いいやアンタは「大人になれ派」だ

『宝島30』95年11月号での浅羽通明による外山批判への反論

 結局メディアには発表できなかった文章。予想はつくと思うが、ぼくが何を書こうと無視するメディアばかりなのだ。これが発表されていれば浅羽の評価はガタ落ちだったろう。浅羽サン、命拾いしましたね。(2000年・記)

 浅羽通明は、『宝島30』95年11月号に掲載された「君がおじさんなにったら──『大人vs子供』の不毛な図式を超えて」と題した文章の中で、ぼくが『VIEWS』10月号に書いた、浅羽と小林よしのりの対談本『知のハルマゲドン』を否定的に扱った書評と、やはり最近の浅羽言説への批判を書いた『噂の真相』のコラム(およびかつて村木哲郎氏が同誌94年5月号に書いた浅羽的言説への批判記事)を取り上げて、両者への反批判をおこなっている。
 ぼくの書評は、浅羽通明が、若者を集めては「大人になれ!」と一喝する説教オヤジであることを、もはや誰の目にも明らかな事実として、そういう前提で書いたものである。しかし浅羽は、ぼくの文章中、大島渚が『朝ナマ』で上祐を一喝した場面に喜ぶ小林・浅羽コンビを揶揄した部分を取り上げて、「オウムの青年幹部をスター視したマスコミを批判するという具体的関係において採られた態度から、ふたりが『子供<大人』という価値観を固持しているなどと即断できるだろうか?」などと、つまり「自分は決して『大人になれ派』なんかじゃありませんよ」とトボけ、はぐらかす。
 『週刊SPA!』で宅八郎が、今回の浅羽の文章に触れて「大ズル」なんて嘲笑していたが、例えばこんな論理がズルイと云われる所以なのだろう。浅羽に対して最初に「大人になれ派」であるとの批判をおこなったのは宅だが、これは彼が「慎重に下した一つの解釈なのである」と一定評価してみせた上で、その文章については当時の“流行神”(註.信者に向けた浅羽の個人誌)で「分析と批判を加えておいた」(したがってその内実は信者以外の一般読者には永久にナゾである)。問題はこの先だ。「この解釈を、『噂の真相』誌で村木哲郎が浅羽etc.『宝島30』系ライターへのレッテルとして固定させたという多少、伝言ゲームめいた経緯は、まず確認しておきたい」ときた。ホントかよ? その、「最初に」浅羽を「大人になれ派」だとしたという宅八郎の文章はまだ読んではいないが、浅羽による引用で読む限りでは、ぼくが考えていたこととそう違わないことが書かれていると思われる。村木の文章も、浅羽のマルクス引用がまるっきりデタラメであるといった指摘などは、教養のないぼくの初めて知る事だったり、あるいは「新保守」というレッテルを結論にもってくるあたりは少しぼくとは違うのだが、それ以外の内容に関しては、すでにぼくやぼくの周辺で話されていたことばかりだ。つまり、相互に何の影響関係がなくとも、浅羽批判者は同様の指摘をしているということだ。「伝言ゲームめいた経緯」なんてホントにあったのかね? こんなやりくちで批判者をおとしめるとは確かに「大ズル」だ。だいたい、浅羽が自分で云うように、「(浅羽に対する)『大人フェチ』『大人になれ』派というレッテルは、私の言説に多くの読者が抱く印象とそう遠くはない」のだ。「大人になれ」「現実的に生きろ」と説教したことは一度もないそうだが、にもかかわらずなぜ「大人になれ派」だなんて、不毛な構図から一歩も出ないものとして自分の言説が読まれてしまうのか、「伝言ゲーム」などという陰謀史観に立つ前に、深刻に自らに問うてみるがよい。
 浅羽は「大人になれ派」である。何を今さら「例えば浅羽は、『臨海副都心』計画──大人たちのしがらみの錯綜の自己運動の非合理的暴走──を、『しかたない』とせず断固止めてみせた青島都知事の子供の英断を支持している」などと、一つ二つの例外をアリバイ的に提出してみせたところで、逆に青島の英断をどういう怪しげな文脈で支持しているのか心配になってくるほどだ。
 怪しげといえば浅羽は、今回の文章でも非常に怪しげなことを書いている。
