「傍観」することに慣れた、ぼくたちの世代

1991年執筆 進研ゼミのテキスト『高2小論文』に何年か続けて掲載


 ぼくが最初に出版した本が、地域で話題になり、それを読んだ高校生たちが、「反管理教育運動」のためにぼくが借りた1DKのアパートにたくさん出入りするようになった。
 だが彼らは、ただ毎日学校帰りにアパートに入りびたっては、盛んに飲み食いしながら雑談に花を咲かせ、部屋を散らかし放題にしてそのまま帰宅していた。どうやらぼくは、彼らが学校でためたフラストレーションを解消するための居場所を提供してやっているに過ぎず、一方的に高校生たちにいいように利用されているだけのような気がしてきて、腹を立てたが、彼らはあろうことかそんなぼくに逆に腹を立て、ぼくの元を去っていき、それっきりになってしまった。
 2年ほど前の話である。
 要するに連中のどこに問題があったかというと、「関係性」ということに無自覚だったのだ。自分の存在がその場面場面でどんな位置にあって、それがそこにいる他者とどういう関係性を作っているのか、という問題に。
 先の高校生たちは、アパートの中の人間関係において、ぼくの精神的肉体的金銭的負担に、一方的に依存しているだけなのだという自らの立場のもつ問題にまったく無関心であり、そのためぼくが怒りだした時にも、なぜ怒るのかが理解できなかったのだろう。
 しかしそれにしても最近とくに思うのだが、ぼくたちの世代(とぼくが云う時、だいたい1990年を15〜25才くらいで通過した人を指しているのだが)は、この「関係性」についての問題意識が、殊にきわめて希薄なのではないだろうか。
 それは、ぼくらの世代のかなりの部分を巻きこんだ80年代後半の「社会問題」ブームについても云える。当時日本の若い世代の社会問題への関心は、かなり高まっているように見えた。反原発やエコロジーをはじめ、校則、セクハラ、東欧問題、天皇死去、湾岸危機にいたるまで、そのテの話題には事欠かなかったし、「朝まで生テレビ」などのTV討論番組の隆盛も主に若い視聴者が支え、ブルーハーツやキヨシローが反体制的なメッセージソングを歌っていた。
 が、しかし『天使の王国』(JICC出版局)で浅羽通明が指摘したように、こうした「ネオ社会派」の動きは、運動家個々の生活現実とは無縁のところで起きたものであり、「社会問題に関心をもつこと」そのものがトレンドとなり、「人並み」の条件となったがゆえの、情報消費欲求によって支えられたものだった。
 だから彼らは一見「マジメ」そうでも、社会問題への傍観者的「情報消費者」という安全な立場を手離すほど「本気」ではなかった。
 ぼくはそのことがわからずに、あちこちの「反管理教育」の集会に出かけていっては、高校生たちに、「生徒の人権」をしきりに唱えるアンタら自身も、日々の学校生活の中で「本気でたたかっている生徒」を浮きあがらせて抑圧者側に加担している一人ではないのか、なんてヤボなことを云って総スカンを食らった。互いの立場を危うくするような本質的な問題提起をしてはいけないというトレンディな「ネオ社会派」の暗黙のルールに、ぼくは自分を合わせることができなかった。
 これに対して、ぼくたちが生まれた前後に日本全国で盛りあがっていた、「旧社会派」ともいうべき全共闘連動はどうだったか。
 全共闘の時、「自己否定」という言葉が学生たちのあいだでよく使われたらしい。たとえば同じ、学校での生徒管理の問題を考えていくにしても、「かくいう自分自身が、日々『学生』として抑圧的な学校制度の末端を構成している一人ではなかろうか」と、たえず自分の「今のあり方」に疑問を投げかけるところから出発するのだ。そうすると、必然的に社会問題に対して、自分は傷つかずにいられる傍観者的「情報消費者」ではいられなくなるし、そこから「自分と他者との関係」に入り込んでくる抑圧・被抑圧の問題を考えざるをえなくなる。
 全共闘連動そのものをどう評価するかという問題は置くとしても、自分の立場を反省的にたえず検証していこうとする姿勢は、他者との関係をきちんと築くうえで重要なはずだ。
 ぼくは、同世代の「ネオ社会派」たちの「互いの立場を危うくするような物云いは慎む」というルールを拒否する代わりに、自分に対して別のあるルールを課している。
 たとえばそうした「トレンディな集会」で、ぼくの友人が、また彼らのルールを無視したヤボな発言によって他の参加者から浮きあがり、数の暴力でもって発言を封じられたり、会場から排除されかけたりという場面になったとする。そして、ぼくとしては、毎回毎回メンドウを起こすのも精神的に疲れるし、どうせトレンディな連中に何を云ってもムダだと最近はあきらめ半分に思っているから、ほんとは黙ってその場をやりすごしたかったとする。しかし、じっさいに友人が目の前でマトモなことを云ったがゆえにケムタがられ孤立している時、ぼくは渋々、内心メンドウくさいなあと思いながらも、抑えていた本音をぶちまけて、その友人と一緒に、連中に嫌われてやることにしている。友人が一人浮いているのを黙って見過ごすのは、ぼくには「絶対にやってはいけないこと」のように思えるのだ。あのアパートの騒動の時、だれか一人でもぼくと一緒にあの高校生らと喧嘩してくれる人がいたら、どんなにぼくの気分が楽になったろうと思うからでもある。「傍観者」はしょせん「向こう側」なのだ。
 20年前の若者と、ぼくたちの世代とで、「関係性」についての問題意識にこうも差がついてしまった理由の一端は、昔に比べて「学校制度」がさらに強固なものになり、成功しているからだと思うのだが、なぜ学校が大量の「傍観者」を生み出すのかというメカニズムについて説明する紙数がないので、それは読者の皆さんに自分で考えていただきたい。