日本フォーク&ニューミュージック史講義の実況中継05

革命家養成塾・黒色クートベにおける講義用ノートより
YouTube動画へのリンクは切れているようなので、自分で探すよーに!
もともと2006年に作成したノートなので、古い情報も含まれる


  5.四畳半フォーク

 70年代の一部のフォークに対して、「四畳半フォーク」という云い方があります。もちろんこれは、基本的にはもともと蔑称、悪口として云われたわけです。
 地方から都会へ出てきた若者が、四畳半のアパートに住んで、湿っぽい、女々しいフォークを消費しているというイメージです。
 その四畳半フォークの代表格が、かぐや姫でしょう。南こうせつや伊勢正三がいたグループですね。
 ではとりあえず、実際の曲を聴いてみましょう。
 73年の「神田川」と74年の「赤ちょうちん」です。とくに「神田川」は、70年代フォーク、ニューミュージックを代表する国民的大ヒット曲ですから、誰でも知っているはずです。

  かぐや姫「神田川」
   

  かぐや姫「赤ちょうちん」
   

 今や国民的スタンダードと化した感のあるかぐや姫のこの二つの代表曲は、実は当時それなりに衝撃的なものだったんです。もちろん当時幼稚園児のぼくがリアルタイムに経験しているわけではないんですが、いろんなものを読むと、どうもそうらしい。