 「戦後日本の労働運動と左翼運動が政治勢力としてもっとも強大だった高度成長前夜に組織を指導した幹部たちは皆、教育勅語を叩き込まれて少年時代を送り、多くは一高・帝大の超エリートとして鍛えられた者たちだった」という磯田光一の言説(ぼくは読んでないのでこの人がほんとにそんな説を展開しているのかどうかは知らない)を例にとって、「いざ理想を掲げて、社会を変えねばならない時にあたっても、基礎的な諸技能、指導力、統率力で闘える忍耐力といった、個の身の処し方の基本ができていない者が、革命を戦えるわけがないのである」なんてお説教。
 なんかヘンだ。
 へー、戦後革命運動の高揚は戦前の軍国主義教育の賜物だってわけですか。ぼくがこんなに偉大な革命家やってられるのは、生活指導主任のバカ教師のおかげかもしれませんね。じゃあ、革命をやるためにはまず、すっげー厳しい管理社会を建設する必要がありますね。でも一体だれが建設するんですか? ぼくはやる気ないっすよ。あ、そうか、浅羽サンがやるんだ。云ってみればアナタのありがたいお説教は、「教育勅語」みたいなもんだ。なんだそうだったのか。世のため人のため革命のため、頑張ってください。
 ところでぼくは件の書評記事で、「この2人(浅羽と小林よしのり)のオウム論議もほとんどワイドショー・レベル。さすが大人」と書いた。浅羽は、「ここからは、ワイド・ショー=大人の領分という外山の認識がうかがえる。これはおそらく彼の大人イメージが、ワイド・ショーに見られる陳腐で凡庸、かつ体制追従的といった色彩に塗られているからと思われる」と読む。しかしこれは誤読である。陳腐で凡庸で体制追従的なのは、浅羽らの提出する「大人」イメージである(先の「教育勅語」の例からも想像がつこうというものだ)。陳腐で凡庸で体制追従的な2人がオウム論議をすれば、陳腐で凡庸で体制追従的なワイドショーとほとんど変わらないレベルの話にしかならないということだ。ワイドショーが「陳腐で凡庸で〜」なのは何も今さら始まったことではない。そんなもん今さら嘲笑してどうする。ぼくは「ワイド・ショーを嘲笑」しているのではなく、浅羽・小林コンビを「嘲笑」しているのである。
 さらに浅羽は、「『知のハルマゲドン』のオウム論議が、ワイド・ショー・レベルであるという評価に(略)とくに異論はない。大衆を繰り込んだ保守の立場を基本としたい私は、ワイド・ショー・レベルの感性をクリアしなければ、実のある論議などできないと思っている」と開き直る。ずいぶんぼやかした表現を使っているが(「クリア」って何だ?)、吉本隆明ふうのことを云っているように聞こえる。しかし「大衆の原像」を繰り込んだ思想と、単にワイドショー・レベルの「思想」とはまったく無関係である。吉本大先生(サインもらっちゃった)は、60年安保においては極左派を支持し、三千万の署名を集めた82年の反核運動においてはこれと敵対し、そして今、麻原彰晃を高く評価している。各々の見解の正否は別としても、「大衆の原像」を繰り込むというのが、そう単純なことでないことくらい、ぼくの「教養」のなさを云々する(まあそのことは認めてもいいが)浅羽なら分かりそうなものだが。
 吉本先生といえば、村木氏はこんなことを書いていた。浅羽言説は、たとえば元赤軍派議長の塩見孝也みたいな低レベルな左翼を批判することで戦後を批判しえたかのように見せる詐術的論法でしかない、吉本批判でもやってみろ。こういう村木氏の批判に対して、浅羽は、「こんな半端者」だとか「銭湯にもまともに入れない」だとか、妙な卑下をしてみせるだけで(「銭湯にもまともに入れない私にそんなことができるでしょうか」ってか?)、何ら反論しない。『噂の真相』への一般的批判をもって、村木氏への反論にスリかえるだけだ。
