ブルーハーツ・コンサート爆砕報告
『見えない銃』に収録

 コトの起こりは約2ケ月前、5月20日の、知り合い市民運動家のオバサンからの電話だった。
 「ゲルニカ事件」というのがあった。

 88年3月の、福岡市立長尾小学校の卒業式に向けて、同校6年3組の生徒たちが「卒業制作」として描いた巨大な、ピカソの反戦絵画「ゲルニカ」の模写。彼らは、それを卒業式当日、ステージ正面に飾ってくれることを望んだ。が、校長は「正面には日の丸」を強行した。卒業生の高宮由美(当時13)は、卒業式中でのスピーチで、「私は校長先生のような大人にはなりたくありません」と発言した。保護者席や来賓席から高宮由美に飛ばされる野次。この「不祥事」を自民党の右翼市議が議会で取り上げ担任・井上龍―郎の処分を要求、高宮由美に対しても右翼からと思われる脅迫電話が自宅に続いた。
 事件を機に「子どもたちのゲルニカを考える福岡市民の会」が結成され、教育問題全般にわたっての運動が形成された。

 5月20日、ぼくに電話をよこしたオバサンは、高宮由美の母親で、ゲルニカ事件をめぐる市民運動の中心人物の一人である。
 事件から丸4年、高宮由美もすでに高校2年生だ。
 電話の内容は、ゲルニカ事件のグループが中心になって、8月2日にブルーハーツのコンサートを企画しているから、乗らないか、というものだった。
 ふだん学校生活などで苦しい目にあっている子どもたちに、ブルーハーツを見せて元気づけたい。1階の良い席を優先的に中高生に売る。親たちは、2階3階席。
 ナンセンスな企画だと思った。
 でもまあ、ブルーハーツが来るってんなら、多少の協力はしてやってもいいかな、という気がした。
 オバサンは、「外山くんは、親が子どもを温かく見守る、という構図がひっかかるかもしれないけど」と云った。分かっているのだ。分かっていて、連中はやっているのだ。そんな連中に今さら何を云ったところで、コンサートの方針や、運動姿勢を改めることなどない。
 教育市民運動界が、「子どもの権利条約」批准推進運動―色になった時、運動家たちのそうしたどうしようもなさは証明済みだ。そんな運動はナンセンスなんだと、全国あちこちの集会で論争をふっかけても、反論されたことはなかった。それでも連中は批准運動を続けたのだ。
 今さら市民運動のバカどもに、何を云っても始まらない。どうせ、オレたちの「90年安保」も終わったことだし、安くブルーハーツが見られるのなら、まあ、いいじゃないか。
 ぼくは、自分にそう云いきかせていた。

 6月14日、ぼくも参加したバンド「自転車泥棒」の初ライブの日、このオバサンも見物にやってきた。
 オバサンは、ライブハウスに集まっていた中高生たちに、8月2日のコンサートを知らせるビラを配っていた。
 「92年夏、ザ・ブルーハーツとともに 終わらない歌を……」と題されたコンサート。主催は、「ブルーハーツを福岡に呼ぶ親と子の実行委員会」となっている。そして、「親子でロック」というキャッチ・コピー。
 ダサい。ダサすぎる。大人の企画のクセして「親と子の実行委員会」と銘打つギマン性に怒るよりも先に、「自転車泥捧」の高校生メンバー他に、このオバサンの同類だと思われるのではないかということが恥ずかしかった。すごく、イヤな気持ちだった。
 でも、何も云わなかった。何を云っても、同じなのだ。
 そう自分に云いきかせた。

