朝生「教育論議」を斬る

『週刊SPA!』に掲載

 この文章から、ぼくを「プロ教師の会」寄りだと誤解する向きもあったようだが、よく読めばそんなことはないと分かるはずである。反管理教育側のレベルが、彼ら管理派側に比べてあまりに低いことをぼくは嘆いているのである。これじゃ勝てんじゃないか。

 8月28日(金)の新聞のTV欄を見て驚いた。
 なななななんと、今夜の「朝ナマ」の討論テーマが、学校問題なのである。
 反射的にぼくは思った。
 「なぜぼくに出演依頼がなかったのだろう?」
 考えられる理由はただひとつ。スタッフの怠慢だ。
 現在、ぼく外山恒一の存在を抜きにおこなわれる学校論議はすべて不毛なのである。
 ここはひとつ、ぼくが今回の朝ナマを、場外からの参加という形で完全フンサイし、無能なスタッフに喝を入れてやる必要があろう。
 だいたい、なんだ今回の人選は。このぼくを差し置いて一体どんなにすごいメンバーで討議されるのだろうと期待していたのに、マトモなのは<プロ教師の会>の2人だけじゃないか。まったく腹が立つのである。
 ま、いいや。
 今回の朝ナマには、まったく議論の流れというものがなかった。司会者が、いつもの強引な田原総一郎ではなく、あまり仕切ろうとしない鳥越俊太郎だったためでもあろうが、それ以上に、パネリストの質の悪さがある。
 まず一つには、後で述べるが、<プロ教師の会>の2人と、他のパネリストの問題意識のギャップがあまりに大きすぎて、せっかくこの2人が的確に問題点を整理していっても、まったく理解をされず、トンチンカンな反応ばかり引き出してしまった点。もう一つは、自身の個人的体験を論理化・一般化する能力のないパネリストが何人かおり、ごく稀に何らかの論点で対立が起き論争になりかけても、彼らによっていつのまにか元の他愛ないおしゃべりの次元に話が引き戻されてしまう点である。
 だから、話の流れに沿って、順序だててこの不毛な学校論議をフンサイするというのは不可能である。そこで、次善の策として、<プロ教師の会>を除く16人のパネリストの口から垂れ流されたほとんど脈絡のない言葉の洪水の中から、無視できないものをいくつか選びだして一つ一つ丁寧に徹底センメツする方法をとる。
 最初にぼくの立場を明らかにしておこう。
 ぼくは高校在学中、教師による生徒管理に反発し、さまざまな抵抗を試みたあげくに中途退学した。学校を飛びだしてもなお、管理に慣らされ主体性を奪われた大多数の「学校人間」たちと無縁では生きられないのだから、自分が学校体制と闘う根拠は依然としてあると感じたぼくは、中高生中心の運動グループを結成して活動を続けた。当初は学校において管理する側である教師たちを非難・告発することに重きを置いていたが、次第に、実は管理されることに慣れきってしまった生徒にも問題があるのではないかと考えはじめた。2年前に神戸で起きた校門圧死事件で、生徒たちが学校の管理体制に抗議することなく、むしろ日常的な学校生活を取り戻すことに躍起になったのを見て、その考えに確信を持った。重要なことは、ぼく自身を含めた生徒・元生徒たちが、内面化した学校制度を解体し、そこから自由になることであって、目に見える学校制度をあれこれ改良することではない。
 ──そんなふうに考えた時に、まず絶対に許してはならないのが、教育ジャーナリスト・保坂展人と思春期カウンセラー・門野晴子の2人である。
 この2人は、一般的には、「反学校」的な論客として認知されている。
 とくに保坂展人は、80年代に入ってから盛んに展開された反「管理教育」運動の創始者であり現在も中心的人物である。教師に生徒を「評価する」権利などがあっていいものかと問うた内申書裁判の原告であり、ミニコミ『学校解放新聞』発行人でもあった。かくいうぼく自身が、彼の文章に多大な影響を受け、実は現在でもぼくこそが彼の問題意識のもっとも忠実で徹底した後継者だと自認してもいる。だが、今回の朝ナマでの彼らの発言を聞いていれば、彼らはちっとも「反学校」的ではなく、実はむしろ人並み外れた「学校主義者」であることが分かる。
 司会の鳥越俊太郎が各パネリストにそれぞれの問題意識を端的に表現してくれと発言を求めた時、彼らはそれぞれ次のような内容のことを口にした。
 保坂「いま生徒は疲れきっている。自分は学校半日制を提案する」
 門野「子どもが学校に行かない権利を認めるべきだ」
 な、ななななななナンセンス!
 こうした意見を聞くとぼくは反射的に思ってしまう。それじゃ、いつまでたっても学校からはみ出せないじゃないか。
 学校制度によって生み出された子どもの苦しみや疲れを、どうして学校制度によって救ってもらおうとするのだろう。「学校に行かない権利」を認めてもらわなければ登校拒否もできないのか? そんな情けない子どもに、ぼくはちっとも共感できない。