 ここで、ぼくが個人的に「団地妻現象」と呼んでいるメカニズムについて説明しなくてはなりません。
 よく、昔のポルノ映画なんかに、「団地妻云々」というタイトルが多いのはみなさんもおぼろげに知っているかと思います。あまりにも多用されるので、ぼく自身も、「団地妻」という単語とポルノのイメージとが自分の中で結びついてしまって、なんとなくそういうものかと受け入れていたんですが、ふと立ち止まって考えてみると、なんで団地妻なのか、よく分かりませんよね。
 ところがある時、上の世代の人が解説してくれたんです。それで謎が解けました。
 要するに、ぼくが生まれた頃----昭和40年代、西暦で云うと1970年前後ということになりますが、当時の一般庶民はまだたいてい、長屋に住んでいたんですね。長屋って分かりますか? 分からない人はオンボロ・アパートを想像してみてください。あれの一階部分だけ、つまり平屋建ての、木造集合住宅です。江戸時代を舞台にした落語にもよく登場しますね。
 しかし60年代から70年代にかけて、急速に一般庶民の生活レベルが上がります。高度成長というやつですね。汗水たらして働けば、庶民もいずれは一戸建のマイホームを手に入れることも夢ではない、という時代になってきた。その、当時の人生の最終目標たる一戸建と、まだ自分が身を置いている現実である長屋暮らしとの中間に、「団地」での生活というものがあったわけです。「団地」という言葉の使い方も現在ではちょっと変化していますが、ここで云うのは、5階建てとかの、鉄筋コンクリート製の集合住宅のことです。長屋暮らしを脱却してまずは団地に住む、というのが当時の大多数の庶民のとりあえずの生活目標だったということです。もちろん団地暮らしは過渡的なもので、さらにその先に、一戸建のマイホームがある。逆に云うと、まだ長屋に住んでいる大多数の庶民にとって、すでに団地に住んでいる人たちというのは、自分よりも一歩先を進んでいる、ちょっとした上流階級です。ただし、努力すれば手が届きそうな程度の、ちょっと上の階級ということです。だから、ポルノの題材になるんですね。当時の「団地妻」というのは、まあ今で云えば、「シロガネーゼ」までは行かないかもしれませんが、「お嬢様」とか「セレブ」とか、階級的にはそんなイメージですよ。
 こういうことが、時代が変わり、一般庶民の生活レベルが変わると、分からなくなってしまうわけです。今では、団地に住んでるってのは、どっちかというと貧乏くさいイメージでしょ? そうなると、「団地妻」とポルノとが結びつかなくて、とまどってしまうんです。
 ぼくが、ある人の解説によって、「団地妻」とポルノとの関係を納得した時の何とも云えない感動。以来、時代状況が変わってしまったために、過去の出来事や文化の脈絡が分からなくなってしまうことを、ぼくは「団地妻現象」と呼ぶことにしました。
 「神田川」や「赤ちょうちん」にも、これが作用しています。
 というのは、これらはつまり同棲の歌でしょう? 当時、籍を入れていない男女が一緒に生活するというのは、とんでもなくフシダラ、不道徳なおこないだったわけです。不道徳だったんだけど、全共闘運動や、70年代初頭のウーマン・リブなどの過程で、性の解放とか、既成の家族制度・形態への批判なんてことが云われ、また若い世代の感性を変革していきましたから、現実には、籍を入れないまま同棲生活をする若いカップルというのは大量に発生しています。そういう視点を導入すると、同棲生活というテーマをごく普通に、等身大に歌ったこれらかぐや姫の歌が、衝撃的であると同時に、当時の若者たちの熱狂的支持を得たということも、なるほどと合点がいくわけです。「神田川」は、同時期の大ヒット・マンガ『同棲時代』との相乗効果で、当時の若者の文化、感性を象徴するような役割を果たしました。今の感覚で聴くと、ナルシスティックで女々しくて、湿った日本的叙情というか、むしろ保守的なラブソングのように感じてしまいますが、ここらへんが「団地妻現象」なんですね。当時の社会状況、文脈を理解しなければ分からない。
 ちょっと時代はさかのぼりますけど、1970年に「花嫁」という大ヒット曲があります。フォーク・クルセダーズのメンバーでもあった北山修とはしだのりひこの合作ですが、これも今聴くと非常に「反動的」な歌に聞こえる。
 花嫁が夜汽車に乗って嫁いでゆく、何もかも捨てて、何があってももう帰れない、という歌です。夫の家に嫁いでゆくわけですからね。苗字も変わるし。そういう花嫁の決意を、肯定的に歌ったもので、これは夫婦別姓だの男女共同参画だの夫の育児参加だの小賢しい風潮が支配的な現代から見ると、いかにも「保守的・反動的」な歌に違いない。しかしそれが「団地妻現象」なんです。
 というのも、この「花嫁」で歌われている結婚は、「恋愛結婚」なんですね。「お見合い」がまだ一般的で、結婚においてまだまだイエが主役だった当時、それこそ「両性の合意にのみ基づいて」おこなわれる「恋愛結婚」を肯定的に歌い上げることは、それなりにリベラルな感性なんです。
 歴史を勉強していく上では、このように「団地妻現象」がいたるところに見受けられます。とくに最近の出来事であればあるほど、注意しなくてはいけません。多くの人は、それが「団地妻」なんだということに気がつかずに、単に現在の感覚で、歴史的な文化や出来事に価値判断を与えてしまいます。
 かぐや姫なんかを聴くのは、はっきり云ってぼく自身、つらい。ぼくだって現代の感覚を身につけた人間ですから、こういうダサいものをじっくり聴くのは、なんだかなあ、という気がしてきます。しかし、我々は今、趣味で音楽を聴いているのではなく、歴史を学んでいるんです。四畳半フォークのようなものを含めて、いろんな試行錯誤があり、その積み重ねの上に、現在があります。現在の最大の問題は、人々が歴史を喪失していることです。現在のさまざまの困った問題は、本質的にはすべてここに原因がある。我々の目標は、歴史の回復です。ですから、ここは我慢して聴いていかなくてはなりません。

 かぐや姫の話に戻りましょう。
 次はもっと聴くのがつらい歌を聴いてもらいます。「あの人の手紙」という、これもそこそこ有名な、かぐや姫の反戦歌です。

  かぐや姫「あの人の手紙」
   

 非常に低レベルな反戦歌です。72年にこんなベタな古典的設定で「戦争」を歌う必然性が一体どこにあるのか? ただまあ、もしかすると全共闘運動に参加した一般学生の反戦意識というものは、この程度のものだったかもしれません。「神田川」しか知らない人が多いでしょうから、かぐや姫がこういう「社会派」な一面を持っていることを認識してもらうために、一応、聴いてもらいました。レベルはともかく、四畳半フォークといえども、60年代の反戦フォークの延長線上にあることは理解してもらえると思います。
 かぐや姫と云えば、南こうせつのグループ、というイメージが強いでしょうが、先ほど述べたように、このグループには伊勢正三という人もいます。かぐや姫は75年に解散し、南こうせつと、もう一人、山田パンダという人はそれぞれソロ活動を始めます。伊勢正三は、風という新グループを結成します。参考までにその、風の大ヒット曲を聴いておきましょう。

