「終わりなき日常」に未練なし

ミニコミ『月刊外山恒一 創刊号』より

 革命家には生きにくい時代だ。
 「革命」なんて言葉を口にするだけで、変人扱いされるか、あるいは冗談だと受け取られる。本気で相手にしてくれる人など滅多にいない。
 これが全共闘世代くらいのオヤジが口にしたんならまだ、別の受け取られ方もされるだろう。もちろんまともに相手にされないことに変わりないが、少なくとも、冗談だと受け取られることは、ぼくが同じ言葉を口にする場合よりははるかに少ないに違いない。
 なんといってもぼくはまだ若い(といってももう25だが)。
 そんな若い奴がふつう「革命」なんて口にしない。日常的に「革命」を口にした世代に洗脳されたか、あるいは奇をてらってるかに違いないと思われるのも当たり前かとも思う。
 しかしぼくは別に全共闘オヤジに影響されたわけでも、また奇をてらったり冗談を云ったりしているのでもない。きわめてマジメに「革命」を考えているし、望んでいるし、「革命運動」もおこなっているのである。
 おそらくこれほどまでに「革命」が語られない状況は、日本においては第二次大戦直前以来6,70年ぶりくらいではなかろうか。
 全共闘オヤジを中心とする、「革命村」「左翼村」はたしかに現存するけれども、それはもはや「宗教村」よりも圧倒的にマイナーな世界にすぎない。すくなくともぼくの住む福岡では、『情況』や『インパクション』(一応全国流通だがマイナーな左翼雑誌)を読む同世代以下の若者を見かけない。駅前には、ぼくの健康と幸せを祈ってくれる若者の姿はウンザリするほどいるが、一緒に革命をやりましょうと呼びかけてくれる若者は皆無だ。
 実は東京や京都に行けば、全共闘オヤジ・ノリの旧「新左翼」運動からは自立した若い革命運動もちょこちょことはあって、ぼくなんかも束の間、福岡ので抱える淋しさを紛らすことができるのだが、もちろん彼らとて、現代の若者の主流では全然ない。

 「終わりなき日常を生きろ」なんていうアジテーションが流行している。もはやハルマゲドンも革命もない。この退屈な日常が延々と続いていくだけだということを認めて、その中でどう身の処し方を工夫していくかという問題しかもはや残っていないのだと。
 まあ実際には、そんな物云いが流行しているのもやはり首都圏の一部の世界でだけで、福岡で宮台真司を読んでいる若者にはまだ出会ったことがない。それはいいとして、しかしその種のアジテーションにもぼくはいい加減うんざりしている。東京発の、いくらかセンスのいい知的な人向けの雑誌や単行本には、そんな物云いばかりがあふれている。
 ほんとかよ? 本気かよ? と思う。
 ぼくなんか逆に、「革命」について(ぼく以外?)誰もメディアで魅力ある発言をしない今だからこそ、革命は近いんじゃないかという気がする。毎日が退屈で退屈でしかたなく、満たされない。なのにそれを突破するための革命運動や革命についての言説が何もない。つまり形を与えられずにいる苛立ちや焦燥や不全感が、今、若者のあいだには渦巻いているに違いないからだ。
 「(退屈な)終わりなき日常」に耐える義務なんかない。若者は今、退屈な日常に耐える以外にないから、つまり退屈な日常を突破する方法が見当たらないから仕方なく、それに耐えているにすぎない。突破できるもんなら突破したいのに、方法が分からない(見つからない)から突破しないだけなのだ。突破の欲求は、その出口を見いだせず、どろどろと渦巻いている。つまり非常に不健全で異常な状況が今、ある。そんな状況が長続きするとは、ぼくにはどうしても思えないのだ。いずれ限界に達して、その「満たされなさ」の巨大なエネルギーが、じわじわと噴出しはじめて、その過程で何か決定的な「ああ、こうすれば突破できるんだ」という確信を生むような噴出の仕方が試行錯誤の末にか偶然にか現れて、爆発を起こすんじゃないだろうか。
 もちろんぼくは現段階で、「こうすれば突破できますよ」という明確なビジョンを持っていない。持っていれば、とっくに提出して、今ごろ若者の不全感の大爆発を引き起こしている。まだまだ試行錯誤の段階だ。そのうち、ビジョンが見つかるかもしれないし、ぼく以外の誰かが見つけるかもしれないし、またぼくや他の誰かが「見つける」という形ではなしに、気がついたら現実として突破が始まっているなんてことになるかもしれない。どんな経緯をたどるかは分からないが、しかしそのうち(もちろん近い将来)そういうことは起きるだろう。「終わりなき日常を生きろ」なんていうアジテーションが声高におこなわれ始めるほどに退屈な日常があるのだ。崩壊が起きない方が不思議だ。なのにどうして宮台真司や鶴見済のように(皮肉ではなく)センスのいい人たちが、「そんなこともう起きない」なんて云えちゃうのかが全然分からない。不思議でしょうがない。

 まあ先述のとおり、ぼくにも明確なビジョンがあるわけではないので、ここでそういうのを提示しようというわけじゃない。
 ただ、この退屈な日常の中でぼくがうだうだと考えたり悩んだりしていることを、そのままの形でドバドバ垂れ流してみようかなと思っているだけだ。それが退屈な日常の突破になんらかの役に立つことなのかどうかも分からない。ただやっぱり、ぼくは「終わりなき日常」「退屈な日常」に黙って耐えているのはイヤなのだ。