 ──6月半ばから7月初めまで、今回のコンサートとは直接関係のないことで、イヤなことが続いた。
 ビールを少し飲んだことがあるという程度のぼくが、酒に走った。
 自分の顔がイヤになってきて、カナヅチで前歯を折ったり、酔っぱらって生まれて初めて「前後不覚」というのを体験したり、真夜中や明け方に好きな女やキライな女に電話をかけたり、街頭ライブでからんできた客に殴りかかったり……7月半ばからぼくは、かつてないほど荒れた。
 7月16日。少し酒が残ったままのアタマで目を覚まし、ぼーっと6月14日にもらったチラシを眺めていると、突然、涙が出てきた。
 「90年安保」の闘いの中で、ブルーハーツは同志だった。市民運動は敵だった。
 今、敵が、そのクサレきった運動に、同志を取り込んで、利用しようとしている。無性に悔しかった。それを黙認しようとしていた自分も許せなかった。
 「親子でロック」のコピーが、コンサートの反動性を露骨に表現している。
 「親子」と「ロック」とは、本来、まったく相容れないものだったはずだ。ぼくにとって、「ロック」とは、「ブルーハーツ」とは、決して「大人」たちには分かってもらえない「何ものか」だった。
 「ロック」という外部を、秩序の内部へ取り込もうとするクサレ左翼どもが! しかもブルーハーツを!
 最初は、会場の外で、ビラまきをしようと思った。
 だけど、ビラまきなんて、ほんとに退屈で味気ない抵抗だ。かつて3年間、学校の校門前などでのビラまき活動を続けて、ぼくはそのことを誰よりもよく知っていた。
 ビラを、バラまいたらどうだろうか、とフト思った。
 同時に、あるドキュメント映画で見たワンシーンが、脳裏に浮かんだ。78年、成田新空港開港阻止を叫ぶ左翼過激派が、完成直前の管制塔に侵入、占拠し、内側から窓ガラスを叩き割って、中にあった書類を、バーッと、窓の外に投げ捨てた。たくさんの書類が青空に舞っている光景は、鮮烈だった。
 全共闘以後の左翼が、珍しくカッコよかった瞬間だった。
 よし。ビラを、2千人以上収容という、福岡では最大クラスの、会場・福岡サンパレスの2階席か3階席から、1階の中高生どもに向けてバラまこう。
 ぼくはそう決めた。
 福岡在住の、「90年安保」のかての同志2人に、いちおう礼儀上、声をかけた。どうせ乗ってこないだろうと思っていた。それなら一人でやるしかないと思っていた。案の定、スドーとしろ―は乗ってこなかった。まあ、「同志」といっても、もはや
今では「元」がつくような連中だから、仕方がない。
 が、街頭ライブの常連・田村が乗ってきた。田村がどんな思いで今回の計画に乗ってきたのか、詳しくは分からないし、分からなくてもいいことだと思う。だが田村も、村上龍の『69』の舞台・佐世保北高校在学中に、RC「カバーズ」、ブルーハーツ、タイマーズといった、「90年安保」の一現象の洗礼を受けた一人だった。
 7月22日に完成したビラの草稿を読んで、田村はOKだと云った。
 タクローは、見物に来ることになった。
 計画を胸に秘め、オバサンからチケットを買った。
 ぼくと、田村と、タクローの分だった。
 7月28日、約3千枚のビラを印刷した。
 今後ともにバンドを結成する予定のコウキ、街頭ライブによく通りかかるバンド「塊」のギタリスト、ぼくが追っかけしている某バンドの女性ボーカリスト──「平穏無事な人生」を多少とも棒にふってロックに打ち込んでいる周囲の人間は皆、今回の計画を支持した。