 しかもその内容たるや、『噂の真相』を「蚊やダニや南京虫」のような無力な害虫に、自分の「保守」の立場を「主人の運命を左右する可能性をもはらむ」犬や馬といった家畜あるいはペットに例えるだけ。では「蚊やダニ」を「熊や狼」に、家畜あるいはペットの種類を「文鳥やミドリガメ」にしてもこの話は成り立つだろうか。私は主人の運命を左右できるなどと思っている文鳥は滑稽であろう。あるいは蚊やダニの位置に生きる者は、どうすれば家畜として主人の運命を左右する道を選択できるのか。ようするにこんなものは全くの一般論であって、まるで『噂の真相』批判にすらなっちゃいないのだ。具体的に『噂の真相』を批判したいのなら、具体的な内容でおこなわなければなるまい。ミステリーの話やカントの話にしても同様、一般論にすぎない。こんな「批判」をされた上に、しまいにはぼくと一緒にケツのでかい「ダチョウ」にされて砂に突っ込まれる。これじゃ村木氏もうかばれまい。
 ──ぼくは、「単なる『大人フェチ』にすぎないこのエセ大人2人(浅羽・小林)を誰かモノホンの大人が『ばかもん!』と一喝してくれないかなあ」と書いた。すると浅羽は、「あのなあ、他人を頼らず、自分がまずエセでない大人になって叱ろうって根性ねえのかよ。これじゃ『いけないんだいけないんだ先生に言ってやろ』と捨て台詞吐いてるだけだ」とまたもやトンチンカンなお説教。
 浅羽言説ってのは、自分はたいして「大人」でもないくせに(自分でも認めてるくらいだ。銭湯にもちゃんと入れないってんだからぼくより子供だ)、「大人」を僭称して、「大人になれない」ことにコンプレックスを抱く若者を集めては「ばかもん!」とやっている、そういうものに過ぎない。ぼくはそのことを皮肉ってみせただけだ。だいたい、いつもなら「あのなあ」じゃなくて「ばかもん!」でしょ?(いつだったか小林よしのりとの公開対談の席で、質問してくる若者を次々と怒鳴り散らして撃沈していたようにね。あれは小林よしのりすら『ゴーマニズム』のネタにしてからかったくらい珍奇な光景であった。あんな大人にはなりたくないと思った)。ぼくには「エセでない大人」になる自信はないし、また、浅羽のように「エセ大人」のままで他人を叱りつけようなどという「根性」もありません。そもそも、「大人にならなきゃ」「大人かくあるべし」といった理念を覚え込めば大人になれるというわけじゃあるまいし。
 浅羽言説のダメなところは、「大人になれない」と悩んでいる奴に対して、そういった決意や理念の獲得によって「大人」になれるという幻想を与えるところだ。なれるわけがない。「大人になるぞ、大人になるぞ」と何百回唱えたところで「大人」になんかなれやしない。そんなことで「大人になれた」と思ってる奴が「エセ大人」であり「奇形大人」であることは想像に難くない。
 さらに云えば、そもそも浅羽には大人像なんか実はないところが、決定的にダメなのだ。大人の条件を、「他人から見て」要求される責任をどれだけ果たせるか、「他人の目にどう映るか」という現実感覚を持っているか、と二つ提示しているように読めるが、それも普遍的な大人像などではなく個別具体的な局面ごとに判断されるしかないという。魅力的であることでも大人としての責任は(局面的には)果たしてることになるらしい(この人は客の前に出せる出せないという局面では出せない=子供だが、魅力のあるなしではある=大人だ、となる。「魅力」を誰が測定するのかは知らぬ)。いかにもかっこいい子供を貫くのも大人(「プロフェッショナルな子供」と云う他ないんだそうな)、鶴見済は被害者意識と世界憎悪とダダっ子性を持つが『完全自殺マニュアル』という売れる本(客観的評価に耐える商品)を書いたかぎりで大人。ずいぶんとリベラルで話の分かるオジサンだ。やはり自分が銭湯にもまともに入れないというのがあるからか。こうなると、大人とは、という話は、うんと一般論としてか、うんと個別具体的な人間関係の中でしか意味をなさなくなる。
