら、その人はナルシズム(≠恋愛)しか経験したことがない。
 愛は無償だ。などと書くと自称フェミニストの人たちから怒られそうだが、彼ら彼女らが怒るのは、「無償の愛」(実は家事など)を傲慢にも自分から要求してくる手合いに対してだろう。
 ぼくは相手に「無償の愛」など求めない。それでもくれると云うなら有り難く頂戴するが、やはり何らかの「見返り」を与えなければと努力するだろう。自分は「無償の愛」に見合うほど価値のある人間ではないからだ(「価値」などとカンケーないから「無償」であったりするのがまた切ないのだが)。
 などとカッコつけつつ今だに嫉妬から抜け出せない。なーにが「無償の愛」だ! こんなに好きなんだから、ちょっとぐらい振り向いてくれてもいいだろ。ちくしょーっ。
 という自分を肯定したくないのである。
 ぼくは「F」をひどく傷つけた。他人を傷つけるのは悪いことではない。ただ、自分の弱さのために他人を傷つけたくはないと思うのだ。
 見返りのない愛に耐えるために、強くあらねばならない。性と恋愛の領域における断固とした自立をめざすハードボイルド・フェミニズムは、しかし究極的にはその愛の対象を支点として「我」の無化へと折り返す他立の思想である。