 当日が、ついにやってきた。
 計画の成否は、ビラがどれだけ散らばって遠くまで飛ぶかにかかっている。ドサッと固まったまま落ちてしまったら、あまりにもカッコ悪い。
 できればステージのヒロトやマーシーにも届くように、とタクローがビラを数枚、紙ヒコーキにして飛ばすことになった。
 2階3階は「自由席」だったので、前の方に坐れるように徹夜して並ぼうかとまで話し合ったが、結局、寝坊して昼過ぎに会場に着いた。
 開場は3時半。開演は4時。夜遅くまでコンサートに行くことを許してもらえない子どもたちのために、時間帯を早くしたのだと主催者「子ども代表」のFUCKIN'高宮由美が新聞のインタビューで答えていた。
 会場に列はできていなかった。列どころか、どうやらぼくたちが一番早く着いたようだった。
 しばらく時間をつぶし、1時半に、列の一番前に陣取る。
 何よりも心配だったのは、カメラやテープレコーダーなど持ち込み禁止物発見のためのカバン検査である。
 田村とぼくは、それぞれカバンに約1500枚くらいずつ、ビラを入れていた。大丈夫だろうとは思うが、万が一、不審に思われ、持ち込み禁止となれば、計画はそこで「でーすとろーい」だ。
 しかし、幸運なことが起きた。
 主催者側の、元6年3組の生徒が、ノーチェックで数名、会場に入っていったのだ。主催者だとは気づかず、なんだ、もう中に入っていいのか、と列を作っていたぼくらを含めた数名の客が、ゾロゾロと中に入った。
 しばらくすると、高宮のオバサンが慌てて、「あなたたちは何ですか? 一般のお客さんはまだ入場禁止ですよ」と大きな声で云った。
 あ、そうなのか、とぼくたちはまた外に出て列を作った。
 が、田村の姿がない。
 ガラス越しに中を見ると、田村は主催者を装って、平然と中をうろつき回っている。やった! これで万が―の時にもすでに1500枚のビラはすでに確実に持ち込みに成功したのだ。
 3時半の開場が近づくと、列もずいぶん長くなった。見覚えのあるクサレ左翼運動家たちが、スタッフとして盛んに出入りを繰り返していた。何人かは、先頭のぼくに気づいて声をかけできた。6年3組の担任だった教師の井上龍一郎もぼくに声をかけてきた。
 来場の真意を探られまいと、ぼくは必死でにこやかに対応した。

 3時半、ついに開場。
 カバンの中身を、入口でチェックされるが、大して調べられず、無事突破。
 田村が何もなかったような顔をして近づいてくる。なんでも、スタッフを装って、ブルーハーツのリハーサルを、もう見てしまったらしい。とんでもないなあ。
 田村とタクローに、3階に行ってくれるように頼む。
 4時開演後、まず前座のバンドがあるようで、前座のバンドが引っ込み、ブルーハーツがステージに見えた瞬間に、まず3階席の田村がビラを投げる。上からビラが降ってきたのを合図に、2階のぼくもビラを投げる。しばらくそれぞれ2階3階からビラ投げを繰り返し、スタッフや警備員に取り押さえられなければ、残りのビラを持って1階に急いで下り、ビラが届かない前方の席近くまで走って行ってバラまく。取り押さえられても、できるだけ暴れて抵抗する。
 そう打ち合わせた。
 ぼくは、2階の4列目に坐った。

 4時過ぎ、会場の照明が消える。
 ステージにぞろぞろ出てきて、整列する高校生。元長尾小学校6年3組の生徒たちだ。
 ステージ正面には、4年前、彼らの手で描かれた「ゲルニカ」が掲げられている。
 平和がどーの、自由な表現がどーの、今や完全にクサレ左翼のあやつり人形と化した高宮由美がスピーチする。
 誰かが、わーっと奇声をあげる。田村が聞くに耐えかねて叫んだのかと思ったが、どうも違うようだ。いったい何だったのだろう。
 高宮由美よ。たしかに、アンタの小学校卒業式での決起はすごかったかもしれない。しかし、そのネタだけで4年もやつちゃ情けないんじゃないか? あの決起で、クサレ左翼の大人たちにチヤホヤされたのが命取りだったのだろうか? いや、ぼくも18の時、『ぼくの高校退学宣言』を出版して同じ連中にチヤホヤされたが、その後こんなにリッパに逸脱を果たしたぞ。やはりダメになるもならないも本人の責任だろう。高宮由美はもはや、ただの「大人たちにほめられるようなバカ」(ブルーハーツ「少年の詩」)にすぎない。
 バカな高校生たちがステージから消え、客席に下りて1階前方の―番いい席に坐る。一応名目上だけとはいえ「主催者」のクセに「客」よりいい席に坐るのである。
 ステージに前座のボブルディーズが現れる。
 5、6曲演奏して、「最後の曲です」というMCが入った。その曲が始まる。
 ボブルディーズの演奏が終わる。
 「ああ、終わっちゃったよ」
 ブルーハーツのステージのセッティングが終わり、明かりが消える。