 しかし、いったん提示された原理的な定義やそこから出てくるずいぶんとリベラルな大人観からすると恣意的としか思えない断言の仕方が文中、随所に出てくる。たとえばこうだ。ぼくが年齢的肉体的に完全に「大人」化した時、「子供たちの目に、そんな外山恒一はどう映るのか? もし、彼が自分は子供のつもりで彼らの間に入っていったら、彼らは同輩(子供)でありながら妙に老けたこいつをどう扱うか? それは当然、いじめの対象とするんじゃないか?」(何が「当然」なんだか。それにしてもこの口調、“尊師”に似てますね)。この場合、外山は「プロフェッショナルな子供」なのか、甘ったれた子供なのか、何の説明もない。説明の必要など感じてもいないだろう。原理的な定義は、単に逃げ道として確保しただけだからだ(やっぱり「大ズル」)。
 大人になりそこねた子供でもかっこいい人はいるぞ! いや、それは子供を演じるかっこいい大人なんだ。36才だが銭湯で迷惑ばかりかけてる人がいるぞ! いや、それは銭湯という局面では子供だが、そのことを自己暴露してみせる誠実さと、説教への使命感を燃やしているという局面では大人なんだよ、というわけだ。
 だが、それは浅羽の説教に反していてもかっこいい人がいるということを「例外」として説明するためにあるだけだ。実際には、ぼくに対する中傷にしろ、「齢を経てこそ得る凄み」とかの話にしろ、すべて日常的にぼくらが自然と使ってるようなイミの内に、「大人」という概念は委ねられている。何のことはない。「夢」や「愛」や「自由」といった一般的な概念を、具体的な文脈の中で検証可能なものとして使わずに、歌詞の中に文脈ぬきに散りばめる「がんばれロック」の「説教」版ではないか(よく知らないが自己啓発セミナーというのはそういうものなんだろうか)。
 そして、やはり一般的にはいいこと云ってる類の人生訓と、「大人」にならないと無間地獄に落ちるぞとばかりに次々と繰り出される吸血鬼だのゾンビだの畑のかたわらに呆然と立つ農夫だの負け犬たちの暗ーい集いだののイメージ・スケッチの数々(まるで“尊師”のアストラル・トリップなみ)。
 問題は二つある。
 一つはそうした説教をそうした論法でやるなら、人生論に限定すべきだということだ。鈴木健二のようにね。それを、思想的なテーマについても使ったりするから変なことになるのだ。たとえば、作品の内容については展開できず、本人や周囲による人となりや履歴に対して恣意的な思い入れを注いでいく、まるで「知ってるつもり」のような『澁澤龍彦の時代』とか。関口宏は何でも「母への想い」の話にするけど、浅羽サンは何かな? 逃げ道を用意したり、カントやルソーを散りばめて、しかし内容は日常的な人生論という、そうした形に対して、宅や村木やぼくは「大人になれ派」だといって、決して「保守反動派」とは云わないのだ。わかったかな? (ところでぼくが浅羽に対して使った「大人フェチ」という言葉に対して、浅羽は「ようわからん造語(外山以外には)」などといかにもバカにした口調で書いている。ま、たしかに浅羽の「プロフェッショナルな子供」同様、分かりにくい造語だったかもしれない。ちょっと解説しておこう。「ハイヒール・フェチ」がハイヒールそれ自体ではないように、「大人フェチ」はモノホンの大人ではない。また靴なら何でもいいというわけではなく、また同じハイヒールでも赤が最高、など理屈でない嗜好なのがフェチである。だいたい感じは掴めるでしょう? みなさん、「大人フェチ」ご愛用ください)。
 次に人生論としてだ。浅羽は四流インテリ青年のために書いているというが、そして今回の一文のアオリ文句としても「疑似インテリの人生を語る」とあるが、実はちっとも語ってない。『ニセ学生マニュアル』でも、思想や政策のあるべき姿とか、今の若者はダメだ、志を持て、みたいな話はあるが、肝心の「身の処し方」についてはほとんど言及なし。あってもせいぜい、セクハラ受けたOLに対しては「会社をやめるか笑顔でガマンせよ」、校則に苦しむ中高生に対しては「どうせ数年で終わる、ガマンできないのは学校的思考のせい」(どっちが「学校的思考」なんだか)といった程度。
 あるのは強迫観念で「大人になれ」と脅しつける例のやりくちだけだ。読者が強迫観念を内面化させていけば彼らは大人になれるだろうという戦略らしい。だが、それはうまく行くだろうか。