  風「22才の別れ」
   

 75年発表の、「22才の別れ」という曲でした。これも、聴いて分かるとおり同棲の歌ですね。
 さらにやはり伊勢正三の作詞・作曲で、75年に大ヒットした他人への提供曲があります。もともと「かぐや姫」でもやっていた曲らしいですが。これも参考までに。

  イルカ「なごり雪」
   

 イルカの「なごり雪」でした。この曲も、さっきの「22才の別れ」も、どちらももう国民的スタンダードですね。70年代半ばの、かぐや姫の活躍ぶりが分かると思います。ぼくはもちろん、どちらもあまり好きではありませんが。

 ところで、四畳半フォークというと、「九州」というイメージがあります。80年代末の重要なマンガ『ボーダー』にも、主人公が「九州や北海道発信のニューミュージックが云々」と悪態をつくシーンがあります。ここで北海道というのは松山千春のことで、おそらく中島みゆきのことではなかろうと思います。
 北海道に松山千春がいる以外には、70年代の「保守的・反動的」なニューミュージックの発信地は、間違いなく九州です。
 福岡に、「照和」というライブハウスがあります。一時閉店していた時期もあるらしいですが、現在はまた復活して営業しています。「昭和・平成」の「昭」ではなくて、「照らす」という字を書きます。「伝説のライブハウス」とか呼ばれて、ニューミュージックの信者たちには聖地扱いされているろくでもない場所ですが、ここに70年代初頭、九州各地の田舎から、都会で一花咲かせようと意気込んで、アマチュア・ミュージシャンたちが集まってきます。おそらくは60年代の、吉田拓郎や浜田省吾らがいた「広島フォーク村」のような地元音楽シーンが、福岡でも強力に形成されていったということでしょう。ただし広島と違って、福岡のそれは本当にろくでもない。まあ、拓郎や浜省がそれほどいいわけでもないですが。

 「照和」出身のミュージシャンを挙げて行きましょう。
 まず、ほとんど唯一いい例外として、筑豊という福岡の田舎から出てきた井上陽水がいます。
 それから比較的マシな例として、これは地元・福岡出身のチューリップ。
 何曲か聴いてみましょう。まず誰でも知ってるヒット曲を2曲。

  チューリップ「心の旅」
   

  チューリップ「サボテンの花」
   

 71年の「心の旅」と75年の「サボテンの花」でした。もう一曲、これらの人たちが九州出身だということをみなさんに印象づけるために、77年の「博多っ子純情」という曲を聴いてもらいましょう。

  チューリップ「博多っ子純情」
   

 次は悪い例。
 武田鉄矢の海援隊も、「照和」に出演していたグループです。武田鉄矢も地元・福岡の出身です。当初、彼らはコミックソング的な作品で人気を得ました。例えば、「あんたが大将」や「JODAN JODAN」などです。全部聴くのもつらいので、少しずつ聴いてください。

  海援隊「あんたが大将」
   

  海援隊「JODAN JODAN」
   

 海援隊の人気を定着させた大ヒット曲が、何だか分かりますか? 「贈る言葉」じゃないですよ。「母に捧げるバラード」です。これは、つらいですがニューミュージックの反動性を象徴する重要な曲の一つですから、ガマンして最後まで聴いてください。

  海援隊「母に捧げるバラード」
   ※だいぶ後の時期の映像です。
   

 云い忘れていましたが、さきほどのかぐや姫も、「照和」に出演していたグループです。彼らは、大分出身。

 さらに、鹿児島出身のアノ長渕剛がいます。長渕については後で詳しく扱います。

 他に、地元・福岡のチャゲ&飛鳥。最近までどうでもいいヒット曲を出し続けているグループですが、彼らもそもそもはフォーク、ニューミュージック系の出身なんですね。参考までに一応、初期のヒット曲を聴いておきます。ちょっと時代は下って80年ですが、「万里の河」。

  チャゲ&飛鳥「万里の河」
   

 長崎出身のさだまさしは、「照和」とは無関係ですが、やはりこれらの歌手と並んで、「ニューミュージックの牙城・九州」のイメージを決定的にしているミュージシャンです。さだまさしについては、実は結構重要なので、回を改めて詳細に扱います。

 もう一人、先に挙げた北海道出身の松山千春も聴いておきましょう。77年のデビューです。誰でも知ってる代表的ヒットは「長い夜」ですが、これは81年発表で、かなり後の時代なんで、ここでは初期の曲をいくつか聴きます。まず77年のデビュー曲「旅立ち」と、78年の「季節の中で」。