 始まる。

 ぼくは通路を手すりに向かって歩きはじめる。
 ステージを見すえて、ゆっくりと歩いていると、不思議に心が落ちついてくる。
 ステージに人影。
 出た。ブルーハーツだ。
 わーっと歓声が上がる。
 田村。まだか?
 ぼくは真上の3階席を見上げた。

 ──後でタクローから聞いた話によると、田村は、ボブルディーズの演奏中、ずっと寝ていたらしい。
 演奏が終わり、ブルーハーツのステージの準備が完了して明かり消えたところでタクローが、「そろそろじゃないのか?」と田村を揺り起こした。
 目を覚ますと田村は、よろよろと立ち上がって、手すりのところまでふらふらと歩いていくと、ブルーハーツが出てきたのを確認し、タクローに、「ここで投げればいいんですよね」とボソッと云ってから、数百枚のビラの束を、ひょいと投げた。
 田村はビラを投げる時、以前ぼくのアパートのビデオで見た映画「華の乱」の大杉栄のビラまき姿の記憶と重ね合わせてイメージしたらしい。
 ビラは思いがけず、広く、遠くまで、きれいに拡がって舞った。
 その光景があまりに美しかったので、タクローは、思いがけず我を忘れて、足を踏みだしそのビラたちを追いかけて行きたくなったという。

 ──じっさいにはほんの短いあいだだったのだろうが、ぼくが3階席を見上げてから、田村のビラが、まるで暗い天井から噴き出すように不意に現れるのを見るまで、ものすごい時間が流れたような気がした。
 田村のビラがまかれたのを確認すると、ぼくはもう無我夢中で、抱えていたビラを、数百枚ずつ、前へ、右へ、左へ、と投げ続けた。
 観客たちの歓声が、さらに一段と大きくなるのが分かった。紙吹雪か何かと間違えられたのだ。
 でもそんなことはもう、どうでもよかった。
 ぼくは、自分たちが作りだした、夢のような光景に、ただただ心を打たれていた。もう、何も考えることができなかった。
 計画を思いついてから今日まで、何度も何度も想像してみては興奮した、その光景の中にいま自分はいた。
 ブルーハーツの演奏が始まる。「ブルーハーツのテーマ」。その会場に合計3千枚ものビラが舞っている。
 2階席の前の方に坐っていた人が、3階から降ってきたビラを手に取ろうとしているのが見えて、ぼくは2階席の後ろの方へ退いて、2階席全体にビラをバラまく。
 1階席の端の方には、届かなかったかもしれない、と思って、いったんロビーに出る。
 ロビーに出たところで、慌てて1階から駆け上がってきたと見える25,6の警備スタッフらしい男に、「おい、何だオマエ」と呼び止められる。
 その声をムシして、別のドアから2階席に再び入り、ビラを夢中で方々ヘ投げるが、追いかけて入ってきたさっきの男に掴みかかられる。
 「やめろ!」と男が云う。
 「うるせえ、放せ!」ぼくは叫ぶ。
 男がぼくを背後から押さえ込もうとする。
 ぼくは男の腹に肘鉄や蹴りを入れたが、男はぼくの顔や頭を殴ってくる。
 もみ合っている拍子に、ビラを全部落としてしまい、眼鏡もいつのまにか失くしてしまっている。
 「くそーっ!」
 と叫びながらなお抵抗を試みるが、ケンカ慣れしていないぼくは簡単に攻撃を封じられ、2階ロビーに連れだされる。
 そいつと向かい合って怒鳴り合う。
 「まだ持ってんのか」
 「全部落としたよ」
 「いったい何だ」
 「知りたきや自分で拾ってきて読めばいいだろ」
 「誰か読むか、あんなゴミ」
 「あれがゴミに見えるのは、ドブネズミが美しく見えないってのと同じだな」
 「拾って持ってこい」
 「なんでオマエの命令にしたがわなきゃならないんだよ」
 「主催者だぞ」 
 「知るか。オレはオマエが嫌いだ」
 いつのまにか、3階から下りてきたらしいタクローが傍に来ている。1階から、他のスタッフも何人か上がってくる。
 どちらが先に手を出したのかよく覚えていないが、気がついたらまた、ぼくとその男は殴り合い、蹴り合い、掴み合いをしていた。
 ぼくの着ていた大杉栄Tシャツが、ビリビリと音を立てて破れ、ふたつにちぎれて床に落ちた。
 他のスタッフたちがぼくらを分けて、取っ組み合いをやめさせた。
 まだ蹴り足りなかったが、ぼくも相手も、それぞれ3人くらいずつのスタッフに取り押さえられてしまった。
 もうこれ以上暴れても、さらなる高揚感はないな、と不意に理性が戻ってきて、ぼくは抵抗をやめた。その途端、緊張が緩んだためか、涙が溢れてきた。

