ファシズム断想(アナキスト諸君へ)

2005年2月執筆


 

 97年から2002年にかけて、私は「だめ連・福岡」を事実上主宰していた。
 私は、95年のオウム事件以降、日本社会が急速に自警団化していくことに深刻な恐怖をおぼえ、なんとかしてこの趨勢に対抗するために試行錯誤を重ねた。
 私にとってあるべき「だめ連・福岡」のイメージは、「自警団化する社会から身を守るための自警団」、もっとはっきり云えば「自警団から身を守るための自警団」であった。
 そして同時に、すべての既成左翼は、多くは無自覚的にであろうが、この「社会の自警団化」に大いに手を貸していた。
 以上のことは当時の段階ですべて明確に意識していた。
 ただ一点、私が創り出そうとしているそれはまったく要するにファシズムの運動であるということだけが、自覚できていなかった。
 今から思えば私の「だめ連・福岡」は、はっきりとファシズム運動であった。

 ファシズムを感覚的に理解するのによい映画が二つある。
 一つは、『ファイト・クラブ』である。
 ファシズムとは、ああいう感じのものである。あれにワクワクできる人には、ファシストの素質がある。
 もう一つは、『スターシップ・トゥルーパーズ』である。
 私は、あの映画が大好きである。最初に観た時から、面白くて面白くて仕方がなかった。たぶんもう5、6回観ているが、今では「私の好きな映画ベストワン」の座を獲得している。
 しかしあの映画の面白さを、私はずっとうまく言葉にできずにいた。
 獄中で、誰かが雑誌に「あの映画は好戦的で不快だという人が多いが、本当はあれは反戦映画なのだ」というようなことを書いているのを読んで、激しい違和感を持った。
 まずあの不思議なタッチに、「好戦的で不快」と直球の反応をする人間がそんなに「多い」とは思えなかったのだが、少し考え直して、確かに左翼はそれぐらい低レベルな批評をするだろうなとこれは納得した。しかしだからといって、「本当はこれは反戦のメッセージなんだ」という反論も、同じくらい低レベルである。どう考えても、あの映画に「反戦」のモチーフなどカケラもない。ファシズムを魅力的なものとして、明らかに肯定的に、喜々として描いている。
 よく考えて、なんとか答えにたどり着いた。
 あれは要するに、「ファシストの自嘲」だったのだ。作り手が、「こういう社会が理想だと思うんだけど、やっぱマズいよね、でへ」みたいなノリで撮った結果が、あのなんともいえない絶妙な味になっているのだ。
 ってことはやっぱり、あの映画の面白さを理解できる人って、非常に少ないということになるのだろう。理解できる人には、やはりファシストの素質がある。
 そういえば最近知ったのだが、『スターシップ・トゥルーパーズ』の監督は、やはりかつて私が大興奮した『トータル・リコール』と同じ人だった。『トータル・リコール』は真っすぐに左翼革命SFである。ムソリーニの例を出すまでもなく、本当のファシズムは左翼思想を経由して誕生するものだ。

 ファシストは確信犯的にナショナリズムと結託する。
 しかしファシストは本質的に故郷喪失者である。
 よく引用される、こんな言葉がある。
 「故郷を甘美に思う者は、まだ未熟である。全世界を故郷だと感じられるようになれば、なかなかの成長である。全世界を異郷だと感じるようになった者が、真に成熟している」
 これでいけばファシストとは、その最後の認識に達した上で、自らの意志で自らの故郷を創造(再建ではない)しようとする者である。

 ファシズムへの「転向」の前後で、私の中に起きた最大の思想的変化は、「自由」についてのそれである。
 私はずっと、自由はあらゆる権力的なものへの抵抗の中にあると考えていた。あるいは自由とは、権力的なものからできるかぎり遠ざかることであると。
 しかし私は現在、こう考えている。
 自由と権力とはイコールである。
 自由であるということは、権力を手中にしているということである。
 私は自由を、つまり権力を心底から欲している。

 私がファシズムに開眼するに際して、獄中でヤクザというものと身近に接したことは、かなり大きく影響していると思う。
 ファシスト党というのは、ぶっちゃけて云えば政治的なヤクザ、任侠道の代わりにファシズムという政治思想で団結したヤクザなのである。
 もっとも、あらゆる政府は本質的にヤクザと何の違いもないのであって、そこが分かっていない政治学者は大量にいるがすべてバカ学者である。ただ近代以降の通常の政府は、自らのヤクザ性をさまざまの方法で糊塗し、あたかもヤクザではないかのようにふるまう。
 ファシスト党は、このような欺瞞を唾棄すべきものとして退ける。
 ファシスト党の一党独裁の政府は、自らがヤクザであることに自覚的であり、またそのことを隠そうとも思わない。
 とんでもないことを云っているように聞こえるだろうが、要するに幕府のようなものをイメージしてもらえばよく、そんなに突飛な話ではない。

