戦後偏向教育を糺す!!

未発表原稿
※獄中で歴史学習を本格的におこなう以前の文章なので誤りが多い

 戦前ってそんなにヒドい時代じゃなかったんじゃないか?
 という疑問を持ったのは今から7年ぐらい前、20歳の時である。きっかけは、今では敵対している評論家・浅羽通明のある文章を読んだことだった。『別冊宝島141 巨人列伝』に収められた大杉論である。大杉栄は、大正時代に活躍したアナーキスト、つまり無政府主義者である。長くなるが、大杉の生涯を、浅羽のこの文章からの引用で紹介する。

 明治十八年(一八八五年)、軍人の父と勝ち気で美しい母の暴れんぼうの長男に産まれた栄。陸軍幼年学校で三年で退校。原因は学友との決闘。外国語学校仏語科入学のため上京。社会主義運動へ接近。外語卒業後、就職活動中の一九〇六年、電車賃上げ反対デモに参加して逮捕。就職はおしゃか。大杉は完全に社会主義にハマり、人生をみごと棒に振る。このデモは、日本社会党が開催したものだったが、千数百人の市民が指導部の穏健方針を逸脱して暴走。鉄道会社や変電所、市役所への投石、電車線路を占拠とエスカレートし、つるはしを構えた土工たちの合流もあって、結局日比谷、外濠で電車六、七台が焼き討ちにあった。この事件での活躍とその結果の入獄により大杉のいけいけ人生は本格的にいよいよ幕を開けたのである。
 二十代を通して違法出版と示威行動で繰り返す入獄。獄中ではエスペラント、伊、独、露、西語をマスター。社会学、経済学、自然科学、文学ほか膨大な書物を読破。獄中にあったため、おりしもフレームアップ(引用註.でっちあげ)された大逆事件の犠牲となることを免れる。出獄後、文芸思想雑誌『近代思想』創刊。二年継続ののち、廃刊。より扇動的な革命ジャーナリズムへ転出を図るも弾圧により挫折。八方塞がりのなか、自由恋愛スキャンダルの主役となり、葉山日陰茶屋で恋に破れた神近市子に刺される。四角関係は破綻。伊藤野枝と新生活。
 翌年、ロシア革命勃発。国内でも労働争議頻発。たちまちジャーナリズムの寵児となった大杉は、アナキズム思想の紹介、労使協調路線粉砕、民本主義批判に筆鋒を振るうと同時に、アナキズム労働運動支援に奔走。一九二〇年、極東社会主義社会議出席のため上海へ密航、世界革命総本山、第三インターナショナルの代紋しょったロシアのチェレン相手に日本革命運動の自立性を堂々主張。帰国後、ボルシェビキ派(引用註.ソ連派)との連帯による革命的労働運動を模索するも決裂。ボルシェビキ批判を展開。一九二三年、国際アナキスト大会出席のためフランスへ密航。大会は延期のまま、三カ月ほど在仏。七月、メーデー事件で強制送還。九月十六日、大震災後の混乱のなか、伊藤野枝、甥の橘宗一とともに東京憲兵隊により連行、惨殺。事件は甘粕正彦憲兵大尉による絞殺として処理され、真相は五十年間闇に葬られる。死後、同志たちによる報復テロ未遂事件が続発。

 当然ながら浅羽の文章は、この後徐々に大杉批判へと移っていくのだが、どういう批判だったか忘れてしまった。どうせ大した批判ではない。こんなに面白い人生を聞かされた後では、どんな批判だって色あせてしまう。
 大杉栄と云えば、日本の反体制運動史上、1、2を争う有名人だから、それまで知らなかったわけではない。断片的な知識はあった。戦前という「暗い時代」に孤独に闘い、結局憲兵に虐殺された悲劇の人、そんなイメージ。ところが、浅羽の文章を読むと、全然違うじゃないか。仲間は大勢いるわ、派手な色恋沙汰でメディアを賑わせてるわ、結構有名人で人気者だわ、波瀾万丈の最高の人生だ。
 いくら「暗い時代」でも、こんな楽しい生き方が可能だったのか!
 次に知ったのは、宮武外骨のことだ。23ぐらいの時か。
 明治時代に活躍した出版人で、ヘンな雑誌や新聞をいっぱい発行している。赤瀬川原平の『外骨という人がいた!』(ちくま文庫)が、この人の魅力を最大限に伝えている。
 与謝野晶子が例の「君死にたまふことなかれ」とか書いてた同じ時期、外骨は自分の発行する『滑稽新聞』に、こんなコラムを書いている。