  松山千春「旅立ち」
   

  松山千春「季節の中で」
   

 ほんとにどうでもいい曲ですね。

 これら70年代半ば以降のニューミュージックを聴くと、70年代初頭の拓郎・陽水、あるいはかぐや姫やチューリップなんかと比べても、どんどんレベルが低くなっていくのが分かるでしょう。というのは、すでに述べたとおり、70年代初頭のフォーク・ニューミュージックには、学生運動の敗北、という重大な世代的経験が刻印されていたわけです。かぐや姫のような、「同棲」というテーマも、天下国家といった大文字の問題からの撤退、というニュアンスを伴っています。ところが、70年代半ば以降のニューミュージックは、もはやそういう「起源」を忘却しています。「起源」を忘却した、日本フォーク・ムーブメントの残骸が、70年代半ば以降の、ゴミみたいな「ニューミュージック」なんです。
 ところが、この時期のニューミュージック系ミュージシャンも、自分たちの音楽が、何か真摯な社会的メッセージを持っている、あるいは持っていたい、というプライドを手放してはいません。稀に反戦など歌い込もうともしますが、そういうものはさきほどのかぐや姫の「あの人の手紙」がいい例ですが、概して失敗作になります。いい悪いはともかくとして、そうしたココロザシが比較的成功するのは「故郷喪失」、あるいはその反動としての「故郷回復」をテーマにした場合です。
 これはさだまさしについて学習する時に改めて詳しくやりますが、70年代後半というのは、80年代に全面開花する高度資本主義的な消費文化が徐々に顕在化していく時期です。都会生活というものが、いよいよ華やかなものになっていく反面、人間関係が希薄になり、諸個人の生が刹那的・享楽的になっていく。当然、漠然とした不安が生じます。この不安を歌うことや、もはや失ってしまった「故郷」、あるいはその象徴としての「自然」へのノスタルジーや回帰を歌うことは、70年代後半のニューミュージックの大きな柱になっています。あるいはニューミュージックのスローガンとも云える「やさしさ」も、濃密な人間関係への回帰願望です。もちろんこれらは、字義どおり「反動的」な感性です。80年前後の革命的なサブカルチャー運動が、こうしたニューミュージック的な感性を一方の敵としたことは、すでに学んだとおりです。詳しくは、80年サブカルチャーが最大の仮想敵としたさだまさしの回で扱うとして、ここでは、松山千春と海援隊から、そうしたテーマの曲を一曲ずつ聴いておくにとどめましょう。まあ海援隊は、さっきの「母に捧げるバラード」もそういう曲ですけどね。

  松山千春「大空と大地の中で」
   

  海援隊「思えば遠くへきたもんだ」
   

 「田舎暮らし」というのは、最近でもある種の感性の人々を惹きつけるキーワードですが、そういう感覚が大々的に登場してきたのがこの時代なんですね。味気ない都会生活に別れを告げて、どこか田舎に引っ込んで、家族の絆を大切にしながら----もちろんその時の「家族」というのは、前近代的なモノホンの家族共同体ではなくて、恋愛結婚によって結ばれた、夫婦と2、3人の子供だけの核家族です。また子供の教育についても、あまり抑圧的に振る舞わず、まるで友達みたいな親子関係を築こうとする。せっかく都会と縁を切ったんだから、会社勤めなんかはやめて、理想的には農業とか牧場経営とか、そういう自然と共生するような、今の言葉で云えばエコロジカルな暮らしを指向する。あるいは夫婦でペンションを経営して、やはりナチュラル指向の若者たちとの交流を持続するとか。70年代に増殖したこのテの人たち、その家族形態を指して、当時「ニュー・ファミリー」という言葉が流行りました。故郷の大分で、「ミュージシャン兼農業」という暮らしを今も実践している南こうせつなんかはその象徴的な存在ですね。あるいはかの松山千春も、北海道の田舎・足寄にある実家を、貧乏旅行する若者たちに開放していたとも聞きます。

 以上で60年代末の反戦フォークの頽落形態としての70年代前半の四畳半フォーク、そのさらなる頽落形態としての70年代半ば以降のニューミュージック、という流れの概説を終わります。

 休憩を挟んで、今度は78年デビューの長渕剛の変転、“長渕史”をざっと見ていきます。

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