 法治国家の何たるかを分かっていないバカがほとんどだし、法曹や法律学者も含めてそうなのであるから処置なしである。
 法律とはすべて、政府の活動を制約するために存在するのである。
 たとえば刑法の殺人罪の規定は、人を殺すことを禁じたものではなく、人を殺した者に政府はどう対処しなければならないか、あるいはどう対処してはならないかを定めたものである。法律というのはすべてそうで、だから例えば諸個人に「遵法精神」などというわけのわからないものを要求する言動は、法律とは何かということがまったく分かっていないバカの所業である。
 ファシスト党はあらゆる制約から自由であり、したがってその独裁は法治主義の理念を退ける。ファシスト政権下に法律はない。
 法治主義の対義語は、人治主義もしくは徳治主義である(どちらであろうと要は同じ意味)。悪事をなした個人への対処や、民事的なもめごとの仲裁は、法によらず、公平公正な判断能力を党によって認められ権限を与えられた担当者個人が、自由に決定する。
 ファシズムとアナキズムとは表裏一体の関係にあり、「法律のない社会」というアナキズムの一つの理想は、ファシスト政権下で実現される。

 私は現在ファシストであり、それ以前に依拠していた笠井潔の思想とはもちろんすでに訣別している。
 笠井潔の思想は、スターリニズムへの批判を徹底した結果、生まれたものであり、私はその思想的営為と結論に共鳴していた。
 ファシストとなる過程で、まず私の中に生じた疑問は、そもそも笠井思想は、自身がスターリンになるという選択肢をあらかじめ放棄したところに成立しているではないかということだった。私がもしスターリンであれば、私にはスターリニズムに反対する理由があるだろうかと、私は考えた。
 結論としては、あった。
 云ってることとやってることの矛盾、その美しくなさに、私は不快になるであろう。完全に平等な社会を標榜しながら、自分一人は例外であるなどということを、私の美意識・倫理感が許さない。
 次に、ではファシズムならどうであろうかと考えた。私がファシストであれば、私自身その一員であるファシスト党の一党独裁に反対する理由があるだろうか、と。
 ないと結論した。
 ファシズムはそもそも人間はみな平等であるということを認めない。諸個人には優劣があり、優秀な人間は特別扱いされるべきであるというのは、ファシズムの基本でもある。だからスターリニズムについて仮定したような矛盾がこの場合には生じない。
 さらに、諸個人には優劣があるという原理から必然的に結果することだが、優秀な人間というものは、決してたった一人しかいないということはあり得ない。程度の差というものはあり、より優秀とか優秀でないとかいったことはあるだろうが、この原理からすれば、ほどほどに優秀な人間はほどほどに特別扱いされる、ということも許される。いや、そうでなければならない。
 スターリニズムの場合には、あくまでも人間はみな平等という、そもそも真実ではない建前があるから、結局は、社会全体を統括するたった一人の例外を作った上で、あとはみな平等に(その例外的個人が)取り扱うという形にしかなりようがない。
 要するに、スターリニズムは(ということはつまり民主主義は)一人の独裁者を必然的に生むが、ファシズムは必ずしもそうではない。いや、むしろファシズムにおいては、ムソリーニやヒトラーのような抜きん出た存在はあり得ても、「ほどほどに優秀な」、要するに多くの個性的なサブキャラもまた必然的に存在せざるを得ない。私たちは、現実のスターリニズムの社会に、その頂点の独裁者を除いて、単にナンバー2とかナンバー3とかではない、個性的なサブキャラを見出すことは困難である。逆に例えばナチス・ドイツにおいて、個性的なサブキャラを、私たちはすぐに幾人も挙げることができる。あるいは限りなくファシズムに近かったあのオウム真理教にしてもそうである。
 ファシスト党の独裁は、あくまで党の独裁であって必ずしも個人の独裁ではない。抜きん出たトップは生み出すだろうが、サブキャラが個性を発揮する余地が充分にある。これは先述のとおり、「人間は平等ではない」という原理に立脚しているからこそ逆説的に必ずそうなるのである。
 このことに気づいて、私はだいぶ楽になった。
 私はスターリンになる自信はないし、ヒトラーやムソリーニになる自信もないが、ゲッペルスやヒムラーやヘスやレームやゲーリングや、あるいはシュペーアやハイデガーでもいいが、それらファシストの党を彩るサブキャラのどれか一人ぐらいにならなれる自信もないではないからである。気になる人は自分で調べてみるといいが、もちろんムソリーニの周囲も同様で、ナチスにおけるヒトラーよりもファシスト党におけるムソリーニの比重はむしろ小さい。もちろん必ずしも私がそのような幹部になれずともよい。一般党員にとっても、ヒトラーやムソリーニは、スターリンのような恐怖の対象ではないように感じるからである。
 私がファシスト党員であれば、ファシスト党の独裁おおいに結構と私は結論した。そしてその時、私は笠井潔思想と訣別していた。