 今の〇〇軍の〇〇事〇当〇〇局〇〇〇者は〇〇〇〇つ〇ま〇ら〇ぬ〇〇事までも秘密〇〇秘密〇〇〇と〇〇〇云う〇〇て〇〇〇〇新聞に〇〇〇書〇か〇さぬ〇〇事に〇して〇〇居るから〇〇〇新聞屋〇〇は〇〇〇聴いた〇〇〇事を〇〇〇載せ〇〇〇られ〇〇得ず〇〇して〇〇丸々〇〇〇づくし〇の記事なども〇〇〇〇多い〇〇〇……

 外骨はべつに反体制の活動家だったわけではないが、こういった痛烈なギャグ満載の新聞・雑誌を作り、それがコンスタントに数万部、多い時には8万部も売れるほどの人気を博していたという。
 戦前は「暗い時代」だった。何と云っても「言論の自由」がなかった。
 そんな話をたくさん聞かされてきた。たしかに法的には「言論の自由」など保障されていない。実際、外骨も何度か投獄されている。投獄されている間も『滑稽新聞』は発行され、編集長が獄中にいることさえギャグのネタにしている。
 なんか、随分イメージが違うぞ。
 「言論の自由」が法的に保障されているに越したことはない。しかし、外骨の時代と現在と、どちらが「言論の自由」を実践し、謳歌しているかと云えば、明らかに外骨の時代の方だろう。
 大杉と外骨を知ったことで、だいぶぼくの「戦前」イメージも修正されてきた。以後、とくにその先つっこんで勉強することもなく、これまで過ごしてきたのだが、最近、東京の某同志が何かと云うと幕末の話ばっかりしているので、ぼくもちょっと影響されて、敵(河合塾や代ゼミの「左」翼講師)が書いた日本史や世界史の受験参考書を読んで勉強したりしている。
 ちょっと「お勉強」に付き合ってもらおう。
 まず幕末なんだが、18世紀(1700年〜)あたりから、封建社会は徐々にヒビ割れ始める。細かい内容はもう忘れてしまったが、50年おきぐらいに「享保の改革」とか「天保の改革」とか、ヒビ割れを補修しようと為政者が頑張っていたことを、中学・高校で習った気がする。それでも蘭学だの国学だの、幕府にとってはヤバい思想・学問が次第に広まっていく。完全に対応しきれないうちに1953年、ペリーがやってきて鎖国を解かれ、混乱にますます拍車がかかる。
 吉田松陰という人がいる。長州、今の山口県の人である。高校時代に使ってた山川出版社の『日本史用語集』で調べてみよう。

 吉田松陰 1830〜59 長州藩士。江戸で佐久間象山に師事。1854年、ペリー再来の際、下田で海外密航に失敗、幽閉中松下村塾で教える。安政の大獄で刑死。

 佐久間象山って誰だっけ?
 調べる。

 佐久間象山 1811〜64 洋学者。信濃松代藩士。江川坦庵に砲術を学び、砲術・兵学を吉田松陰・勝海舟らに教えた。松陰の米国密航計画に連座して下獄。開国論・公武合体論を力説し、攘夷派に暗殺される。

 なるほど。勝海舟って人名にも聞き覚えがある。
 吉田松陰に戻る。「松下村塾」「安政の大獄」というのも習った気がするがよく覚えていない。

 松下村塾 幕末、長州萩郊外松本村にあった私塾。1856年謹慎中の松陰が受け継ぎ、久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘倒幕派の人材を育てた。
 安政の大獄 1858〜59年に行われた政治弾圧。主として井伊直弼の専制に反対する親藩・外様大名・志士らを処断、連座100余人に及ぶ。

 うーん……井伊直弼って人もいたなあ。
 つまりまとめるとこういうことか。吉田松陰は塾の先生だった。受験予備校ではなく、「志士」つまり幕府打倒の活動家を育てるための塾。実際、高杉晋作とか、幕末史で聞いたことある有名人が育っている。しかし安政の大獄で弾圧されて死刑になる。死んだのは、えーっと……1830〜59!? 29歳! 若者じゃないか。ってことは、活動家を育てる塾の先生をやってたのは……56年、26歳からと云えば今のぼくより年下だ。げげっ。ショック。
 無理に立ち直って幕末史をさらに追う。さっき高杉晋作が出てきたな。

 高杉晋作 1839〜67(げげっ) 長州藩士。松下村塾に学び攘夷運動に投じ、イギリス公使館を焼き打ちした。1863年に奇兵隊を組織、下関で挙兵、藩の主導権を掌握、藩論を討幕に転じた。第二次長州征討の時、同隊を率いて奮戦した。幕府滅亡を見ぬうちに病死。