 別の場面で保坂は云う。
 「全国にフリースクールが増えてきている。学校へ行ってない子どもが、今フリースクールへ行き始めている。教育ルネッサンスが起こっている」
 まったくサノバビッチもいいとこである。どうして、子どもの居場所を大人が用意してやるのだろう。「子どもの自主性」は、彼らのお得意のフレーズだが、彼らは、子どもが自分の居場所を自分で開拓する「自主性」をも信用していないのである。
 教育市民運動の世界に身を置いていると、「理解ある大人」こそが、子どもの最大最強最悪の敵であることを痛感させられる。実感として、運動家の子にロクな奴はいない。
 門野は云う。
 「いま学校に楽しく通っている子どもなんてほとんどいないが、ただ一つの例外が、親子で学校の管理と闘っている子たちだ」
 恐ろしい。理屈を云おうと思えば云えるが、もうここは理屈抜きで恐ろしがってしまおう。学校と闘うヤツは親とも闘うんだよ!
 ──ぼくの母親なんかすごかったもんなぁ。くそたれ校長が「もう恒一くんは私どもの手に負えません」と、「陸の戸塚ヨットスクール」の異名を持つ問題児矯正の某全寮制私立高校に放り込もうとしたら、母親「それで恒一が素直になってくれるんでしたら……」だもんなぁ。焦ったよ、あの時は。ま、いいけど、済んだことだから。
 門野タイプの母親は、ようするに子離れできない醜悪ババアに過ぎない。学校・教師を「共通の敵」とすることで、子どもといつまでもベタベタした関係を保っていくのである。
 そういえば、ついこの間ぼくの住む福岡の「理解ある大人」たちが、ふだん学校で苦しんでいる子どもたちのために、二千人の大ホールにブルーハーツを呼んであげよう──題して「親子でROCK」などというファッキンなコンサートを企画しやがったので、当日本番中に3階席から大量の抗議ビラをまいて妨害してやった。
 話を戻そう。保坂や門野は、熱烈な「学校教徒」である。最後の方で保坂はこんなことも云っていた。「最近は子どもたちが互いに疎遠になって充分に『遊び』ができなくなっている。学校や地域や親が子どもの『遊び』を保障していかなければ……」。もう死んでほしい。まだ学校の手がのびていない領域にまで、この教育市民運動業界の耄碌ジジイは学校の管轄下に置こうというのだ。いい加減にしろバカ。
 こういうどうしようもない人を「高く評価する」などと口走ってしまった大島渚カントクもマヌケだった。
 大島「学校、教育は一体何のためにあるのか。何回かの学生運動の高揚は、それを問い直そうとした。しかし、いつもそうした問いはごまかされ続け、学生運動はなくなった。登校拒否こそが、現代の学生運動ではないか」
 保坂「一種のストライキです」
 大島「そういう形での反抗しか起こらなくなった」
 カントク! 親のアタタカイ庇護のもとでの登校拒否を、現代の学生運動だなんて云ってると、カントクのやった「学生運動」のレベルが疑われますよ。それから、60年安保や全共闘のラジカリズムを受け継ぐ現代の学生運動は、89・90年にぼくがやりました。ちなみにその時、あなたが高く評価する保坂展人ら反「管理教育」運動主流派は、ぼくの活動に対して、あなたが昔撮った映画『日本の夜と霧』に登場する某政党のような役割を果たしたのですが、まあ、この話は置いときましょう。
 ──ム、ムムムムムムム。
 今回、アノ話はなかなか出ないなあ、結局、今日は出ないままなのかな、と安心しきっておったら、最後の最後になってファッキン門野が出しやがった!
 「子どもの権利条約」である。
 一般にはほとんど知られていない条約だが、教育市民運動業界をその批准推進運動が一時期席捲したこともある。この秋にも国会で批准が決まるらしいが、ぼくは業界内にあって唯一、堂々とこの条約批准運動を批判してきた。そして、推進運動家の誰一人としてぼくに反論してきた者はなかった。それなのに、まぁだ云うか、この。
 おーし。どーせこの秋中にぼくの敗北は決まるんだろうが、こーなったら最後まで意地張ってやる。
 批准運動批判の詳しい中身については、『別冊宝島129 子どもが変だ』収録のぼくの文章か10月発売の新著『注目すべき人物』(ジャパン・マシニスト社)を参照してほしい。批准推進派が、いかにぼくによって完膚なきまでに論駁されているかが分かっていただけよう。論駁されながらも、まだこれまでの立場にしがみついて離れようとせず、数の力で押し切ってしまおうというのは、まるで彼らの大嫌いな、どこかの国の政権党のやり口と一緒ではないか。こんな連中が討論番組でエラそーなこと云う資格あるんかいね。