 浅羽の読者は質が悪い、という声に対して、浅羽は、「何を今さら」と、「毎日来る手紙その他から推測するに、私の読者の何割かは精神病質の境界例であり、さらに何割かはオウム在家信者予備軍と言って、まず間違いない」。浅羽はみずからの意志で、そのような「インテリの中の特殊学級、落ちこぼれクラスの受け持ちへと都落ちしたまでである」と応じる。私の本を読んだから質が悪くなったのではなく、もともと質の悪い層を読者に選んだのだ、ということである。
 しかしこれは、半分本当だろうが、もう半分はウソである。
 自分の才能のなさを悟ったがゆえに四流インテリの受け持ちに赴いたかのような書き方なのだが、本人が悟るとか悟らないとかで読者の質は選べない。落合信彦は自分を一流ジャーナリストだと思ってるだろうが、読者は四流だ。浅羽の読者が四流なのは、浅羽が三流インテリだからだ。そしてその上で、これを意識的に啓蒙しなければならんと思っても、その方法が正しいかどうかという問題はあるのだ。四流読者なら、三流の「半端者」でも啓蒙は可能だ、というのは誤りだ。だいいち啓蒙にはその才能、能力が必要なのだ。古今東西、多くのすぐれた知識人が素晴らしい啓蒙書を書いてるじゃないか。「半端者にこそふさわしい」わけがない。だいたい、才も根気もないとあきらめた奴が、それでも教師根性だけは捨てないのはどういうわけだ?
 さてその浅羽の「啓蒙」の中身である。
 まず浅羽の読者はどのように「質が悪い」か?
 ぼくが実際に出会った範囲では、ほとんどの読者は、すぐ他人に説教を始める。説教の内容は、もちろん浅羽言説のまんまコピーである。「大人になりたい」浅羽読者たちは、周囲の「大人でない」連中に対して、「おまえも大人になれ」と説教を始めるのだ。あーうっとーしい。“尊師”のクローンになれば解脱できるってわけでもあるまいに。「大人」になったんなら、説教するヒマを惜しんでマジメに働け!
 浅羽はぼくの文章を、「大人vs子供」という安易な図式にどっぷりハマったものだと云うが、ばかもん! 安易な二項対立図式にハマっているのはそっちだ。
 浅羽の二項対立図式は「社会を変える」と「自分を変える」である。
 「学生や昨日まで学生だった社会人が、職場や世の中に違和感を感じたとき、問題があるのは自分の方か? それとも社会の方か? 論理的には、個人が社会へ歩み寄っても、社会を個人の都合どおりに変革しても、違和感は消えるはずだから、どちらの仮説もなりたち得ると言えよう」としながら、しかし浅羽は「個人の身の処し方という保守的な解決をまず強調する」という。「彼らの違和感に対して、社会が悪いと教えたらどうなるか? 彼らはそれを信じて、自分を変える努力のためにある貴重な若き日々を、社会に対するブータレ方ばっかりが上手になってゆくために浪費する」からである。だから、「自分を変えろ。適応を考えろ。自分でも適応できる場所を探して逃げろ。可能なかぎり時間をかけて強くなれ」などと説教をするのだ、と。
 これが浅羽の「啓蒙」とやらの内実である。
 しかしじゃあ、彼らの違和感に対して、おまえが悪いと教えたら、一体どーなると云うんだ? 「大人になるぞ」と決意しても「大人」になれないのと同じように、「自分を変えるぞ」と決意しても自分は変わらない。
 たとえばぼくなんかも、「反管理教育」なんて叫びはじめた当初と比べたら、ずいぶん変わった。共に活動を続けてきた同志たちも変わった。浅羽の期待する「大人」とはずいぶん違うだろうが、「ぼくらもだいぶ大人になったなあ」と思ったりもする。しかしそれは、ぼくや同志たちが、「自分を変えるぞ」「大人になるぞ」と決意したり努力したりしたからではない。自分たちの抱える違和感をちゃんと表明して、するとその表明に対するさまざまのリアクションがあって、それにまた応えて……ということを延々くりかえす中で、いつのまにか自然に変わってきただけだ。