 なんと。計算すると「奇兵隊」とやらを組織して「挙兵」し、「藩の主導権を掌握」したのは24歳の時だ。さっき松下村塾の項で高杉と並んで出てきた久坂玄瑞とかいう人も若くて、24歳で死んでる。
 あ、高杉と同じページに「木戸孝允(桂小五郎)」が載ってて、やっぱり「吉田松陰に学ぶ」とか書いてあるぞ。うーむ。
 幕末と云えばやっぱ龍馬でしょう。実は去年、先述の某同志が貸してくれた寺尾五郎著『中岡慎太郎と坂本龍馬』(徳間文庫)という本を読んだ。それによると龍馬より中岡慎太郎の方がはるかにマジメな活動家だったみたいなんだが、まだ鉄道もない時代だというのに、とにかく各地を足で歩き回って運動を組織してるんだよなあ。で、あちこちにいろんなキャラクターの「志士」がいて、次々に出会う。2人とも死んだ時点で30前後、幕末にはたしかに熱い若者がいっぱいいる。「安政の大獄」も「連座100余人」とか書いてあったし。
 で、明治維新。大政奉還が1867年だが、1870年代にはもう自由民権運動が始まってるんだよね。ルソーとか紹介した「明六社」という啓蒙団体がその名の通り明治6年、1873年に結成されている。自由民権運動が本格化したのは、代ゼミの講師によると1877年から。さらに1882年から86年にかけて、その中でも最も過激な勢力であった「自由党左派」が大活躍する。暴動が続発するんだが、一番有名なのが「秩父事件」。

 秩父事件 1884年10〜11月、埼玉県秩父の農民が借金党・困民党を組織、自由党左派の指導で地租軽減・徴兵反対を叫び蜂起。鎮圧、厳しく処刑される。

 かなり大規模な反乱だったらしい。
 やはり代ゼミ講師によれば、1887年が自由民権運動の最後の高揚の年で、その後敗北。
 1890年代に入ると、年表に田中正造、内村鑑三、幸徳秋水……なんて名前が登場する。労働組合運動が各地で激化しはじめていたようで、マルクス主義が日本に入ってきたのもこの19世紀末だという。
 やはり高校時代に授業で使っていた浜島書店『総合資料日本史』巻末の年表から拾ってみる。

 1890年 片山潜ら社会問題研究会結成。
 1891年 内村鑑三不敬事件。
     田中正造、議会で足尾鉱山鉱毒問題を質問。
 1894年 大阪天満紡績にスト発生。
 1897年 高野房太郎ら労働組合期成会設立。
 1898年 幸徳秋水ら社会主義研究会設立。
 1899年 横山源之助『日本之下層社会』。
 1900年 社会主義協会発足。
     幸徳秋水「万朝報」に非戦論発表。
 1901年 片山潜ら社会民主党結成(直後禁止)。
     田中正造が足尾鉱毒事件で天皇に直訴。
     幸徳秋水『廿世紀之怪物帝国主義』。
 1902年 呉造兵廠スト。
 1903年 「万朝報」により内村・幸徳ら日露問題で反戦論を唱う。
     幸徳・堺ら平民社を設立。
 1904年 与謝野晶子「君死にたまふこと勿れ」。
     平民新聞「共産党宣言」を訳載。
     平民新聞「与露国社会党書」を掲載。
     社会主義協会結社禁止。
 1905年 平民社メーデー茶話会を行う。
 1906年 堺利彦ら日本社会党結成。
     運賃値上げに反対し東京市電焼打ち事件。
     堺利彦ら『社会主義研究』創刊。
 1907年 足尾銅山暴動、幌内炭鉱争議、別子銅山暴動で軍隊出動。
     片山潜ら社会主義同志会結成。
 1908年 東京神田錦輝館で赤旗事件。

 「東京市電焼打ち」の動機が「運賃値上げ」! 福岡の西鉄電車はこの数年で2回も値上げしてるんだから、10台ぐらいは「焼打ち」してもいいんじゃないかという気になる。電車賃の値上げすら大衆の同意なしにはスムースに進められない明治時代と現在と、どちらが「民主的」か。
 この焼き打ちが、冒頭、大杉栄の年譜に出てきた事件だな。「千数百人の市民が」とあった。1907年には、軍隊が出動しなきゃならないほどの大暴動が、年表に載ってるだけで3回も起きたという。
 ところが1910年、「大逆事件」というのが起きる。

 大逆事件 1910年無政府主義者の明治天皇暗殺計画という理由で、幸徳秋水ら社会主義者26名が起訴。翌年幸徳ら12名が死刑となった事件。以後運動は不振となり、社会運動の「冬の時代」とよばれた。(以下略)

