なぜDPクラブをやめるのか

『見えない銃』に収録

 社会を変えるということは、その社会を構成する人々の大部分の意識を変えるということと同義であるから、今はダメだけれどいつかきっとみんな分かってくれるとムリヤリにでも信じていなければ、社会を変える運動なんて消耗するばかりでやってられない。
 ぼくがDPクラブをやめようと決意したのも、この「今はダメだけれどいつかきっとみんな分かってくれる」ということがどうしても信じられなくなってきたからだ。
 (校門圧死事件の)高塚高校の生徒たちも、反「管理教育」学校改良運動の皆々さんも、これまでDPクラブが「粉砕」したいくつかの集会に参加していた中高・大学生たちも、そしてもちろんモロに管理的な大部分の親や教師や警察の皆さんも、今のぼくには、とても「いつかきっと分かってくれる」なんて思えない。
 『校門を閉めたのは教師か』を執筆していたころは、まだ「展望」を持っていた。今は何も見えていない人々も、巧妙に覆い隠されている社会の矛盾が爆発し表面化して苦しい立場に追い込まれればこれまでの過ちにイヤでも気付かされるだろう。ぼくたちがやるべきことは、一日も早くそんな矛盾を表面化させ爆発させるような方向で行動することだ、と考えていた。
 しかし、今はとてもそんな「楽観」をする気にはなれない。どんなに苦しい立場に追い込まれても、やっぱり人々は起ちあがらないのではないか、という不信感でいっぱいだ。戦前戦中の日本で、いったいどれだけの人間が「起ちあがった」というのだろうか。ほとんどの人間は、だまされっぱなしで喜んで殺されていくのではないだろうか。
 もちろん、東欧の革命などを見ていると、日本人が特別バカなのであって、やはり普通の人間は抑圧に対していつかは起ちあがるのであって、これから先、日本に外国人が大量に流入すれば、日本の社会も変わらざるを得ない、という説を展開することはできる。
 もしかしたらそうなのかもしれない。しかし、それはあくまで仮説であって、今現在のぼくの実感としては、やはり「人民は信用できない」である。人民を信用できなければ、スターリンになるか運動をとりあえず中断するかしかない。
 スターリンになってみるという選択もなかなか魅力的ではあるが、ここはいちおう自分の心の奥底から聞こえてくる「良心の呼び声」に従って後者を選択することにしようと思う。
 つまりDPクラブをやめるということだ。
 これからしばらくは、運動(ムーブメント)を起こそうなどとは考えないことにしたい。
 どういうことかというと、まったく個人的な闘争を、自分のやっていることはまったく個人的な闘争であると自覚した上で押しすすめることにしたいということだ。
 オレはこう考える、ということをあちこちで主張し、批判があれば反論する。他人の主張に対しても、気に食わないものは徹底攻撃する。
 そういった個人的な闘争をあちこちで展開し、それらが結果的に運動を形成してしまうのはしかたがない。要は、初めから運動を形成するつもりで行動しないということだ。そして、結果的にできあがってしまった運動に対しても、それを意識的に維持・拡大させようとはしないということだ。これまでは、どうやって社会を変えていくか、ということがぼくの中心課題だった。
 しかしこれからは違う。これからは、しょせん変わらない社会で――つまり、つまらない連中だらけの世の中でどう生きるかということが課題だ。
 おもしろいことを始めれば、自然にたくさんの人間が周囲に群がってくる。おもしろいことに群がってくるのは、たぶんおもしろい人間だろうと安直に考えていたところに、これまでの過ちの元凶があった。おもしろいことに「群がってくる」のは圧倒的につまらない連中で、その結果あっというまにそれはつまらないことに変質させられてしまう。DPクラブや全国高校生会議でそれを経験した。全国高校生会議の母体となった高枚生新聞編集者全国会議もおそらくそういった過程を経てつまらないものに変質していったのだろうし、もっと大きな例では、パンクもつまりそういうことだ。
 自分がおもしろいと思うことを追求し、一方で群がるつまらない連中とどう距離をとれるか。そしてそれに失敗し、おもしろかったことがつまらないものとなりつつある時、どう動くか。
 ――自分の思想(≒理性的部分)にどれだけ忠実に生きるか、ということも、これまでのぼくのもうひとつの重要な課題であった。
 しかしこれもこれからは違う。
 理性的に論理的思考を重ねていけば、かならず一つの「真理」に突きあたる。そして、そうなると自分がどう生きるかという問題は、自分の生き方をその「真理」にどれだけ近付けることができるか、つまり自分は今現在革命的であるか否か(もちろん「否」であれば現在の自分の生き方は否定されるべきである)という二元論的な問題に置きかえられてしまう(マルクス主義などはその「真理」の典型である)。
 これはつまりどういうことを意味するかというと、自分の生が、自分と同等以上に革命的であると判断される誰かの生に交換可能である、ということである。どういう生き方に価値があるか、という規準が一つしかなく、しかもその規準は絶対的だからである。AとBとを単純に比較して、Aの方がより革命的であるから、AはBより価値がある、と云えるのだ。
 これまでのぼくの思考を極限にまで押しすすめればつまりそういうことになる。
 これからは、いかにこういった二元論的な思考に陥らず、他の誰かと互換性のない、この外山恒一という個人にしか生きられない固有の生を生きるか、というのがこれに代わる新しい課題である。
 これらの新しい課題を持って、ぼくはこれまでと全くちがう方向へと模索を始める。自分でもどうなっていくか分からないが、いろいろな試行錯誤を経た挙句にまたいつかDPクラブのようなものを再開することになるかもしれない。
 もしそうなった場合には、これまでDPクラブの周囲に群がってきたあなたがたのうちの大部分と、これまでのような関係性のままで出会いたくはないものだ。