 ──この間、田村は、3階でビラをひととおりまいた後、急いで1階席に駆け下り、通路を走ってできるかぎり前へ。
 高宮由美たちの一群を見つけた田村は、そこをめがけて、残っていたビラのすべてを投げつけた。
 走って引き返す時に、スタッフに捕まった。

 ぼくと田村は、二人ともえ階ロビーの椅子に5,6人のスタッフに取り囲まれて、坐らされた。
 その中には、見覚えのある市民運動家や、ブルーハーツのマネージャーもいた。
 連中は、「20年前の内ゲバならお前は鉄パイプでメッタ打ちだ」とドーカツしたり、「殺されてないってことは、オレたちに許されているんだぞ」と余裕のあるところを見せてみたり、「カッコ悪い」と嘲笑ったり、「おまえらのやったことは、まったく効果がなかった」と敗北感を期待してみたり、かと思うと「お前の気持ちは分かる」とヘンに理解のある顔をしてみたり、「おい小僧!」居丈高に迫ったり、とにかく、ほとんど単身決起に近いぼくと田村の行動を、あらゆる言葉で過小評価しようとした。
 ほんとうに反ブルーハーツ的な言辞がたくさん聞かれて、こんな連中に取り巻かれていては、ブルーハーツもさぞ抑圧されていることだろうと思わせた。
 だが、ぼくたちは、圧倒的な勝利感と満足感に酔っていた。3千枚のビラが、2千名の大会場に舞ったあの瞬間。あの瞬間が、すべてだった。
 決起はこんなふうにすぐ潰されてしまうものだ。だがしかし、あの光景を見たぼくたちは、間違いなく革命を勝ち取った。
 だから、何を云われても田村のように黙っていればよかったのだが、ついつい云い返してしまうのはぼくの悪いクセだ。
 ベつに、ヒドイことを云われて悔しくて泣いていたわけではないのだが、泣いている時にムリに何かを云おうとするとますます涙が出るもので、それがちょっとカッコ悪いなあと自分で思った。まあいい。ビラを投げはじめてから、スタッフに取り押さえられて観念するまでの約10分間、ぼくたちは最高にカッコよかったのだから。
 井上龍―郎がものすごい形相で近寄ってきて、ぼくに蹴りを入れてきたので蹴り返した。苦労して作り上げたコンサートに水をさしやがって、みたいなことを口走っていた。いいかサノバビッチ井上。苦労すれば報われる──そんな言業は空っぽだ。
 それにしてもなぜ、肝心の「主催者」の高校生どもは出て来ないのだ? 「子ども代表}の高宮由美はどうしたのだ? あーあ。なんてギマン的なんだろう。まあ分かりきったことではあったが、ここまで露骨にギマン性を暴露されると笑ってしまう。
 会場の中のまじめなブルーハーツ・ファンのお子さまたちにはとても聞かせられないような主催者たちによる反ブルーハーツ的ないたぶりも終わり(しかし、ビラの内容に対する反論はまったくなかった。絶対的にこっちが正しいのだから反論できなくて当たり前だが)、やたら理解を示そうとする気持ちの悪い市民運動家の一人に、最後まで聴いていけ、とムリヤリまた会場内に連れ込まれた。
 2階席でぼくたちは最後までブルーハーツを見て、聴いた。
 「ホントの瞬間はいつも死ぬほど怖いものだから逃げだしたくなったことは今まで何度でもあった」(「終わらない歌」)、「肉体を武器にしてただ一人立ち向かう闘う男たちよ冷たい風に吹きつけられても」(「闘う男」)……ブルーハーツの歌は相変わらず、連中の側にではなく、ぼくたちの側にあった。ブルーハーツの歌詞の―節―節がこんなにはっきりしみ込んできたのは、ほんとうに久しぶりだった。だからまた涙が溢れできてしかたがなかった。ヒロトがMCで「ロックのコンサートにも、ウソはいっぱいいあるぞ」と云ったので、さらに追い打ちをかけられてしまった。
 タクローの紙ヒコーキは、ステージのヒロトやマーシーまでは届かず、今回のコンサートについてのブルーハーツヘの直訴という事態にまでは至らなかった。が、「リンダリンダ」の時、ヒロトがずっとズボンとパンツを脱いで、前をブラブラさせたまま歌いつづけたのは、ヒロトなりの、このインチキ・コンサート主催者への挑発であろうと、ぼくたちは受け取った。
 だが、アンコールの時の、「どんなノリ方をしても、他人に迷惑さえかけなければいい」とのMCは余計であろう。他人に迷惑をかけずには生きられない過剰な人間が、ロックなんかに走るのである。反省しろヒロト。
 そうして、クサレ左翼どもとブルーハーツ・ファンどもの醜悪な、ブルーハーツとぼくたちの革命的なコンサートは終わった。
 もうひとつ、終わったものがあった。
 釜ケ崎暴動と<秋の嵐>スピーカーズ・コーナー騒動という、「90年安保」諸決起の中でも最も決起者に解放感をもたらした2つの場面に立ち会わなかったことを、ぼくはずっと悔やんでいた。「ホントの瞬間」が怖くて逃げたことは、ぼくにとって何よりも負い目であった。それが今日、消えた。
 ぼくの「90年安保」は、ようやく終わった。