 「暗殺計画」というよりも、平素から「天皇なんかブッ殺してやりてえ」みたいなこと云ってた勢力の中心人物たちが、ほんとに暗殺を計画したかのようにデッチ上げられて死刑になった事件である。たしかにひどい。「戦前は暗い時代だった」と云いたくもなる。しかし「以後運動は不振となる」ということは、それまでは「不振」ではなかったということである。さっき年表で確認した通り、大いに運動は盛り上がっている。さらに、この事件の後は「冬の時代」になったらしいが、では「春」が来たのはいつか? 戦後か?
 たしか「大正デモクラシー」とかいうのがあったはずである。1920年前後のことだ。ってことは、「冬」は10年もたなかったことになる。1998年現在、とくに若者の社会運動(歴史上の社会運動にはいつだって若者が多く参加している)は「冬の時代」と云ってもいいかと思うが、この「冬」は今年何年目か?
 年表を見れば、大逆事件の翌1911年には、もう平塚雷鳥が雑誌『青鞜』を創刊している。日本フェミニズムの先駆的な運動である。12年には有名な「天皇機関説」論争が始まっている。大杉は『近代思想』を創刊。だいたい大杉が一番活躍したのは大正デモクラシー期である。13年にはまた軍隊が暴動鎮圧に出動している。ちっとも「冬」じゃない。これが「冬」なら今は何だ。
 とにかく大正時代(1912〜)に入ると労働運動から女性運動から農民運動、部落解放運動、学生運動、知識人や文学者の運動、社会主義運動、アナキズム運動、すべて盛り上がる。
 本当に「暗い時代」になるのは1925年、悪名高い「治安維持法」が成立してからである。仮に一般に云う「戦前」を明治から敗戦までとして、「暗い」のはそのたった4分の1ぐらいの期間にすぎないのだ。しかも、1928年、「3・15事件」という、共産党員への史上最大の弾圧がおこなわれるが、立花隆『日本共産党の研究』(講談社文庫)によると、「全国一道三府二十七県にわたり、一斉検挙がおこなわれた。全国で家宅捜索を受けたのは百数十カ所、逮捕されたのはこの日一日だけで千五百余名に及んだ」という。当時の共産党と云えば、今の中核派よりも過激派である。そんなヤバい組織が、1928年段階で少なくとも全国各地に「百数十カ所」のアジト等を持ち、千五百人以上の活動家を抱えているのである。さらに翌29年にも「4・16事件」として教科書に出てくる2回目の一斉検挙があるのだから、「3・15事件」で全部ではないのである。「党員名簿の押収により、四月十六日、全国一道三府二十四県にわたって一斉検挙がおこなわれた。この日の検挙者は七百名ばかりだったが、その後の波状検挙で逮捕された者の総数は四千名に及んだという」(前掲書)。命がけの運動である共産党に何千人も関係していたのだから、それよりいくらか穏健な運動には、この時点でも少なくとも数万人が関わっていたと見るべきだろう。やっぱりちっとも「冬」じゃない。
 実は1930年代の「ファシズムの時代」にあってさえ、「自由」や「民主主義」を求める運動は、ちゃんと存在したのである。
 北一輝という人がいる。

 北一輝 1883〜1937 中国の辛亥革命に参加。国家社会主義者として1919年「日本改造法案大綱」を執筆。右翼青年将校に影響大。二・二六事件の首謀者として銃殺。

 「ファシズムの時代」には、ちゃんと「ファシスト」が、「中国の辛亥革命に参加」したりしている。ぼくらは日本のファシズムについて、「『大東亜共栄圏』とか『アジアをヨーロッパ列強の支配から解放する』とか云いながら結局はアジアを侵略した」というふうに教えられたし、そういうイメージを持っている。確かに政府はそうだったんだが、しかし民間の「ファシスト」の中には、要するにスローガンをまっすぐ愚直に実践する気でいた人も結構いたということだ。

 ざっと振り返ってみる。
 幕末、とくに1860年代には「志士」たちが燃えていた。
 1870年代から80年代にかけては「自由民権運動」が盛り上がっている。
 1890年代から社会主義が入って労働運動に火がつき、1910年の「大逆事件」まであちこちで暴動騒ぎが起きている。
 1920年前後は「大正デモクラシー」だ。
 1930年代からは確かに「暗い」「ファシズムの時代」だが、その中ですら中国で革命を支援したりする「ファシスト」たちがいた。
 なんだ。
 「戦前」は結構「明るい」ではないか。
 こんな「明るい」時代に、「暗い」という誤ったイメージを植え付けた元凶は、たしかに「戦後民主主義教育」に違いない。
 しかし現在「戦後民主主義批判」を声高に主張している連中は、その百倍のエネルギーでもって「戦前」を批判すべきだろう。「戦前」の日本人は、現在の日本人よりずっと「我慢する」ということを知らず、権利ばかり主張して勝手なことをやっている。

                      (1998.3.24)