 「社会に適応しろ」なんて説教は、それこそ親や教師からさんざん聞かされた。むしろ彼らの「説教」と対決することで、結果的に「強く」なってもきた。浅羽の読者は、イコール浅羽の説教に屈服した者である。たしかに浅羽自身云うとおり、もともと多少質の悪い連中が、浅羽の本に引き寄せられる。しかし浅羽言説は、その連中に「大人にならなきゃ」という強迫観念を植え付けることで、余計症状をこじらせ、もともと悪かった質をますます悪くする最悪の装置として機能している。浅羽読者には実は、浅羽の説教と対決することこそが重要なのだ。
 浅羽も、せっかく四流インテリに大人になるススメをしたいなら、東大弁論部に招かれて喜んだりしないで、また国家理念をデッチ上げるための委員会を作るべきだなどとインチキな政治論をぶってないで、そうしたあらぬ方向への色目を使わず、ダメなりに大人として生きていくことの豊かさ、尊さを描き出していくべきではなか。36才にもなって銭湯で叱られてばかりでも、スネて左ヨクになることもなく、大人として(あるいは少しでも大人に近づくため?)頑張っている三流インテリの人生を語っていくのはどうだろうか。もう40近いくせに、相手を中傷する時に「偏差値に不自由」なんてみっともない(「朝日新聞みたいなこと云うな。ホントのことだ」ってか? 違うよ。学歴差別が悪いなんて云ってない。ホンネを正直に云うのが潔いだなんてのはまったく戦後育ち丸出しじゃないの。みっともないぜ)。
 浅羽がぼくの将来を心配してくれるので、ぼくも浅羽の人生を心配する余計なお世話をやいてしまった。
 付け加えておけば、なになに「偏差値その他に不自由で、しかし強くなる努力はしたくない怠惰の友が、『子供の時代』なんだから何もしなくていいんだいと、無学歴で十代で著書のある外山サンを中心に身を寄せ合って、逃亡者の不安をまぎらわせる共同体」だって? 残念でした。大ハズレ。ぼくは福岡に住んでるんだぜ。地方で多少とも思想的なことを実践していくってことが、どういうことだか分かるかい? 『宝島30』どころか、『SPA!』の読者を同世代に探すことすら困難な場所で、ぼくはさまざまの活動を続けているのだ(単行本デビューからもう7年になろうというのに、今だに文筆収入は月3万円を滅多に越えないし……号泣)。むしろ首都圏に同志・友人は多いが、その交流圏の中ででも、ぼくはちっとも中心ではない。自分の本を出して他人から先生と尊敬されたいとかテレビに出たいとか考えてばかりのインテリ予備軍に囲まれているせいだろうか、浅羽センセイはこう考えたのだろう。「外山には仲間が大勢いるらしい。本を出したのは外山だけのようだから、きっとみんなヤツをチヤホヤして祭りあげてるのだろう……」。全然ハズレ。アタマの中にある「現実」の幅が狭いね。「現実主義者」としてはちょっと致命的なんじゃないの? 「ウソだウソだ、みんな本を出す奴をねたんだり、チヤホヤしたり、自分も華やかなあの世界に仲間入りしたいって思ってるはずだ」って思うかい? 気取ってるだけだ、あるいはホントはオレ(浅羽)と同じなのに負けを認めたくないから虚勢をはってるんだって思うかい? みんなオレみたいに正直にならなきゃって? 自分の身の丈に合わせて世の中を見ないことだな。「怠惰の友」は当たってるけど(片手で足りる数少ない福岡在住の同志のうちの一人・明石君は毎日14時間も寝て、そのため革命運動もオロソカになりがち)。それにしても浅羽サン、あんたもいやらしい悪口が上手だねえ。燃え上がるコンプレックスに身を焦がして、毎日つらいだろ?
 ま、しかし、さっきの「当然、いじめの対象とするんじゃないか」とかいう説法、あれについてはぼくもちょっと考えなきゃな。ぼくももう25だし。さすがに現役中高生とはハナシ合わなくなってきてるからな。どうしよっかなー。いじめられるのはイヤだし、浅羽的なイミでの「大人」になんかなりたくもないし……。ま、なんとかなるでしょ。とりあえずはこうして、かつて浅羽の熱狂的読者だった時期もある外山恒一が、浅羽と対決している姿を、若い浅羽読者に見せたりしながらね。