 私が主に依拠しているのはムソリーニのファシズムであって、ヒトラーのナチズムではない。このことは、新著(『最低ですかーっ!』)巻末論文(「戦争は遠いアフガンやイラクではなく、他ならぬこの日本国内で起きている」および「全く新しい左右対立 イデオロギーX」)でも触れた。
 私がヒトラーの思想に同意できないのは、やはりユダヤ人に対する一連のろくでもない政策のためであり、ほとんどただその一点に関してである。
 だがもちろん、ヒトラーのナチズムも、ファシズムの一つの形ではある。
 ユダヤ人迫害は許せないが、その動機については理解できないではない。
 あれはおそらくかなり確実に、現在で云う「反グローバリズム」なのである。

 右翼はよく、日本の戦前の体制は、ドイツやイタリアのようなファシズムではなかったと云う。もちろん右翼は、「だから日本はよかった」という結論を導き出したいのだ。
 戦前日本の体制がファシズムではないというのはまったくそのとおりである。
 私は逆にこう主張する。「だから日本はダメだったんだ」と。

 まったく福田和也の受け売りだが、戦前の日本の体制、とくに大政翼賛会のようなものは、要するに「失敗したファシズム」である。ドイツやイタリアに学ぼうとして、結果的には「似て非なるもの」を生み出してしまった。
 そもそもファシズムは革命思想であって、ムソリーニもヒトラーも、最初は反体制運動の指導者である。体制自身が自らの意志でファシズムを選択するというのは、かなり難しいと思われる。
 例えば「2・26」の将校の反乱が勝利していれば、日本もファシズムになり得たかもしれない。そういえばその理論的指導者とされた北一輝も、ムソリーニと同じく左翼としてその思想的遍歴をスタートさせている。北が中国革命支援運動に挫折した末に『日本改造法案大綱』を書き上げたのは、ムソリーニがファシスト党の前身「戦闘ファッショ」を結成したのと同じ1919年である。

 私がファシストに「転向」したのは、何よりも、国家権力と左翼とが結託して「気にいらない者」を投獄するという、(一見)特異な事件の犠牲者となる経験を経て、今後は「奴ら」に必ず勝利しなければならないと決意したからである。
 それ以前の私は、正直に告白してやはりニヒリズムに陥っていた。
 私には、革命を成就する具体的なビジョンがなかった。
 敵はあまりにも巨大で、左翼内・反主流派のそのまた極小的傍流という立場では、総体的な状況をどうすることもできないという断念があった。
 私は、90年代にあっても、いやむしろ見えやすいスターリニズム国家がおよそ消滅した90年代にあってこそ「反帝反スタ」ということをかなり真剣に考えていた。私の云う「スタ」の中には、自称「無党派」の市民運動まで含めたすべての既成左翼が入っている。要は国家権力と既成左翼とを同時に主要な敵としてその双方の打倒をめざすということだが、果たしてそんなことが現実に可能であるとは、私自身、信じていなかった。笠井潔思想(ブランキズム)は、そんな私の避難所であった。
 同時代の日本に現存するアナキズムの運動は、吉本隆明の云うソフト・スターリニストの既成左翼にベッタリであるから論外だが(だから私はこの時期一度も恥ずかしくてアナキストなど自称しなかったが)、本来のアナキズム運動はやはり「反帝反スタ」で私とまったく同じ立場にあるはずである。では歴史上、アナキズム運動が勝利し、革命を成就したことがあっただろうか。ない。
 私の絶望は深かった。
 しかし、私はついに思い当たったのである。
 歴史上、国家権力と既成左翼とを同時に敵として闘い、勝利した運動が一つだけあるではないかと。
 こうして私は「反帝反スタ」のファシストとなった。
 もはや殺らなければ殺られる。今度こそ絶対に勝利しなければならないからである。

 マルクス・レーニン主義の国家は内部から崩壊したが、ファシズムの国家は単に戦争に負けただけである。
 ファシズムの可能性は潰えていないと思う。

 ファシスト党の内実はアナキスト党である。
 ファシズムに最も近いのはアナキズムであり、アナキストは潜在的にファシストに「転向」する可能性を持っている。
 別のところでも書いているが、ファシストとは、左翼と訣別し右翼と連帯することを決意したアナキストである。
 もちろんそのためには超えなければならないハードルがある。
 中でも高いハードルは、ナショナリズムと、特に日本においては天皇制に対する否定的評価を改めることだろう。しかし実はこれはそれほど高いハードルではない。戦後、天皇制打倒が左翼運動の中心的なテーマの一つに浮上したのは、よくよく考えてみると70年代に入ってから(つまり我が国の左翼が折り返し不可能な腐敗過程に入ってから)ではないかということに気づけばよい。
 私はそのことに、かなり以前から気づいていた。
 その上で、日本史を(神話を含めて)ざっと学習すれば、天皇制はなかなかのものだという気がしてくる。
 ファシストになる以前、私は、「天皇制はない方がいいが、あってもかまわない」というぐらいに考えていた。ファシストとなった現在では、「天皇制はあった方がいいが、なくてもかまわない」という程度に考えている。
 先にも書いたように、歴史的にアナキズムの運動が勝利したことはないし、これからもそんなことは絶対に起きない。アナキストがスターリニストの腰巾着であることを脱却し、勝利を手にする唯一の可能性は、ファシストへと転身することによってしか生まれない。
 アナキスト諸君の「決意」を期待する。