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     外山恒一、襲撃さる!

 (92年)9月25日夜、ぼくはいつものように福岡市天神で生活費稼ぎの街頭ライブをやっていた。
 酔客のリクエストに応えてボブ・マーリーを歌い始めた時だった。
 客のあいだから、ヌッと一人の中年男が現れたかと思うと、片手に持っていたビール瓶を振り上げ、ぼくの頭に叩きつけようとした。
 ぼくはとっさに身をかわした。ビール瓶は空を切り、勢いあまって男の手を離れ、アスファルトの上で粉々に割れた。
 状況はすぐに把握できた。この男の顔をぼくは知っていたからである。男は福岡のクサレ左翼市民運動業界では比較的知られた小学校教諭で、『ゲルニカ事件』(径書房刊)と呼ばれる数年前の教育事件の中心人物・井上龍一郎である。ぼくが当日大量の抗議ビラを2階席から散布したという、表向き「子ども主催」、実は大人のクサレ左翼市民運動主催のブルーハーツ・コンサートの仕掛人の一人だ。ぼくの抗議行動を逆恨みしての犯行だと思われる。
 傍らの友人たちに制止されるまで数分間のぼくとの無言の乱闘の末、男はまた夜の街に消えたが、歌の途中で襲撃されるなんざぁまるでほんとにボブ・マーリーになったみたいで面白かった。
 襲撃そのものはいい。だがひとつ腹立たしいのは、教諭の今回の愚行さえも、クサレ左翼市民運動の連中は「子どもを思うあまりの行動」として美談にしてしまうに決まっていることである。
 だいたい表向き「子ども主催」のコンサートだったのに、なんで大人のオマエが襲撃に来るんだ、バーカ! 云ってることとやってることの矛盾に何か感じなさいよ。
 なんだかぼくはいつも損ばかりしているような気がするなあ。
 「暴力教師」め! のぉふゅーちゃ、ふぉ、ゆうぅぅぅぅぅっ!!