 ──こうした、しょーもない論客たちを相手にして、唯一マトモな<プロ教師の会>は苦戦を強いられていた。何を云っても彼らは、<プロ教師の会>の主張の論旨を正しく理解しないのだ。
 <プロ教師の会>の論理は、こうである。
 学校とは、「教師によって体現される共同体(公)の利害と生徒によって体現される個人(私)の利害のせめぎあいの場」である。これをぼく流に云い換えると、「学校は教師と生徒が火花を散らしてぶつかり合う最前線であり、戦場である」ということになる。時代状況や地域によって両者の力関係は変化する。教師側が優勢であれば「管理教育」になるし、逆であれば無秩序な学校状況が現れる。善悪の問題ではなく、学校とはそういう原理で動いている。
 ぼくも、この認識にはまったく異論がない。
 <プロ教師の会>は「生徒の立場に立った教育」を模索する実践の挫折の末に、ぼくは高校在学中からの反「管理教育」運動の挫折の末に、先のような共通の認識に辿り着いた。つまりぼくと彼らは、別々の場所で、生徒と教師というそれぞれの立場からの思索と実践の結果、同じ答えを出したのである。
 両者は今のところ、直接に活動を共にすることはないが、「共通の敵」を持っている。それは、教える側と教えられる側のそうした本質的対立関係を少しも理解せず、管理や強制を伴わないような教育が存在し得るといった類の甘い幻想を抱いている連中である。
 そして実に、戸塚宏を除くこの日の朝ナマ出演者ほとんどすべてが、ぼくと<プロ教師の会>のこの「共通の敵」であった!
 ゆえにぼくはこの日の朝ナマに出演できなかったことが無性に悔しい。<プロ教師の会>との共闘を果たしたかった。欲を云えば、それにプラス、朝ナマのレギュラー・西部邁センセイがいてくれたら、もっといい。3代の、左翼経由の「反動」思想家パワーを結集してこの「共通の敵」に対峙できたら、どんなに面白い討論になったことだろう。朝ナマ・スタッフよ、反省せよ!
 と、こんなことを云っているからといって、ぼくが<プロ教師の会>を全面的に支持しているかというと、実はそういうわけでもない。
 乱暴な云い方をすれば、<プロ教師の会>なんて、どうでもいいと思っている。
 簡単に云えば、こういうことだ。ぼくの周りの、数少ない同世代の「面白い奴」に、<プロ教師>の教え子はいない。たぶん、たとえ諏訪哲二の「管理教育」を受けてもつまらん奴はつまらんだろうし、諏訪哲二に出会わなくても、面白い奴はやっぱり面白いのである。<プロ教師の会>が、どれほど頑張っても、大勢に影響はない。世の中、面白い奴より、つまんない奴の方が圧倒的に多い。
 それは、ぼく自身の活動についても云える。ぼくがどんなに苦労して、頑張ったところで、大勢にはまったくと云っていいほど影響はない。
 それではなぜぼくは、さまざまなことを頑張るかというと、結局、一つには、ぼく自身がやってていつも面白いわけではないがごく稀に最高に面白いからであり、もう一つには、ぼくのさまざまな活動に反応を返してくる奴のうち百人に一人くらい(あるいはもっと少ないかもしれないが)は面白い奴だからである。
 オナニーに過ぎないじゃないかとよく云われる。まったくオナニーに過ぎない。しかしいろいろ考えたのだが、今のところオナニー以上のものができるとは思えない。せいぜい上手くいって、誰かさんとの相互オナニーだ。ぼくが今、発行しているミニコミには、だからオナニーの産物ということで、『カルピス』という。
 朝ナマのように話がそれてきた。そろそろお時間だ。

 最後に一つ極私的なことを。
 今回の朝ナマを見ていて思わず絶句した。別れ話を持ち出したところ、「刺す」だの「殺す」だの物騒な手紙を最近何度か送りつけてきたぼくの元第二夫人が、客席に映っていた。彼女の交友関係から考えて、保坂展人にくっついてスタジオ入りしたと思われる。今だに保坂の周りをウロウロしている女に、ぼくが本気で夢中になると思うほうが間違っているのだ。
 でーすとろーい!